テクノロジーの進歩と不平等の関係性 - 基本読書

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技術革新を不平等に向かわせないためには、何が必要なのか──『技術革新と不平等の1000年史』

この『技術革新と不平等の1000年史』は、技術革新の歴史を概観しながら、それが経済成長や不平等とどのように関連したのかを解き明かしていく一冊である。

技術革新が起これば生産性が上がり、経済は成長し、新たな雇用が生まれ、回り回って市民の賃金も生活も向上する──一般的にはそう言われてきたが、実際にはそうとは限らない。たとえば近年ChatGPTをはじめとした数々の進歩が起こって生産性も向上したはずだが、生活がよくなっている実感はないだろう。先日厚生労働省が発表した日本の毎月勤労統計によると2023年11月の一人あたりの実質賃金は前年同月比3.0%減り、マイナスは20ヶ月連続で、物価上昇に賃金が追いついていない。*1

実は、一〇〇〇年にわたる歴史と現代における証拠から、一つの事実がきわめて明白になる。つまり、新たなテクノロジーが広範な繁栄をもたらすということに関して、自動的な部分はなにもないのだ。新たなテクノロジーが広範な繁栄をもたらすか否かは、経済的、社会的、政治的な選択にかかってくる。

技術革新はいいことではあるのだが、その使い方によっては人々を以前よりも不平等で貧困にさせることがある。結局、その技術を誰がどう使うかが(不平等の解消にむけて)重要なのだ。本書では上下巻を使ってそうした事例を集め、どうしたら「不平等にならない形で、技術革新の成果を使えるのか?」について考察していく。

「技術革新が使い方によっては不平等に繋がることもある」はあまりに当たり前のように感じるし、そうした事例を大量に読まされても(特に上巻)「だからなんなんだよ」以外の感想がわいてこないところもあるのだけど、そうした歴史をふまえて、あらためて下巻で「では、現代はどういう時代なのか」、「社会はどのように技術革新を活かせばいいのか?」を問うターンになると俄然おもしろくなってくる。

技術革新に伴う生産性の向上が賃金の上昇に繋がらない時

技術革新によって生産性が向上すると賃金が上昇するするには、主に二つのステップが必要になる。一つ目のステップは、技術革新によって生産性が向上し、それに伴って企業は増産と雇用拡大を行って利益を増やそうとすること。二つ目に、労働者への需要が増大すると、雇用の確保・維持に必要となる賃金は増加する。

しかし、この二つのステップはどちらも確実なものとはいえない。たとえば、技術革新で生産性が向上し、企業が増産しようとしたとしても、それが雇用拡大に繋がるとは限らない。なぜなら、企業は生産性を向上しようと思った時、自動化を進め雇用をしないことも選択できるからだ。新たなテクノロジーが業務を自動化し、労働者を不要なものとする方向に使われるなら、労働者に利益が生み出されるはずがない。

無論、自動化が悪というわけでもない。フォード主導による自動車製造の再編の際には、自動化に伴って設計、技術、機械操作、事務といった新しい仕事が次々生み出され、労働者の利益も底上げされた。フォードがやった自動化が本当に生産性を向上させるケースであれば経済全体では新たな雇用を生み出すが、ここで問題になっているのは(人間を雇用しているときと比べて)生産性を向上させないタイプの自動化だ。

これにはたとえば食料品店のセルフレジが挙げられる。セルフレジは商品をスキャンする作業を従業員から顧客に移しただけで、これを導入するとレジ係は減るが、生産性が向上するわけでもない。これで食料品はたいして安くならないし、食糧生産は拡大しないし、買い物客の生活は何も変わらず、ただ仕事と賃金が減っただけだ。

もう一つのステップ──労働者への需要が増大すると、雇用の確保・維持に必要となる賃金は増加する──も、そううまくいくわけではない。まず、雇用者と被雇用者の間は完全に対等なわけではなく、奴隷制などの時代における主人と奴隷の関係では賃金が増加するはずもない(綿繰り機のようなイノベーションで生産性が飛躍的に向上した時のアメリカ南部の奴隷のように)。また、労働組合などの結束した組織がない状態でや、労働者側に力がない状態で賃金交渉をするのは通常、難しい。

苦難の時代

つまり、技術革新による生産性の向上の恩恵を賃金などに反映させたいのであれば、こうした各所の課題を解決するように「選択」してやる必要がある。本書の著者らの言葉を要約すれば、現代はその選択に「失敗」した時代なのだといえる。たとえば今では労働者をAIや自動化によって置き換える流れは避けがたいもので、人間はミスを犯す、労働環境において邪魔な存在なのだ、と公然と語られるようになってきた。

