鹿鳴館跡 日本勧業銀行跡
○鹿鳴館跡 千代田区内幸町1-1ー7 日比谷U-1ビル
※「内幸町一丁目街区開発プロジェクト(TOKYO CROSS PARK構想)」により、令和4(2022)年9月から解体。
帝国ホテルと日比谷U-1ビルの堺の塀に「鹿鳴館跡」プレートがあります。
鹿鳴館は、ジョサイア・コンドルの設計です。1940(昭和15)年に、取り壊されました。
(プレート説明)
「鹿鳴館跡
ここはもと薩摩の装束屋敷の跡であってその黒門は戦前まで国宝であった
その中に明治十六年鹿鳴館が建てられいわゆる鹿鳴館時代の発祥地となった
千代田区」
「東京名所 鹿鳴館」(井上探景(井上安治)明治20年)
ベンチに座っている人が印象的です。
「東京名所帖 鹿鳴館」(井上安治(井上探景)明治20年)
「東京景色写真版 鹿鳴館」(江木商店 明治26年)
「明治大正建築写真聚覧 鹿鳴館」(建築学会編 昭和11年)
「大東京寫眞帖」(昭和5(1930)年)
東京市公會堂からみた日比谷附近の展望です。昭和15(1940)年に取り壊された鹿鳴館と、昭和43(1968)年に取り壊された帝国ホテル旧本館(ライト館)が並んで写っています。
○みずほ銀行内幸町本部ビル時計塔 千代田区内幸町1-1-1
※「内幸町一丁目街区開発プロジェクト(TOKYO CROSS PARK構想)」により、令和4(2022)年9月から解体。
ハートが3つ連なった時計塔です。第一勧業銀行時代のハートのロゴですね。足下は巨岩がゴロゴロしています。何かの象徴なのか由縁はわかりません。
<明治の頃の日本勧業銀行>
出典:「東京風景」小川一真出版部 明44.4(1911)
<明治大正建築写真聚覧 日本勧業銀行>(建築学会編 昭和11年)
※「内幸町一丁目街区開発プロジェクト(TOKYO CROSS PARK構想)」により、令和4(2022)年9月から解体。
帝国ホテルと日比谷U-1ビルの堺の塀に「鹿鳴館跡」プレートがあります。
鹿鳴館は、ジョサイア・コンドルの設計です。1940(昭和15)年に、取り壊されました。
(プレート説明)
「鹿鳴館跡
ここはもと薩摩の装束屋敷の跡であってその黒門は戦前まで国宝であった
その中に明治十六年鹿鳴館が建てられいわゆる鹿鳴館時代の発祥地となった
千代田区」
「東京名所 鹿鳴館」(井上探景(井上安治)明治20年)
ベンチに座っている人が印象的です。
「東京名所帖 鹿鳴館」(井上安治(井上探景)明治20年)
「東京景色写真版 鹿鳴館」(江木商店 明治26年)
「明治大正建築写真聚覧 鹿鳴館」(建築学会編 昭和11年)
「大東京寫眞帖」(昭和5(1930)年)
東京市公會堂からみた日比谷附近の展望です。昭和15(1940)年に取り壊された鹿鳴館と、昭和43(1968)年に取り壊された帝国ホテル旧本館(ライト館)が並んで写っています。
○みずほ銀行内幸町本部ビル時計塔 千代田区内幸町1-1-1
※「内幸町一丁目街区開発プロジェクト(TOKYO CROSS PARK構想)」により、令和4(2022)年9月から解体。
ハートが3つ連なった時計塔です。第一勧業銀行時代のハートのロゴですね。足下は巨岩がゴロゴロしています。何かの象徴なのか由縁はわかりません。
<明治の頃の日本勧業銀行>
出典:「東京風景」小川一真出版部 明44.4(1911)
<明治大正建築写真聚覧 日本勧業銀行>(建築学会編 昭和11年)
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