里見公園① 旧蹟など
○里見公園 国府台3-9 HP
里見公園は、江戸川に面した台地上にある国府台城の城跡で、昭和33(1958)年に現在の公園となりました。桜の名所で、北原白秋の旧宅「紫烟草舎」や羅漢の井、里見諸将霊墓、夜泣き石、明戸古墳石棺等があります。
「江戸名所図会 国府台總寧寺 其二古戦場」
「江戸名所図会」の「国府台總寧寺」と「其二古戦場」を合成し、現在の里見公園部分の抜粋です。

<公園銘板など>
公園銘板「里見公園」

里見公園案内図

<房総の魅力500選>
(プレート文)
「房総の魅力500選 千葉県
「房総の魅力500選」は、昭和58年に千葉県の人口が500万人に達したのを記念し、魅力あるふるさとづくりの一環として昭和63年1月に選定されたものです。
市川の里見公園
この公園は、戦国時代に里見氏などの房総勢と小田原の北条氏が二度も戦った古戦場跡で、今でも土塁や空堀の跡が残されています。
昭和33年に現在の公園となり、桜の名所として市民に親しまれています。園内には明戸古墳石棺、羅漢の井、里見諸将群霊墓などがあり、古い歴史を物語っています。また、北原白秋の旧宅「紫烟草舎」が昭和44年に移築復元されています。」

<噴水広場/バラ園>
平成15(2003)年にバラ園が整備され、バラが植栽されています。
公園パンフレットによると計112種、約700本のバラが植えられています。

<展望案内板>
富士山の頂上に太陽が沈む「ダイヤモンドフジ」を見ることができる場所です。展望案内板はありますが、この場所の名称はありません。





【旧蹟】
<国府台城跡>
国府台城は文明11(1479)年に太田道灌が築いたものと伝えられています。天正18(1590)年、徳川家康が関東を治めると、国府台は江戸俯瞰の地であるところから廃城となりました。


(碑表)
「国府台城跡」

(碑裏)
「設置 昭和53年3月 市川市」

(説明板)
「国府台城跡
「鎌倉大草紙」によれば、文明一〇年(一四七八)に扇谷上杉氏の家宰太田道灌が「下総国国府台」に陣取り、仮の陣城をかまえたとあり、これが国府台城のはじまりであるとする説がある。道灌は武蔵にいた千葉自胤を助け、敵対する千葉孝胤と戦うためにここに陣取り、境根原(柏市)に出陣し、孝胤を破っている。
これより以前の康正二年(一四五六)、千葉自嵐は兄の実胤とともに「市川城」に立てこもり足利成氏方に抵抗していたが、簗田出羽守らにより城を落とされ、武蔵石浜(台東区)に逃れていた。この「市川城」と太田道灌の仮の陣城との関係が注目されるが、同じものなのかどうかは不明である。
「国府台は標高二〇〜二五メートルの下総台地の西のはしで、江戸川に平行して南へ張り出した大きな舌状の丘陵であり、現在の里見公園のなかに土塁状の城郭遺構が現存している。そして公園の北に向かっても城郭の遺構らしきものが確認される。
公園内の遺構は破壊が激しく、築城の時期を想定することは難しいが、太田道灌の時代よりは後の時代に属する、とする推測もある。
この地は、その後天文と永禄の二度にわたり、小田原の戦国大名北条氏と安房の里見氏らにより行なわれた合戦、いわゆる国府台合戦の舞台となっている。
天文七年(一五ニ八)の合戦は、北条氏綱と小弓公方足利義明・里見義堯らが戦ったもので、小号(千葉市)に拠を定めた義明と北条家が担ぐ本家筋の古河公方家との戦いである。これに対して永禄七年(一五六四)の戦いは、着々と東国に覇権を確立せんとしていた北条氏康と、これに抵抗する里見義堯・義弘らの戦いであった(前年の永禄六年にも合戦があったとする説もある)。
永禄の合戦の結果、北条軍は圧勝し、里見方は盟友である正木氏の一族など多くの戦死者を出し安房に敗走する。現在の国府台城跡は、この合戦のなかで激突する両軍の争奪の場となり、戦後、北条氏の手により規模が拡大強化され、初期のものから戦国期の城郭に進化した、とする説もある。
現在の公園内には、江戸時代になって作られた里見軍の慰霊のための供養塔がたてられている。
この地はその後、里見八景園という遊園地の敷地となり、その後は陸軍軍用地となり、終戦を迎えている。
平成十八年三月 市川市教育委員会」

「成田名所図会 小弓義明戦死の図」(国文学研究資料館蔵)
説明板に掲示されている「成田名所図会 小弓義明戦死の図」です。
足利・里見連合軍が陣をはったのは国府台城ですが、激戦の場となったのは相模台です。 足利義明の弟の基頼、息子の義純らが戦死し、足利義明も戦死します。


<坂を下る>
里見公園入口から江戸川に向かって坂を下り、まずは140m先の「羅漢の井」を目指します。
距離標「国府台城跡(里見公園) 羅漢の井140m 総寧寺120m」

<名所江戸百景>
公園正門入口にある「名所江戸百景 鴻の台、と弥川風景」です。
(説明板)
「名所江戸百景の内 「鴻の台、と弥川風景」
浮世絵師安藤広重が安政三年(一八五六)刊行した名所絵で、当時の鴻の台(国府台)と、と弥川「利根川(江戸川のこと)」の風景を知る貴重な資料の一つです。」

<利根川東岸一覧>
公園の坂側の壁に掲示されている「利根川東岸一覧」です。
(説明板)
「利根川東岸一覧
明治元年(一八六八)浮世絵師玉蘭斎貞秀が描いた鳥瞰図的画法による錦絵です。
江戸川は、そのころ利根川または新利根川と呼ばれていました。」


<羅漢の井>
坂道を下って、江戸川に突き当る手前に「羅漢の井」はあります。里見氏一族が国府台城に布陣した際の飲用水として使用したと伝えられます。



掲示「この湧き水は、飲料には適しません。市川市」とあります。

(説明板)
「羅漢の井 この絵は天保5年(1834)に完成した江戸名所図会に描かれたものです。絵は、浮世絵師長谷川雪旦、雪堤 父子が描いた実に詳細を極めたもので、当時の情景を知る上で、実に貴重な資料となっています。市川市域に関するものは、この羅漢の井をはじめ、15図に及んでいます。」


公園内からも、急階段を下りると「羅漢の井」に通じています。


「江戸名所図会 古戦場」
江戸名所図会より「らかん井」部分の抜粋です。


「江戸名所図会 羅漢の井」
法衣を着た僧が見物人を前に解説しているようです。

「利根川東岸一覧 抜粋」
井桝が下とその上と、2つ見えます。

<鐘ヶ渕>
永禄の合戦に里見軍が陣鐘を掛けたという「鐘懸けの松」があり、松の枝が折れて鐘が川に沈んだため、鐘が落ちた場所は「鐘ヶ渕」と呼ばれました。江戸名所図会によると、この鐘は、里見義弘が船橋の慈雲寺から奪って、国府台の陣鐘としたものでした。
「市川市勢要覧」(昭和13年)には、「鐘掛ノ松」等の遺跡存在スと記されているので、昭和13年当時はまだ松が存在していたようです。



