フェイクニュースやSNSの影響を意外と人は受けない──『人は簡単には騙されない: 嘘と信用の認知科学』 - 基本読書

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フェイクニュースやSNSの影響を意外と人は受けない──『人は簡単には騙されない: 嘘と信用の認知科学』

世界にはプロパガンダにフェイクニュース、根も葉もない噂の蔓延が起こっていて、ほとんどの大衆はそうした「誰かの行動を操りたい人たちによって放たれた情報に騙されている」。──というのが昨今支配的な空気、雰囲気だと思うが、実際にはそんなことはない。人は意外と簡単には騙されないものなのだ、ということを主に認知科学の側面から解き明かしていくのが本書『人は簡単には騙されない』である。

私たちは、たとえ大多数の意見や、カリスマ的な有名人が支持する見解であったにせよ、言われたことを何でも無批判に受け入れたりはしない。それどころか、誰を信じればよいのかを見極めることに長けている。敢えて言えば、人はいとも簡単に他者の影響を受けるのではなく、むしろ非常に受けにくいというのが現実である。

上記引用部を引き継げば、人は騙されやすいというより保守的なのだろう。いま、社会の前提や思考はフェイクニュースに多くの人々は騙されていることを前提にしていて、(仮に大衆が騙されやすいのであれば、判断させるべきではないとする)民主主義の根幹にも関わってくることなので、本書の内容は非常に重要だといえる。

本当に騙されないのか?

とはいえ、人が騙されにくいとは直観的には受け入れがたい主張だ。実際に世界にはワクチン反対派が溢れていて、アメリカ大統領戦でバイデンが勝利した後に連邦議会議事堂を襲撃したような輩は騙されていないのかよ?? など、単純に「違う気がする」という感想レベルではなく、実証レベルでいくらでも反論が湧いてくる。

そうした反論に答える、人がなぜ騙されないと言えるのかの話をする前に、前提となる理屈が必要となる。一つは、「開かれた警戒メカニズム」と本書の中で言われるものだ。これは食事にたとえれば、我々人間は笹しか食わねえパンダとは違って、雑食性で肉も植物もなんでも食べる「開かれた」システムを持っている。ただし、開かれたシステムを持っているということは、そこに毒や食べられないものが入ってくる可能性も大いにあるので、我々は何でも食べる代わりに、何が食べれて何が食べれないのかを警戒するシステムも発展させている。これと同じことが我々のコミュニケーションにも起こっているとするのが、「開かれた警戒メカニズム」の骨子となる。

人類以外の霊長類は、特定のコミュニケーション・シグナルに依存している。尾長猿は空から襲ってくる捕食者をみつけるとそのときのための警戒声を発し、チンパンジーは微笑んで服従の姿勢をとるなど。人間は、霊長類との比較からいうと、危機だろうが喜びだろうがどんな情報でも伝達しあうので、。コミュニケーションは開かれている。『人間が他の霊長類に比べてコミュニケーションのさまざまな形態や内容にはるかに開かれているのなら、私たちの警戒心はそれだけ強くあるべきだろう。』

とはいってもデマを信じる人は溢れているよね??

本書では、実際に人が騙されにくいことを示す様々な実験や認知システムについての話がある。たとえば、人はコミュニケート相手が自分と動機が一致しているかを重視している。ポーカーやカタン、ババ抜きなどなんでもいいが、相手がこちらを騙す動機がある時、その言葉を信じない。関係ない人が親切にしてきたら、普通は疑いの目を向けるだろう。そのことは、七歳児を対象にした実験でも明らかになっている。

他にも、人の話を聞く時に機能する妥当性チェックと推論という認知の大きな柱、過去の実績、相手の自信の多寡、相手がこちらにかけているコストの多寡など、様々な要素が「信頼度チェック」と「騙されていないかどうかの判定」に用いられている。いや──そうはいっても、デマに騙されている人なんていくらでもいるよね? と思うんだけど、ここで一つ別の理屈が出てくる。たとえば、たしかに世の中の人は容易くデマを受け入れるように見える。しかし、その信じ方を本書ではダン・スペルベルの理論を用いて「反省的」信念と「直観的」信念の二つに分類してみせる。

