デビュー40周年をむかえ、なおあらたな領域を開拓し続ける作家・神林長平──『先をゆくもの達』 - 基本読書

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デビュー40周年をむかえ、なおあらたな領域を開拓し続ける作家・神林長平──『先をゆくもの達』

先をゆくもの達

先をゆくもの達

『先をゆくもの達』は、SFマガジンの連載の単行本であり、同時に今年(2019年)デビュー40周年を迎えた神林長平が「この先へ」向かうための宣言ともとれるような、執念の長篇である。読んでいて「か、神林長平、まだまだアクセルを踏み込むのか……」と愕然とする思いがあった。「地球」と「火星」の両方が舞台になるなど、他いくつかの面で神林の代表作の火星三部作を思い起こさせるが、主題となっているのは神林がこれまで描き続けてきた「意識の在りよう、その変遷」であり、本作ではそのテーマをさらに発展させ、「次世代の意識と知性」に踏み込んでいる。

で、次世代の意識ってなんやねんって感じなんだけど、当然今の我々の持っている「意識」とは別物なのである。本作は、全6話、それぞれ別の人物・知性による視点を通して、そんな別物の意識の主観的な在り方を描いていく。その過程を通して読者は「先をゆく」意識──それはオールドな意識しか持たない我々にとっては完全に既知の範囲外であり、幻想・幻惑の体験にほかならないのだが──、を追体験することになる。その性質と語りの仕込み上、かなり読み通すのに根気を必要とする一冊なのはたしかなのだけれども、がっつり組み合うだけの価値のある作品だ。「まだ存在しない意識の在り方」を追体験できる、というのは小説ならではのものだろうから。

ざっと紹介する。

主に舞台は火星である。現代よりかはかなり先の時代で、人間は火星にコロニーを築いて生活を送っている。地球の〈ムラ〉を模倣したコロニーの建造が、地球から持ち込まれた人工的な知性によって行われるなど火星社会にはいくつか特徴的なところがあるが、そのひとつは火星には基本的に女しかいない、ということだ。

入植時に一人でも多くのヒトを火星に送り込むため男は排除され、その後、男性が原因となった入植作戦の失敗などが引き金となって、〈火星人憲章〉に『火星に男は無用である』と記されるまでになる。そうした頑ななルールが敷かれるのは、「火星は地球とは違う道を歩む」意識が働いているのもあるが、それだけではなく、火星が入植から200年以上経ってなお過酷な環境であり、火星人たちにとっては「ただ生きて、増え、種として生き延びてゆくこと」それ自体が目的となりえるからだ。つまり「生殖」というものが、火星人にとっては何よりも重要なテーマなのである。

そんな男が禁じられている火星だが、第一話のタイトルは「初めての男」。火星の一コロニーのビルマスターであるナミブ・コマチが火星人としては初めて、意図的に、男の子を産みおとすことから始まるのだ。新しい時代のために。『──新しい〈町〉で男を産む宣言をするためだ。そう、あなたがそうする。火星に男の子を産み落とすこと、それがあなたの欲望であり、わたしにはできなかったこと、だ。コマチ、あなたはわたしの先を行く。もう、後戻りはできない。恐れずに進め。女には男が必要だ。〈火星人憲章〉は忘れて、新しい火星人宣言をするがいい。あなたと、あなたの息子とで。女と男と共同で。新しい火星人になって、新しい時代を築くのだ。』

異なる文化、意識の交錯

で、火星に産み落とされた男の子ハンゼ・アーナクだが、5歳児の彼のやらかしによってコマチらが住むコロニーの空気が抜けかけ、近隣コロニーも助けにきてくれず、やむを得なくコマチは地球へと救援を要請することになる。『「わたしたちは火星人のみんなから捨てられたわけでも、排除されたわけでもない。われらは、二百年の火星人の歴史の、最先端を行くのだ。必ず、生き延びてやる。わたしを信じろ」』