「江戸名所図会 古戦場 鐘ヶ渕抜粋」
江戸名所図会から「鐘ヶ渕」部分の抜粋です。


<里見群亡の碑>
文政12(1829)年に建てられた「里見諸士群亡塚」(左)、「里見諸将霊墓」(中央)、年代不詳「里見弘次公廟」(右)と三つ並んだ碑です。



(説明板)
「里見広次並びに里見軍将士亡霊の碑
永禄七年(一五六四)一月四日、里見義弘は八千の軍勢をもって国府台に陣を構え、北条氏康の率いる二万の兵を迎え撃ちました。しかし、八日払暁北条軍は寝込みを襲い里見の陣地目がけて一斉に攻撃をかけたのです。鬨の声に驚いた里見軍は「あるいは鎧、太刀よ馬に鞍おけと呼びまた太刀一振り鎧一領に二人三人取付て我よ人よとせり合ひ、兜許りで出づるもあり鎧着て空手で出づるもあり」という狼狽ぶりを呈しました。
この合戦で敗北し里見軍は里見広次、正木内膳らをはじめとして戦死する者五千名と伝えております。その後里見軍戦死者の亡霊を弔う者もなくやっと文政十二年(一八二九)に至って里見諸士群亡塚(左側)里見諸将霊墓(中央)が建てられ、また年代は不詳ですが石井辰五郎という人によって里見広次公廟(右側)が建てられました。
ここに二六五年の歳月を経てようやくこの地で討死した里見軍将士の亡霊が慰められ、今日に残されたものです。」

<夜泣き石>
永禄7(1564)年の合戦で戦死した里見広次の姫が、父の霊を弔うため、国府台を訪ねてきました。姫はそばにあった石にもたれで父の名を呼びながら泣き続け、とうとう息が絶えてしまいました。 以来、この石から夜になると悲しい声が聞こえてきたという伝説を秘めた石です。
しかし、国府台合戦の記録では、里見弘次は合戦のとき15歳の初陣で、戦死したことになっています。
「夜泣き石」の台座は、明戸古墳の石棺の蓋が使用されています。


(説明板)
「「夜泣き石」伝説
伝えによると、国府台の合戦で北条軍に敗れた里見軍は多くの戦死者を出しました。このとき、里見軍の武将里見弘次も戦死しましたが、弘次の末娘の姫は、父の霊を弔うため、はるばる安房の国から国府台の戦場にたどり着きました。
未だ十二、三歳だった姫は、戦場跡の凄惨な情景を目にして、恐怖と悲しみに打ちひしがれ、傍らにあったこの石にもたれて泣き続け、ついに息絶えてしまいました。
ところが、それから毎夜のこと、この石から悲しい泣き声が聞こえるようになりました。そこで里人たちはこの石を「夜泣き石」と呼ぶようになりましたが、その後、一人の武士が通りかかり、この哀れな姫の供養をしてからは、泣き声が聞こえなくなったといいます。
しかし、国府台合戦の記録は、里見弘次は永禄七年(一五六四)の合戦のとき十五歳の初陣で、戦死したことになっています。この話は里見公園内にある弘次の慰霊碑が、もと明戸古墳の石棺近くに夜泣き石と共にあったところから、弘次にまつわる伝説として語り伝えられたものと思われます。
平成四年三月 市川市教育委員会」

「江戸名所図会 古戦場 夜なき石抜粋」
江戸名所図会から「夜なき石」部分の抜粋です。碑が三基見えますが、夜なき石はどこに描かれているのかわかりません。


<明戸古墳石棺> 市川市文化財
市川市の文化財に指定されている2つの石棺があります。文明11(1479)年に太田道灌がここに城を築いたときに盛土が取り払われて露出したものと伝えられています。 古墳時代後期(6世紀後半〜7世紀初頭)の豪族の墓と推定されています。



(標柱)
正面「市指定重要有形文化財 明戸古墳石棺」

左 「設置 昭和五十三年三月 市川市」

(説明板)
「明戸古墳石棺
明戸古墳は、全長四十mの前方後円墳です。周辺からは埴輪が採集され、埴輪から六世紀後葉に造られたことがわかります。二基の石棺は板石を組み合わせた箱式石棺で、後円部墳頂近くに造られ、今でもその位置を保っています。かつての写真から石棺の蓋と思われる板石は、里見公園にある「夜泣き石」の台座になっています。石材は黒雲母片麻岩で、筑波石と呼ばれるものです。石材は筑波山麓から切り出され、霞ケ浦・手賀沼・江戸川の水運を利用して運ばれたものと思われます。
この二基の石棺は、天保七(一八三六)年に発行された『江戸名所図会』に「石櫃二座。同所にあり。寺僧伝え云ふ、古墳二双の中、北によるものを、里見越前守忠弘の息男、同姓長九郎弘次といへる人の墓なりといふ。一ツはその主詳ならず。或は云ふ、里見義弘の舎弟正木内膳の石棺なりと。中古土崩れたりとて、今は石棺の形地上にあらはる。その頃櫃の中より甲冑太刀の類および金銀の鈴・陣太鼓、その余土偶人等を得たりとて、今その一二を存して総寧寺に収蔵せり。按ずるに、上世の人の墓なるべし。里見長九郎及び正木内膳の墓とするは何れも誤りなるべし。」と書かれ、図も描かれています。『江戸名所図会』によって十九世紀にすでに石棺があらわれていたことがわかるばかりか、失われた出土資料を知ることができます。
平成十六年三月 市川市教育委員会」

「江戸名所図会 古戦場 石ひつ抜粋」
江戸時代も柵に囲われて保存されていたようです。 「石ひつ」と記された部分には4つ見えますが、本文には二座とあるので、蓋も描かれているのでしょうか?


○里見八景園遺物
「里見八景園」は、大正13(1924)年に開園し、昭和8(1933)年に閉園、私設「里見公園」となります。「市川市要覧」(昭和10年)の里見公園の項には「里見八景園とも称し」とあり、閉園後も引き続き里見八景園と呼ばれたようです。(※開園年は「全國公園運動場調」(厚生省体力局編 昭13年至15年)によります。)
第二次世界大戦時に、多くの防空壕が掘られ荒廃します。
「東京近郊史蹟案内」(昭和2年)
里見八景園の紹介では、「その工事に當つて古墳を崩し、城塁を切り開いて折角の遺跡を形なしに打壊し、俗悪な遊楽機関を設けたことは、近時頻々として起る史蹟破壊の一例として憤欺に堪へない。」とあります。
<太鼓橋/池>
太鼓橋は「里見八景園」の遺物です。橋の上は煉瓦が敷かれています。

池は「里見八景園」のプール跡です。

<市川市最高標高地点>
里見八景園内にプールを造る際に掘った土をトロッコで引き揚げてできたものだといわれています。
(標柱)
「市川市最高標高地点(標高三○、一M)」



江戸名所図会で一番高い所は、「石ひつ」の西側に描かれている「天守台」と「浅間社」のあった小山でした。「里見八景園」造成の際にも残されたようですが、現在は小山はありません。


(参考)「名妓之碑」
浮島弁財天に、「里見八景園」の創設者のご子息が建てた「名妓之碑」があります(こちらで記載)
里見公園は、江戸川に面した台地上にある国府台城の城跡で、昭和33(1958)年に現在の公園となりました。桜の名所で、北原白秋の旧宅「紫烟草舎」や羅漢の井、里見諸将霊墓、夜泣き石、明戸古墳石棺等があります。
「江戸名所図会 国府台總寧寺 其二古戦場」
「江戸名所図会」の「国府台總寧寺」と「其二古戦場」を合成し、現在の里見公園部分の抜粋です。

<公園銘板など>
公園銘板「里見公園」

里見公園案内図

<房総の魅力500選>
(プレート文)
「房総の魅力500選 千葉県
「房総の魅力500選」は、昭和58年に千葉県の人口が500万人に達したのを記念し、魅力あるふるさとづくりの一環として昭和63年1月に選定されたものです。
市川の里見公園
この公園は、戦国時代に里見氏などの房総勢と小田原の北条氏が二度も戦った古戦場跡で、今でも土塁や空堀の跡が残されています。
昭和33年に現在の公園となり、桜の名所として市民に親しまれています。園内には明戸古墳石棺、羅漢の井、里見諸将群霊墓などがあり、古い歴史を物語っています。また、北原白秋の旧宅「紫烟草舎」が昭和44年に移築復元されています。」

