大坊本行寺(池上)
○大坊本行寺 大田区池上2-10-5 HP
日蓮聖人入滅の旧跡(都旧跡)です。鎌倉時代の豪族池上氏の城館跡とされています。日蓮上人が池上館で亡くなり、城館主池上宗仲からその地を譲り受けた弟子の日澄により、開祖入滅の地として城館跡に本門寺が建立されました。
<赤門>
大坊坂下から、石橋を渡ると赤門です。


江戸名所図会の挿絵にも、石橋と赤門が見えます。

<裏門>
本門寺歴代聖人の墓から入ると、本行寺の裏に出ます。本行寺側から見ると、左の石階段が本門寺歴代聖人の墓に通じています。右の石階段は「樹林墓地そせい」への階段です。






江戸名所図会の挿絵にも描かれている参道です。

坂道も大行寺裏門から直進すると、江戸名所図会にも描かれている「播磨三日月藩森家の墓所」です。


<妙法堂>
大坊坂下にあります。

<鶴林殿>
開基池上宗仲公第七百遠忌事業として建立されています。

<池上幸健胸像>
鶴林殿の左手に、池上家三十代目当主の池上幸健(ゆきたけ)像があります。池上幸健(1877〜?)は池上家の30代当主で、1908年東京帝大農科大学獣医科を卒業して警視庁検査技師となりました。



<正應三年板碑発見所在地碑>
本行寺には池上本門寺境内に散在していた板碑が四十余基あり、大田区文化財に指定されています。年代のわかっている板碑の中で、特に正応3(1290)年のものは、題目板碑として最古のものです。この板碑の発見所在地に建つ発見所在地碑です。

<萬霊供養塔>

<御灰骨堂>

<旅着堂>

<瘡守稲荷>

<毘沙門堂>

<御硯井戸>
「江戸名所図会 本門寺」から、「硯井」部分の抜粋です。

「御硯井戸
此の硯井戸は日蓮大聖人が弘安五年九月十八日甲州身延山より此の地に御到着になり御使用になった霊水であります。」




<南無水神>
井戸奥の「南無水神」碑です。

<本堂>



<文化財>
大田区文化財のパネルが4つ連なっています。すべて非公開となっています。左から
・本行寺文書(大田区文化財)

・三十番神画像(大田区文化財)

・正応三年の題目板碑と板碑群(大田区文化財)

・日蓮聖人坐像(大田区文化財)

○ご臨終の間 東京都史跡
<御会式桜>
訪問時は秋でしたが咲いていました。
「御会式桜
弘安五年十月十三日 日蓮大聖人が入滅の折、庭先の桜が時ならぬ花を咲かせたと伝えられており 現在も旧暦十月頃には花を咲かせます
御会式の万灯に桜の花を飾るのはこの故事に由来しています」



<日蓮大聖人御入滅之霊場>
「東京都史跡 日蓮大聖人御入滅之霊場」

<日蓮上人入滅の旧跡(ご臨終の間)> 東京都旧跡
(説明板)
「東京都指定旧跡
日蓮上人入滅の旧跡
所在地 大田区池上二の一○の五
標識 昭和一一年三月四日
指定 昭和三○年三月二八日
日蓮上人(聖人)(一二二二〜一二八二)は、日蓮宗の開祖であり、「立正安国論」等の著作で知られています。日蓮は、文永十一年(一二七四)に鎌倉を去り、甲斐国身延山に宗教活動の場を移していましたが、弘安五年(一二八二)、病の悪化により常陸国へ湯治療養に向かう途中、武蔵国千束郡池上右衛門太夫宗仲の館(現本行寺境内)で示寂しました。
なお、病中の日蓮が、身延山を発って池上の地へ移ったのは、法華経を説いた釈尊が霊鷲山から艮、すなわち北東の方角に当たる純陀の家で入滅した故事にならったとする説もあります。
平成二四年三月 建設 東京都教育委員会」


<ご臨終の間>
日蓮聖人がご入滅になられたお部屋の跡に建てられたお堂です。


<池上宗仲夫妻坐像>
ご臨終の間の前に建っています。
(説明板)
「大田区文化財
池上宗仲夫妻坐像(非公開)
寄木造、彫眼、像高各約二一センチ。
本像の寄進者は丹波屋半兵衛、開眼の導師は身延山久遠寺三十三世日亨で、正徳四年(一七一四)に造られたことが、台座の銘文によってわかる。
よく祖型を残し、後補された様子もなく、小型ながら肖像彫刻として極めて精巧なものである。
体内には墨や金泥で記した曼荼羅本尊等の小紙片が納められているが、筆者は不詳である。
宗仲夫妻は日蓮の大檀越(篤信者)であり、日蓮が夫妻の邸で入滅したのは有名である。
昭和五十年三月十九日指定 大田区教育委員会」

日蓮聖人入滅の旧跡(都旧跡)です。鎌倉時代の豪族池上氏の城館跡とされています。日蓮上人が池上館で亡くなり、城館主池上宗仲からその地を譲り受けた弟子の日澄により、開祖入滅の地として城館跡に本門寺が建立されました。
<赤門>
大坊坂下から、石橋を渡ると赤門です。


江戸名所図会の挿絵にも、石橋と赤門が見えます。

<裏門>
本門寺歴代聖人の墓から入ると、本行寺の裏に出ます。本行寺側から見ると、左の石階段が本門寺歴代聖人の墓に通じています。右の石階段は「樹林墓地そせい」への階段です。






