龍眼寺(萩寺)
○龍眼寺(萩寺) 江東区亀戸3-34-2 HP
江戸名所図会などにも描かれた江戸の萩の名所です。
「江戸切絵図」
「龍眼寺 萩寺ト云」と記されています。
「江戸名所図会 龍眼寺」
「絵本江戸土産 押上萩寺」(広重)
<龍眼寺(布袋尊)>
(説明板)
「江東みちしるべ
龍眼寺(布袋尊)
由来
龍眼寺は天台宗で、慈雲山無量院と号し、創建は応永2年(1395)と伝えられます。
当寺は萩寺の名で知られ、江戸時代の地誌『江戸名所図絵』には、萩を愛でる人々でにぎわう様子が描かれています。
また、境内の万治2年(1659)造立の庚申塔は、区内で確認されているもののうち最古のものです。
亀戸七福神のひとつ(布袋尊)として親しまれています。」
<石標柱「萩寺史跡」>
<龍眼寺山門>
山門左には、榎本其角、大納言家長郷の句が刻まれています。
「つき見とも見えずや露あり庭の萩 其角」
「ききしより見る目ぞまさるこの寺の庭に散りしく萩の錦は 家長郷」
山門右には、松尾芭蕉の句が彫られています。
「濡れてゆく人もおかしや雨の萩 芭蕉」
【歴史と文化を考えよう】
<木像聖観音菩薩立像>
(説明板)
「江東区指定有形文化財(彫刻)
木造聖観音菩薩立像 一躯
亀戸三ー三四‐二 龍眼寺
平成一二年三月二七日指定
聖観音菩薩立像は龍眼寺の本尊です。像高は一○四cmで、一木から頭・体を木取りした後、干割れを防ぐためにそれぞれを前後に割り、内側をくり抜いて再び接合した割矧造りです。頭部は耳後ろで前後の材を矧ぎ合わせ、胴体に差し込まれています。
本像は頭部に宝髻を結い、左手は臂を曲げて胸前で蓮華をとり、右手は軽く臂を曲げて下げ、蓮華座上に腰をひねって立っています。像容は顔がまるく穏やかな表情がうかがえ、着衣は浅い彫りのなだらかな起伏によって表現されており、ゆったりとしています。
本像は江東区にとっては数少ない平安時代末期から鎌倉時代初期の作と考えられ、たいへん貴重です。
平成一四年三月 江東区教育委員会」
<庚申塔>
(説明板)
「江東区指定有形文化財
庚申塔 万治二年在銘
江東区亀戸三ー三四‐二 龍眼寺
平成一九年三月二六日指定
庚申塔は庚申信仰という民間信仰に基づいて建てられたものです。庚申信仰とは、人の体内には三尸という虫が棲んでおり、六十日ごとにめぐってくる庚申の夜、人々が眠っている間に体から抜け出して天に昇り、天帝にその人の罪を訴えるので寿命を縮めるといわれ、この夜は眠らず過ごし健康と長寿を願うというものです。
本庚申塔は万治二年(一六五九)の銘をもち、庚申塔の中でも比較的早い段階に属し、区内では最古のものです。正面上部に三つの種子が刻まれ、その下に三猿(見ざる・言わざる・聞かざる)が並んでいます。銘文は三猿の下にあり、姓を持つ十組の夫婦が現世と来世の二世安楽を願って奉納したことが分かります。
龍眼寺は、江戸時代の中ごろにたくさんの萩が植えられたことから萩寺の名で親しまれ、萩の季節には多くの人々で賑いました。このあたりは江戸時代には柳島村に含まれ、庚申塔が建てられた万治二年は、柳島村の成立した初期にあたります。代々柳島村の村役人をつとめた大沢八郎右衛門と同じ姓を持つ人名が刻銘に見られることから、奉納者は柳島村の草分け的な存在であったと考えられます。また、女性が加わっていることもこの時期の庚申塔としては珍しく、大きな特徴といえます。
平成二十年佐三月 江東区教育委員会」
<芭蕉句碑>
「ぬれて行人もおかしや雨の萩 芭蕉」
<境内>
<地蔵堂>
<布袋堂>
<不動堂>
<供養碑(句碑)>
「ゆきし子は永劫老いず楠若葉 一亭
昭和四十八年六月四日 大沢欽治 建立」
<森総彦句碑>
「総彦 青梅や 小さき息を 大切に」
<落合直文の歌碑>
「萩寺の萩 面白し つゆの身の おくつきところ こことさだめむ 直文」
<石田波郷・石塚友二句碑>
「槇の空 秋押し移り ゐたりけり 波郷
たかむなの 疾迅わが背 越す日かな 友二」
<千載庵仲成歌碑>
「聞しより 来て見や □野の染付は いふもさらなり 萩のにしき手 千載庵仲成」
<冬嶺・市町句碑>