<噴水広場/バラ園>
平成15(2003)年にバラ園が整備され、バラが植栽されています。
公園パンフレットによると計112種、約700本のバラが植えられています。

<展望案内板>
富士山の頂上に太陽が沈む「ダイヤモンドフジ」を見ることができる場所です。展望案内板はありますが、この場所の名称はありません。





【旧蹟】
<国府台城跡>
国府台城は文明11(1479)年に太田道灌が築いたものと伝えられています。天正18(1590)年、徳川家康が関東を治めると、国府台は江戸俯瞰の地であるところから廃城となりました。


(碑表)
「国府台城跡」

(碑裏)
「設置 昭和53年3月 市川市」

(説明板)
「国府台城跡
「鎌倉大草紙」によれば、文明一〇年(一四七八)に扇谷上杉氏の家宰太田道灌が「下総国国府台」に陣取り、仮の陣城をかまえたとあり、これが国府台城のはじまりであるとする説がある。道灌は武蔵にいた千葉自胤を助け、敵対する千葉孝胤と戦うためにここに陣取り、境根原(柏市)に出陣し、孝胤を破っている。
これより以前の康正二年(一四五六)、千葉自嵐は兄の実胤とともに「市川城」に立てこもり足利成氏方に抵抗していたが、簗田出羽守らにより城を落とされ、武蔵石浜(台東区)に逃れていた。この「市川城」と太田道灌の仮の陣城との関係が注目されるが、同じものなのかどうかは不明である。
「国府台は標高二〇〜二五メートルの下総台地の西のはしで、江戸川に平行して南へ張り出した大きな舌状の丘陵であり、現在の里見公園のなかに土塁状の城郭遺構が現存している。そして公園の北に向かっても城郭の遺構らしきものが確認される。
公園内の遺構は破壊が激しく、築城の時期を想定することは難しいが、太田道灌の時代よりは後の時代に属する、とする推測もある。
この地は、その後天文と永禄の二度にわたり、小田原の戦国大名北条氏と安房の里見氏らにより行なわれた合戦、いわゆる国府台合戦の舞台となっている。
天文七年(一五ニ八)の合戦は、北条氏綱と小弓公方足利義明・里見義堯らが戦ったもので、小号(千葉市)に拠を定めた義明と北条家が担ぐ本家筋の古河公方家との戦いである。これに対して永禄七年(一五六四)の戦いは、着々と東国に覇権を確立せんとしていた北条氏康と、これに抵抗する里見義堯・義弘らの戦いであった(前年の永禄六年にも合戦があったとする説もある)。
永禄の合戦の結果、北条軍は圧勝し、里見方は盟友である正木氏の一族など多くの戦死者を出し安房に敗走する。現在の国府台城跡は、この合戦のなかで激突する両軍の争奪の場となり、戦後、北条氏の手により規模が拡大強化され、初期のものから戦国期の城郭に進化した、とする説もある。
現在の公園内には、江戸時代になって作られた里見軍の慰霊のための供養塔がたてられている。
この地はその後、里見八景園という遊園地の敷地となり、その後は陸軍軍用地となり、終戦を迎えている。
平成十八年三月 市川市教育委員会」

「成田名所図会 小弓義明戦死の図」(国文学研究資料館蔵)
説明板に掲示されている「成田名所図会 小弓義明戦死の図」です。
足利・里見連合軍が陣をはったのは国府台城ですが、激戦の場となったのは相模台です。 足利義明の弟の基頼、息子の義純らが戦死し、足利義明も戦死します。


<坂を下る>
里見公園入口から江戸川に向かって坂を下り、まずは140m先の「羅漢の井」を目指します。
距離標「国府台城跡(里見公園) 羅漢の井140m 総寧寺120m」

<名所江戸百景>
公園正門入口にある「名所江戸百景 鴻の台、と弥川風景」です。
(説明板)
「名所江戸百景の内 「鴻の台、と弥川風景」
浮世絵師安藤広重が安政三年(一八五六)刊行した名所絵で、当時の鴻の台(国府台)と、と弥川「利根川(江戸川のこと)」の風景を知る貴重な資料の一つです。」

<利根川東岸一覧>
公園の坂側の壁に掲示されている「利根川東岸一覧」です。
(説明板)
「利根川東岸一覧
明治元年(一八六八)浮世絵師玉蘭斎貞秀が描いた鳥瞰図的画法による錦絵です。
江戸川は、そのころ利根川または新利根川と呼ばれていました。」


<羅漢の井>
坂道を下って、江戸川に突き当る手前に「羅漢の井」はあります。里見氏一族が国府台城に布陣した際の飲用水として使用したと伝えられます。



掲示「この湧き水は、飲料には適しません。市川市」とあります。

(説明板)
「羅漢の井 この絵は天保5年(1834)に完成した江戸名所図会に描かれたものです。絵は、浮世絵師長谷川雪旦、雪堤 父子が描いた実に詳細を極めたもので、当時の情景を知る上で、実に貴重な資料となっています。市川市域に関するものは、この羅漢の井をはじめ、15図に及んでいます。」


公園内からも、急階段を下りると「羅漢の井」に通じています。


「江戸名所図会 古戦場」
江戸名所図会より「らかん井」部分の抜粋です。


「江戸名所図会 羅漢の井」
法衣を着た僧が見物人を前に解説しているようです。

「利根川東岸一覧 抜粋」
井桝が下とその上と、2つ見えます。

<鐘ヶ渕>
永禄の合戦に里見軍が陣鐘を掛けたという「鐘懸けの松」があり、松の枝が折れて鐘が川に沈んだため、鐘が落ちた場所は「鐘ヶ渕」と呼ばれました。江戸名所図会によると、この鐘は、里見義弘が船橋の慈雲寺から奪って、国府台の陣鐘としたものでした。
「市川市勢要覧」(昭和13年)には、「鐘掛ノ松」等の遺跡存在スと記されているので、昭和13年当時はまだ松が存在していたようです。



「江戸名所図会 古戦場 鐘ヶ渕抜粋」
江戸名所図会から「鐘ヶ渕」部分の抜粋です。


<里見群亡の碑>
文政12(1829)年に建てられた「里見諸士群亡塚」(左)、「里見諸将霊墓」(中央)、年代不詳「里見弘次公廟」(右)と三つ並んだ碑です。



(説明板)
「里見広次並びに里見軍将士亡霊の碑
永禄七年(一五六四)一月四日、里見義弘は八千の軍勢をもって国府台に陣を構え、北条氏康の率いる二万の兵を迎え撃ちました。しかし、八日払暁北条軍は寝込みを襲い里見の陣地目がけて一斉に攻撃をかけたのです。鬨の声に驚いた里見軍は「あるいは鎧、太刀よ馬に鞍おけと呼びまた太刀一振り鎧一領に二人三人取付て我よ人よとせり合ひ、兜許りで出づるもあり鎧着て空手で出づるもあり」という狼狽ぶりを呈しました。
この合戦で敗北し里見軍は里見広次、正木内膳らをはじめとして戦死する者五千名と伝えております。その後里見軍戦死者の亡霊を弔う者もなくやっと文政十二年(一八二九)に至って里見諸士群亡塚(左側)里見諸将霊墓(中央)が建てられ、また年代は不詳ですが石井辰五郎という人によって里見広次公廟(右側)が建てられました。
ここに二六五年の歳月を経てようやくこの地で討死した里見軍将士の亡霊が慰められ、今日に残されたものです。」

<夜泣き石>
永禄7(1564)年の合戦で戦死した里見広次の姫が、父の霊を弔うため、国府台を訪ねてきました。姫はそばにあった石にもたれで父の名を呼びながら泣き続け、とうとう息が絶えてしまいました。 以来、この石から夜になると悲しい声が聞こえてきたという伝説を秘めた石です。
しかし、国府台合戦の記録では、里見弘次は合戦のとき15歳の初陣で、戦死したことになっています。
「夜泣き石」の台座は、明戸古墳の石棺の蓋が使用されています。


