深刻なパンデミックに対抗するため組織内で奮闘した個人の姿を描き出す、『マネー・ボール』の著者最新作──『最悪の予感: パンデミックとの戦い』 - 基本読書

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深刻なパンデミックに対抗するため組織内で奮闘した個人の姿を描き出す、『マネー・ボール』の著者最新作──『最悪の予感: パンデミックとの戦い』

この『最悪の予感』は、統計データを用いることで、従来誰もやってこなかった手法で選手を採用し、戦術を組み立てていった野球チームについて書かれた『マネー・ボール』などで知られるマイケル・ルイスの最新作である。ノンフィクション界きってのストーリーテラーである著者の作品、それも今まさに進行中のパンデミックを扱った作品ということで、期待しながら読み始めたがやはりこれはおもしろかった。

巧みなストーリーテリング能力は健在で、米国におけるパンデミックの進行とその対抗を、個人の視点をつなぎ合わせて鮮やかに浮かび上がらせている。とはいえ、米国におけるCOVID‑19との戦いの実績は世界的にみても最悪である。
graphics.reuters.com
現時点で3400万人を超える感染者数に、60万人を超える死者。ピーク時には全米で一日20万人以上の感染者が出て、ワクチンのおかげか抑えられてきた今でも、1万〜2万人程度の感染者が出ている。これは、初期にろくな対策を打ってこなかった政府による明らかな「失策」である。では本書は、米国がなぜそうした失敗に陥ってしまったのかを記述していく本なのかといえば、そうではない(その側面もあるけど)。

鈍重な組織の中で奮闘する個人

本書が描き出していくのは、このような感染症がもたらす世界的な混乱を10年以上前から見据え、対策するために行動してきた「組織の中で奮闘する個人」、ヒーローの姿だ。一般的に、組織は巨大になればなるほど動きは鈍重になり、上層の人間は責任を負いたくないがためにリスク回避的に動くようになる。それは、感染症対策ではより顕著な形で現れるといえるだろう。たとえば、感染を止めるためにはまだごくごく少ない感染者数の状態でロックダウンなどの強行措置をとることが求められるが*1、リスクが誰の目にも明らかになっていない状態だと市民の反発も予想されるし、何もしなくても良くなる可能性までも考えると、その決断を下すことは難しい。

だが、本当に止めたければそこで決断しなければならないのだ。決めることを先延ばしにして、問題を放置して、誰もがこれはマズい、と認識できるようになった時には、とっくに手遅れになっている。本書の中では、アメリカ疾病予防管理センターで世界に規範を示すべき組織のCDCがいかにリスク回避的な傾向を持っていて、COVID‑19の危険性を認識せず、「これはパンデミックではない」といい続けて何の対策もとろうとしなかったのか、その無能さがこれでもかと描かれている。

だが、そうした組織が動かない状況下においても、リスクをきちんと認識している専門家は、早い段階で「これは今のままじゃヤバいことになる」と気づき、行動を開始する。そうした人物はたいてい個人で、騒ぎ立てたくない組織から疎まれ、排除されそうになるが、彼らは危機的状況下において絶対に必要な存在なのだ。

企業は金になるものにしか興味がない。学者は、論文になるものには関心を寄せるが、往々にして、論文ができてしまうと興味を失う。その穴埋めをするのが政府だが、現在のアメリカ政府はジョーにとって不可解な存在だった。CDCへ行って新しいゲノム技術の説明をしても、退屈そうな顔をされる。FDAでは、女性がひとり──たったひとり──学術文献を整理し、医師や患者が最新の知識を検索しやすくしようと奮闘中だった。誰に頼まれたわけでもなく、自分で思いついたらしい。「バトンを手に取るのは個人であることが多い。しかも、本来の職務としてやっているわけではありません。組織内のあちこちに、そんな個人が散在しています。システムの不備を補おうと、孤軍奮闘しているのです」。p209

本書が描き出していくのはそうした人たちの姿なのである。

本書は3部構成で、第1部で10年以上前から危険性を認識し行動を開始していた人々の姿に触れ、第2部、3部で彼らがCOVID‑19に対して何を行ったのかを描き出していく。保健衛生官のチャリティ、ブッシュ大統領による指令で、治療薬やワクチンがないパンデミック状況下での対策検討を求められた政府の感染症対策チーム、2006年とかなり早い段階で、感染症がどのように市民の間に広まっていくのかをモデル化し、どのような対策が最も感染抑制に効果的なのかをシミュレートした父娘など──まったく異なる立場から、米国の感染症対策の前進が浮かび上がってくる。

おわりに

結果をみれば、そうした個人がいかに頑張っても組織を、政府を(少なくとも迅速には)動かすことはできなかったという点で本書は敗戦記である。マーベルヒーローの映画『アベンジャーズ/エンドゲーム』で、集結したヒーローたちがなすすべもなくやられていくようなものなので、ストーリーテリング的にはありえないが、現実なのだから仕方がない。米国は確かに失敗したが、CDCがどのように骨抜きになっていったのかなど、その事例から多くのことを学ばせてくれる一冊だ。

*1:たとえば、米国にはCOVID‑19の前にパンデミック戦略が策定されており、その中には人口の0.1%以上が感染する前に学校を閉鎖する必要があるとの記載もあった。割合的には10万人の都市で、感染者が100人にも満たない状況である。10万人都市で死者がまだ1人出たか出ていないかのような状態でロックダウンの判断を下せるか? と考えると、なかなか難しいことがわかるだろう。