反省的信念とはなにかといえば、認知的、行動的な結果から切り離されたものである。一方の直観的信念は、行動や考え方に影響を与えるものとされる。反省的信念は自分の認識や行動から切り離されているから、開かれた警戒メカニズムはそこでは働いていない、つまり人は自分の行動に影響を及ぼさない情報については、根拠薄弱なデマやフェイクニュースであっても受け入れてしまうことがある。

個人的な関与の少ない反省的信念に関しては、開かれた警戒メカニズムの出番はそれほどないと考えるべきだろう。個人的な違いを生まない信念をあえてチェックする必要がどこにあるのか? 私の考えでは、デマのほとんどは、反省的な信念としてのみ保持される。なぜなら、直観的な信念として保持されれば、個人的な影響がはるかに大きくなるからだ。

デマを聞いて仮に信じたとしても、それは行動に移されたり、認知面で参考にしたりすることも(ほとんどは)ないということになる。

フェイクニュースやSNSに人を騙すほどの効果はない

おもしろかったトピックはたくさんあるのだけれども、その一つが「フェイクニュースには効果がない」という章。たとえば、トランプが当選した大統領選において、圧倒的にトランプ支持のフェイクニュースウェブサイトを閲覧することと、トランプ支持者であることの間に相関関係が見いだされた。フェイクニュースを見たことがトランプ支持に向かわせたのか──といえばそうではなく、フェイクニュースウェブサイトを閲覧した人たちの大多数は、元々熱烈な共和党支持者であり、ヒラリー支持からトランプ支持に転向した人はほとんどいなかったのではないか、としている。

サイトは自発的に見に行くものだからそうかもしれないが、勝手に目に入ってくるTwitterやFacebookの方はどうか。同質性の高い人間ばかりフォローするせいで、極端な思想に染まっていくと騒ぎ立てられている。が、近年行われたFBの影響に関する検証では、そうした傾向は現れなかった。実験では数千人のFBユーザと、1ヶ月アカウントの使用を中断させた対象群を用意し、政治的な態度の偏りを調べたが、フェイスブックを使い続けた被験者はより偏った態度を取るようにはならず、自分の好みの政党に所属する候補者を支持する度合いも高まらなかった。正直期間が短かったりとかなり怪しい実験だと思うが、(本書の)著者は自分の見解を正当化しようとする欲求は、たくさんある動機のうちのひとつにすぎない、と楽天的に締めている。

疑問

いくつか読んでいて疑問に思ったところもある。たとえば本書では、広告について語った章でコカ・コーラとペプシの広告の例などをあげて、広告が実際には機能していない(人は広告には騙されていない)という。実際、効果の怪しい広告があるのは間違いないが、効果が出ていなそうに見える広告の例をいくつか挙げたからといってそれは広告に効果がない(人が騙されない)理由にはまったくならないだろう。

web広告ではクリック数や購入数といった数字がダイレクトに現れるんだから、効果のない広告事例を数例あげて終わらせていい議論ではない。また、本書では騙されているように見えても、ほとんどは行動や考え方に影響をもたらさない反省的信念が影響を受けているだけだというが、ホメオパシーを信じ切って医療において行動をする人々の話をほぼ取り上げていなかったり、東日本大震災の時には放射能デマに騙されて東京から移住した人も数多くいたし──と、信頼しきれない部分が多い。最終章でワクチン忌避や陰謀論や地球平面説など、反省的な信念であると同時に直観的信念に影響を与えるものもあるといっているが、そりゃあ都合がよすぎるんじゃないかね。

おわりに

そんな感じでいろいろ疑問符もつくので、読み終えても本書の内容に全面的に賛同するわけではない。ただ、こうやって書かれたことに懐疑的になって納得がいっていないのも、「人は簡単には騙されない」という本書の主張通りではあるのだろう。

本書は他にも、中国で盛んに行われたプロパガンダがほとんど効果をあげていないことや(人がプロパガンダを受け入れているように見えるのは、実際には国家権力による暴力を恐れているだけだからだという)、我々の(反省的信念が)騙されるケースの多くは、たとえばワクチンを打ったら体に抗体ができるという直観に反するものであったり、直観に訴えかけるもの(体から悪い血を抜いたらよくなるよ)であることなど、おもしろかったところが多すぎて、取り上げきれないぐらいにはある本である。