江戸名所図会の挿絵にも描かれている参道です。

坂道も大行寺裏門から直進すると、江戸名所図会にも描かれている「播磨三日月藩森家の墓所」です。


<妙法堂>
大坊坂下にあります。

<鶴林殿>
開基池上宗仲公第七百遠忌事業として建立されています。

<池上幸健胸像>
鶴林殿の左手に、池上家三十代目当主の池上幸健(ゆきたけ)像があります。池上幸健(1877〜?)は池上家の30代当主で、1908年東京帝大農科大学獣医科を卒業して警視庁検査技師となりました。



<正應三年板碑発見所在地碑>
本行寺には池上本門寺境内に散在していた板碑が四十余基あり、大田区文化財に指定されています。年代のわかっている板碑の中で、特に正応3(1290)年のものは、題目板碑として最古のものです。この板碑の発見所在地に建つ発見所在地碑です。

<萬霊供養塔>

<御灰骨堂>

<旅着堂>

<瘡守稲荷>

<毘沙門堂>

<御硯井戸>
「江戸名所図会 本門寺」から、「硯井」部分の抜粋です。

「御硯井戸
此の硯井戸は日蓮大聖人が弘安五年九月十八日甲州身延山より此の地に御到着になり御使用になった霊水であります。」




<南無水神>
井戸奥の「南無水神」碑です。

<本堂>



<文化財>
大田区文化財のパネルが4つ連なっています。すべて非公開となっています。左から
・本行寺文書(大田区文化財)

・三十番神画像(大田区文化財)

・正応三年の題目板碑と板碑群(大田区文化財)

・日蓮聖人坐像(大田区文化財)

○ご臨終の間 東京都史跡
<御会式桜>
訪問時は秋でしたが咲いていました。
「御会式桜
弘安五年十月十三日 日蓮大聖人が入滅の折、庭先の桜が時ならぬ花を咲かせたと伝えられており 現在も旧暦十月頃には花を咲かせます
御会式の万灯に桜の花を飾るのはこの故事に由来しています」



<日蓮大聖人御入滅之霊場>
「東京都史跡 日蓮大聖人御入滅之霊場」

<日蓮上人入滅の旧跡(ご臨終の間)> 東京都旧跡
(説明板)
「東京都指定旧跡
日蓮上人入滅の旧跡
所在地 大田区池上二の一○の五
標識 昭和一一年三月四日
指定 昭和三○年三月二八日
日蓮上人(聖人)(一二二二〜一二八二)は、日蓮宗の開祖であり、「立正安国論」等の著作で知られています。日蓮は、文永十一年(一二七四)に鎌倉を去り、甲斐国身延山に宗教活動の場を移していましたが、弘安五年(一二八二)、病の悪化により常陸国へ湯治療養に向かう途中、武蔵国千束郡池上右衛門太夫宗仲の館(現本行寺境内)で示寂しました。
なお、病中の日蓮が、身延山を発って池上の地へ移ったのは、法華経を説いた釈尊が霊鷲山から艮、すなわち北東の方角に当たる純陀の家で入滅した故事にならったとする説もあります。
平成二四年三月 建設 東京都教育委員会」


<ご臨終の間>
日蓮聖人がご入滅になられたお部屋の跡に建てられたお堂です。


<池上宗仲夫妻坐像>
ご臨終の間の前に建っています。
(説明板)
「大田区文化財
池上宗仲夫妻坐像(非公開)
寄木造、彫眼、像高各約二一センチ。
本像の寄進者は丹波屋半兵衛、開眼の導師は身延山久遠寺三十三世日亨で、正徳四年(一七一四)に造られたことが、台座の銘文によってわかる。
よく祖型を残し、後補された様子もなく、小型ながら肖像彫刻として極めて精巧なものである。
体内には墨や金泥で記した曼荼羅本尊等の小紙片が納められているが、筆者は不詳である。
宗仲夫妻は日蓮の大檀越(篤信者)であり、日蓮が夫妻の邸で入滅したのは有名である。
昭和五十年三月十九日指定 大田区教育委員会」


- 関連記事
池上本門寺多宝塔 (国重文)
○池上本門寺多宝塔(国重要文化財) 大田区池上1-1-1
多宝塔は、宗祖五百五十遠忌の前年である天保元(1830)年に、日蓮聖人御入滅の御荼毘所の地に建立されました。
<多宝塔>





<祖師荼毘所>
多宝塔の真裏に「祖師荼毘所」があります。日蓮聖人五百遠忌の天明元(1781)年銘です。
(正面)
「南無日蓮大菩薩」「祖師荼毘所」
(右側面)
「宗祖五百遠忌報恩」
「末法萬年 廣宣流布」
(左側面) 紀年が刻まれています。





○祖師荼毘所から祖師御廟處への道
江戸時代は、祖師荼毘所の上に、祖師御廟處がありました。現在は本殿奥に設けられています。
<題目塔道標>
多宝塔への石段を下りた右手に、元禄10(1697)年銘の「祖師御硯水」及び「祖師御廟處」への道標があります。
(正面左) 「左 祖師御硯水」
(正面中央)「南無妙法蓮華経」
(正面右) 「右 祖師御廟處」
(両側面) 「南無妙法蓮華経」
(裏) 紀年が刻まれています。






