吾嬬神社
○吾嬬神社 墨田区立花1-1-15
吾嬬神社は、日本武尊の妻、弟橘姫(おとたちばなひめ)をお祀りしています。吾嬬は「わが妻」の意とされます。
弟橘姫は日本武尊の東征に同行し、上総にむかう海上で暴風雨を鎮めるために海に身を投げました。 その後、日本武尊が吾嬬の森付近に流れ着いた妻の遺品を集め、塚を作り祀ったと言われます。
境内にあった連理の樟(相生の樟)は日本武尊が使った箸を地に刺したところ、1つの根から2つの幹を持つ樟が育ったと伝わります。 大正時代に枯れ、根と幹の一部が残されています。
現在の立花の地名は、弟橘姫に由来します。また、隅田川に架かる吾妻橋は、吾嬬神社への参道だったことから、その名前が付けられています。
太田道灌が長禄元(1457)年、江戸城築城の際に方除け守護神として江戸周辺に祀った「方除け七稲荷(道灌七稲荷)」の一つです (道灌七稲荷=柳森稲荷社 烏森稲荷社 杉森稲荷社 雀森稲荷社 吾嬬森稲荷社 宮戸森稲荷社 東灌森稲荷神社) 。また江戸七森の一つでもあります。
「江戸切絵図」
北十間川の北に「吾妻大権現」が見えます。
「江戸名所図会 吾嬬森 吾嬬権現 連理樟」
池の東と西に参道が見え、多くの幟が立ち並んでいます。神樟の葉を煎じて飲むと、諸病に効くとされており、そのお礼参りの幟です。 池の東の参道を行く子連れの人は。奉納の幟を持っています。
池の西の参道には小川に神橋が架かっています。「本社」には高くそびえる「神木樟」が見えます。本社の左手には「いなり」とあります。
「江戸遊覧花暦 吾妻森楠」(岡山鳥)
楠の二股の幹と、「吾妻森大権現」の幟をお持ちの人が描かれています。幟はこれから奉納するのでしょう。
挿絵には、「吾妻大権現へやまひあるもの願かけして庵主に楠葉を乞うけてせんじ用ゆればかならず治す 中にも癪の病のぐわんをよくききたまふと言へり よって本復なせし人々神前に幟を奉なり」とあります。
「江戸名所図会 日本武尊東夷征伐」
(挿絵注記)
「日本武尊東夷征伐したまふ時相模国より上総国に征かんとしたまひし 其海上暴風忽に起り 王船漂蕩と危かりしかば 妾弟橘媛自の御身をもて贖ひ尊の命をたすけまゐらせんことを海神に誓ひ竟に瀾を披けて入たまひぬることは日本紀にみえたり」
「名所江戸百景 吾嬬の森連理の梓」(広重)
2つの参道には赤い幟、青い幟、白い幟が立ち並んでいます。境内には、連理の樟がそびえています。タイトルの梓は樟の誤植です。
「絵本江戸土産 吾嬬の森」(広重)
名所江戸百景観と同じ方向から描かれています。吾嬬の森の浮洲の様子が見てとれます。
「江戸近郊八景之内 吾嬬杜夜雨」(広重)
江戸近郊八景として吾嬬杜の夜雨を描いています。
「東都旧跡尽 吾嬬森の故事」(広重)
広重は、吾嬬森の故事を描いています。
「江戸名所道化盡 三十五 吾嬬の森梅見」(歌川広景 東京都立図書館蔵)
「連理の樟」が中央にひときわ高くそびえています。神樟の葉を煎じて飲むと、諸病に効くとされており、そのお礼参りの「赤い幟」が立ち並んでいます。
<北十間川>
<社号標>
北十間川沿いの土手道路から石段を降ります。社号標「吾嬬神社/(裏)産業報告塔」
<吾嬬神社縁起>
<当社主な御祭事>
「当社主な御祭事
元旦祭 一月一日
末社 福神稲荷祭 二月
吾嬬神社例祭 八月
有栖川宮親王御歌
橘のむかしのゆかり志のばるる
あずまの社の神さびにけり
拝殿正面ノ角石吾嬬森碑は
国学者山県大弐先生の作詞あり
境内西隅社務所前の巨大な石碑は
山県大弐先生遺徳顕彰碑である
平成二十四年十月 七十八歳老書
(木雪)澤信博」
<紀真顔高麗剣の歌碑>
入ってすぐ左手に紀真顔高麗剣の歌碑があります。文政12(1829)年建碑、昭和40(1965)年9月破損の為再建とあります。
(表)
「俳諧歌場、紀真顔
高麗剣わざこそ歌の一風流を
我たましひと人強く磨けり
文政十二年六月六日」
(裏)「昭和四十年九月破損の為再建之」
<睦碑>
<神橋>
江戸名所図会にも描かれている神橋です。
<源延平歌碑>
鳥居手前左手に「源延平歌碑」。「皇国はかみ代のままの道しあれことなる文のをしへ何せむ」
<縁起石碑>
鳥居手前右手に「縁起石碑」。裏には天明3(1783)年銘で「天下泰平国家安全」と刻まれています。
<古い社号標>