「ひと色を千々の錦や萩見寺 冬嶺
露の世にこぼさぬ露や萩の上 市町」
<百寿句碑>
「百寿 春盛る梅はうしろよ萩の花」
<羅舎一堂句碑>
「羅舎一堂 月や秋あきや夜にして十五日」
<夢佛庵くに□句碑>
「夏痩を驚く秋の寝覚哉 夢佛庵くに□」
<池月一陽子 句碑>
「遍照や萩三百の刈株も 一陽子」
<龍眼寺の柳>
説明板は、柳については言及していません。江戸名所絵図は、江戸名所図会の誤植です。
(説明板)
「龍眼寺の柳
應永二年(一、三九六)開基良博大和尚が、此処亀戸柳島村に村人の依頼により「柳源寺」を建立、後に「龍眼寺」(時代不明)と改められた。又元珍大和尚・元禄六年(一、六九三)萩を好み、全国より集め、「萩寺」と呼ばれ、文人墨客が集まり江戸の多く人々に親しまれ、江戸名所絵図、江戸砂子等にも描かれている。」
<客殿>
<八聖堂(本堂)>
本堂は八角堂となっています。
(説明板)
「本堂
天台宗 慈雲山無量院龍眼寺
本 尊 聖観世音菩薩
江東区有形文化財・現在の区内最古の仏像
應永二年(一、三九六)平安末期鎌倉時代の作(作者不明)開山良博大和尚(千葉氏の出)比叡山での修行を終え、帰国の途中、柳島の辻堂に一泊、その夜観世音菩薩が夢枕に現われ「汝の守るべき観世音菩薩と村の守護神の御神体がこの床下に在る」とのお告げにより授かり、至心に祈願した。当時村には疫病が流行していたが忽ち平癒した。村人の願いにより「柳源寺」を建立し、その聖観世音菩薩を本尊とし、厄除・眼病平癒の観音様として現在でも信仰を集めている。
その後現在の「龍眼寺」(時代不明)に改められた。
御神体は天祖神社として祀られた。本堂は夢殿を模した八角堂で八聖(正)堂という。八聖(正)道とは、理想の境地に達するために実践する正しい生活態度のことである。
一、正見 正しい見解
二、正思 正しい思い
三、正語 正しいことぼ
四、正業 正しい行為
五、正命 正しい生活
六、正精進 正しい努力・勤め
七、正念 正しい信念・気づかい
八、正定 正しい精神統一」
江戸名所図会などにも描かれた江戸の萩の名所です。
「江戸切絵図」
「龍眼寺 萩寺ト云」と記されています。
「江戸名所図会 龍眼寺」
「絵本江戸土産 押上萩寺」(広重)
<龍眼寺(布袋尊)>
(説明板)
「江東みちしるべ
龍眼寺(布袋尊)
由来
龍眼寺は天台宗で、慈雲山無量院と号し、創建は応永2年(1395)と伝えられます。
当寺は萩寺の名で知られ、江戸時代の地誌『江戸名所図絵』には、萩を愛でる人々でにぎわう様子が描かれています。
また、境内の万治2年(1659)造立の庚申塔は、区内で確認されているもののうち最古のものです。
亀戸七福神のひとつ(布袋尊)として親しまれています。」
<石標柱「萩寺史跡」>
<龍眼寺山門>
山門左には、榎本其角、大納言家長郷の句が刻まれています。
「つき見とも見えずや露あり庭の萩 其角」
「ききしより見る目ぞまさるこの寺の庭に散りしく萩の錦は 家長郷」
山門右には、松尾芭蕉の句が彫られています。
「濡れてゆく人もおかしや雨の萩 芭蕉」
【歴史と文化を考えよう】
<木像聖観音菩薩立像>
(説明板)
「江東区指定有形文化財(彫刻)
木造聖観音菩薩立像 一躯
亀戸三ー三四‐二 龍眼寺
平成一二年三月二七日指定
聖観音菩薩立像は龍眼寺の本尊です。像高は一○四cmで、一木から頭・体を木取りした後、干割れを防ぐためにそれぞれを前後に割り、内側をくり抜いて再び接合した割矧造りです。頭部は耳後ろで前後の材を矧ぎ合わせ、胴体に差し込まれています。
本像は頭部に宝髻を結い、左手は臂を曲げて胸前で蓮華をとり、右手は軽く臂を曲げて下げ、蓮華座上に腰をひねって立っています。像容は顔がまるく穏やかな表情がうかがえ、着衣は浅い彫りのなだらかな起伏によって表現されており、ゆったりとしています。
本像は江東区にとっては数少ない平安時代末期から鎌倉時代初期の作と考えられ、たいへん貴重です。
平成一四年三月 江東区教育委員会」
<庚申塔>
(説明板)
「江東区指定有形文化財
庚申塔 万治二年在銘
江東区亀戸三ー三四‐二 龍眼寺
平成一九年三月二六日指定