(説明板)
「「夜泣き石」伝説
伝えによると、国府台の合戦で北条軍に敗れた里見軍は多くの戦死者を出しました。このとき、里見軍の武将里見弘次も戦死しましたが、弘次の末娘の姫は、父の霊を弔うため、はるばる安房の国から国府台の戦場にたどり着きました。
未だ十二、三歳だった姫は、戦場跡の凄惨な情景を目にして、恐怖と悲しみに打ちひしがれ、傍らにあったこの石にもたれて泣き続け、ついに息絶えてしまいました。
ところが、それから毎夜のこと、この石から悲しい泣き声が聞こえるようになりました。そこで里人たちはこの石を「夜泣き石」と呼ぶようになりましたが、その後、一人の武士が通りかかり、この哀れな姫の供養をしてからは、泣き声が聞こえなくなったといいます。
しかし、国府台合戦の記録は、里見弘次は永禄七年(一五六四)の合戦のとき十五歳の初陣で、戦死したことになっています。この話は里見公園内にある弘次の慰霊碑が、もと明戸古墳の石棺近くに夜泣き石と共にあったところから、弘次にまつわる伝説として語り伝えられたものと思われます。
平成四年三月 市川市教育委員会」

「江戸名所図会 古戦場 夜なき石抜粋」
江戸名所図会から「夜なき石」部分の抜粋です。碑が三基見えますが、夜なき石はどこに描かれているのかわかりません。


<明戸古墳石棺> 市川市文化財
市川市の文化財に指定されている2つの石棺があります。文明11(1479)年に太田道灌がここに城を築いたときに盛土が取り払われて露出したものと伝えられています。 古墳時代後期(6世紀後半〜7世紀初頭)の豪族の墓と推定されています。



(標柱)
正面「市指定重要有形文化財 明戸古墳石棺」

左 「設置 昭和五十三年三月 市川市」

(説明板)
「明戸古墳石棺
明戸古墳は、全長四十mの前方後円墳です。周辺からは埴輪が採集され、埴輪から六世紀後葉に造られたことがわかります。二基の石棺は板石を組み合わせた箱式石棺で、後円部墳頂近くに造られ、今でもその位置を保っています。かつての写真から石棺の蓋と思われる板石は、里見公園にある「夜泣き石」の台座になっています。石材は黒雲母片麻岩で、筑波石と呼ばれるものです。石材は筑波山麓から切り出され、霞ケ浦・手賀沼・江戸川の水運を利用して運ばれたものと思われます。
この二基の石棺は、天保七(一八三六)年に発行された『江戸名所図会』に「石櫃二座。同所にあり。寺僧伝え云ふ、古墳二双の中、北によるものを、里見越前守忠弘の息男、同姓長九郎弘次といへる人の墓なりといふ。一ツはその主詳ならず。或は云ふ、里見義弘の舎弟正木内膳の石棺なりと。中古土崩れたりとて、今は石棺の形地上にあらはる。その頃櫃の中より甲冑太刀の類および金銀の鈴・陣太鼓、その余土偶人等を得たりとて、今その一二を存して総寧寺に収蔵せり。按ずるに、上世の人の墓なるべし。里見長九郎及び正木内膳の墓とするは何れも誤りなるべし。」と書かれ、図も描かれています。『江戸名所図会』によって十九世紀にすでに石棺があらわれていたことがわかるばかりか、失われた出土資料を知ることができます。
平成十六年三月 市川市教育委員会」

「江戸名所図会 古戦場 石ひつ抜粋」
江戸時代も柵に囲われて保存されていたようです。 「石ひつ」と記された部分には4つ見えますが、本文には二座とあるので、蓋も描かれているのでしょうか?


○里見八景園遺物
「里見八景園」は、大正13(1924)年に開園し、昭和8(1933)年に閉園、私設「里見公園」となります。「市川市要覧」(昭和10年)の里見公園の項には「里見八景園とも称し」とあり、閉園後も引き続き里見八景園と呼ばれたようです。(※開園年は「全國公園運動場調」(厚生省体力局編 昭13年至15年)によります。)
第二次世界大戦時に、多くの防空壕が掘られ荒廃します。
「東京近郊史蹟案内」(昭和2年)
里見八景園の紹介では、「その工事に當つて古墳を崩し、城塁を切り開いて折角の遺跡を形なしに打壊し、俗悪な遊楽機関を設けたことは、近時頻々として起る史蹟破壊の一例として憤欺に堪へない。」とあります。
<太鼓橋/池>
太鼓橋は「里見八景園」の遺物です。橋の上は煉瓦が敷かれています。

池は「里見八景園」のプール跡です。

<市川市最高標高地点>
里見八景園内にプールを造る際に掘った土をトロッコで引き揚げてできたものだといわれています。
(標柱)
「市川市最高標高地点(標高三○、一M)」



江戸名所図会で一番高い所は、「石ひつ」の西側に描かれている「天守台」と「浅間社」のあった小山でした。「里見八景園」造成の際にも残されたようですが、現在は小山はありません。


(参考)「名妓之碑」
浮島弁財天に、「里見八景園」の創設者のご子息が建てた「名妓之碑」があります(こちらで記載)
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總寧寺(国府台)
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里見公園② 文学碑
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里見公園① 旧蹟など
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国府台(江戸名所図会と浮世絵)
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テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
国府台(江戸名所図会と浮世絵)
○江戸名所図会と浮世絵に見る国府台
「江戸名所図会 国府台断岸之図」
国府台の断崖がとね川(江戸川)に迫り出し、断崖の上には見物人が5人描かれています。一人は崖下を覗きこんでいます。

「江戸名所百景 鴻の台と弥川風景」(広重)
江戸名所図会と同じ構図で広重が描いています。帆を張った多くの船は、これから行徳〜新川〜小名木川〜行徳河岸へ向かっているのでしょう。
崖は一面緑色に描かれていますが、絵本江戸土産には「赤壁」、利根川東岸一覧には「此所赤はげ」と記されています。小林清親は赤壁として描いています。

「絵本江戸土産 国府の台眺望」(広重)
挿絵には「利根川に臨む赤壁にて四方万里を一目に見する 里見家の城跡あり 北条勢と戦ひし兵どもが夢の跡 漫にむかし思はるる古跡の瞻望いと興あり」とあります。

「冨士三十六景 鴻之台とね川」(広重)

崖上では法衣を着た人物が客人を案内をしています。当時はここも総寧寺の境内でした。

「武蔵百景之内 下総鴻ノ台市川の遠景」(明治17年 小林清親)
明治時代の国府台の赤壁の崖下から市川の遠景が描かれています。

江戸川には渡し船が2艘見えます。遠景に富士山が描かれています。

「江戸名所図会 国府台總寧寺 其二古戦場」
2つの図絵を繋げています。広大な境内の総寧寺です。

「江戸名所図会 総寧寺羅漢井」
国府台總寧寺其二でも羅漢井は記されていますが、さらに別に描かれています。

「利根川東岸一覧」(玉蘭斎貞秀)

国府台部分の抜粋です。右手からの総寧寺の参道を上ってくると大門があり国府台です。
「江戸名所図会 国府台断岸之図」
国府台の断崖がとね川(江戸川)に迫り出し、断崖の上には見物人が5人描かれています。一人は崖下を覗きこんでいます。

「江戸名所百景 鴻の台と弥川風景」(広重)
江戸名所図会と同じ構図で広重が描いています。帆を張った多くの船は、これから行徳〜新川〜小名木川〜行徳河岸へ向かっているのでしょう。
崖は一面緑色に描かれていますが、絵本江戸土産には「赤壁」、利根川東岸一覧には「此所赤はげ」と記されています。小林清親は赤壁として描いています。

