その〈脳科学〉にご用心: 脳画像で心はわかるのか by サリー サテル,スコット・O. リリエンフェルド - 基本読書

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その〈脳科学〉にご用心: 脳画像で心はわかるのか by サリー サテル,スコット・O. リリエンフェルド

これはけっこう面白い。書名からもわかる通り、脳画像で「嘘をついているかわかります!」とか「購買行動を刺激させる方法がわかります!」とか「中毒症状は脳の疾患だから脳をいじいじすることで治せます!」的なうさんくさい言質の「どこまでが脳で本当にわかること」で「どこからが脳だけじゃわからないこと」なのかをキッチリ決めてくれる良書だ。

否定する為の例を集めたものって、もちろん意義はあるんだけど、読み物としては面白いものになりきらないことが多くてちと不安もあったけれども、杞憂であった。「そんなことまで脳画像で判断できるとしている人達がいるのか」みたいな例を読んでいくだけでも充分に面白く、脳科学として扱える部分と扱えない部分の線を引いて、扱えない部分はどうしたらいいのかみたいなところまで語ってくれるので、脳科学の領域を飛び越えた間口の広い本になっている。

その〈脳科学〉にご用心: 脳画像で心はわかるのか

その〈脳科学〉にご用心: 脳画像で心はわかるのか

  • 作者: サリーサテル,スコット・O.リリエンフェルド,Sally Satel,Scott O. Lilienfeld,柴田裕之
  • 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
  • 発売日: 2015/07/01
  • メディア: 単行本
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脳は人間の行動の全てを司っていると思われているから、人間行動について究極のところ「犯罪も感動もダイエットも何もかもすべて脳でまるっとお見通し!」で全部説明がつくように錯覚してしまう。ドシロウトがネットのニュースをみていてへえそうなんだと思うぐらいならいいが、実際には研究資金の獲得や、法廷の場など人間が関わっているありとあらゆる領域でこの「脳が関係しているんですよ論法」が効力を発揮しているのでなかなか難しい・面倒くさいことになる。「なんだかよくわからんがとにかく説得力がある」と、それだけ資金は集まりやすいし、法廷の場でも同情を集めやすいのだ。

たとえばこの犯罪者は実は脳の道徳的反応に関連する部分に腫瘍があって、暴力衝動はその腫瘍が道徳的反応を働かせなかったせいなんです……ともっともらしく言われると「それは可愛そうだ」となる。ここで問題となるのは、それではその関連性は実際のところどう検証され得るのか? ということだ。脳には確かに特定の行動をするときに活性化する部位は存在する。しかしその場合であっても「その箇所」だけが活性化していることはほとんどない。『脳という期間は、経験と学習に反応し、毎秒数えきれないほどの回数で接続の強さを変えることによって絶えず自らを配線し直している。』それなのに結果を自分たちの都合の良いように利用したい人々はわかりやすい成果・論文数なのか、はたまた何らかの相関しているとする結果それ自体がほしいのかはわからないが、結果を恣意的に抜き出してしまうことがある。

研究の世界はどこも似たような問題を抱えているものなのかもしれない。たとえば『ネアンデルタール人は私たちと交配した』という本は著者スヴァンテ ペーボの研究人生を振り返った一冊だが、その中で立ち現れるのは「古代人のミイラか遺伝子情報を抜き出す時に、どうしても現代人のDNA情報が紛れ込んでしまう」という検証の妥当性に対する問題だ。細心の注意をはらって彼らは自分たちがやっている研究の正当性・精度の妥当性を高めてから発表しようとしているが、その分どうしたって労力も時間もかかる。そんなことをしている間に、厳密な検証も抜きに成果を発表してしまう別グループがいると、詳細な検討を行っているグループはたとえ同じ結果にたどり着いてもあらゆる点でボーナスが減ってしまう。

ネアンデルタール人は私たちと交配した

ネアンデルタール人は私たちと交配した

中毒とかニューロマーケターとか。

学問には王道しかない、というのが理想論であるはずだが、実際には資本主義的な成果・効率主義の元、王道を捻じ曲げることが利益につながってしまうのが現状だろう。本書では研究者や法廷以外の例として、「中毒」、「ニューロマーケター」、「嘘検知に脳の情報を使おうとする人々」な巷で脳科学がどのような扱われ方をしているのかを一例ずつみていく。ニューロマーケターは存在すら知らなかったけど、脳をハックして購買行動を刺激させたりと、利益を脳科学から生み出そうとする人達みたいで、その効果のほどを検証していく。

中毒の章では、中毒は「脳の疾患」的な扱いをされることが多いけど、実際には中毒に至るのは慢性的なストレスや孤独感や自己嫌悪や疎外感や不安を薬やアルコールが忘れさせてくれるからハマりこむのであって、「脳の疾患」じゃなくてそれ以外の環境要因が大きいじゃんというもっともな話が展開する。「秘密を暴露する脳」という章では、脳に依拠して嘘を検知するための様々な実験例とその効果のほどが紹介されていくが、法廷に提出できる確固たる事実と呼べるレベルにはほ遠い。『ようするに、人が嘘をつくとき、そこだけ活動を変えるという脳領域はなく、嘘はそれぞれ種類によって異なる神経プロセスの組み合わせを必要とする。なぜなら、ひと口に嘘といっても、すべて心理的に似通っているわけではないからだ。』

責任の所在はどこにあるのか

最初にちと例に出したが、こうした脳科学で大きな問題の一つは「法」に関わる部分だ。僕はちょっと前に『暴力の解剖学』のレビュー記事で次のように書いたが『神経犯罪学が発展していった先には、必ずこのような問いが浮かび上がってくる。いったい犯罪の責任はどこまで自由意志に求められるのか。どこまでが脳の、どこまでが環境の要因だったのか。有責性が技術の限界で決まるというのは筋が通らないのではないか、と。』これと同様のテーマが議題にあがってくる。huyukiitoichi.hatenadiary.jp
極端な考えの持ち主は人間は環境と遺伝子の相互作用で行動をするのであってどのような犯罪であれそこには自由意志は絡まず、誰かに罪を問うことそれ自体が間違っているとする決定論的な立場をとる。車が壊れていたら車を叩くのではなく直そうとするし、車を赦そうなどとは誰も言い出さない。車から社会を守ろうとするのが真っ当なやり方のはずなのになぜ人間相手だと罪を問うたりするのだ? と。

こうした考えを持つものは当然人間は自由意志を持つとする自由意志論者と対立する。この二つは正直なところ、信仰のぶつかり合いみたいなもので科学でどうにかなるものではない。もちろん脳の働きに関するデータが積み重なっていけば人間の「自由意志」は通常考えられているものより弱いものであることが誰の目にも明らかになるかもしれないが、仮にそんな事実が次々とでてきたとして、「誰も罪に問われない社会」なんていうものが成立しえるものだろうか? 

責任なんていうものは所詮人間が自分たちの都合のいいように生みだした幻想的な概念にすぎない。責任者を仕立てあげ、そいつらに尻をぬぐわせることで社会を潤滑に回していくための仕組みが責任という幻想を必要とする。であればこそ問題は社会をどのように円滑に回すのかという脳科学を離れた社会学の範疇に入ってくる。本書は行き過ぎた脳科学を否定し、「ここまでが確かな部分だ」と線を引いてくれる良書だが、線を引いた先に何があるのかといえば脳科学ではない別の学問領域の場合もある。そこまで含めて語っていることが本書を読み物として面白くしているように思う。