一戸兵衛大将の揮毫による社号標「吾嬬神社」。
<社殿と石鳥居>
社殿は、石垣で高くなったところにあります。
<手水舎>
鳥居をくぐった左手に手水舎。文化14(1817)年銘の手水鉢です。
<連理の樟> 墨田区登録文化財
鳥居をくぐった右手に「連理の樟」「神樟」碑があります。 連理の樟は、1つの根から2つの幹が出たもので、大正時代には枯れて、
枯れた根と幹が残されています。現在、2代目が植えられています。
<神樟>
昭和39(1964)年8月に建てられた「神樟」碑です。
<吾嬬神社縁起>
<力石群> 墨田区登録文化財
拝殿の左手に5基の力石があります。
「元木場材木町金七擔之 正目四拾六貫四百目 深川親和書」「元木場材木町金七擔之 正目五拾貫貮百目 深川親和書」と刻まれた2個の力石は、書家・三井親和の筆。そのほか、「もののふの鏡なりけり世々までも なを照らします大和ことの葉」と歌が刻まれた「歌石」。 「さし石 下平井村西 亀吉」、無銘1基が置かれています。
<吾嬬森碑> 墨田区登録文化財
拝殿の左手に、山県大貮が明和3(1766)に建立した「下総國葛飾郡 吾嬬森碑」があります。
(説明板)
「墨田区登録文化財
吾嬬森碑
この碑は、明和三年(一七六六)に儒学者山県大貮により建立されたと伝わります。「吾嬬の森」とは、吾嬬神社の代表的な呼び名で、江戸を代表する神社の森のひとつとして『葛西志』や『江戸名所図会』にも紹介されています。碑の内容は、地元に伝わる神社の来歴となっており、日本武尊の東征、尊の妃・弟橘媛の入水により海神の怒りを鎮めたこと、人々がこの神社の地を媛の墓所として伝承し、大切に残してきたことなどが刻まれています。『新編武蔵風土記稿』には、碑は神木の傍らに建てられていたと記されています。
神木とは、墨田区登録文化財である「連理の樟」のことです。一つの根から二つの幹を見せる姿は、歌川広重の『江戸名所百景』にも描かれています。左の絵は広重(※広景の誤りです)の作品『江戸名所道化盡 吾嬬の森梅見』で、中央にひときわ高くそびえるのが「連理の樟」です。
明治四十三年(一九一○)の大水や関東大震災、東京大空襲などにより森は失われましたが、長く地域に根ざした伝承は、この碑を通じても垣間見ることができます。
平成二十一年三月 墨田区教育委員会」
<拝殿>
<本殿>
拝殿の奥に石祠の本殿。柵に囲まれています。
<狛犬> 墨田区登録文化財
安永2(1773)年銘の狛犬です。
(説明板)
「墨田区登録文化財
狛犬 安永二年五月銘
この狛犬は比較的小型の一対ですが、世話人一○名と奉納者二二名もの名前が刻まれています。そのほとんどが築地小田原町(中央区築地六・七丁目)や本船町地引河岸(中央区日本橋本町)など日本橋の商人であることから、海運・漁業関係者とのつながりをよく表しているといってよいでしょう。このことは吾嬬神社の由来に起因しています。
日本の神話に、日本武尊命が現在の東京湾を舟で渡っている時に海神の怒りに触れ、往生していた時に妻の弟橘媛が海に身を投げて海神の怒りを鎮めたという話があります。この媛の品が流れ着いた所がこの地だったということです。以来、海や川で働く人々の守護神として信仰されてきたわけです。
また、昔は地盤沈下していなかったため、この社の裏の「吾嬬の森」と呼ばれた森が小山のように広がり、海上からの好目標だったことも崇敬を集めた理由のひとつでしょう。
現在、鉄柵の奥にあるため近づくことはできませんが、かえって台座に刻まれた人名など、良い状態で保存されています。
平成九年三月 墨田区教育委員会」
<講碑>
○福神稲荷神社
拝殿の右手に福神稲荷神社。天保9(1838)年銘の石鳥居です。
「天保九戌戌歳二月初午」 「願主 信濃屋 筆女」
<水盤/神狐>
(説明板)
「福神稲荷神社
御祭神 宇賀之魂之命 大国主之命 金山彦之命
当社は元亀戸四丁目地蔵川岸のほとりに鎮座していましたが(一九二二)吾嬬神社旧社務所の位置に有縁の地とし御遷座もうしあげました その後第二次世界大戦の災禍をうけ周囲家屋他草木に到る迄焼け尽きた中この社殿全く無被害の不思議な現象に奇跡なりと御神徳に人々は驚異の目を見張りました 吾嬬神社復興事業(一九四六)執行の折社殿を現在の場所へ再び御遷座申し上げ此処に吾嬬神社と共に庶民の守護神とて奉祭申し上げて居ります 尚この奇跡の社殿を出来る限り永く保存して次世代に伝え様と略して印す次第であります。
