- 作者: 森博嗣
- 出版社/メーカー: NHK出版
- 発売日: 2018/04/06
- メディア: 新書
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何しろその基本姿勢は「とにかく、本は自分で選べ。」というところに尽きるのである。人から聞いたとか、誰かがすすめていたからとか、流されて読むのではなく、読む本は自分で判断するべきなのだと。なぜなら、人のいうなりになって本を読んでいたら、それはもう「あなたの読書」ではなく命令に従う機械にとっての読書であり、感想文提出を求められる学校の宿題としての読書に近くなってしまうだろうから
ところが、僕なんかは自分が読んだ本について日々書いていくブログをやっているわけであって、もうその時点で非常に気まずいのである。「本は自分で選ぶべし」と言いながらその紹介記事を上げるのは、完全に矛盾している──とはいえ、実は僕自身はあまり人のオススメや書評なんかは参考にしないのに加え、実は紹介した本を多くの人に読んでもらいたいわけでもない人間なので、森博嗣さんの考えには全面的に賛成ではある。なので、ここからはじめる『読書の価値』についての紹介を読んでしまった人は、もう本を買って読まないほうがいいだろう笑 ま、ご随意にどうぞ。
ざっくりと紹介する
さて、というわけで本当にざっくりと紹介していこう。第一章は「僕の読書生活」と題してうまく文章が読めなかった自身の幼少時代、まだどのようにして推理小説を読み始め、萩尾望都作品と出会ったのか──といった読書と森博嗣のこれまでの経歴が。第二章では「自由な読書、ほんの選び方」として、先に書いたようにな「とにかく、本は自分で選べ」やつまらない本の読み方についてがより詳細に語られてゆく。
第三章「文字を読む生活」、第四章「インプットとアウトプット」では、森博嗣さん自身の生活や実体験を振り返りながら、文字を書くこと、文章力についていくつかの観点から述べていき、第五章「読書の未来」では今後の出版界についての見通しが語られ、締めとなる。20年ぐらい前から森博嗣さんが書いていた日記シリーズ(『すべてがEになる―I Say Essay Everyday』)で書かれていたような出版界の未来の推測はほぼ当たっており、当たったことよりも「なるほどそれはそうなるだろうな」としか思えない明快な理屈がすでに書かれていたことが凄いなと思っている。たぶん、また5年ぐらいしたら「やっぱりあの理屈は正しかったな」と思うことだろう。
読書の価値
さて、本の紹介はこれぐらいにして(大してしてないが)、「読書の価値」について自分なりに書いてみよう。僕が読書に見いだしている価値を一つあげれば「面倒くさくなく、広いこと」に尽きる。何しろ一歩も動かずに手をぺら、っと動かしただけで頭のなかに情報が流れ込んでくるのだ。これは、面倒くさがりな人間にはたまらない。
僕は非常に面倒くさがりで、基本的に移動するということが大嫌いだからほとんど外に出ないし、人ともほとんど合わない。今日は月が綺麗だ、と話題になっていても、それを見るために外に出て上を見上げるのは面倒だ。そうやって移動して何かを見るぐらいなら、家にいて本でも読んで月蝕や月の仕組みを知ったほうが面倒もなく楽しい──と、極端な例を出せば、日頃からこんなことばかり考えているので、外にも出ずに本ばかり読んで(あとゲームをして)暮らしている。仕事もプログラマだから、家から出る必要も身体を動かす必要もない。本には恐ろしくいろんなことが書かれていて、しかも出続けているから、そんな人間であっても、本を読めば自分の世界が広がっていく。たとえ知識だけのものであっても、それは確かに世界の拡張である。
それ以外の価値──、たとえば発想が豊かになる、ということはあるのだろうか? といえば、そりゃあないことはないだろうと思う。ただ僕は幼少期からずっと読んでおり、自分が読んだ状態と読んでいない状態を区別して比較できないので、ないことはないと思うが、あるとはっきりとはいえないように思う。一つ確かなこととして言えるのは、たくさん読んでいると、頭の中は非常に幸せだ。考えることや好奇心の原料がいっぱいあるから暇になるということがまるでないし、常に目の前に興味のあること、調べたいこと、もっとよく知りたいことが山のように積まれている。
また、物語たちは僕の中にしっかりとした居場所を築き上げており、彼らはゼロサムで場所を奪い合ったりしないので、「自分の中の世界の魅力的な物語・登場人物」がどんどん増えていく。そうすると、特に何もすることがなく町を歩き回っている時に、昔読んだ物語の一端、登場人物たちが沸き起こってきて、突然涙がボロボロ流れてきたりする。もちろん、優れた物語というのは、読んでいる時のこちらを底抜けに幸せな気分にさせてくれるのだから、みなそれだけで素晴らしいものだ。
一方で、本(特にノンフィクション)を読んでいて残念なのは、そこは「最先端」ではないというところだ。本は、最先端を走る人間が一休みした時にしか書かれることはない。論文なら最先端に近いだろうが、それもやはり近いだけであって最先端ではない。つまり、本(ノンフィクション)を読んでいる時の僕は、常に世界の最先端から何歩も遅れているということになる。最先端から遅れた場所から、憧れを持ってその先を眺め続けるしかない。そこがただ本を読むことの限界だ。それは少し悲しいが、本ばかり読んでいるので、無数の方面に遊びにいけるというのは単純な良さだろう。
おわりに
と、何しろ日頃本ばかり読んでいる人間なのでその価値についてならばだらだらと書き続けられるのだが、こんなところでやめておこう。正直、『読書の価値』について書きたかったというよりかは、自分なりに、自分の思うところの「読書の価値」について書いておきたかった、というのがわざわざこの記事を書いている動機としては大きい。そうやって自分なりに発想を展開させられるのも、読書の価値であろう。