本を読んで己を強化し敵をぶち殺せ!!──『図書館大戦争』 - 基本読書

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本を読んで己を強化し敵をぶち殺せ!!──『図書館大戦争』

図書館大戦争

図書館大戦争

1988年に人権を侵害する表現を規制するための「メディア良化法」が制定され、不適切と認定された創作物は良化特務機関によって取り締まりを受けるがその弾圧に図書館が声をあげる──、『図書館大戦争』はそんな話ではない。

『図書館大戦争』はある作家が書いた本を、幾つかの条件を満たして読み終えると、凄く力が沸き起こってきたり記憶力がよくなったり権威がましたりする現象を用いて・奪い合う為に行われる戦争の話である。本で殴りかかるわけではなく、ようは自己強化型マジック・アイテムを使ってロシアで行われる超能力者・抗争の話なのだ。

その本を書いた人間の名はドミトリー・アレクウサンドロヴィチという。まったく無名のままその生涯を終えた。合計五十万部ほどが出回ったはずだが、ほとんどは朽ち果て、捨てられ、忘れられている。だが一部の人間はその効用に気がついた。「連続」、一度に本を、それも「熱中」して読み終えることで特殊な効果が発揮されるのだ。『世間一般にはグロモフの本には瀞だの草だのというタイトルがついていたが、グロモフ・コレクターの間では、まったく別のタイトルが使われた──力の書、権力の書、憤怒の書、忍耐の書、喜びの書、記憶の書、意味の書……。』

たまたまそれを見つけた人々は、それを共有するためにひそやかな仲間うちの図書室を開設し、その力をもっと拡大したいがあまりに奪い合い・殺し合いに発展する。その力は時に死にかけのババア軍団に力を与え、時にそれは冴えない男を権力者にまで押し上げることになる。数人の小競り合いならかわいいものだ。

争いがエスカレートしていくと、時には所有した本によって様々な能力が強化された数千vs数千の殺し合いにまで発展するのだから。

歴史

冒頭はそんな世界でこれまでに何が起こったのかの歴史語りからはじまるが、端的に一言で表せば頭が悪い。一冊しか見つかっていない「力の書」を有するモホヴァは永遠の命の提供を呼びかけ、ババアを集めて軍団をつくり、本を収集する為、世界中に配下のババアを散らばらせている。力の書による圧倒的な力を前にして、他の書を持つ通称「図書館」「読書室」の面々は、普段は仲が良くないにも関わらず一時的な連合軍を結成することになる。彼らは一冊も力の書を持っていないから、単純な力勝負では相手がババアだとしても分が悪い。結集した16の図書館部隊は合わせて2600人。対するババア軍団はなんと3000人。いま世紀の戦いが幕を開ける──!!

 鉛のように鋳造された肉体を持つ、元道路工事員や集団農場員たちからなるモホヴァの歩兵隊は、シュリガの元同志であるフロロフとリャシェンコの一門を粉砕した。流血の行事で特に秀でていたのが、五十歳のクレーン運転オリガ・ペトロヴナ・ダンケーヴィチだった。ものすごい怪力で、長さ三メートルのロープに吊られた昇降クレーンの鈎を武器にしていた。この巨大な鎖文銅の一撃を食らわせれば、サイだって殺せた。これに当たって死んだ読者は、司書を含めて十人を下らない。

これは「力の書」を読んだ人間が発揮する凄さの一例だが、まあ、あれだ、絵面を想像すると相当頭が悪いことが理解いただけるのではなかろうか。

殺し殺され血まみれの本

物語は、この巨大な抗争が終わった後しばらく時が流れて、たまたまこの本をめぐる戦いの世界に巻き込まれていくアレクセイを語り手として進行していく。普通の生活を送っていたのに、ろくでなしの叔父が死んで彼が読書室と、司書(実質的なリーダー)の立場を引き継ぐことになったのだ。それは戦いの日々が始まることを意味していた。あっちへ行って敵をぶち殺し、悪党がいれば待ち伏せしてぶち殺しを続けていくうちになんでか英雄として崇拝される立場になっていく──。