「絵本江戸土産 国府の台眺望」(広重)
挿絵には「利根川に臨む赤壁にて四方万里を一目に見する 里見家の城跡あり 北条勢と戦ひし兵どもが夢の跡 漫にむかし思はるる古跡の瞻望いと興あり」とあります。

「冨士三十六景 鴻之台とね川」(広重)

崖上では法衣を着た人物が客人を案内をしています。当時はここも総寧寺の境内でした。

「武蔵百景之内 下総鴻ノ台市川の遠景」(明治17年 小林清親)
明治時代の国府台の赤壁の崖下から市川の遠景が描かれています。

江戸川には渡し船が2艘見えます。遠景に富士山が描かれています。

「江戸名所図会 国府台總寧寺 其二古戦場」
2つの図絵を繋げています。広大な境内の総寧寺です。

「江戸名所図会 総寧寺羅漢井」
国府台總寧寺其二でも羅漢井は記されていますが、さらに別に描かれています。

「利根川東岸一覧」(玉蘭斎貞秀)

国府台部分の抜粋です。右手からの総寧寺の参道を上ってくると大門があり国府台です。

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繁栄稲荷神社/江戸~明治の大丸屋
○繁栄稲荷神社 江東区木場2-18-12
大丸創業者である下村彦右衛門正啓が宝暦7(1757)年に創建した繁栄稲荷神社です。大丸松坂屋百貨店本社の敷地内となります。
<社号標/鳥居>
社号標「繁榮稲荷神社」。鳥居(江東区文化財)は、下村店中による奉納で、安政4(1857)年再建銘です。


<由緒>
(掲示)
「由緒
当繁栄稲荷神社の祭神は京都伏見稲荷大社の御分霊にましまし乃古宇迦之御魂大神、佐田彦大神、大宮能賣大神の三御柱であります。古来五穀豊穣、商賣繁昌、藝能上達の神として世の尊崇敬仰をあつめております。
当神社の起源は今を距ること二百四年前、江戸時代の中期、宝暦七年この木場の地に創祀されたのにはじまります。大丸の業祖下村彦右衛門正啓は享保二年伏見に創業し寛保三年日本橋大伝馬町に江戸店を設けましたが越えて宝暦七年深川木場四丁目即ち現在の繁栄橋々畔に貯木場を備うる別墅を営み、その一廓に社殿を造り伏見稲荷大社の御分霊を祀り繁栄稲荷と称したのであります。
祭神の霊験いとあらたかで、地元の木場はもとより江戸一円の信仰をあつめ、三月十二、十三日の例祭には門前市がたつの大賑わいでその側の堀に架せられた橋もいつしか繁栄橋とよばれて今に伝わっているのであります。
明治末年大丸東京店(昔の江戸店)を閉じ木場の別墅も廃したとき社殿は先代根津嘉一郎氏の青山邸に移り同家の嘉栄稲荷の社殿となり、関東大震災、第二次世界大戦の空襲にもその災禍から免がれ二百年前のお姿そのままで残ってまいりました。
昭和三十五年五月たまたまその社殿が繁栄稲荷のものであったことがわかり、根津家の御厚意で大丸へ御返譲していただくこととなり、旧地に接したこの地に境域を卜して昔ながらのお姿を以て本殿、玉垣その他を移築あらたに伏見稲荷大社の御分霊を勧請してお祀りすることになったのであります。
由緒の数々を思い御神徳のいやちこなるに今さら心うたるる次第であります。
昭和三十六年十月吉日」

(説明板)
「江東区指定有形文化財(建造物) 繁栄稻荷神社本殿
木場二ー一八ー一二繁栄稻荷神社
平成二六年四月四日指定
繁栄稲荷神社は、呉服商大丸屋(現大丸)が宝暦七年(一七五七)に深川木場の別邸に伏見稲荷 から分霊して祀ったのが始まりとされます。現存する本殿は安政二年(一八五五)の江戸大地震後の再建と推定されます。本殿は桁行三間、梁間二間、木造平屋建、入母屋銅板葺屋根で、正面に千鳥破風を付け、さらに一間の向拝(正面の屋根を前に張り出した部分)を設けています。向拝は装飾をこらし、水引虹梁(向拝正面の梁)には渦を巻いた細かな絵様が施され、その上の中備には龍と人物の彫物が付けられています。明治四四年(一九一一)に大丸と親交のあった根津嘉一郎の青山邸(現根津美術館敷地内)に移築されたため、関東大震災と戦災を免れました。昭和三六年(一九六一)に大丸に返還され、旧地に近い現在地に移築されました。
近世商家の信仰を示すとともに、向拝の装飾の細部に江戸末期の意匠の特徴をよく示すなど、繁栄稲荷神社本殿は江東区では稀有な近世木造建築です。
昭和36年頃の繁栄稲荷神社。手前に見えるのは大島川東支川 。
(J.フロントリテイリング史料館所蔵)
平成二七年一二月 江東区教育委員会」


<御神燈> 江東区文化財
文政6(1823)年銘の燈籠講の奉納による御神燈です。表と裏に仙人の浮き彫りが施されています。




<狛犬> 江東区文化財
狛犬は両像とも足元に子犬がいます。神狐も置かれています。




<天水桶> 江東区文化財
嘉永7(1854)年銘の天水桶です。江東区資料によると、銅屋元次郎の作です。

天水桶上部の額縁には「大」の文字が模様として刻まれています。

<石燈籠>
大丸役員一同の奉献による石燈籠です。
「昭和三十六年十月吉日奉献
株式会社大丸役員一同」


本殿の周囲には、他に江東区文化財の「石造燈籠寛政6年在銘一対」「石造燈籠明治28年在銘一対」「燈籠(残欠)明治29年在銘一対」がありますが、 文化財に指定されているとは知らず確認しませんでした。後から知りましたが手水鉢も文化財です。
<本殿> 江東区文化財
本殿は江東区文化財に指定されています。本殿内には江東区文化財の「木造燈明台文化15年在銘一対」「木造三宝寛政7年在銘」「木造随神倚像二躯」があるようです。


本殿右側に掲げられている扁額「稲荷神社」です。

本殿右側に掲げられている嘉永7(1854)年銘の扁額「富好行其徳」も江東区文化財です。

○江戸時代〜明治時代の大丸屋
江戸を代表する呉服店として、駿河町「越後屋呉服店」、通一丁目「白木屋呉服店」、大伝馬町「大丸屋呉服店」が「江戸三大呉服店」です。
・享保 2(1717)年 下村彦右衛門正啓が京都伏見に呉服店「大文字屋」を開業(大丸創業)。
・寛保 3(1743)年 江戸日本橋大伝馬町3丁目に江戸店開業。
・宝暦 7(1757)年 江戸深川木場4丁目繁栄橋畔に木場別荘をつくり、繁栄稲荷を祀る。
・明治43(1919)年 東京店(江戸店)を閉鎖。
・昭和29(1954)年 東京駅八重洲口に東京店開店。
「名所江戸百景 大伝馬町こふく店」(広重)
呉服店の大丸屋が描かれています。

「江戸名所 大伝馬町大丸呉服店の図」(広重 ボストン美術館蔵)

「下村呉服店之図」(豊広 寛政末-享和頃)
下村呉服店(大丸屋)が描かれています。


「大伝馬町大丸」(小林清親)
明治時代の大丸が描かれています。電柱が描かれている他は、江戸時代と同様な大丸です。
井上安治も「日本橋区大伝馬町参丁目大丸屋呉服店繁栄図」を描いています(パブリックドメイン画像みつけられず)。

