私語リ

私語リ

あなたが思うこと。私が思うこと。

失うことの怖さ

私は昔からおばあちゃん子だった。

学校が終われば毎週末泊まりに行っていたし、

親と喧嘩をして家に帰りたくなかったときでもずっとそばに居てくれて

話を聞いてくれて、仲介役にもなってくれた。

多分孫の中でも一番大切にしてくれた。

そう思う。

 

でも最近私は仕事が忙しくてあまり会いに行かなかった。

行かなかったというより行きたくなかった。

 

なぜならおばあちゃんが弱っていたのが分かっていたから。

前まであんなに元気そうだったおばあちゃんが目に見て分かるほど衰弱していたから。

 

そんなおばあちゃんを見たくなかった。

 

 

居なくなってしまうことを想像したくなかった。

 

 

でもそんな希望も露と消え、おばあちゃんの身体を病は蝕んでいった。

 

その話を聞いた時私は妙に落ち着いていたと思う。

冷静だった。

 

覚悟はできていた。

まぁそっか。そうだよな。

 

でももう会いに行けないと思った。

おばあちゃんに余計な心配をかけたくなかった。

自分の身体がボロボロになっても、どれだけ病に苦しんでいても

ずっと私の心配をしてくれていたのだという。

 

苦しかった。

胸が痛くて痛くてしょうがなかった。

 

自分が今までにしてきたことがおばあちゃんを苦しめていると

心配させていると考えたら吐き気が止まらなかった。

 

だから会いに行くのも、話を聞いてもらうのも、

全部全部やめようと思った。

 

それは自己防衛なのかもしれない。

居なくなってしまうという恐怖から逃げようよして、

目を逸らしているだけなのかもしれない。

でもそれでももう「会いに行けない」と思った。

 

 

失ったから私は気づいた。

「失うことの怖さ」を。

そして孤独感を。

 

遅かったなぁ。

 

 

 

セミ

夏が終わる。

窓の外でセミがジリリ...と鳴いて、落ちた。

 

私は夏が嫌いだ。

だって暑いし。

日焼けしちゃうし。

嫌いになる外的要因が揃ってる。

 

あとどの夏もどこか懐かしいような既視感に襲われる。

この夏もどこかで見た。あっ、あの夏も。って。

それが儚くて私を憂鬱な気持ちにさせて苦しくなる。

どこを探しても同じ夏なんてひとつもないのに。

 

さっき窓の外で生涯を終えたであろうセミも同じだ。

全く同じ死に方を私は絶対知っている。

どの夏かなんて覚えていないし、何回見たかなんてわからないけど。

 

そんな夏が私は嫌いだ。

 

早く冬にならないかなぁ。

 

 

 

幸せ者の唄

私は自己肯定感が低い。

自分のことは好きじゃないし、自分が良くできた人間でもないと感じる。

だからか、ちょっとだけ生きるのが辛かった。

 

でも私には傍で笑ってくれる友達が居る。

辛い時に傍で寄り添ってくれる人が居る。

私のことを「愛してくれる」人が居る。

 

それってすごいことだなぁってつくづく思う。

前にも私語リで残したけど、人はいつまでも誰かを「愛し」、

「愛されている」と実感できる、感じることができる代表例だろう。

 

 

でもそんな私にはひとつ生きているうちに叶えたい夢みたいなものがある。

夢ってはっきり言いきれないのは照れくさいからね。

 

 

「誰かを一度でいいから一生愛したい」

 

 

そんな言葉にすると照れくさくてしょうがない、でも私の夢のようなもの。

 

もちろん家族のことは一生愛しているし、ずっと一緒にいたいと思う大切な友達もいる。

そうじゃない。

「誰か」を「恋愛感情」として「愛し」たいのだ。

 

私の好きな曲の一つに「七ノ歌」というRADWIMPSの曲がある。

 

Talking to my favorite songs and I'm about to fly
I wish that I'd be there next to closest by your side
'So am I',Well,Who am I?

