著者のジョナサン・マレシックはもともと大学の神学教授で終身在職権も獲得した、一般的には「勝ち組」と言われそうなステータスのある状況にいた人物だが、彼自身が燃え尽き症候群に陥り、仕事どころではなくなってしまう。
本書は、彼のそうした実体験も合わせながら、燃え尽き症候群とはじっさいに何なのか、どのように定義できるのか。また、われわれは今後燃え尽き症候群に陥らないように、どう対策をうっていけばいいのかについて語っている。僕自身は仕事をしていて燃え尽き症候群といえるような状態に陥ったことは一度もないが、周りには幾人もそれに近いと思われる人たちがいる。燃え尽きても、子どものためにやめるわけにはいかないとがんばる人も多い。本書は主にアメリカの事例をもとにしているが、仕事に対する価値観や考え方の多くは日本と似たりよったりで、自分が問題なかったとしても本書を読むことは周りの人を助けるきっかけにもなってくれるだろう。
仕事にたいする価値観は今、様々な観点──能力主義や、人間の仕事がなくなっていく時代の尊厳の在り方についてなど──から変更を迫られていることもあって、燃え尽き症候群の解説だけではなく、「仕事を捉え直す本」として、良い一冊だった。
燃え尽き症候群(バーンアウト)とは何なのか?
バーンアウトは一般的に、先にも書いたがそれまで熱心に仕事をしていた人が、やる気を失ってしまう状態に陥るようなことをさすが、その定義は明確なものとはいえない。バーンアウトを複数の業界が利用していて、みな好き勝手にその定義を決めているからだ。たとえばマーケティングの観点からいうとできるだけたくさんの人をバーンアウトの定義に含めたほうが商品やサービスを売るのに役に立つし、企業側にはこれを人員整理の際に役に立たない人間を特定するのに使う人もいる。
現在、バーンアウトという言葉、概念はヨーロッパやアジアをはじめとして世界中に広まっているが、臨床的な定義はほとんどの国で存在しない。定義も曖昧なものを論じられるの? と思うかもしれないが、明確な定義がないにも関わらずこれだけ広まり、語る対象になっている事実は、これが文化的な問題であることを示している──というわけで、本書では燃え尽き症候群を生み出すこの社会、文化そのものについて、なぜそれが生まれ、語られてきたのかを語っていくことになる。
英語圏の文化で最初にバーンアウトが登場したのは、グレアム・グリーンの職業病について書かれた小説『燃えつきた人間』で、その後定着したのが1960年代後半から70年代にかけてのこと。この60〜70年代にバーンアウトが突如として「発見」されたのは決して偶然ではない。ニクソン政権とベトナム戦争が不名誉な終わりを迎えたことで国の政治制度に対する信頼がゆらぎ、オイルショックや急速なインフレといった変動に、アメリカの製造業も労働者もまきこまれた。
負の感情を抑えて陽気なプロフェッショナル精神を演じるといった感情労働を強いられれば、労働者がバーンアウトする可能性は当然高まる。そのうえ会社が人員削減を頻繁にすれば、残っている従業員が感じるプレッシャーは増大する。こうして労働環境は悪化の一途をたどり、自分自身やほかの人のために成し遂げたいと思っていた理想から現実はどんどん離れていく。そして仕事上の理想と日々の現実の両方を維持しようと無理をするうちに、労働者はバーンアウト・スペクトラムの症状をさらに悪化させてしまうのだ。
そうした労働環境の激変を背景として、バーンアウトが目立つ事象として浮かび上がってきたのだ。また、その後バーンアウトが継続的に語られ続けているのにも、やはり文化的な背景が関係している。
理想と現実のギャップ
たとえば本書ではバーンアウト、燃え尽き症候群が発生するのは、『自分のしている仕事が、自身が期待する水準を満たさない時』と簡潔に定義されている。ようは、理想と現実のギャップが大きくなった時、バーンアウトしやすいわけだ。
理想や期待は個人だけで生まれるものではなく、文化的なものでもある。たとえば仕事こそが人生の中心であり、仕事で会社に、社会に、貢献するのが大人なのだ、一日の大半の時間を費やす仕事で楽しまなかったり自己実現をしないやつはバカだ──というありふれた言質は、一時の価値観にすぎない。だが、そうした価値観の中に浸かって暮らしていれば、当然「理想と現実」のギャップは起きやすくなる。
