歴史探訪と温泉 雷電の墓(報土寺)

雷電の墓(報土寺)

○咲柳山 報土寺 港区赤坂7-6-20

 報土寺は、雲州松江藩松平候の江戸菩提寺であり、雷電がここに葬られています。遺髪が生地大石村と松江の西光寺に分葬されています。妻・八重、娘の墓は佐倉市妙覚寺にあります。

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<三分坂(さんぷんざか)>

(説明板)
「さんぷんざか
 急坂のため通る車賃を銀3分(さんぷん、百円余)増したためという。 坂下の渡し賃一分に対していったとの説もある。さんぶでは四分の三両になるので誤り。」

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<江戸切絵図>

 江戸切絵図には、三分坂と報土寺が描かれています。道筋は江戸時代と変わらず残っています。

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<港区の文化財 報土寺 築地塀(練塀)>

(標柱)
「報土寺は、慶長十九年(一六一四)に、赤坂一ツ木(現赤坂二丁目)に創建され、幕府の用地取り上げにより安永九年(一七八〇)に三分坂下の現在地に移転してきました。この築地塀はこのころに造られたものといわれています。
 築地塀とは、土を突固め、上に屋根をかけた土塀で、宮殿・社寺・邸宅に用いられる塀です。塀のなかに瓦に横に並べて入れた土塀を特に「練塀」ともいいます。
 報土寺の練塀は、坂の多い港区の中でも特に急坂として知られる「三分坂」に沿っ造られており、塀が弓なりになっている珍しいものです。練塀は区内では残されているものが少なく、江戸の寺院の姿を今に伝える貴重な建造物といえます。
  平成十年九月一日 東京都港区文化財総合目録登録   東京都港区教育委員会」

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<雷電為右衛門の墓>

 雷電為右衛門
  明和4(1767)年1月〜文政8年2月11日(1825年4月9日)

(説明板)
「雷電為右衛門の墓
 明和四年(一七六七)信州(長野県)小諸在大石村に生まれた。生まれながらにして、壮健、強力であっ たが、顔容はおだやか、性質も義理がたかったといわれる。
 天明四年(一七八四)年寄浦風林右衛門に弟子入りし、寛政二年(一七九〇)から引退までの二十二年間のうち大関(当時の最高位)の地位を保つこと、三十三場所、二百五十勝十敗の大業績をのこした。
 雲州(島根県)松江の松平侯の抱え力士であったが引退後も相撲頭に任ぜられている。文化十一年(一八 一四)当寺に鐘を寄附したが異形であったのと、寺院鐘楼新造の禁令にふれて取りこわされた。
 文政八年(一八二五)江戸で没した。
   昭和五十年十二月   東京都港区教育委員会」

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<手の形の墓石>

 縁起を担いで墓石を砕いて持ち去る人が多く、墓が小さくなってしまったそうで、墓石は元々は手の形をしていたそうです(山陰中央新報)。
 よく見ると、左手のひらをこちらに向けて、指先は残っていませんが、親指の付け根が残っています。

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<手玉石>

 墓の手前に手玉石があります。「三拾〆目」と切付られています。
 雷電が松江藩主、松平不昧公(治郷)から授かったという手玉石で、手首を鍛えるのに使ったようですが、112.5kgもあるので、手玉にしては半端ない重さです。

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<雷電手形石>

 急行「らいでん」(裏は急行「いぶり」)の札が案内板代わりに3つありました(手形石、墓地入口、雷電墓)
 札の下に雷電の手形石があります。
 本物の手形は焼けてしまい、その写しを住職が石屋に彫ってもらったものです。
 長さは二十四センチあります。

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<梵鐘>

(標柱)
「港区の文化財 報土寺 梵鐘」
 報土寺の梵鐘 は、文化十一年(一八一四)三月に雷電為右衛門が寄進したものが有名です。
 竜頭の部分は雷電と小野川が四つに組んだ姿、側面に雷電の姿を鋳出し、その臍に撞木があたるようにしたり、鐘の下縁は十六俵の土俵をめぐらすなど極めて異形であったため、寺社奉行によって直ちに没収されました。
 現在の鐘は、明治四一年(一九〇八)に鋳造されたもので、雷電の鐘に刻まれていた銘と同文のものを刻んでいます。
 この鐘は、太平洋戦争たけなわの昭和十八年(一九四三)五月に国に供出され、その後行方不明になっていましたが、あきるの市五日市の善光寺にあることがわかり、平成三年に報土寺に戻されました。
  平成四年三月三〇日 東京都港区文化財総合目録登録」

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<奉納された梵鐘>
 
 「墓碑史蹟研究」(磯ケ谷紫江 後苑荘 1935)に掲載されているのを見つけました。報土寺保存の木版に保存されていたものとのこと。幕府以外が天下無双の言葉を使用したのと、銘文に問題ありと寺社奉行を怒らせ、梵鐘の破却と、雷電と報土寺住職、法類の小石川早念寺など、御内府3年追放に処せられています。

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「講談社の絵本 雷電為右衛門」(尾崎士郎 文 米内穂豊 絵 昭和26年)

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 重い石臼に結わえておいた為五郎は石臼を引きずって遊ぶ怪力の赤子でした。
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 足の不自由な父親をおぶって江戸の町を見物している雷電を松平出羽守がご覧になり感心し、松江藩のお抱え力士としました。
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 小野川との一戦でうっちゃって雷電が勝ちます。
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<その他>

 江戸時代の儒者・井部香山、明治時代の日本画家・野村文挙、大正時代のジャーナリスト、三宅雪嶺のお墓もあります。

(井部香山墓説明板)
「東京都指定旧跡 井部香山墓
  所在地 港区赤坂七の六の二〇報土寺墓地内
  標識 大正一一年六月
  指定 昭和三〇年三月二八日
 井部香山(一七九四〜一八五三)は江戸時代後期の儒学者(朱子学)です。名は鳴と言います。越後旭村に井部孝節の第三子として生まれます。香山の号は故郷の妙高山に因んだものです。ニ七歳の時に江戸に出て葛西因是に学び養子にもなりますが、その後独立し井部姓にもどります。築地の軽子橋に塾を開き、岸和田藩主岡部氏、飯山藩主本多氏など、香山に学ぶものが多くありました。天保一四年(一八四三)には老中水野忠邦に招かれ浜松藩の客儒となり、門人は藩士三千人に及んだといわれます。著書に「大学講義二巻」などがあります。
  平成ニ四年三月 建設  東京都教育委員会」

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 野村文挙の碑
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