 

私は英語が得意じゃないので初めてこの曲を聞いた時はGoogle翻訳に頼りきりだった。

 

「お前の隣で最期を迎えることができたらいいのに」
「私もよ」

 

歌詞の始まりから「死」って意味合いの言葉が出てくる曲に私はまだ出会ったことがなかった。

でもただ意味を知った時に「愛すること」はすべてに繋がっていて、

そして「美しいこと」だと心の底から思ったことだけは憶えている。

 

だって死ぬまで一緒に生きていきたいと思える相手に出会えるってすごく運命的だと思う。

運命なんて言葉、普段はくさくて使わないけどここでなら、ね。

 

そしてこの曲の中の「俺」は素晴らしくポジティブで、一途で。

 

自分が一番好きな人の一番好きな人になることができた「俺」は
数字で言えば最高にラッキーな「7」なんだ。

 

こんな風に思える人に出会うことができた「俺」をつくづく羨ましいと思う。

 

私もいつかそんな風に思える人に出会いたい。

でも生きていればそのうちふと出会う気がするし、そんな日が来るのも

実はそんなに遠くない気もする。

それまで頑張ってみるのも悪くないんじゃないかって。

 

私の自己肯定感をそんな風に上げてくれたのはひとりの「幸せ者の唄」だった。

 

 

 

黄昏

私は昔から音楽を聴くことが好きだ。

「聞く」を「聴く」と表現してしまうくらいには。

 

その中でもインディーズバンドが狂うくらいに好きだ。

 

まだ有名じゃない。

SNSにもまだ出回っていないようなそんなインディーズバンドの

自分の中でドンピシャに好きな歌詞を見つけたときは運命だと感じる。

 

そんなまだ名前の知られていないバンドを誰も日常の中で気に留めないような

でも日常の中にある場所で聞くのが好きだ。

いわゆる「黄昏」ってやつ。

そんな時間がすごく好きだった。

 

この前ふと地元のライブハウスの前を通りかかった時のこと。

すごく見憶えのあるロゴの入ったタオルを持った人たちで溢れかえっていた。

 

私が初めて狂うくらいに好きになったバンドだった。

初めてインディーズのライブに行ったのも彼らだった。

手が届くくらいの距離にいた、そんな彼らだった。

 

当日券がかろうじて数枚残っていたので迷わず買った。

 

ライブが始まるまでの時間周りを見渡していた。

 

今回のツアーのグッズだけを持った多分新規かなって人。

私が好きになった頃のツアーグッズを持った古参勢。

彼氏彼女と参戦している人。

ひとりで音楽を楽しみに来てる人。

バンドのメンバーに会いに来た人。

 

様々な人が居た。

溢れかえるほどにたくさんの人が居た。

 

ライブが始まってみんなが一斉に歓声を上げた。

 

その瞬間、少し泣いてしまった。

こんなにたくさんの人の心を動かしているということが嬉しかった。

でもその代わりに手の届くところにいた彼らがもう届かないところに行ってしまったことが悲しかったのかもしれない。

 

その日はただ泣いていた。

 

ライブが終わって外に出た。

そこには彼らを出待ちしようと待ち構えるたくさんの人。

私はその人たちを横目に見ながら通り過ぎた。

 

いっぱいいっぱいだった。

あの頃から何も変わっていない歌い方もノリ方も。

MCはぎこちなかったあの頃と比べて滞りなく話せるようになっていたのが不思議だった。

 

帰り道、彼らの歌を聴きながら帰った。

 

「僕の声を聞いてくれ」

そんな歌詞に込められた彼の「声」はたくさんの人に届いていた。

あの頃の彼らでは想像もつかなかった未来だろうな、そんなことを思いながら

「やっぱり私はこのバンドの出会えてよかった」と実感した。

これこそ本物の黄昏ってやつ。

 

そんな彼らは今全国をまわるツアー中だ。

私も行ける限り参戦しようと思う。

彼らが本当に手の届かなくなってしまうその日まで。

 

「グッドバイ」/Shinger’s High

 

 

 

理由

ある日突然、死にたくなってしまった。

ほんとに、突然だった。

 

私はずっと死に対する恐怖心があった。

死んだら私が生きていた証なんてすべて消え去ってしまうし

「私」という存在はきっと「概念」になってしまうって。

 

それが私にとってすごく恐怖だった。

 

でも今の私は恐怖よりも不安よりも

「この世界にいたくない」って思ってしまった。

 

でも「私」がこの世界に生きている理由なんて誰にも分らないし

仕事みたいに生きていく上で課せられた使命もない。

 

ただ生きていればそれでいいのだ。

 

でも今の私にはそれがすごく難しい。

生きている意味を見つけたい。

 

 

 

好きなもの

今の私はひたすら文字を打ち込みたい気分だ。

なんでもいい。

ただ打ち込みたいだけ。

 

