バウドリーノ by ウンベルト・エーコ - 基本読書

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バウドリーノ by ウンベルト・エーコ

 エーコによる歴史小説。皇帝フリードリヒ二世の養子として数多の冒険に出かけ持ち前の嘘をもっともらしく語る能力によって自分たちの都合のいい事象を現実と混同させてきた男が最後に語る人生録が、この『バウドリーノ』という本になる。バウドリーノは歳をとり死期もさしせまったあたりで、元宮廷弁論家にして帝国裁判長官、判事、ビザンツ皇帝の書記長を歴任したニケタス・コニアテスに向かってその人生を語っていく。ちなみに解説によるとこのニケタス君は実在の歴史家のようだ。

 『バウドリーノ』はだいたい1155年から1294年の第四回十字軍によるコンスタンティノープルの奪還までのおよそ半世紀の時代を扱っている。物語はバウドリーノが1204年のコンスタンティノープルの略奪の際に、先ほど述べたニケタス君と出会うところからはじまる。バウドリーノはニケタスと出会った時、今日私は人を殺したという。相手は彼の養父であり、皇帝であるフリードリヒを殺した相手だ。しかしフリードリヒが死んでからすでに十五年の歳月がたっている。

 十五年も経っているのはその時まで誰が殺したのか、そもそも殺人だったのかすらもわからなかったせいだが、これが密室状況下での殺人だったのだ。物語は司祭者ヨハネの手紙をめぐるバウドリーノの冒険という側面と、養父であるフリードリヒがなぜ、だれにやって、どうやって殺されたのかを解き明かすミステリとしての側面もある。

 『バウドリーノ』は歴史小説であるのとは別の意味で、歴史について語った小説だともいえる。 歴史を紡ぐとは概して嘘をつくことなのだという前提がある。なにしろ起こったことをすべて時系列順にならべていくわけにもいかないのだから、最大限努力したところでそこには恣意的な編集が入り、さらにはそんな歴史は誰も読まない。歴史とはただあったことを順列に並べることではなく起こったことをつなぎあわせそこから意味を見出していく過程だ。だからこそバウドリーノは嘘をついて話を創る。

 彼が最初にニケタスに次のように語る通り、「わが人生の問題は、実際に見たこと、見たいと思ったことをつねに混同することです……」バウドリーノの人生録は起伏にとんでいて、おもしろく、そして何より本当のような嘘のような、不可思議なことが次々と起こる。巨人がいれば一角獣がいる。上半身は人間で下半身は獣のような不可思議な生物が出てくる、とても容易には信じられぬ神秘的な記述が多く含まれているが、熱のこもった彼の語りはとても嘘を言っているようには見えない。

 バウドリーノの嘘をつく才能は、何も最後の最後、歴史を紡ぐ時にだけ役に立ったわけではない。要所要所で彼は起こった事象に、嘘を多少付け加えることによって自分たちの利益になるように現実を操作してきた。神話を語り、宗教を語り、嘘と現実が入り混じった世界。十二世紀頃なんてものはまだ人類は地球が丸いということすら理解していない時期であって、神はいるし神秘的な物事は極々当たり前に身の回りで起こりえる認識だったから、嘘のつきやすい時代だったといえよう。

 嘘と現実が入り混じり不可思議に展開していく話だが、この神秘性がさも当然のように人々に受け入れられている混沌とした世界が読んでいてとても心地よい。神秘性は詩の中に現れてくるし、人々の物の考え方に現れてくる。行動の決定の一つ一つが予言や占いといった要素に影響を受けていて、神秘的な存在は現実に影響を与えるという意味では確実に「ある」のだといえよう。

 かといって全編がそんな夢の表象のような世界が描かれているのかといえばそうではなく、前半はあくまでも西洋中世におけるリアルな歴史的状況を背景にしている。この頃のバウドリーノはかなりイカれたヤツで、養父である皇帝の妻に思いをよせるあまり、留学先で勝手に文通している想定で熱烈な愛のメッセージの返信を一人で書き、その返信を一人で書き、そしてそれを友人たちにどうだいいだろうと見せびらかすというひどく痛々しいことを平気でやっている。

 この時代の楽しそうに、かつ自堕落に仲間たちと過ごしているバウドリーノはダメな大学生 in 西洋中世 といった感じでほほえましく読める。現実的な中世描写からいってん夢の表象、怪物たちの描写へ、コメディ的な描写からその後のシリアスな展開も含めて、ムードの緩急、描写自体の変遷の過程がまた急で面白い。

 語りは最初から全開で魅力的だが特に後半部にあたる、バウドリーノが歳老いて最後にする三度目の恋の場面の描写は圧巻の一言。そこでバウドリーノが語る相手は、人間とはとても異なった価値観を持ち語る内容も神秘的すぎてよくわからないのだが単語の選択、文章のリズムが麻薬的に心地よく、断定的に神秘世界のことを語るその存在自体が虚構的存在であって、謎の納得感と読むのがやめられない文体の荘厳さがある。

 上下巻あわせて700ページ近い大著だが、魅惑的な文章と世界観にのめり込んでいくとあっという間だ。長い長い人生の旅路を終えたようなこの心地よい倦怠感を覚えたよ。

バウドリーノ(上)

バウドリーノ(上)

バウドリーノ(下)

バウドリーノ(下)