<元禄十年銘の題目塔道標>
多宝塔右側の石段下に、元禄10(1697)年銘の道標があります。
(正面)「南無妙法蓮華経」
(右面)「祖師日蓮大菩薩御は加志よ江能みち奈里」(御墓所への道なり)
(左面) 紀年が刻まれています。







<おしゃもじさまの道祖神>
石段を上がり左に曲がって進み、紀伊徳川家墓所の脇を通ってさらに進みます。


おしゃもじさまの道祖神が現れます。すぐに池上廟の入口に出ます。



○金保元泰墓 東京都史跡
多宝塔裏に、金保元泰墓があります。なお、多紀家墓所は城官寺にあります。(こちらで記載)


(説明板)
「東京都指定史跡
金保元泰墓
東京都指定史跡 多紀家墓所
附 金保氏墓 五基のうちの一基
所在地 大田区池上二丁目一○番
指定 平成二六年三月二五日
この墓標は、江戸時代に幕府医官の要職を歴任した、多紀家初代元泰のものです。元泰は京都で口科(歯科)を業としていましたが、丹波頼元によって養子に迎えられました。元泰は、一○代前の丹波兼康の名を取って、性を兼康に改めますが、徳川家康の開幕にあたり、金保に改姓しています。慶長一八年に二代将軍秀忠に謁見、慶長年間には法橋に叙せられます。慶安元年一○月一二日に没し、狩野探幽と親交が深かったことから、池上本門寺に埋葬されました。
二代元尚は、北区にある城官寺を菩提寺に定め、以後代々埋地されます。特に奥医師に任ぜられた五代元孝は、金保から多紀に性を改め、城官寺墓地の一角に墓所を設けます。この多紀家墓所には、五代元孝から十代元佶までの墓標が規則的に配置され、墓所以外には二代元尚から四代元燕の墓標が良好に保存されています。
墓所一帯は、昭和一一年に「多紀桂山一族墓」として標識されていましたが、近世医官の墓所としてまれな規模であることから、平成二三年に「多紀家墓所 附金保氏墓 四基」として史跡に指定されています。
江戸時代には行方不明となっていた初代元泰の墓ですが、戦後、磯ヶ谷紫江により、宝塔東側の崖下に土留めとして使われていたところを発見されます。近年、池上本門寺により現在の場所に移築されました。
初代元泰の墓は、多紀家一族の系譜を墓標からたどるうえで重要ですが、埋葬当時の場所ではないことから、「附 金保氏墓四基」に加え、「多紀家墓所 附 金保氏墓 五基」として追加指定されました。
平成二七年三月 建設 東京都教育委員会」

【多宝塔東】
○奥絵師狩野家墓所 東京都史跡
(説明板)
「東京都指定史跡
奥絵師狩野家墓所
附 改葬墓 十五基 分骨墓 一基
筆塚 四基 改葬記念碑 一基
木製位牌 四十六基 墓出土品 一括
所在地 大田区池上一−一−三五
二−一○
二−ー一−一五
指定 平成二十五年三月二十五日
奥絵師狩野家墓所は、御用絵師として江戸幕府の画業を掌握した狩野四家(中橋狩野家、鍛冶橋狩野家、木挽町狩野家、浜町狩野家)の墓所です。指定面積は二九七・四七平方メートルで、宝塔の東と南西側、五重塔周辺といった、池上本門寺墓所において重要な場所に形成されています。最も古い紀年は、狩野孝信供養等に刻まれた元和五年(一六一九)ですが、没年や墓標の形式からみて、埋葬が始まったのは、寛永年間(一六二四〜一六四四)以降と考られます。
宗家である中橋狩野家は、宝塔南東側に墓域を定め、墓標は主に笠付角柱形を採用しています。狩野探幽を祖とする鍛冶橋狩野家は、探幽が宝塔南西に埋葬されて以降、宝塔北東一帯を墓域としていたようですが、明治初年の改修で二基に合葬されました。墓標型式は笠付碑形です。なお、探幽墓の左隣にある瓢箪形の墓標は、分骨墓で、目黒区永隆寺にあったものを昭和十一年(一九三六)に改葬したものです。
木挽町狩野家は、二代常信、三代周信、九代養信が、紀州徳川家専用墓所の入口付近(現在の五重塔周辺)に埋葬、四代古信以降は主に宝塔南西を埋地としています。墓標は圭頭方柱で、側面に「木」字が陰刻されています。また木挽町狩野家から分家を許された浜町狩野家は、初代岑信が探幽墓正面左前に埋葬された後、その南側を暮域としています。その後、文化年間(一八○四〜一八一八)以降は宝塔東側に暮域が展開しています。
当主の墓標は家系ごとに規格性があり、法印や法眼に叙せられた当主墓は台座に亀趺を有することが一般的です。
なお、狩野探幽墓は東京都指定旧跡でしたが、旧跡を解除し、奥絵師狩野家墓所に含めて史跡に指定されました。
平成二六年三月 建設 東京都教育委員会」

説明板を挟んで三基並んでいるのが、左から、
「狩野主馬尚信墓」 慶安3(1650)年 「圓心院實諦日徳」
「狩野左近貞信墓」 元和9(1623)年 「安心院殿貞信日理大居士」
「狩野右近孝信墓」 元和4(1618)年 「圓大院孝信日養」