私はこのブログをいつもパソコンで打ち込んでいる。

キーボードを使うのは苦手だが、最近は慣れてきた。

 

そんなこんなで何を話そうかずっと考えている。

私の過去の失恋話なんて聞いても面白くはないし、

哲学みたいないつものポエムも今日はなんだか書く気になれない。

うーーーーん。

 

でもこのブログは「私語リ」だ。

私のことを好きに話していい場所だ。

よし。私の最近の好きなものの話を書こうっと。

 

私はずっと音楽が好きだ。

中学生のころに初めてipodを買ってもらってから狂ったように音楽を聴いていた。

 

最初はボカロ、だんだん邦ロにはまるという典型的な人間だった。

今はインディーズのバンドを発掘するのが好きでよくライブハウスに行く。

 

今ふと思ってipodが売っているのか調べてみた。

 

ほぼ売ってなかった。驚愕。

確かに使っている人も少なかったしあんまり需要はないのかなとは思っていたが...

ウォークマンに完敗だった。

そりゃそっか。画面もないしね...。

 

最近思うけど

携帯で聞く音楽もいいけど、音楽を聴くのに特化したウォークマンで音楽を聴くのもいいなって思った。

実際ウォークマンはいまだに使っている人がたくさんいるし、

携帯だと他にも余計な機能が使えてしまうが、その心配がない。

 

いいなぁ。

 

って思ってamazonで即検索。

 

意外に高いんだなぁ。

そしてイヤホンプラグだからAirPods使えないのかぁ。

 

あれ...意外に今の私には不便...?

 

ってなったので諦めました。

時には諦めも肝心だよねってことで。

 

でもなんか諦めきれてない自分もいます。

なのでこれからもちょこちょこamazonを覗こうと思います。

 

安くなっててイヤホンプラグも全部ついてて新品で...

なかなか状態がいいのないかなぁ。

あ。ウォークマンに限らずね。

 

そんなことを思った今日この頃でしたとさ。

 

あと仕事2時間。長いなぁ...。

 

 

 

愛し

私は多分、いや絶対に涙脆い。

「悲しい」「嬉しい」「寂しい」

全ての感情が涙に直結してしまう人体欠陥構造だ。

 

以前は全くそんなことなかった。

むしろ泣かない方だった。

何か嫌なことがあったりすれば自分で解決しようとしていたし、

立ち向かう勇気すらあった。

 

でも今は真逆。

自分で解決しようとすれば先に恐怖心が勝つ。

立ち向かう勇気なんてどこかに投げ捨ててきてしまった。

 

よく私が「涙脆いんだ」って伝えるとみんなが決まって

 

「感受性が豊かなんだね」

 

って言った。

 

この私の涙は感受性なんかじゃないと思うけどその時は素直に受け取った。

 

後から一人で考えてみた。

 

私の中で感受性が豊かな人は「愛情をもって物事を捉えられる人」だと思っていた。

愛情をもって花を育てていれば枯れたときに悲しくなって涙が出る。

愛情をこめて大事に使っていたものが壊れてしまえば喪失感に襲われ涙が出る。

ほらね。こういうこと。

 

だが私が泣くときには不可解な点が多くある。

まず起きたとき。

ふと目を覚ますと涙が出ているときがある。

そこに愛はない。

次に友達と会ったとき。

すごく久しぶりに会ったわけでもない毎週会っているような子。

そこに愛は...ないわけじゃないけどすごくあるわけでもない。

 

じゃあなんで涙が出るんだろう。

そんなことを思っていた時に着けていたAirPodsからある曲が流れてきた。

 

RADWIMPS 「愛し」”

 

これは「あいし」と読むのではない。「かなし」と読むのだ。

 

 

ふと、こういうことなのかなって思った。

「愛す」という感情はすべての感情に繋がっているのかもしれない。

「悲しい」という感情は「愛していた」ということ。

「寂しい」という感情は「愛しているのに」ということ。

「嬉しい」という感情は「愛している」ということ。

全ての辻褄が合ったように思えた。

 

そういうことか。

私は知らず知らずのうちに物事を「愛し」、そして「愛されていた」のだと思う。

それはつまり私は人よりも感性というものが「敏感」でそして「繊細」だということ。

みんなが言っていたことはそういうことだったんだね。

 

これからは私は感受性が豊かだということを大事な個性だと受け止めることにした。

知らず知らずのうちに「愛して」たり「愛されてる」。

人間って忙しいね。