アレクセイ以外の人々は血気盛んなので、武士かよみたいな安直さで「決戦だ!!」「待ち伏せして殺そう!!」って読書室同士の抗争に発展する。しかも「名誉ある決闘」として、銃などが禁止されている為に、鎖帷子(くさりかたびら)を着込んで、大鎌や大熊手、分銅とか「家に転がっているものを武器にしました!!」「いつの時代だよ」みたいな価値観と装備で殺し合いをするからとても21世紀ロシアを舞台にした物語とは思えない様相を呈してくるのがまた頭が悪くて魅力的なのだ。

アレクセイは最初の抗争時に、当然装備など持っていないから建設用ヘルメットとか、オーブン用の天板が仕込んであるバッグを鎧として使うように渡され殺し合いに参戦するし、完全に正気とは思えない。わけもわからずヘルメットをかぶせられて、痛みや苦痛を全く感じなくなる「忍耐の書」を読まされ殺し合いに連れて行かれる姿は「エヴァに乗れ」と突然言われたシンジ君ばりに可哀想だ。

しかしこの時代錯誤感は、自身らが「グロモフ界」と呼称するように現実とはまた違った常識を持つ世界の話として切り分けるためでもあるのだろう。グロモフの本を読むことは彼らに多大な幸福感をもたらし、それを守り、増やすために行動を起こさずにはいられなくなる。現実世界のルールは彼らにとっては重要ごとではなくなってしまっている。そういう「世界」の人々であり、必然的に抗争は起こるのだから、最低限そこにはルールを定めようとしたと考えるとなるほどなと思えてくる。

それではこの物語は本を読んで自己を強化し敵対する読書室の面々をぶち殺して本を奪い合うだけの話なのかといえば、まあ概ねはそのとおりなのだが実は本の効果が「強化」だけではないところが鍵になってくる。「力の書」と同じく、その存在がほぼ確認されていない珍しい本の一つ、「意味の書」をアレクセイは手に入れ、それを読むことにより特別な本がこの世界にもたらす「意図」が明らかになるのであった。

図書館大戦争は読書家の為の本なのか?

これは難しいところだけど、本書『図書館大戦争』を、読書小説だと思って読むと肩透かしを食らうかもしれない。登場人物らのほとんどは本を読むこと自体の快楽というよりかはそこから発生するマジック・パワーを目当てに読むのだから。だが、そうした要素がまったくないかといえば、そういうわけでもない。

心躍る小説を読む時、我々はそれが虚構、幻影だと知っていても身体は血圧が上昇したりアドレナリンが出たりと幾つかの変化が起きる。幻影だと知っていてもそれは現実に作用する幻影なのだ。「記憶の書」は幸福な過去や体験した楽園の強力で円滑な発生装置だと言われる。忍耐の書、憤怒の書など、書は様々な効用をもたらすが、耐え難きを耐えられるようになり、時として読みながら怒りにかられる、それは極端に誇張されてはいるものの本が、読書が本来持っている効果そのものだ。

本の効果を認めつつも、「事実上幻影でしょう?」というアレクセイに向かって、熱狂的にグラモフの本を必要とするマルガリータは「幻影で結構!」「あなたにはまだ、自分が体験した本物の過去が一つしかないけど、あの人達には過去が二つもあって、それも一つは本当に素晴らしい過去なの。」と反論し、アレクセイはそれに対して最悪本がなくても自分は生きていけるような気がするのだと答える。

これはグロモフの本についての話なのだが、やはりどこか問いかけられているような気分になってくる。幻影で結構か、本がなくても生きていけるのかと。

おわりに。能力バトルとして

もちろん基本は本によって自己を強化した人々がオイルチェーンソーとかクレーンとか無茶な武器を使って生身で殺しあう能力バトル小説として突き抜けた面白さを持っている小説だ。三千人のババア軍団とか絵面だけでも相当面白いし、何気に本を読んで得られる効果には持続時間なども設定されているようなので戦術的な側面を楽しむことができる。朗読でも効果を発揮するので絶えず強化された兵を生み続けたり、一方で敵の本の効果切れを狙うように持久戦に持ち込んだり。