「狩野孝信墓」

「狩野宗家累代墓」

「狩野祐清英信墓」
中橋十一代目。 宝暦13(1763)年 「如川院殿大蔵卿」。精緻な亀跌に乗っています。「狩野宗家累代墓」の右手にあります。




「狩野融川寛信墓」
浜町五代目。文化12(1815)年 「畫院法眼狩野融川藤原寛信先生之墓」。石階段を上がって、右手にあります。精緻な亀跌に乗っています。




他、以下の墓があります。よくわからない案内です。
【多宝塔西の墓域】
○狩野探幽墓所 東京都史跡
多宝塔西には、亀跌墓が六基あります。


「狩野探幽墓」
江戸幕府御用絵師・狩野探幽守信(1602〜1674)の墓所です。瓢箪形石塔と碑形墓が並んでいます。戒名「玄徳院殿前法眼守信日道」が刻まれています。


「狩野随川岑信墓」
浜町狩野家始祖。 宝永5(1708)年 「覺樹院殿岑信大盛日量大居士」。亀跌墓です。狩野探幽墓前にあります。こちらに向いている亀跌です。



「狩野栄川古信墓」
木挽町狩野家四代目。 享保16(1731)年 「法性院古信日是大居士」。亀跌墓です。狩野探幽墓前にあります。


「狩野友信夫妻墓」
浜町狩野友信(天保14(1843)年〜明治45(1912)年)の墓所です。「春川院殿友信日聖居士」。亀跌に乗っています。狩野探幽墓後ろにあります。墓所は染井霊園で、こちらは分骨です。

「狩野栄川院典信墓」
木挽町狩野家六代目。寛政2(1790)年 「法壽院殿榮川院法印白玉翁典信日妙大居士」。亀跌に乗っています。狩野探幽墓後ろ右にあります。


「狩野養川院惟信墓」
木挽町狩野家七代目。文化5(1808)年 「養川院殿玄之齋法印惟信日詔大居士」。亀跌に乗っています。狩野探幽墓後ろ右に、七代目と八代目と並んでいます。



「狩野伊川院栄信墓」
木挽町狩野家八代目。文政11(1828)年 「伊川院殿玄賞齋法印榮信日宣大居士」。亀跌に乗っています。狩野探幽墓後ろ右に、七代目と八代目と並んでいます。


○紀伊徳川家墓所 大田区文化財
多宝塔裏の宝塔を見下ろす斜面に、紀伊徳川家の墓域があります。お万の方(家康側室)をはじめ、紀州徳川家奥方の墓塔が立ち並んでいます。




「江戸名所図会 本門寺」
江戸名所図会でも描かれています(抜粋)。

(説明板)
「大田区文化財 紀伊徳川家墓所
この墓所は、養珠院お万の方〔承応二年(一六五三(没〕、および瑤林院〔寛文六年(一六六六)没〕をはじめ、主として江戸藩邸で没した紀伊藩主の内室(令夫人)を埋葬したものである。
墓域の規模、構築の優美さなど、幕府直系大名の墓所としての威容をを示している。
徳川家康の側室で紀伊家初代頼宣、水戸家初代頼房の生母であるお万の方は、熱心な法華経信者でもあった。その薫化により日蓮宗に帰依した頼宣は、同じく法華経を信奉することが篤かった加藤清正の息女の瑤林院を妻として、以来、上本門寺との関係がより深いものとなった。
昭和五十年三月十九日指定 大田区教育委員会」

【右から左へ】
「松寿院 宝篋印塔」
初代徳川頼宣の娘。延宝6(1678)年没。「松寿院」


「真空院 宝篋印塔」
初代徳川頼宣の子。四歳で夭折。寛永13(1636)年没。「真空院」


「養珠院 宝塔」
階段を上がった正面です。徳川家康側室お万の方。初代頼宣の生母。承応2(1653)年没。「養珠院妙紹日心大姉」



「妙操院 一重塔」
十一代将軍徳川家斉の側室。十一代徳川斉順の生母。天保3(1832)年没。「妙操院殿円譽性日良仁大姉」


「天真院 宝塔」
二代徳川光貞の正室。宝永4(1707)年没。「天眞院殿妙仁日雅大姉尊位」



「瑶林院 宝塔」
初代徳川頼宣の正室。加藤清正の娘。梵鐘、妙見菩薩像を寄進。寛文6(1666)年没。「瑶林院淨秀日芳大姉」



「霊岳院 宝塔」
二代徳川光貞の娘。徳川吉宗の姉。出羽久保田藩佐竹義苗室。元禄6(1693)年没。「霊岳院殿日觀淨境大姉」



「寛徳院 宝塔」
八代将軍徳川吉宗の正室。宝永7(1710)年没。「寛徳院殿玄眞日中大姉尊靈」


多宝塔は、宗祖五百五十遠忌の前年である天保元(1830)年に、日蓮聖人御入滅の御荼毘所の地に建立されました。
<多宝塔>





<祖師荼毘所>
多宝塔の真裏に「祖師荼毘所」があります。日蓮聖人五百遠忌の天明元(1781)年銘です。
(正面)
「南無日蓮大菩薩」「祖師荼毘所」
(右側面)
「宗祖五百遠忌報恩」
「末法萬年 廣宣流布」
(左側面) 紀年が刻まれています。