庚申塔は庚申信仰という民間信仰に基づいて建てられたものです。庚申信仰とは、人の体内には三尸という虫が棲んでおり、六十日ごとにめぐってくる庚申の夜、人々が眠っている間に体から抜け出して天に昇り、天帝にその人の罪を訴えるので寿命を縮めるといわれ、この夜は眠らず過ごし健康と長寿を願うというものです。
本庚申塔は万治二年(一六五九)の銘をもち、庚申塔の中でも比較的早い段階に属し、区内では最古のものです。正面上部に三つの種子が刻まれ、その下に三猿(見ざる・言わざる・聞かざる)が並んでいます。銘文は三猿の下にあり、姓を持つ十組の夫婦が現世と来世の二世安楽を願って奉納したことが分かります。
龍眼寺は、江戸時代の中ごろにたくさんの萩が植えられたことから萩寺の名で親しまれ、萩の季節には多くの人々で賑いました。このあたりは江戸時代には柳島村に含まれ、庚申塔が建てられた万治二年は、柳島村の成立した初期にあたります。代々柳島村の村役人をつとめた大沢八郎右衛門と同じ姓を持つ人名が刻銘に見られることから、奉納者は柳島村の草分け的な存在であったと考えられます。また、女性が加わっていることもこの時期の庚申塔としては珍しく、大きな特徴といえます。
平成二十年佐三月 江東区教育委員会」
<芭蕉句碑>
「ぬれて行人もおかしや雨の萩 芭蕉」
<境内>
<地蔵堂>
<布袋堂>
<不動堂>
<供養碑(句碑)>
「ゆきし子は永劫老いず楠若葉 一亭
昭和四十八年六月四日 大沢欽治 建立」
<森総彦句碑>
「総彦 青梅や 小さき息を 大切に」
<落合直文の歌碑>
「萩寺の萩 面白し つゆの身の おくつきところ こことさだめむ 直文」
<石田波郷・石塚友二句碑>
「槇の空 秋押し移り ゐたりけり 波郷
たかむなの 疾迅わが背 越す日かな 友二」
<千載庵仲成歌碑>
「聞しより 来て見や □野の染付は いふもさらなり 萩のにしき手 千載庵仲成」
<冬嶺・市町句碑>
「ひと色を千々の錦や萩見寺 冬嶺
露の世にこぼさぬ露や萩の上 市町」
<百寿句碑>
「百寿 春盛る梅はうしろよ萩の花」
<羅舎一堂句碑>
「羅舎一堂 月や秋あきや夜にして十五日」
<夢佛庵くに□句碑>
「夏痩を驚く秋の寝覚哉 夢佛庵くに□」
<池月一陽子 句碑>
「遍照や萩三百の刈株も 一陽子」
<龍眼寺の柳>
説明板は、柳については言及していません。江戸名所絵図は、江戸名所図会の誤植です。
(説明板)
「龍眼寺の柳
應永二年(一、三九六)開基良博大和尚が、此処亀戸柳島村に村人の依頼により「柳源寺」を建立、後に「龍眼寺」(時代不明)と改められた。又元珍大和尚・元禄六年(一、六九三)萩を好み、全国より集め、「萩寺」と呼ばれ、文人墨客が集まり江戸の多く人々に親しまれ、江戸名所絵図、江戸砂子等にも描かれている。」
<客殿>
<八聖堂(本堂)>
本堂は八角堂となっています。
(説明板)
「本堂
天台宗 慈雲山無量院龍眼寺
本 尊 聖観世音菩薩
江東区有形文化財・現在の区内最古の仏像
應永二年(一、三九六)平安末期鎌倉時代の作(作者不明)開山良博大和尚(千葉氏の出)比叡山での修行を終え、帰国の途中、柳島の辻堂に一泊、その夜観世音菩薩が夢枕に現われ「汝の守るべき観世音菩薩と村の守護神の御神体がこの床下に在る」とのお告げにより授かり、至心に祈願した。当時村には疫病が流行していたが忽ち平癒した。村人の願いにより「柳源寺」を建立し、その聖観世音菩薩を本尊とし、厄除・眼病平癒の観音様として現在でも信仰を集めている。
その後現在の「龍眼寺」(時代不明)に改められた。
御神体は天祖神社として祀られた。本堂は夢殿を模した八角堂で八聖(正)堂という。八聖(正)道とは、理想の境地に達するために実践する正しい生活態度のことである。
一、正見 正しい見解
二、正思 正しい思い
三、正語 正しいことぼ
四、正業 正しい行為
五、正命 正しい生活
六、正精進 正しい努力・勤め
七、正念 正しい信念・気づかい
八、正定 正しい精神統一」
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