タイトルはかなり挑発的だが、だいたい合っている。挑発的な内容なのだ。なにしろテクノロジーが進みすぎた世界で、人は機械に近づき人間性──思索と考察、認識や思考、感情を失っていくかもしれないというのだから。
インターネットを飛び回っていると情報は細切れにしか存在しなく、そもそも情報は大量に存在して休む暇もなく次に読む物がやってくる。僕はTwitterでは900人近くFollowしている。900人Followすると時間帯にあまり関係なく常に発言が出続ける状態になるので、その気になればこれをボーっとみて過ごすことも可能である。
読書中はだいたいパソコンが眼の前にあって、Twitterの自動に出てくるつぶやきをちらっちらっと見ながら読んでいる。そうするとかなり集中出来ない本書ではインターネットが出現してから読書をする人間が少なくなった──もっといえば、細切れの情報を処理することに慣れてしまい、単一の物事に集中して一冊の本を読み切ることが出来る人がいなくなったという。
事実読書人口の減少などと結びつけて説明しているがこの辺は話半分に聞いておいた方がよさそうだ。なにしろそこには明確な因果関係がない。ありそうなのはインターネットが脳を作り替えたからというよりも、ゲームや漫画で読書以外に時間の潰し方が増えたことだろう。そりゃ本しか娯楽がない時代と比べてもしょうがない。
そうはいっても──、ネットをやることで、どうも注意散漫になる傾向はあるだろう。ネット中毒者の巣窟たる2ちゃんねるでは「3行でないと読めない」という価値観がどうも行き渡っていたようだし(ただこれも今はもう言っている人を見ないなあ。2ちゃんねるなんてまとめサイトでしか見ないから排除されているのかもしれないけど。でも結構長文書く人いるよね??)。
若者に大人気のニコニコ動画ではついに文字媒体は多くて10文字ぐらいの細切れの情報にされてしまった。百科事典みたいなのはあるけどさ。まあ、別に注意散漫になろうがどうでもいいと思うかもしれないが本書が警鐘をならすのはその先にある。記憶が定着するためには一定の集中と持続時間が必要で、注意力散漫な状態で次から次へと情報に飛び回っていると記憶に定着しないという。
そして記憶に定着しないのでネットにアクセスし、また定着せずにネットに──という、知性の感じられないサイクルを繰り返すことになる。記憶を機械にアウトソージングすることで知性を機械にアウトソージングすることになる。うーんでもどうなんでしょうね。僕は知性は「全部を記憶していること」ではなくて、「どこにいけばなにがあるのかを知っていること」だと思うんですけど。
ネットにあるとわかっているものをわざわざ記憶して脳のリソースを消費する必要なんてあるの? と思ってしまいます。無駄な能力を使う分、知性を消費してない?? というふうに、僕が本書を読んでいて思ったのは「知性を定義するのは難しい」ということです。たとえばIQテストが人間の知性をはかれるのか? というとそうではないですよ。IQテストがはかることが出来るのは、パズルとか人間の能力の一部分だけです。
本書はテクノロジーが思索と考察からのみ生まれる認識や思考、感情を消し去ってしまうかもしれない、と述べています。たしかにそうなのかもしれない。僕達の知性的なものは複雑な作業に最初から最後まで集中する能力を失って、代わりにより多くの情報をより効率良く処理できるよう進化するのかもしれない。その結果消えるものもあるだろうなあ。
しかし何度も書くように知性の定義は難しい。人間性の定義もそうだ。たとえば将来肉体を捨てて情報体だけの存在が人間になったとして、「人間性」なる定義がどれだけ有効かよくわからない。かといって「その時そうある姿が人間性なのです」みたいな結論にしてしまうと、「誰も何も考えられずそれこそ反射に従って機械的に生きているだけ」の状態でも「人間性はある」ということになってしまう。
難しい。でも人間の人間性はそんなことぐらいではくじけないでしょう。だから心配する必要はほとんどないのです。正直いって本書は真に受けて良い程科学的に因果関係が証明されているわけではないけど、思考のきっかけにはなる。
- 作者: ニコラス・G・カー,篠儀直子
- 出版社/メーカー: 青土社
- 発売日: 2010/07/23
- メディア: 単行本
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