○祖師荼毘所から祖師御廟處への道
江戸時代は、祖師荼毘所の上に、祖師御廟處がありました。現在は本殿奥に設けられています。
<題目塔道標>
多宝塔への石段を下りた右手に、元禄10(1697)年銘の「祖師御硯水」及び「祖師御廟處」への道標があります。
(正面左) 「左 祖師御硯水」
(正面中央)「南無妙法蓮華経」
(正面右) 「右 祖師御廟處」
(両側面) 「南無妙法蓮華経」
(裏) 紀年が刻まれています。






<元禄十年銘の題目塔道標>
多宝塔右側の石段下に、元禄10(1697)年銘の道標があります。
(正面)「南無妙法蓮華経」
(右面)「祖師日蓮大菩薩御は加志よ江能みち奈里」(御墓所への道なり)
(左面) 紀年が刻まれています。







<おしゃもじさまの道祖神>
石段を上がり左に曲がって進み、紀伊徳川家墓所の脇を通ってさらに進みます。


おしゃもじさまの道祖神が現れます。すぐに池上廟の入口に出ます。



○金保元泰墓 東京都史跡
多宝塔裏に、金保元泰墓があります。なお、多紀家墓所は城官寺にあります。(こちらで記載)


(説明板)
「東京都指定史跡
金保元泰墓
東京都指定史跡 多紀家墓所
附 金保氏墓 五基のうちの一基
所在地 大田区池上二丁目一○番
指定 平成二六年三月二五日
この墓標は、江戸時代に幕府医官の要職を歴任した、多紀家初代元泰のものです。元泰は京都で口科(歯科)を業としていましたが、丹波頼元によって養子に迎えられました。元泰は、一○代前の丹波兼康の名を取って、性を兼康に改めますが、徳川家康の開幕にあたり、金保に改姓しています。慶長一八年に二代将軍秀忠に謁見、慶長年間には法橋に叙せられます。慶安元年一○月一二日に没し、狩野探幽と親交が深かったことから、池上本門寺に埋葬されました。
二代元尚は、北区にある城官寺を菩提寺に定め、以後代々埋地されます。特に奥医師に任ぜられた五代元孝は、金保から多紀に性を改め、城官寺墓地の一角に墓所を設けます。この多紀家墓所には、五代元孝から十代元佶までの墓標が規則的に配置され、墓所以外には二代元尚から四代元燕の墓標が良好に保存されています。
墓所一帯は、昭和一一年に「多紀桂山一族墓」として標識されていましたが、近世医官の墓所としてまれな規模であることから、平成二三年に「多紀家墓所 附金保氏墓 四基」として史跡に指定されています。
江戸時代には行方不明となっていた初代元泰の墓ですが、戦後、磯ヶ谷紫江により、宝塔東側の崖下に土留めとして使われていたところを発見されます。近年、池上本門寺により現在の場所に移築されました。
初代元泰の墓は、多紀家一族の系譜を墓標からたどるうえで重要ですが、埋葬当時の場所ではないことから、「附 金保氏墓四基」に加え、「多紀家墓所 附 金保氏墓 五基」として追加指定されました。
平成二七年三月 建設 東京都教育委員会」

【多宝塔東】
○奥絵師狩野家墓所 東京都史跡
(説明板)
「東京都指定史跡
奥絵師狩野家墓所
附 改葬墓 十五基 分骨墓 一基
筆塚 四基 改葬記念碑 一基
木製位牌 四十六基 墓出土品 一括
所在地 大田区池上一−一−三五
二−一○
二−ー一−一五
指定 平成二十五年三月二十五日
奥絵師狩野家墓所は、御用絵師として江戸幕府の画業を掌握した狩野四家(中橋狩野家、鍛冶橋狩野家、木挽町狩野家、浜町狩野家)の墓所です。指定面積は二九七・四七平方メートルで、宝塔の東と南西側、五重塔周辺といった、池上本門寺墓所において重要な場所に形成されています。最も古い紀年は、狩野孝信供養等に刻まれた元和五年(一六一九)ですが、没年や墓標の形式からみて、埋葬が始まったのは、寛永年間(一六二四〜一六四四)以降と考られます。
宗家である中橋狩野家は、宝塔南東側に墓域を定め、墓標は主に笠付角柱形を採用しています。狩野探幽を祖とする鍛冶橋狩野家は、探幽が宝塔南西に埋葬されて以降、宝塔北東一帯を墓域としていたようですが、明治初年の改修で二基に合葬されました。墓標型式は笠付碑形です。なお、探幽墓の左隣にある瓢箪形の墓標は、分骨墓で、目黒区永隆寺にあったものを昭和十一年(一九三六)に改葬したものです。
木挽町狩野家は、二代常信、三代周信、九代養信が、紀州徳川家専用墓所の入口付近(現在の五重塔周辺)に埋葬、四代古信以降は主に宝塔南西を埋地としています。墓標は圭頭方柱で、側面に「木」字が陰刻されています。また木挽町狩野家から分家を許された浜町狩野家は、初代岑信が探幽墓正面左前に埋葬された後、その南側を暮域としています。その後、文化年間(一八○四〜一八一八)以降は宝塔東側に暮域が展開しています。
当主の墓標は家系ごとに規格性があり、法印や法眼に叙せられた当主墓は台座に亀趺を有することが一般的です。
なお、狩野探幽墓は東京都指定旧跡でしたが、旧跡を解除し、奥絵師狩野家墓所に含めて史跡に指定されました。
平成二六年三月 建設 東京都教育委員会」