 現代AIは、テクノロジーのエリート層が手にしているツールを増強して、彼らにやりたいことをよりいっそうやらせる力を与えている。彼らは仕事を自動化し、人間をどかして、(彼らの言う)あらゆる善行──生産性の向上に、人類が直面する大きな問題の解決──をこなすための方法をもっといろいろ編み出すことをやりたいのである。AIによっていっそうの力を得たこれらのリーダーたちは、もう自分たち以外の大勢の人びとに相談する必要をさほど感じなくなっている。それどころか、少なからぬ人数が、大半の人間は大して賢くないし、なにが自分のためになるかもわかっていないかもしれないとまで思っている。(下巻.p.165)

このまま人間の労働者の置き換えが進めば、仕事がなくなってベーシック・インカムなども必要になるだろうが、それは仕方がないことだ、とも語られる。しかし、テクノロジーの使い方次第で「人間を補完し、雇用を生み出すこともできる」視点に立てば、それは単なるテクノ・オプティミズム(技術楽観主義)による、一面的で偏った見方にすぎないこともわかってくる。『言い方を変えれば、UBIは二層に分かれようとするわれわれの社会の傾向に対処するのではなく、その人工的な分断を固定化する。』重要なのは人間の機能を補完し、労働から排除しないテクノロジーの使い方だ。

現在の難局から抜け出る方法

本書ではそうした「補完し、排除しない」テクノロジーの使用例として教育現場で個々の生徒の進み具合を把握し、それぞれのグループごとに適切な教育を提供することなどを挙げている。当然、それを行うためには今以上に教員を増員し、それぞれにより教育にフォーカスした高度で適切な仕事をしてもらう必要がある。

なぜそれが現在ほとんどの教育組織で行えないのかといえば、どこも経費削減を求められろくに人材が雇えないからだが(そして少ない人数で回すために自動化がより求められる)、そもそも労働者を余分な経費として排除する方向に向かわざるを得ないこと、それ自体がおかしいのだ、というのが本書の主張になる。労働者を減らすのではなく、意図的に増やす方向に(政策も、テクノロジーも)舵を切るべきなのだ。

なので、税制改革など様々な手段を通して、自動化よりも労働者を雇ったほうが得な方向に誘導する必要がある。たとえば先進工業国の多くの税制度は自動化を奨励するものだ。アメリカでは給与税と連邦所得税のために労働者に平均25%の税を課すが、設備・ソフトウェア資本にはそれよりもかなり低率の5%未満しか課税していない。企業が雇用を増やして労働者に年間10万ドル払うと、企業と労働者にはあわせて2万5000ドルの給与税が課される。一方、10万ドルを投じて新しい設備を購入すると、支払う税金は5000ドル未満で済む。これは、変えられない状態ではない。給与税の大幅な減税か、もしくは全面的な廃止を行うことで、状況は大きく変わるだろう。

本書では他にも、労働分配率(付加価値に占める人件費の割合を示す値で、自動化テクノロジーの導入は基本的に労働分配率をかなり減少させる)を上げるテクノロジーへの助成と方向転換、現在の大手テクノロジー企業の解体、現在の「扇動的な見出しや内容で他者の注目を惹きつけ、広告料を稼ぐ」、デマや誤情報の震源になっているカスみたいな広告事業の力を削ぐために通信品位法第230条*2の撤廃、安くはない広告税の導入を行って最低賃金の引き上げについてなど、広範な提言を行っている。

おわりに

正直本書で語られている「人間の機能を補完し、排除しないテクノロジー」の具体的な活用例などふわっとしていてどこまで真に受けていいものやらというのが最初に浮かんできた感想だった。だが、実際問題現在のテクノロジーの矛先の多くが自動化&労働者の排除に向かっていて、それに対抗すること、新しい方向性にテクノロジーを活用することが重要だという主張の肝の部分には大いに同意できる。

僕もSFやテクノロジーが好きで、未来はテクノロジーでよくなると楽観的になり、仕事をあまりせずともベーシックインカムで生活できるのならどちらかといえばそっちのほうがええやん、という傾向があったから、本書には自分の「偏り」を自覚させられることが多々あった。重要な一冊だ。

*1:これはあまりに短期間かつ局所的な話なのでたとえ話にすぎないけれども

*2:双方向コンピューターサービスのいかなるプロバイダーあるいはユーザーも、別の情報コンテンツのプロバイダーが提供した情報の発行者あるいは発言者として扱われない