とはいえ、仕事上の理想と現実が乖離したからといって誰もがバーンアウトになるわけではない。たとえば、理想を捨てて妥協して現実を受け入れるルートもあれば、あくまでも現実に抗いながら理想を維持するルートもある。その場合、長い間無理をすることで、引き裂かれてしまうこともあるわけだが、それがバーンアウトに繋がってしまうわけだ。一般的に、理想と現実のギャップがバーンアウトを引き起こすことから高い理想を抱きがちな職業や若い人ほどバーンアウトを起こしやすい。
たとえば医師や看護師のような人の命に関わる職業。アメリカとカナダの病院で実施された調査によると、5から10%がバーンアウト研究でよく言われる三側面(消耗感、脱人格化、個人的達成感の低下)すべてのスコアが高い完全な「バーンアウト」だったという。
労働と尊厳について
アメリカの労働者の間で仕事が「尊厳」、「人格」、「目的」の源だ、とする価値観が蔓延したのは1608年の開拓地ジェームズタウンの指導者になったジョン・スミスの布告に端を発しているというが、アメリカ人は(そしてそのアメリカと同様の労働にたいする価値観を持つ国の人々は)その呪いにいまだにとらわれている。
仕事を通じて自分の存在価値を示せと絶え間なく求められることで、「トータル・ワーク」の社会が生まれ、それがポスト工業化時代の理想的とは言えない労働状況とあいまって、バーンアウト文化をつくりだす。それでも前進を続けるには、自分はなくてはならない存在だと自らに言い聞かせなければならない。そしてこれもまた、例の労働倫理の檻を構成する鉄の棒のひとつなのだ。
では、そうしたバーンアウト文化から抜け出すにはどうしたらいいのか。尊厳の充足の大部分をこれまでは「仕事」が担ってきたが、われわれはその状態を脱する必要があるのではないか──といって続くのが、本書第二部で展開していく議論である。ここは先に書いたように、今後の労働観を考え直すきっかけを与えてくれる箇所だ。
この3年ぐらいで、「労働と尊厳」に関する重要な論点を持った本が次々と刊行されている。たとえば2019年にノーベル経済学賞を受賞したバナジー・アビジット・Vとデュフロ・エステルによる『絶望を希望に変える経済学』は、社会政策は生活困難に陥った人々の尊厳を守ることを目標としなければならないと提言した一冊だった。
何の意味もない、仕事のための仕事が増えているといったデヴィッド・グレーバーの『ブルシット・ジョブ』の(日本)刊行は2020年。良い大学にいって、良い会社にはいって良い生活をするのは「自分自身の努力と勤勉さで成功した」という考えを否定し、出世できなかった人たちの尊厳を守る議論にも繋がるマイケル・サンデルの『実力も運のうち』が2021年。また、給料を決定する要因は権力、慣性、模倣、公平性の四つだとして、給料はあなたの技量や能力に直結した「価値」ではないといったジェイク・ローゼンフェルドの『給料はあなたの価値なのか』(2022)も重要だ。
「労働と尊厳」の議論が活発化する要因のひとつに、人工知能の発展に伴い人間の労働が少なくなっていく状況がある。その文脈でベーシックインカム研究や、それに関連した本(『WORLD WITHOUT WORK――AI時代の新「大きな政府」論』など)も多数でているが、こうして仕事がなくなった時にこそ「尊厳」が問われるのだ。
たとえば仕事だけが他者からの承認を得る唯一の場になっている人が現状数多くいるが、仕事は選ばれた人だけができるものになっていった時、そういう人たちの尊厳はどうなってしまうのだろう。仕事がなくても尊厳を満たすためには、どんなコミュニティを作ったら良いのか、と盛んに議論されるようになってきたのである。
本書(なぜ私たちは〜)でも、旧来の仕事観を脱し、尊厳を賃金労働の代償ではなくすべての人が無条件に享受できる普遍的な方法にするためはどのようなものがありえるのか、と問いかけていく。長くなったので紹介としてはここで切り上げるが、「労働と尊厳」の問題は、明確な答えがないだけに今後より重要なテーマになっていくだろう。おわりに
他にも、バーンアウトとうつ病の関係についてなど、ここで取り上げなかったいくつもの要素が本書では語られている。興味がある人はぜひ読んでみてね。