鈴木大拙『禅と日本文化 (岩波新書)』 - 基本読書

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鈴木大拙『禅と日本文化 (岩波新書)』

外国人向けに、禅を通して日本文化を紹介しようとした本が、翻訳されて日本に逆輸入された形になる。同じ禅を扱った本といえば『茶の本』もある。茶の本も何故か外国へ向けて輸出されたものが日本に翻訳されて帰ってきた本だった。不思議ではあるが、高度成長を経験した日本人にとって、ほんの数十年前の日本人自体が「外国の人」と同じような感覚であったのかもしれず、それだからこそ「自分たちに対する初歩的な説明」を求めていたのかもしれない。それが1960年代の空気だったのかもしれない。知らずに適当なことを書いているだけなので真に受けないように。

さて……禅である。禅。禅とは仏教の一形態である。基本的に教えていることは仏教と変りないが、この本では禅こそが仏陀の根本精神を教えようとしているという。しかし僕もいくつか禅の本は読んできたのだが、どれを読んでもわかったような、とてもよくわかったような、よくわからないような、そんな塩梅である。捉えられはするのだが、人に伝えようとするとひどく困難な概念が禅宗に対する実感である。

禅の一風変わったところは、それは真理がどんなものであろうと身を持って体験するところを良しとする部分であり、科学的な系統化・知識化を訴えない。それどころかそうした言葉とか、科学とか、哲学とかの反対側にあるものであり、禅にとってはそうした一切の知識は妨げとなる。言葉は代表するものであって実体ではない。ちょうどお金が、物と交換できることで初めて価値があるように、お金は物自体ではない。

そういうように言葉をもてあそんで記憶し、概念を転げ回し自分を利口だとすることは「人生の諸事情を扱う場合には益するところはない」と断言する。

たしかにいくら知識を蓄えたからといってそれが幸福に繋がるわけではない。しかし知識を蓄えないからといって、同様に幸福に繋がるわけでもないだろう。それじゃあ禅が教えることはなんなのか。実体であり身を持って体験するのだと言われてもそれだけでは普通に生活しているのと何も変わらないと思うわけである。しかし……本書を読む限り、禅とはそういうもののようである。つまり身を持って体験するのだ、というところに禅の本質がある。

その昔禅僧に修行にきていた若者がいた。師は別段、特別に教えなかった。しかしその若者はもっと禅を理解したかったので師のもとを去って、他にいった。しかし他の師匠のところへ行くと、自分の元々の師匠が各地で一流の禅匠の一人だと世間に伝えられていると知り、離れたことを非難された。そして彼は都合よく戻ったのだが、師匠にはなぜ戻ってきたのかと言われ「禅の秘密に触れさせてくれ」と懇願した。

そこで師匠は言う。『禅になにも秘密はない。いっさいが開かれ、いっさいが全体のままに与えられている。お前はここにいたときも帰ってきたいまも、まったくなにもかも同じ物を持っているのだ。なにも喪ってはいない。この上なにが欲しいのだ』禅に秘密などなく、いっさいがあるがままだというのだ。

これはもう少し説明すると(説明するものでもないのだが)、無心の概念といえる。無心の状態とは心がなにものにも止まらないことだ。たとえば他人から話しかけられた時に、ただちに『諾』と答える。それが不動智である。金を5000万くれと言われても何も考えず、とどまらずに『諾』と答えねばならない。不審がったり、熟考したりするならば心は『止る』のであって、普通の人間である。

なんとも近代では生きづらそうな思想だが……。しかしことはそう単純ではない。人は意識に関する限り、つまりは自動人形になるのである。が、それは非有機的な、いわばアンドロイド的なシステムとしての存在になるのではなく「無意識に意識すること」が要求されているのである。先の例であれば、5000万くれと言われたら何も考えず、諾とも否とも言わず、相手を一刀の元で斬り殺し、しかもそれが本意であるかのように振る舞うということである(変な例え方をしてさらにわかりづらくなった)

説明しづらい概念であることがわかってもらえただろうか。禅の思想は宮本武蔵を代表とする武道・剣道の道を行く人達にも浸透している。剣道における精神的な心得、奥義に当たる部分が禅の奥義と通っているのだ。たとえば剣道において技術以外に最も大事なことは、その技を自由に駆使する精神的要素であるという。それは無念あるいは無想という心境である。

太刀をとって相手の前にたった時に、思想・観念・感情を持たないという意味ではない。すべての思惑をとっぱらった上で、生来の能力を働かせるところにその意味がある。そんなような、よくわかんないけど、思い込みとか考えとかこうしたいああしたいあれはなんだろうああ死にたい生きたい右足を動かそうか左手を動かそうか……という執着を一切とりはらった時に、人は真理の根源に触れる。

これが禅の思想なのだ。ほとんどこれしか言っていないといってもいい。だからこそ禅の師匠は「日々の生活をそのまま送ることがすなわち禅なのだ」といったのだ。特別なことは一切しなくてもいい。「無意識の意識」という逆説的な境地のことは正直さっぱり理解できていないが、禅の思想とはシンプルながらも追求するには奥が深い世界だ、というのが一応の結論的感想。

禅と日本文化 (岩波新書)

禅と日本文化 (岩波新書)