そこで、地球からワコウという名の女性が火星へとやってくる第二話「還らぬ人」。その後地球へと送られることになるハンゼ・アーナクが歳をとってから、かつての火星に思いをはせる第三話「知性汚染」へと繋がっていく。このあたりで描かれているのは「意識」と「身体」の不可分性。変異、変容していく知能。地球人は野生の自律知性機械を生涯のパートナー=タムとして側につけて過ごすのだが、ワコウが相棒タムを火星に持ち込んだ結果として、火星の野生機械の知性を汚染することにもなる。

このあたりの、「異なる文化、意識を交錯させることでその先へ」モチーフは、本作の中では繰り返し描かれている。たとえば、あえて火星に「男の子を産む」という地球の文化を持ち込もうとしたコマチ。さらに、コマチは火星で生き延びるために、あえて地球の力に頼った。その際に、火星の機械知性は地球の汚染を受けたが、逆に、生粋の火星人であるハンゼ・アーナクを〈火星人として生きろ〉といって地球に送り込むことで、両者の文化汚染、感染が進んでいく。生殖から始まり、「異なる環境における知性体」の交錯に繋がっていくテーマの深め方が、さすがに神林長平である。

あたらしい、意識

第四話「じぶんの魂とわたしの霊」から、語り手はワコウのパートナー自律機械であるマタゾウへと代わり、ややこしさが加速する。たとえば、「タムは、そのパートナーにとっての魂や霊のような存在」であり、記憶を共有している存在なのだが、であればこそタムは「わたしはあなたである」と宣言し、宣言するだけでなく、語りがシームレスにスイッチされるので、どちらの視点からの文章を読んでいるのか死ぬほど混乱するのだが、混乱することそれ自体が小説的には正しいといえるだろう。

混乱極まるのが第六話「その先の未来へ」。語り手は人間とは異なる意識を持った機械知性がつとめるようになる。そこで語られる、生き物の知識とは次のようなものだ。『地球の生き物たちは意識を持つように進化した。生存に有利だったから、必然的にそうなった。意識とは、方向を把握する機能である。これにより生き物たちは前と後ろを区別できるようになった。空間の方位ではない。対象は時間だ。』つまるところ、意識の機能とは時間を前後に区別するものである、と言っているんだよね。

で、ヒトはその機能のおかげで当然のように「過去の記憶を思い出す」ことができるのだけれども、その一方で「未来の記憶を思い出す」という本来「意識」が持つ機能を発揮できていないという。『現人類は進化の袋小路に入り込んでいるように見える。ここを突破できなければ絶滅するだろう。知性による誤った未来予想や無意味な展望記憶のせいで、自滅する。』であるならば、ヒトはどうしたらいいのか──? 

というのがクライマックスにあたるわけなのだけれども、とにかくこの第六話は、そうした「未来の記憶も過去の記憶も同じく思い出すことができる」機械知性の語り、さらには第四話で展開したように「わたし」と「あなた」が溶け合ったようにシームレスで交錯する語りが盛り合わせになっており、神林長平がこれまで突き放して描いてきた世界を中に入ってリアルに追体験していくような、異常な密度感がある。

さらにいえば、この「意識とは、過去と未来を区別せず記憶を引き出せる」というのは、現代の時間論とも響き合うところがある。ほぼ同時期に邦訳が出た『時間は存在しない』の中で、著者カルロ・ロヴェッリは次のように語る。『過去と未来、原因と結果、記憶と期待、後悔と意図を分かつものは、じつは、世界のメカニズムを記述する基本法則のどこにも存在しない。』物理法則は、過去と未来を区別しないのだ。

おわりに

先日SFマガジンのために行われた「神林長平年代別座談会」で、大森望、前島賢、僕(冬木糸一)の三人でベストを決めたのだが、2010年代のベストは、この『先をゆくもの達』になった。まさに2010年代における神林長平の代表作にして集大成作であり、ここから先に何を書いていくのか、という決意のような作品であり、SFの──というよりかは、小説の底知れなさを更新していく一作である。

時間は存在しない

時間は存在しない