説明板を挟んで三基並んでいるのが、左から、
「狩野主馬尚信墓」 慶安3(1650)年 「圓心院實諦日徳」
「狩野左近貞信墓」 元和9(1623)年 「安心院殿貞信日理大居士」
「狩野右近孝信墓」 元和4(1618)年 「圓大院孝信日養」



「狩野孝信墓」

「狩野宗家累代墓」

「狩野祐清英信墓」
中橋十一代目。 宝暦13(1763)年 「如川院殿大蔵卿」。精緻な亀跌に乗っています。「狩野宗家累代墓」の右手にあります。




「狩野融川寛信墓」
浜町五代目。文化12(1815)年 「畫院法眼狩野融川藤原寛信先生之墓」。石階段を上がって、右手にあります。精緻な亀跌に乗っています。




他、以下の墓があります。よくわからない案内です。
【多宝塔西の墓域】
○狩野探幽墓所 東京都史跡
多宝塔西には、亀跌墓が六基あります。


「狩野探幽墓」
江戸幕府御用絵師・狩野探幽守信(1602〜1674)の墓所です。瓢箪形石塔と碑形墓が並んでいます。戒名「玄徳院殿前法眼守信日道」が刻まれています。


「狩野随川岑信墓」
浜町狩野家始祖。 宝永5(1708)年 「覺樹院殿岑信大盛日量大居士」。亀跌墓です。狩野探幽墓前にあります。こちらに向いている亀跌です。



「狩野栄川古信墓」
木挽町狩野家四代目。 享保16(1731)年 「法性院古信日是大居士」。亀跌墓です。狩野探幽墓前にあります。


「狩野友信夫妻墓」
浜町狩野友信(天保14(1843)年〜明治45(1912)年)の墓所です。「春川院殿友信日聖居士」。亀跌に乗っています。狩野探幽墓後ろにあります。墓所は染井霊園で、こちらは分骨です。

「狩野栄川院典信墓」
木挽町狩野家六代目。寛政2(1790)年 「法壽院殿榮川院法印白玉翁典信日妙大居士」。亀跌に乗っています。狩野探幽墓後ろ右にあります。


「狩野養川院惟信墓」
木挽町狩野家七代目。文化5(1808)年 「養川院殿玄之齋法印惟信日詔大居士」。亀跌に乗っています。狩野探幽墓後ろ右に、七代目と八代目と並んでいます。



「狩野伊川院栄信墓」
木挽町狩野家八代目。文政11(1828)年 「伊川院殿玄賞齋法印榮信日宣大居士」。亀跌に乗っています。狩野探幽墓後ろ右に、七代目と八代目と並んでいます。


○紀伊徳川家墓所 大田区文化財
多宝塔裏の宝塔を見下ろす斜面に、紀伊徳川家の墓域があります。お万の方(家康側室)をはじめ、紀州徳川家奥方の墓塔が立ち並んでいます。




「江戸名所図会 本門寺」
江戸名所図会でも描かれています(抜粋)。

(説明板)
「大田区文化財 紀伊徳川家墓所
この墓所は、養珠院お万の方〔承応二年(一六五三(没〕、および瑤林院〔寛文六年(一六六六)没〕をはじめ、主として江戸藩邸で没した紀伊藩主の内室(令夫人)を埋葬したものである。
墓域の規模、構築の優美さなど、幕府直系大名の墓所としての威容をを示している。
徳川家康の側室で紀伊家初代頼宣、水戸家初代頼房の生母であるお万の方は、熱心な法華経信者でもあった。その薫化により日蓮宗に帰依した頼宣は、同じく法華経を信奉することが篤かった加藤清正の息女の瑤林院を妻として、以来、上本門寺との関係がより深いものとなった。
昭和五十年三月十九日指定 大田区教育委員会」

【右から左へ】
「松寿院 宝篋印塔」
初代徳川頼宣の娘。延宝6(1678)年没。「松寿院」


「真空院 宝篋印塔」
初代徳川頼宣の子。四歳で夭折。寛永13(1636)年没。「真空院」


「養珠院 宝塔」
階段を上がった正面です。徳川家康側室お万の方。初代頼宣の生母。承応2(1653)年没。「養珠院妙紹日心大姉」



「妙操院 一重塔」
十一代将軍徳川家斉の側室。十一代徳川斉順の生母。天保3(1832)年没。「妙操院殿円譽性日良仁大姉」


「天真院 宝塔」
二代徳川光貞の正室。宝永4(1707)年没。「天眞院殿妙仁日雅大姉尊位」



「瑶林院 宝塔」
初代徳川頼宣の正室。加藤清正の娘。梵鐘、妙見菩薩像を寄進。寛文6(1666)年没。「瑶林院淨秀日芳大姉」



「霊岳院 宝塔」
二代徳川光貞の娘。徳川吉宗の姉。出羽久保田藩佐竹義苗室。元禄6(1693)年没。「霊岳院殿日觀淨境大姉」



「寛徳院 宝塔」
八代将軍徳川吉宗の正室。宝永7(1710)年没。「寛徳院殿玄眞日中大姉尊靈」



大坊坂(池上)
○大坊坂 大田区池上2-10・2-11
加藤清正の寄進によって「此経難持坂」が造営されるまで、大坊坂が本門寺への参道でした。大坊坂は、六層になった石段坂です。途中、下に下る石段があり、その先に朱塗りの多宝塔があります。坂下を右に曲がると大坊本行寺の赤門前に出ます。
「江戸名所図会」
江戸名所図会の大坊坂部分の抜粋です。

