昨日までの世界―文明の源流と人類の未来 - 基本読書

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昨日までの世界―文明の源流と人類の未来

なんだかふっと気がつくと世の中は一変してしまっていてあれよあれよというまに時間に追い立てられ20年後どうなっているのかさっぱりわからない。いつのまにかタブレットをみんな使っていて僕は電車でそれを使って本をがしがし読むしこれは超ちっちゃい、お手軽なMacBookAirでどこにも線を繋がずに世界中と繋がっている。

本書の冒頭は空港から始まる。そこでは何百人もの人がいきかい、肌が黒い人間もいれば白い人間もいる。スーツケースはあちこちに運ばれ効率的にすべてが整然と並べられていく。チェックインカウンターを通れば自分という人間は明確に存在を認識され、どこのだれであるか把握され、信頼出来る人間であると判断された場合は通過していく。

この光景はニューギニアの首都ポートモレスビーの空港でのことだ。そう言われても今では当たり前──誰も疑問を持たない風景になったが、1930年にはこのような状況はありえなかったという。人々は見知らぬ人間に出会う機会は稀で、ひとたび会えばそれは危険を意味した。警察や政府は存在していなかった。

ところが今やニューギニア人はどこだろうが許可を求めずに乗り物で移動する権利がある。それも安全に。1931年にはニューギニア人の中で172キロメートルもの移動は不可能だったという。それだけ移動する前に見ず知らずの不審者として殺されるのがふつうだったからだ。なんて恐ろしい世の中!

しかしそれはほんの『昨日までの世界』だった。

本書『昨日までの世界―文明の源流と人類の未来』は『文明崩壊』や『銃・病原菌・鉄』を売りに売りまくって世界中でベストセラーを巻き起こしたジャレド・ダイアモンドの最新著作である。原著で出たのが昨年12月で、本年2月には日本語訳が出ているのだからその影響力(というより売上見込か)がいかに期待されているのかわかる。

今回は『銃・病原菌・鉄』と『文明崩壊』で見られた人類史を単一のテーマに沿ってデザインしていく手法とはまったく方向性が異なる。本書では伝統的な部族社会と現代的な社会を単一の要素──老いや教育、食事に争い、リスクへの対応の仕方に言語に宗教……といったトピックでそれぞれ比較していく手法になっていて、かなり毛色が違う。

世界の成り立ちを一から知っていくようなぞくぞくするような興奮はないかもしれないけど本書におさめられている非常に身近なトピックの数々は読んでいて考えるきっかけになる。あとぶっちゃけ文明がなんで崩壊したのかとかアメリカが栄えてニューギニアが未だに辺境みたいになっているのは何でかなんて知っても何も関係ないが、こうした身近な内容は実際僕らの生活を相対化してくれるのである。

たとえば教育。現代日本で2歳児が鋭利なナイフを持って遊んでいたら親は血相を超えてそれを取り上げるが、ピダハン族の教育ではどんなに危ない物を持っていようが、火に近づこうが、誰もそれを止めない。もちろん怪我は起こる。しかしそれでも誰も止めないのである。なぜならピダハン族からすれば2歳だろうが大人の男だろうが平等な存在として扱われるからである。

そうした社会で育つ子どもは強靭に育つ(と観察者は言っている)。そして親のいうことを聞かないと実際に、マジで、痛い目にあうので親の話を聞いたほうがいい場合もあると子どもは学んでいくのであると言っている。なるほどそれはありそうな話だ。親が何もかも先回りして危険を排除していると、子どもは自分が神さまか何かになった気になって、親なんかいなくても大丈夫だと思うようになるかもしれない。

だからといってナイフを取り上げるなという話ではないけれど。また西洋や日本のような先進国では、主に非感染症疾患──心臓発作、脳卒中、糖尿病腎臓病胃癌乳癌肺がんなどなど……で90%の人間が亡くなる。ほぼみなこうした疾患でなくなるのだ。ところがこうした疾患は伝統的な小規模社会においてはほぼ存在しないという。もちろんそうした社会の寿命はかなり短い。しかし60、70、80代まで生きている小規模社会の老人たちも、こうした非感染症疾患にはほぼかからないのだ。

当然そこには様々な要素が関わってくる。たとえば伝統的社会では塩分の摂取が少量だった。海岸や岩塩の近くに住む伝統的社会の人々は塩の採取が用意で、ソロモン諸島のラウ族は1日あたり平均10グラム塩を取る。しかしそれ以外の狩猟採集民や農耕民をみると、1日あたり3グラムに満たない。世界の一日あたりの平均摂取量はおよそ9から12グラムだというから、約3〜4倍の差があることになる。

塩分摂取量は、特に過多な場合と過小な場合では血圧に与える影響が顕著にでる。とりすぎれば血圧はあがり、とらなければ血圧は下がる。高血圧がなにが問題かといえば単純に心臓に負担がかかるのである。心臓に負担がかかると心臓はこれに対応するため大きくなり、動脈も圧力に対抗して硬く厚くなっていく。しかもそれは段々と進行していくために非感染性疾患のリスクをがすがす増加させていく。

伝統社会はたんに塩が効率的に摂取できないだけだが、少なくとも非感染性疾患にたいしては優れた予防策になっているのである。もちろん僕らは「素晴らしい伝統社会! 今すぐ文明を捨てて山に戻ろう!」といって戻れるわけでもないし、そんなことを考える人間もなかなかいないだろう。ただ今現代に現出している状況は決して唯一絶対のものではないし、昨日までの世界に今の状況をもっとよくしていく忘れされていく伝統がいくらでも転がっているのであるということは間違いない事実だ。

先進国に生きるというのは強烈なプレッシャーにさらされるということでもある。常に経済競争があって、働いていないとまずい。時間に追い立てられる。電車はパラノイアか何かのように時間ぴったりにくる。飯屋に入れば塩が大量に使われている。都会では誰もが知らない人間であり、孤独を感じることもある。安全第一で子どもは外で遊べないし、誰も彼もが責任回避の為の文言をいたるところに織り込んで自由を制限する。

でも伝統的な社会だって大概だ。狩猟採集民は子どもを連れて歩くことができないとなれば生まれたばかりの子どもを殺す。連れていけなくなったじーさんやばーさんは捨て置かれる。周りがみな親族で一人になれる時間はない。しかもマラリア感染症に容易くかかってころっと死ぬ。簡単に死ぬ。とてもじゃないがそんなところで僕は暮らせない。

しかし時間に追い立てられることはないし(そもそも時計がない)、競争もない。競争というのは基本的に資本主義の産物なんだなあと思わざるをえない。伝統的な小規模社会では「やってやったんだから、何か対価をよこせ」とする態度は問題視される。誰もが相手のために、対価をとらずにやってやるのである。非感染性疾患にかかることもなく周りには人がいっぱいいて、常にコミュニケーションやセックスの相手に困らない。

この世界には多様な社会があるのである。いいところは採用して、ダメなところはみてよかったと思う。近代的な社会というのはあくまでも即日的に作り上げてきたものであり、伝統的社会は何万年といった時間を通して築き上げられてきたものである。「なぜそうなっているのか」を見ていくことで、学ぶところは多い。

昨日までの世界(上)―文明の源流と人類の未来

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