「日本之名勝」(史伝編纂所 明治33年)
明治時代の大丸屋呉服店の写真です。

「日本鉄道線路案内記」(博文館 明治35年)
明治時代の下村呉服店の広告です。
大丸創業者である下村彦右衛門正啓が宝暦7(1757)年に創建した繁栄稲荷神社です。大丸松坂屋百貨店本社の敷地内となります。
<社号標/鳥居>
社号標「繁榮稲荷神社」。鳥居(江東区文化財)は、下村店中による奉納で、安政4(1857)年再建銘です。


<由緒>
(掲示)
「由緒
当繁栄稲荷神社の祭神は京都伏見稲荷大社の御分霊にましまし乃古宇迦之御魂大神、佐田彦大神、大宮能賣大神の三御柱であります。古来五穀豊穣、商賣繁昌、藝能上達の神として世の尊崇敬仰をあつめております。
当神社の起源は今を距ること二百四年前、江戸時代の中期、宝暦七年この木場の地に創祀されたのにはじまります。大丸の業祖下村彦右衛門正啓は享保二年伏見に創業し寛保三年日本橋大伝馬町に江戸店を設けましたが越えて宝暦七年深川木場四丁目即ち現在の繁栄橋々畔に貯木場を備うる別墅を営み、その一廓に社殿を造り伏見稲荷大社の御分霊を祀り繁栄稲荷と称したのであります。
祭神の霊験いとあらたかで、地元の木場はもとより江戸一円の信仰をあつめ、三月十二、十三日の例祭には門前市がたつの大賑わいでその側の堀に架せられた橋もいつしか繁栄橋とよばれて今に伝わっているのであります。
明治末年大丸東京店(昔の江戸店)を閉じ木場の別墅も廃したとき社殿は先代根津嘉一郎氏の青山邸に移り同家の嘉栄稲荷の社殿となり、関東大震災、第二次世界大戦の空襲にもその災禍から免がれ二百年前のお姿そのままで残ってまいりました。
昭和三十五年五月たまたまその社殿が繁栄稲荷のものであったことがわかり、根津家の御厚意で大丸へ御返譲していただくこととなり、旧地に接したこの地に境域を卜して昔ながらのお姿を以て本殿、玉垣その他を移築あらたに伏見稲荷大社の御分霊を勧請してお祀りすることになったのであります。
由緒の数々を思い御神徳のいやちこなるに今さら心うたるる次第であります。
昭和三十六年十月吉日」

(説明板)
「江東区指定有形文化財(建造物) 繁栄稻荷神社本殿
木場二ー一八ー一二繁栄稻荷神社
平成二六年四月四日指定
繁栄稲荷神社は、呉服商大丸屋(現大丸)が宝暦七年(一七五七)に深川木場の別邸に伏見稲荷 から分霊して祀ったのが始まりとされます。現存する本殿は安政二年(一八五五)の江戸大地震後の再建と推定されます。本殿は桁行三間、梁間二間、木造平屋建、入母屋銅板葺屋根で、正面に千鳥破風を付け、さらに一間の向拝(正面の屋根を前に張り出した部分)を設けています。向拝は装飾をこらし、水引虹梁(向拝正面の梁)には渦を巻いた細かな絵様が施され、その上の中備には龍と人物の彫物が付けられています。明治四四年(一九一一)に大丸と親交のあった根津嘉一郎の青山邸(現根津美術館敷地内)に移築されたため、関東大震災と戦災を免れました。昭和三六年(一九六一)に大丸に返還され、旧地に近い現在地に移築されました。
近世商家の信仰を示すとともに、向拝の装飾の細部に江戸末期の意匠の特徴をよく示すなど、繁栄稲荷神社本殿は江東区では稀有な近世木造建築です。
昭和36年頃の繁栄稲荷神社。手前に見えるのは大島川東支川 。
(J.フロントリテイリング史料館所蔵)
平成二七年一二月 江東区教育委員会」


<御神燈> 江東区文化財
文政6(1823)年銘の燈籠講の奉納による御神燈です。表と裏に仙人の浮き彫りが施されています。




<狛犬> 江東区文化財
狛犬は両像とも足元に子犬がいます。神狐も置かれています。




<天水桶> 江東区文化財
嘉永7(1854)年銘の天水桶です。江東区資料によると、銅屋元次郎の作です。

天水桶上部の額縁には「大」の文字が模様として刻まれています。

<石燈籠>
大丸役員一同の奉献による石燈籠です。
「昭和三十六年十月吉日奉献
株式会社大丸役員一同」


本殿の周囲には、他に江東区文化財の「石造燈籠寛政6年在銘一対」「石造燈籠明治28年在銘一対」「燈籠(残欠)明治29年在銘一対」がありますが、 文化財に指定されているとは知らず確認しませんでした。後から知りましたが手水鉢も文化財です。
<本殿> 江東区文化財
本殿は江東区文化財に指定されています。本殿内には江東区文化財の「木造燈明台文化15年在銘一対」「木造三宝寛政7年在銘」「木造随神倚像二躯」があるようです。


本殿右側に掲げられている扁額「稲荷神社」です。

本殿右側に掲げられている嘉永7(1854)年銘の扁額「富好行其徳」も江東区文化財です。

○江戸時代〜明治時代の大丸屋
江戸を代表する呉服店として、駿河町「越後屋呉服店」、通一丁目「白木屋呉服店」、大伝馬町「大丸屋呉服店」が「江戸三大呉服店」です。
・享保 2(1717)年 下村彦右衛門正啓が京都伏見に呉服店「大文字屋」を開業(大丸創業)。
・寛保 3(1743)年 江戸日本橋大伝馬町3丁目に江戸店開業。
・宝暦 7(1757)年 江戸深川木場4丁目繁栄橋畔に木場別荘をつくり、繁栄稲荷を祀る。
・明治43(1919)年 東京店(江戸店)を閉鎖。
・昭和29(1954)年 東京駅八重洲口に東京店開店。
「名所江戸百景 大伝馬町こふく店」(広重)
呉服店の大丸屋が描かれています。

「江戸名所 大伝馬町大丸呉服店の図」(広重 ボストン美術館蔵)

「下村呉服店之図」(豊広 寛政末-享和頃)
下村呉服店(大丸屋)が描かれています。


「大伝馬町大丸」(小林清親)
明治時代の大丸が描かれています。電柱が描かれている他は、江戸時代と同様な大丸です。
井上安治も「日本橋区大伝馬町参丁目大丸屋呉服店繁栄図」を描いています(パブリックドメイン画像みつけられず)。

「日本之名勝」(史伝編纂所 明治33年)
明治時代の大丸屋呉服店の写真です。

「日本鉄道線路案内記」(博文館 明治35年)
明治時代の下村呉服店の広告です。

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木場親水公園
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木場親水公園
○下木場欅一枚板看板 江東区木場2-18-14(舟木橋第二児童遊園)
木場親水公園に隣接する舟木橋第二児童遊園内に、下木場欅一枚板看板が建てられています。
なお、この場所にカナダから寄贈されたトーテム・ポールがありましたが撤去されています。
(掲示)
「下木場 下木場神輿保存会」



(説明板)
「下木場欅一枚板看板
この付近は、地域の俗名で「下木塲」と呼ばれており、三年に一度開催される深川八幡の本祭りでは、神輿を展示するお仮屋が設置されます。
木場の川並(材木を河川で筏に組み運搬する職人)文化と「下木塲」という名を後世に伝えるために設置しています。」

○舟木橋跡 江東区木場2-18-14
舟木橋第二児童遊園前の歩道に建てられている「舟木橋跡」碑です。


(碑文)
「舟木橋跡
舟木橋は、江東区木場二丁目地内の大島川東支流に架けた旧入船町と木場町を結ぶ橋長25.2m、幅員33.8mの橋であった。橋名の由来、創架年月ともに不詳であるが、入船町と木場町に架かる橋なのでこの名を得たと言われている。昭和5年に鋼橋に架替えられたが、平成14年3月に老朽化に伴い撤去した。
平成14年3月 東京都第五建設事務所」