「日蓮大聖人御入滅之霊場
この石段下 本山大坊本行寺」


<木標「大坊坂」>
木識には、
「『新編武蔵風土記稿』に 「大坊坂方丈の右の坂なり、大坊へ行く道なればこの名あり。」と記されている。
本門寺山内西脇の石段坂で坂下に大坊と呼ばれる本行寺がある。」とあります。
「昭和五十九年三月 大田区」



<宗祖御入滅旧跡 石坂>

<御硯水/御廟所 道標>
天明元(1781)年銘の道標です。
「祖師御硯水道(そしおんすゝりみつミち)」
「祖師御廟所道」



<鍵屋墓>
善國寺管理墓地入口に江戸時代の花火師「鍵屋」の墓があります。「芝口 鍵屋」とあります。花火を乗せています。




<多宝塔への入口>
「日蓮大聖人御荼毘處 多寶塔」
(説明板)
「重要文化財
池上本門寺多宝塔
宗祖日蓮大聖人の御尊骸を荼毘に付した霊蹟に建つ供養塔。建立は宗祖五百五十遠忌を期して行われ、江戸芝口講中の本願により、文政十一年(一八二八)に上棟、同十三年(天保元年)に開堂供養を修している。石造の方形基壇に築いた円形蓮華座の上に建つ木造宝塔形式の建物で、内外ともに漆や彩色によって華やかな装飾が施されている。塔内中央には金箔や彩色で装飾された華麗な木造宝塔を安置し、日蓮大聖人御所持の水晶念珠を奉安している。
宝塔形式の木造塔婆は極めて現存例が少なく、当山多宝塔はその中でも最大規模を誇る本格的な宝塔として、極めて重要な建物である。
なお、「多宝塔」の名称は建立当初から呼称されているものであり、文化財としての名称は「池上本門寺宝塔」である。
平成二十三年三月 池上本門寺」



<題目塔道標>
宝暦10(1760)年銘の題目塔道標です。
(正面)「南無妙法蓮華経宗祖大士焚焼處」
(左面) 弘安5(1282)年10月13日と、日蓮聖人入滅の日が刻まれています。
(右面) 宝暦10(1760)年に妙禅院日定による起立です。




<大坊坂下>
多宝塔へは、大坊坂途中の入口から石階段を下りるか、大坊坂下から左手に進むと、墓地を経由して高低差なく着きます。

加藤清正の寄進によって「此経難持坂」が造営されるまで、大坊坂が本門寺への参道でした。大坊坂は、六層になった石段坂です。途中、下に下る石段があり、その先に朱塗りの多宝塔があります。坂下を右に曲がると大坊本行寺の赤門前に出ます。
「江戸名所図会」
江戸名所図会の大坊坂部分の抜粋です。

「日蓮大聖人御入滅之霊場
この石段下 本山大坊本行寺」


<木標「大坊坂」>
木識には、
「『新編武蔵風土記稿』に 「大坊坂方丈の右の坂なり、大坊へ行く道なればこの名あり。」と記されている。
本門寺山内西脇の石段坂で坂下に大坊と呼ばれる本行寺がある。」とあります。
「昭和五十九年三月 大田区」



<宗祖御入滅旧跡 石坂>

<御硯水/御廟所 道標>
天明元(1781)年銘の道標です。
「祖師御硯水道(そしおんすゝりみつミち)」
「祖師御廟所道」



<鍵屋墓>
善國寺管理墓地入口に江戸時代の花火師「鍵屋」の墓があります。「芝口 鍵屋」とあります。花火を乗せています。




<多宝塔への入口>
「日蓮大聖人御荼毘處 多寶塔」
(説明板)
「重要文化財
池上本門寺多宝塔
宗祖日蓮大聖人の御尊骸を荼毘に付した霊蹟に建つ供養塔。建立は宗祖五百五十遠忌を期して行われ、江戸芝口講中の本願により、文政十一年(一八二八)に上棟、同十三年(天保元年)に開堂供養を修している。石造の方形基壇に築いた円形蓮華座の上に建つ木造宝塔形式の建物で、内外ともに漆や彩色によって華やかな装飾が施されている。塔内中央には金箔や彩色で装飾された華麗な木造宝塔を安置し、日蓮大聖人御所持の水晶念珠を奉安している。
宝塔形式の木造塔婆は極めて現存例が少なく、当山多宝塔はその中でも最大規模を誇る本格的な宝塔として、極めて重要な建物である。
なお、「多宝塔」の名称は建立当初から呼称されているものであり、文化財としての名称は「池上本門寺宝塔」である。
平成二十三年三月 池上本門寺」



<題目塔道標>
宝暦10(1760)年銘の題目塔道標です。
(正面)「南無妙法蓮華経宗祖大士焚焼處」
(左面) 弘安5(1282)年10月13日と、日蓮聖人入滅の日が刻まれています。
(右面) 宝暦10(1760)年に妙禅院日定による起立です。




<大坊坂下>
多宝塔へは、大坊坂途中の入口から石階段を下りるか、大坊坂下から左手に進むと、墓地を経由して高低差なく着きます。


- 関連記事
車坂(池上)
○車坂 大田区池上2丁目
江戸時代、荷車を通す坂ということで車坂と呼ばれるようになったと考えられています。江戸時代にはすでにあった古い坂道です。




