取り上げられているエピソードは単なる毒殺ではなく暗殺であったり、不特定多数に向けた無差別毒殺テロにみせかけて実は特定の狙いがいたというはた迷惑なケースであったりと、犯罪・事件的に話題性にとんだものばかりで、科学と犯罪捜査で一度で二度おいしい構成になっている。おもしろいのが、発覚したケースでないと誰にも知られぬまま忘れられていくだけだからというのもあるだろうが、本書で取り上げられている毒殺犯の多くが「毒殺がバレない」と信じて犯行に及んでいることだ。
検出されなかったり自然死にみせかけられるとふんでみな実行しているわけだが(中には毒についての専門的知識がある犯人もいる)意外と人間というのは違和感を見逃さなかったり、なんとかして毒を検出して犯人にたどり着いてしまうんだな、ということも各エピソードを読んでいくと実感する。なので、本書を読むと毒殺の手段が合計で11個手に入るわけではあるが、自分で実行しようとはとても思えないだろう。
アトロピン
今回最初に紹介したいのは、毒の性質というよりもそれが使われた犯罪事件が本書収録の中でもっとも奇妙な毒である「アトロピン」。これはベラドンナの実と葉から精製された毒で、純粋なアトロピンは白い無臭の結晶粉末になる。
アトロピンを大量に飲むと人間がどうなるのかといえば、本来であれば人体では副交感神経が活動し、アセチルコリンという神経伝達物質が流れて体内で様々な仕事をこなすのだが(心臓の鼓動を適切なペースに保ったり、食事時に唾液の分泌を促したり)それがどれも機能しなくなってしまう。結果として、心臓の鼓動は「遅くなれ」というアセチルコリンの指令を受け取れなくなって加速を続け毎分120〜160へ。鼓動は不規則にもなり、場合によっては腎臓や脳に問題を起こす。
瞳孔の収縮をもたらすアセチルコリンの仕事も消えて瞳孔は拡大し(1500年頃、ヴェネツィアの女優や娼婦は瞳孔を拡大させるためにベラドンナの実の汁を目に一滴たらしたという)、体の体温調節もできなくなって被害者は「ウサギのように熱く」なるという。アトロピンが血流にじかに注射された場合は数分で上記の効果が出始めるが、食べ物や飲み物に混入した場合は効果が出て気付くのに15分〜1時間かかる。
アトロピンを使った一大事件
で、本書ではこのアトロピンを使った毒殺事件も同時に取り上げられていくことになる。事件の舞台は1994年エディンバラ。その郊外にあるスーパーで売られていたトニックウォーターにはなぜか毒が混入しており、飲んでしまった被害者が病院に運ばれ、最終的に合計8人もの人間が(死んではいないものの)犠牲者となった。
大規模な毒混入事件であり、すぐに捜査本部が立ち上がって調査がはじまった。一見スーパーのトニックウォーターを誰が買うのかなんてわからないため無差別テロにしかみえないのだが、実際にはこれは妻を亡きものにして愛人と一緒になろうという、一人の男の「個人を標的にした」毒殺(未遂)事件だったことが明らかになる。
ことのあらましはこうだ。男は妻を殺したい(愛人と一緒になりたいから)。しかし普通に殺したのではバレてしまう。そのため、スーパーに売っているトニックウォーターにアトロピンを混入させ、自分でそれを買い、家でボトルに致死量のアトロピンを再度投入し、妻に飲ませることで、被害者をの一人を装って妻を殺害しようとしたのだ。なるほど完璧な作戦に思えるが、警察に家のボトルのアトロピンの量を調べられた際に、他の毒入りボトルと比べて多かったため、最終的には逮捕されてしまった。
おそらく家のボトルを処分していれば彼が逮捕されることはなかっただろう。そう考えると、恐ろしいような馬鹿げているような。どっちにしろアトロピンは苦味があるので飲み物に混ぜても致死量飲ませるのは困難らしい(妻も結局助かったのだが、それは苦味を感じてトニックウォーターを全部は飲めなかったことも関係している)。
暗殺に使われた毒
毒殺といえばやはり「暗殺」だろう。ある意味ではタイムリーといえるのが、旧ソ連国家保安委員会(KGB)が暗殺に使った「リシン」である。KGBは保安上の脅威とみなされる人物は誰でも消し去るというはた迷惑なポリシーを掲げていて、当然毒殺はこの手の手段では筆頭にあがる。中でも「第一研究所」では、検出、特定、追跡が極めて難しい特殊な毒物の開発と製造が行われていた。
KGBによる毒殺はたくさんの事例があるわけだが、本書で紹介されているのはブルガリア出身で反体制的な言動を繰り返した人物ゲオルギー・マルコフの暗殺である。彼は国(ブルガリア)を出てロンドンでラジオなどを通して反体制活動を続けていたのだが、それがブルガリアの逆鱗に触れ、兄貴分(ソ連の第一研究所)の暗殺者が派遣されてしまった(1978年)。その手管はシンプルで、マルコフがオフィスに向かうためにバスを待っている最中に、暗殺者は傘型の圧縮空気銃で「リシン」を太ももに打ち込み、マルコフは自分が死に向かっているとも知らずに出社し、数日後に死に至った。
マルコフは自分が狙われている自覚があったことから暗殺者に狙われたと死ぬ前に語っていたのだが、撃ち込まれた傷跡はごく小さく、その上精製した濃縮リシンが意図的に注入されたケースははじめてだったことから、科学者らも医者も対処は不可能であった。そのため、死後の調査も少量の純粋なリシンを動物に投与しその作用を調べるところからはじまっている。結局、動物がマルコフと同じように死に至ったこと、また珍しい猛毒が珍しい装置で撃ち込まれたことから、第一研究所に疑惑の目が向けられるわけだが──、「誰も知らない、珍しい殺し方だからこりゃ第一研究所だろう」となってしまうのはすごいんだかすごくないんだか……という感じではある。
ちなみにリシンとはヒマ、あるいはトウゴマの種子から精製される毒で、青酸カリと比べても500〜1000倍も毒性が強い。粉末なら食塩数粒ほどで人を殺せる最強の毒である。現在、解毒剤や治療法は存在しないので、これを食らったら終わりだ。
おわりに
本書を貫いているテーマの一つに「毒と薬は表裏一体」というのもある。たとえば猛毒のリシンすら治療薬として使えないかとの模索が続いている(リシンをがん細胞などターゲットとなる細胞のみに届け、結合させるのだ)。最初に紹介したアトロピンも、心拍数の低い患者や心停止した患者に対して用いられたり、手術中に唾液や気道の分泌物が肺に入って肺炎を引き起こすのを防ぐように用いられることもある。
結局、「人体の状態を異常値にする」のが毒の機能なのだけれども、それは逆にいえば「異常値になってしまった人体」を正常値に戻す役割も担えるというわけだ。本書を読んでも毒殺しようとは思えないし、身を守る役にも立たないだろうが、薬と毒を見る目はかわるかもしれない。