○深川さんぽ絵図 東京東信用金庫深川支店 江東区木場2-19-15
信用金庫に「深川さんぽ絵図」が掲げられています。


○木場親水公園 江東区木場2-20〜3-14
木場親水公園は、「木場の風景」をテーマに整備された延長0.9kmの公園です。大島川東支川が親水公園化されており、平成4(1992)年4月1日の開園です。筏を操る川並の像など木場の風景を表す多くのパブリックアートが設置されています。
昭和38年頃の大島川東市川と繁栄稲荷神社

<舟木橋から>
永代通りの舟木橋上から、大島川東支川が埋立てられた駐輪場とその先の木場親水公園です。


<木場親水公園案内図>




<しっくい護岸> 江東区木場2-18
元々のしっくい護岸ではなく、左官・漆喰作家の山本堪一氏の作品「なまこ壁」です。

<モニュメントつるべ>
「モニュメントつるべ」から先に親水が始まります。


<モニュメント荷足>
案内図には「荷足船(にたりぶね)」と記載されていますが船はありません。荷足が置かれています。荷足とは、船の安定性をよくするため、船底に積む重いバラストです。




<川並> 江東区木場2-12
川並は、背中に「木場」と書かれた半纏を着て、材木を操っています。




(プレート文)
「川並
制作 日展会員 上野弘道
(制作助手4名のお名前)
建立 1992年3月吉日」

<いろは歌>
「いろは歌」が敷かれています。合間に「壱組」「寛永通宝」などをはさみます。何をイメージしているのかわかりません。江戸町火消しですか?



<下木場の碑> 江東区木場2-17
木工家の渡邊美壽雄氏(江東区指定無形文化財保持者)の木彫の作品が掲げれています。

<ひのき舞台>
なぜか「ひのき舞台」


<モニュメント絵巻> 江東区木場2-17
木場慕情絵巻のタイルモザイクのモニュメントです。案内板の記載から手前のタイルモザイクかと思いましたが、高速道路の橋脚下のタイルモザイクも含めてのようです。


<下木場橋>
木橋「下木場橋」です。その先は「築島橋」です。


<護岸ギャラリー>
下木場橋と中木場橋の間、築島橋と木場橋を潜る道の両岸護岸に「護岸ギャラリー」が描かれています。


<鴨の家>

<木場橋> 江東区木場3丁目
大島川東支川に架かる橋です。昭和62(1987)年の架設ですが、昭和4(1929)年の震災復興橋梁が残されています。



<角乗り練習場>
角乗りの練習場で、水深は、他より深い1.5mあります。


大きな鯉が泳いでいました。

「この場所の水深1.5mなので注意してください。」

<中木場橋>

<江戸和船> 江東区木場3-8
江戸和船と柳がマッチしています。



<船着場>


<杭>


<鶴の橋>





<中木場の碑> 江東区木場2-17
木工家の渡邊美壽雄氏(江東区指定無形文化財保持者)の木彫の作品が掲げれています。

<常夜燈>
常夜燈が三基、配置されています。

<ジャブジャブ池>

<親水館>

<親水終端>



<水辺のまちの形成史・・・・400年>
親水終端から道路を渡って北上します。江戸初期から現在までの江東区の歴史を説明した8枚のパネルが設置されています。

最初の2枚だけ拡大写真です。
(パネル)
「【江戸初期】1590→1657
◎江東地区の開発は、徳川家康 の入府による江戸のまちの拡大とともに始まります。
この頃までの江東地区は、ほとんどが低湿地で、亀島、大島、宝六島、永代島などの地名でわかるように小島が点在していました。
開発は、現在の森下を中心とした深川村、佐賀・永代辺りの永代島、猟師町、小名木川南岸沿いの海辺新田、大島や砂町などで行われました。
この頃、石島や千田あたりは、まだ海でした。
水辺のまち形成史・・・・400年 水域環境変遷パネル〜 江東区」


<要橋>
葛西橋通りに架かる要橋を潜り終えたところです。

<ポンプ室>
仙台堀川から導水しています。


<仙台堀川>


木場親水公園に隣接する舟木橋第二児童遊園内に、下木場欅一枚板看板が建てられています。
なお、この場所にカナダから寄贈されたトーテム・ポールがありましたが撤去されています。
(掲示)
「下木場 下木場神輿保存会」



(説明板)
「下木場欅一枚板看板
この付近は、地域の俗名で「下木塲」と呼ばれており、三年に一度開催される深川八幡の本祭りでは、神輿を展示するお仮屋が設置されます。
木場の川並(材木を河川で筏に組み運搬する職人)文化と「下木塲」という名を後世に伝えるために設置しています。」

○舟木橋跡 江東区木場2-18-14
舟木橋第二児童遊園前の歩道に建てられている「舟木橋跡」碑です。


(碑文)
「舟木橋跡
舟木橋は、江東区木場二丁目地内の大島川東支流に架けた旧入船町と木場町を結ぶ橋長25.2m、幅員33.8mの橋であった。橋名の由来、創架年月ともに不詳であるが、入船町と木場町に架かる橋なのでこの名を得たと言われている。昭和5年に鋼橋に架替えられたが、平成14年3月に老朽化に伴い撤去した。
平成14年3月 東京都第五建設事務所」


○深川さんぽ絵図 東京東信用金庫深川支店 江東区木場2-19-15
信用金庫に「深川さんぽ絵図」が掲げられています。


○木場親水公園 江東区木場2-20〜3-14
木場親水公園は、「木場の風景」をテーマに整備された延長0.9kmの公園です。大島川東支川が親水公園化されており、平成4(1992)年4月1日の開園です。筏を操る川並の像など木場の風景を表す多くのパブリックアートが設置されています。
昭和38年頃の大島川東市川と繁栄稲荷神社

<舟木橋から>
永代通りの舟木橋上から、大島川東支川が埋立てられた駐輪場とその先の木場親水公園です。


<木場親水公園案内図>




<しっくい護岸> 江東区木場2-18
元々のしっくい護岸ではなく、左官・漆喰作家の山本堪一氏の作品「なまこ壁」です。

<モニュメントつるべ>
「モニュメントつるべ」から先に親水が始まります。


<モニュメント荷足>
案内図には「荷足船(にたりぶね)」と記載されていますが船はありません。荷足が置かれています。荷足とは、船の安定性をよくするため、船底に積む重いバラストです。




<川並> 江東区木場2-12
川並は、背中に「木場」と書かれた半纏を着て、材木を操っています。




(プレート文)
「川並
制作 日展会員 上野弘道
(制作助手4名のお名前)
建立 1992年3月吉日」

<いろは歌>
「いろは歌」が敷かれています。合間に「壱組」「寛永通宝」などをはさみます。何をイメージしているのかわかりません。江戸町火消しですか?