<車坂標柱>
「車坂(くるまざか)」
「『新編武蔵風土記稿』に「車坂、経蔵の背後の坂なり」とあり、また、「池上長泉山本門寺記」天明元年(一七八一)には、車坂が描かれている。
昔からある古い坂道である。」
「昭和六十一年三月 大田区」


<本門寺車道>
昭和33(1956)年に設置されています。


○星亨の墓 大田区池上2-11-15
車坂の途中に、伊藤博文とともに立憲政友会を結党する等の政治活動を行った「星亨」(ほしとおる)の墓所があります。田山花袋も「一日の行楽」で星亨の墓に言及しており、訪れたようです。
<明治43年銘の道標>
「星先生墓道
田屋豊松石墓道」
※ 田屋豊松は星派の自由党壮士で、新富町の芸者を巡って争っていた同じく星派の自由党壮士である川上行義に。
明治42(1909)年、政友会創立十周年記念会会場で刺殺されています。





<星亨之墓>




「星亨の肖像」(近世名士写真其2 昭和10年)
星亨(ほしとおる)嘉永3(1850)年4月〜明治34(1901)年6月21日

<陸奥白河藩阿部家の墓所>
星亨の墓の奥にあります。



江戸時代、荷車を通す坂ということで車坂と呼ばれるようになったと考えられています。江戸時代にはすでにあった古い坂道です。




<車坂標柱>
「車坂(くるまざか)」
「『新編武蔵風土記稿』に「車坂、経蔵の背後の坂なり」とあり、また、「池上長泉山本門寺記」天明元年(一七八一)には、車坂が描かれている。
昔からある古い坂道である。」
「昭和六十一年三月 大田区」


<本門寺車道>
昭和33(1956)年に設置されています。


○星亨の墓 大田区池上2-11-15
車坂の途中に、伊藤博文とともに立憲政友会を結党する等の政治活動を行った「星亨」(ほしとおる)の墓所があります。田山花袋も「一日の行楽」で星亨の墓に言及しており、訪れたようです。
<明治43年銘の道標>
「星先生墓道
田屋豊松石墓道」
※ 田屋豊松は星派の自由党壮士で、新富町の芸者を巡って争っていた同じく星派の自由党壮士である川上行義に。
明治42(1909)年、政友会創立十周年記念会会場で刺殺されています。





<星亨之墓>




「星亨の肖像」(近世名士写真其2 昭和10年)
星亨(ほしとおる)嘉永3(1850)年4月〜明治34(1901)年6月21日

<陸奥白河藩阿部家の墓所>
星亨の墓の奥にあります。




- 関連記事
本門寺門前
【本門寺門前】
○元禄9年道標 大田区池上4-25-7
池上道(平間街道)に所在する藤乃屋(葛餅屋)の玄関前に元禄9(1696)年銘の道標があります。



(正面)「南無妙法蓮華経 元禄九丙 題目講中 三十人」


(右面)「是与りひ多り か王さきみち」
「古川道」



(左面)「是与りみき こすきみち」
「新た道」



○明治8年の町屋建築 大田区池上4-23-6(萬屋酒店)
明治8(1875)年に建て替えられた町屋建築で、当初は茶屋だったころの様子を今に伝えています。






本門寺参道と池上道(平間街道)の交差する角地に茶屋があるのが江戸名所図会でもわかります。


○霊山橋と題目塔
霊山橋で呑川を渡ると左右に塔頭が立ち並ぶ寺域に入ります。題目塔は、江戸名所図会に描かれた場所に昔から建っています。



「江戸近郊八景之内 池上晩鐘」(広重 天保9(1838)年)
池上本門寺の96段ある石段坂、総門、本堂、五重塔が見えます。

題目塔部分を抜粋します。

<題目塔>
霊山橋の手前に文化8(1811)年銘の建題目宝塔「南無妙法蓮華経」があります。
右「一天四海皆帰妙法」、左「天下泰平国土安穏」


○元禄9年道標 大田区池上4-25-7
池上道(平間街道)に所在する藤乃屋(葛餅屋)の玄関前に元禄9(1696)年銘の道標があります。



(正面)「南無妙法蓮華経 元禄九丙 題目講中 三十人」


(右面)「是与りひ多り か王さきみち」
「古川道」



(左面)「是与りみき こすきみち」
「新た道」



○明治8年の町屋建築 大田区池上4-23-6(萬屋酒店)
明治8(1875)年に建て替えられた町屋建築で、当初は茶屋だったころの様子を今に伝えています。






本門寺参道と池上道(平間街道)の交差する角地に茶屋があるのが江戸名所図会でもわかります。


○霊山橋と題目塔
霊山橋で呑川を渡ると左右に塔頭が立ち並ぶ寺域に入ります。題目塔は、江戸名所図会に描かれた場所に昔から建っています。



「江戸近郊八景之内 池上晩鐘」(広重 天保9(1838)年)
池上本門寺の96段ある石段坂、総門、本堂、五重塔が見えます。

題目塔部分を抜粋します。

<題目塔>
霊山橋の手前に文化8(1811)年銘の建題目宝塔「南無妙法蓮華経」があります。
右「一天四海皆帰妙法」、左「天下泰平国土安穏」


- 関連記事
- カウンター