- 作者: 橋本治
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2007/03
- メディア: 文庫
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- 作者: 内田樹
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2002/06
- メディア: 新書
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いきなり橋本治語りになってしまったので本題に戻ると、たまたま同時並行して読み進めていた内田樹の「寝ながら学べる構造主義」と橋本治の「いま私たちが考えるべきこと」の内容がほとんど一緒だったのでこりゃいーや、一緒に語っちまえ、と思ったわけです。で、どこが共通しているのか。「いま私たちが考えるべきこと」で考えるべきこととされているのは、「私たちのこと」です。私たちが、今現在どのような状況にあるのか、前近代と近代にわけて考えていこうというのがこの本の趣向です。
対して「寝ながら学べる構造主義」とはそのまんま、構造主義の入門書です。こちらは構造主義とは何なのか、から始まって何故かニーチェについて語ったり、フロイトの抑圧について語ったり、ラカン、レヴィ=ストロース、バルト、フーコー、ソシュール、などなどについての話です。共通点とは、橋本治が語る「近代」とはつまるところ「構造主義」であるというところです。ではそもそものところ「近代」そして「構造主義」とは一体何なのでしょうか。
「寝ながら学べる構造主義」では、構造主義のことを端的にこう表しています。
私たちはつねにある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している。だから、私たちは自分が思っているほど、自由に、あるいは主体的にものを見ているわけではない。むしろ私たちは、ほとんどの場合、自分の属する社会集団が受け容れたものだけを選択的に「見せられ」「感じさせられ」「考えさせられている」。そして自分の属する社会集団が無意識的に排除してしまったものは、そもそも私たちの司会に入ることがなく、それゆえ、私たちの感受性に触れることも、私たちの思索の手段となることもない。
私たちが判断する正義とか、悪などは常に一面的な物の見方であり、他方から見ればそれは簡単に覆されるという多面的な物の見方を自覚することが構造主義的考え方といえるのかもしれません。対して「いま私たちが考えるべきこと」では「前近代」の特徴として、「自分が他人であった時代」ということを言っています。それがどういうことかというと、「絶対に正しい答え」がある時代の中で、「上に立つ人間に判断を任せている」考え方が成り立っているということです。全然わかりませんよね。
たとえば「絶対に正しい答え」が存在する世界では、個人がある社会集団に所属しており、その個人は自分では何も考えずにただ生活を営んでいればよかったのです。何故なら、困ったら所属している組織の上の人間に聞けばよいからです。上の人間がわからなかったら、さらに上の人間に聞き、上の人間がいなくなったら歴史に答えを求めました。何故そういうことが起こりえるかというと「正解は過去にある」という世界観が蔓延していたからです。だからこそ人々は安心して、正解は過去にあるから人に聞けば大丈夫だ、と自分で考えることを放棄できたのです。ここで自分=他人の図式が出来上がります。ここまでが前近代の考え方。
ここからが、近代の考え方です。「正解は過去にあるどころか、どこにもない」と気づいてしまったのが近代です。それはニーチェやらフーコーやらの思想家によって成し遂げられてしまったのだというのが、多分内田樹が言っていることでしょう。今までの社会では、社会がその構成員に対して「私たちは正解を知っているから私たちの指示に従え」ということを言って、みんながそれで納得して丸く収まっていました。近代、つまり構造主義の時代では人はみな「自分で自分のことを考える」ことをしなければならないのです。だから結論はこうなります。
いま私たちの考えるべきことは、「必要に応じて''私たち''を成り立たせられるだけの思考力と、思考の柔軟性をつけること」━━このことに尽きるだろうと、私は思います。━━橋本治「いま私たちが考えるべきこと」254P