<下木場の碑> 江東区木場2-17
木工家の渡邊美壽雄氏(江東区指定無形文化財保持者)の木彫の作品が掲げれています。

<ひのき舞台>
なぜか「ひのき舞台」


<モニュメント絵巻> 江東区木場2-17
木場慕情絵巻のタイルモザイクのモニュメントです。案内板の記載から手前のタイルモザイクかと思いましたが、高速道路の橋脚下のタイルモザイクも含めてのようです。


<下木場橋>
木橋「下木場橋」です。その先は「築島橋」です。


<護岸ギャラリー>
下木場橋と中木場橋の間、築島橋と木場橋を潜る道の両岸護岸に「護岸ギャラリー」が描かれています。


<鴨の家>

<木場橋> 江東区木場3丁目
大島川東支川に架かる橋です。昭和62(1987)年の架設ですが、昭和4(1929)年の震災復興橋梁が残されています。



<角乗り練習場>
角乗りの練習場で、水深は、他より深い1.5mあります。


大きな鯉が泳いでいました。

「この場所の水深1.5mなので注意してください。」

<中木場橋>

<江戸和船> 江東区木場3-8
江戸和船と柳がマッチしています。



<船着場>


<杭>


<鶴の橋>





<中木場の碑> 江東区木場2-17
木工家の渡邊美壽雄氏(江東区指定無形文化財保持者)の木彫の作品が掲げれています。

<常夜燈>
常夜燈が三基、配置されています。

<ジャブジャブ池>

<親水館>

<親水終端>



<水辺のまちの形成史・・・・400年>
親水終端から道路を渡って北上します。江戸初期から現在までの江東区の歴史を説明した8枚のパネルが設置されています。

最初の2枚だけ拡大写真です。
(パネル)
「【江戸初期】1590→1657
◎江東地区の開発は、徳川家康 の入府による江戸のまちの拡大とともに始まります。
この頃までの江東地区は、ほとんどが低湿地で、亀島、大島、宝六島、永代島などの地名でわかるように小島が点在していました。
開発は、現在の森下を中心とした深川村、佐賀・永代辺りの永代島、猟師町、小名木川南岸沿いの海辺新田、大島や砂町などで行われました。
この頃、石島や千田あたりは、まだ海でした。
水辺のまち形成史・・・・400年 水域環境変遷パネル〜 江東区」


<要橋>
葛西橋通りに架かる要橋を潜り終えたところです。

<ポンプ室>
仙台堀川から導水しています。


<仙台堀川>



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木場
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テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
tag : 銅像
木場
○木場
天正18(1590)年、徳川家康が江戸に入城すると、木材の流通に携わる商人を全国から招集し、江戸城修築後も、その多くが江戸に残り、日本橋本材木町を中心に店を構えました。
寛永18(1641)年の江戸大火で、火事が延焼したのは点在する材木商の「高積み」が原因と指摘され、材木商は永代島に集められました。のちに元木場と称されました。
元禄14(1701)年、15名の材木問屋に猿江の地が払い下げられ、四方に土手を築き、堀をめぐらすなどの整備を行い、貯木場を造成しました。この貯木場があったことが木場の名前の由来です。 (東京木材問屋協同組合HP及び国立国会図書館HPを参照しました。)
「江戸切絵図」
木場の抜粋です。「木置場」の文字が多く見えます。

「江戸名所図会 深川木場」
木場は江戸の名所のひとつとなっていました。 四方を土手に囲まれた造成地に堀が巡らされ、橋で繋がれています。多くの材木と材木問屋が見えます。釣り糸を垂らしている人物も描かれています。

「名所江戸百景 深川木場」(広重)
広重も木場を描いています。

「絵本江戸土産 深川木場」(広重)
挿絵には「この辺材木屋の園多きにより名を木場といふ その園中おのおの山水のながめありて風流の地と称せり」とあります。

「江戸名所百人美女 木場」(豊国・国久)
太い綱が巻かれた錨が描かれた着物を着た女性が、棒手振りの「竹馬古着屋」を呼びとめ、古着の布を見ています。

こま絵に木場が描かれています。

「竹馬古着屋」はこちらで記載。

「東都花暦 木場ノ魚釣」(英泉)
材木の上でこどもが釣りをしています。

「武蔵百景之内 深がわ木場」(小林清親)
広重の名所江戸百景と同じような構図です。

「東京開化狂画名所 深川木場 川童臭気に辟易」(月岡芳年 都立図書館蔵)
材木の上で釣りをする人間から、尻子玉(人間の肛門内にあると想像された架空の臓器で河童の好物)を抜こうとした河童が、釣り人のおならに撃退されています。河童のお腹まで黄色くなっています。

「木場之雪」(川瀬巴水)

「東京風景木場雪景」(織田一磨 大正6年 都立図書館蔵)

「新東京百景 深川木場」(前川千帆 昭和5年 都立図書館蔵)

○木場公園 江東区木場四・五丁目・平野四丁目・三好四丁目・東陽六丁目
木材関連業者が昭和49(1974)年から昭和56(1981)年にかけて新木場へ移転し、跡地の木場(貯木場)は平成4(1992)年に木場公園として開園しました。



「東京震災録 地図及写真帖」(東京市 大正15年)
大正12年10月22日の「深川木場町」です。

○本所立川
木場と同じく、本所の竪川の北側(旧相生町一丁目〜二丁目付近)にも材木問屋が密集していました(こちらでも記載)。
「江戸切絵図」

「富嶽三十六景 本所立川」(北斎 メトロポリタン美術館蔵)

「江戸名所道戯尽 三十七 本所立川辺り景」(広景 都立図書館蔵)

○猿江材木蔵
猿江恩賜公園には、かつて江戸幕府の貯木場がありました(こちらで記載)。

天正18(1590)年、徳川家康が江戸に入城すると、木材の流通に携わる商人を全国から招集し、江戸城修築後も、その多くが江戸に残り、日本橋本材木町を中心に店を構えました。
寛永18(1641)年の江戸大火で、火事が延焼したのは点在する材木商の「高積み」が原因と指摘され、材木商は永代島に集められました。のちに元木場と称されました。
元禄14(1701)年、15名の材木問屋に猿江の地が払い下げられ、四方に土手を築き、堀をめぐらすなどの整備を行い、貯木場を造成しました。この貯木場があったことが木場の名前の由来です。 (東京木材問屋協同組合HP及び国立国会図書館HPを参照しました。)
「江戸切絵図」
木場の抜粋です。「木置場」の文字が多く見えます。

「江戸名所図会 深川木場」
木場は江戸の名所のひとつとなっていました。 四方を土手に囲まれた造成地に堀が巡らされ、橋で繋がれています。多くの材木と材木問屋が見えます。釣り糸を垂らしている人物も描かれています。

「名所江戸百景 深川木場」(広重)
広重も木場を描いています。

「絵本江戸土産 深川木場」(広重)
挿絵には「この辺材木屋の園多きにより名を木場といふ その園中おのおの山水のながめありて風流の地と称せり」とあります。

「江戸名所百人美女 木場」(豊国・国久)
太い綱が巻かれた錨が描かれた着物を着た女性が、棒手振りの「竹馬古着屋」を呼びとめ、古着の布を見ています。

こま絵に木場が描かれています。

「竹馬古着屋」はこちらで記載。

「東都花暦 木場ノ魚釣」(英泉)
材木の上でこどもが釣りをしています。

「武蔵百景之内 深がわ木場」(小林清親)
広重の名所江戸百景と同じような構図です。

「東京開化狂画名所 深川木場 川童臭気に辟易」(月岡芳年 都立図書館蔵)
材木の上で釣りをする人間から、尻子玉(人間の肛門内にあると想像された架空の臓器で河童の好物)を抜こうとした河童が、釣り人のおならに撃退されています。河童のお腹まで黄色くなっています。

「木場之雪」(川瀬巴水)

「東京風景木場雪景」(織田一磨 大正6年 都立図書館蔵)

「新東京百景 深川木場」(前川千帆 昭和5年 都立図書館蔵)

○木場公園 江東区木場四・五丁目・平野四丁目・三好四丁目・東陽六丁目
木材関連業者が昭和49(1974)年から昭和56(1981)年にかけて新木場へ移転し、跡地の木場(貯木場)は平成4(1992)年に木場公園として開園しました。



「東京震災録 地図及写真帖」(東京市 大正15年)
大正12年10月22日の「深川木場町」です。

○本所立川
木場と同じく、本所の竪川の北側(旧相生町一丁目〜二丁目付近)にも材木問屋が密集していました(こちらでも記載)。
「江戸切絵図」

「富嶽三十六景 本所立川」(北斎 メトロポリタン美術館蔵)

「江戸名所道戯尽 三十七 本所立川辺り景」(広景 都立図書館蔵)

○猿江材木蔵
猿江恩賜公園には、かつて江戸幕府の貯木場がありました(こちらで記載)。


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