平成九年六月 以上」
<社>
<石祠>
○山県大弐先生遺徳顕彰碑
「神輿庫」の前に、吾嬬森碑の碑文の作者山県大弐の大きな顕彰碑があります。昭和9(1934)年の建碑です。題字は「櫪而不隣」(出典は論語)とあります。
吾嬬神社は、日本武尊の妻、弟橘姫(おとたちばなひめ)をお祀りしています。吾嬬は「わが妻」の意とされます。
弟橘姫は日本武尊の東征に同行し、上総にむかう海上で暴風雨を鎮めるために海に身を投げました。 その後、日本武尊が吾嬬の森付近に流れ着いた妻の遺品を集め、塚を作り祀ったと言われます。
境内にあった連理の樟(相生の樟)は日本武尊が使った箸を地に刺したところ、1つの根から2つの幹を持つ樟が育ったと伝わります。 大正時代に枯れ、根と幹の一部が残されています。
現在の立花の地名は、弟橘姫に由来します。また、隅田川に架かる吾妻橋は、吾嬬神社への参道だったことから、その名前が付けられています。
太田道灌が長禄元(1457)年、江戸城築城の際に方除け守護神として江戸周辺に祀った「方除け七稲荷(道灌七稲荷)」の一つです (道灌七稲荷=柳森稲荷社 烏森稲荷社 杉森稲荷社 雀森稲荷社 吾嬬森稲荷社 宮戸森稲荷社 東灌森稲荷神社) 。また江戸七森の一つでもあります。
「江戸切絵図」
北十間川の北に「吾妻大権現」が見えます。
「江戸名所図会 吾嬬森 吾嬬権現 連理樟」
池の東と西に参道が見え、多くの幟が立ち並んでいます。神樟の葉を煎じて飲むと、諸病に効くとされており、そのお礼参りの幟です。 池の東の参道を行く子連れの人は。奉納の幟を持っています。
池の西の参道には小川に神橋が架かっています。「本社」には高くそびえる「神木樟」が見えます。本社の左手には「いなり」とあります。
「江戸遊覧花暦 吾妻森楠」(岡山鳥)
楠の二股の幹と、「吾妻森大権現」の幟をお持ちの人が描かれています。幟はこれから奉納するのでしょう。
挿絵には、「吾妻大権現へやまひあるもの願かけして庵主に楠葉を乞うけてせんじ用ゆればかならず治す 中にも癪の病のぐわんをよくききたまふと言へり よって本復なせし人々神前に幟を奉なり」とあります。
「江戸名所図会 日本武尊東夷征伐」
(挿絵注記)
「日本武尊東夷征伐したまふ時相模国より上総国に征かんとしたまひし 其海上暴風忽に起り 王船漂蕩と危かりしかば 妾弟橘媛自の御身をもて贖ひ尊の命をたすけまゐらせんことを海神に誓ひ竟に瀾を披けて入たまひぬることは日本紀にみえたり」
「名所江戸百景 吾嬬の森連理の梓」(広重)
2つの参道には赤い幟、青い幟、白い幟が立ち並んでいます。境内には、連理の樟がそびえています。タイトルの梓は樟の誤植です。
「絵本江戸土産 吾嬬の森」(広重)
名所江戸百景観と同じ方向から描かれています。吾嬬の森の浮洲の様子が見てとれます。
「江戸近郊八景之内 吾嬬杜夜雨」(広重)
江戸近郊八景として吾嬬杜の夜雨を描いています。
「東都旧跡尽 吾嬬森の故事」(広重)
広重は、吾嬬森の故事を描いています。
「江戸名所道化盡 三十五 吾嬬の森梅見」(歌川広景 東京都立図書館蔵)
「連理の樟」が中央にひときわ高くそびえています。神樟の葉を煎じて飲むと、諸病に効くとされており、そのお礼参りの「赤い幟」が立ち並んでいます。
<北十間川>
<社号標>
北十間川沿いの土手道路から石段を降ります。社号標「吾嬬神社/(裏)産業報告塔」
<吾嬬神社縁起>
<当社主な御祭事>
「当社主な御祭事
元旦祭 一月一日
末社 福神稲荷祭 二月
吾嬬神社例祭 八月
有栖川宮親王御歌
橘のむかしのゆかり志のばるる
あずまの社の神さびにけり
拝殿正面ノ角石吾嬬森碑は
国学者山県大弐先生の作詞あり
境内西隅社務所前の巨大な石碑は
山県大弐先生遺徳顕彰碑である
平成二十四年十月 七十八歳老書
(木雪)澤信博」
<紀真顔高麗剣の歌碑>
入ってすぐ左手に紀真顔高麗剣の歌碑があります。文政12(1829)年建碑、昭和40(1965)年9月破損の為再建とあります。
(表)
「俳諧歌場、紀真顔
高麗剣わざこそ歌の一風流を
我たましひと人強く磨けり
文政十二年六月六日」
(裏)「昭和四十年九月破損の為再建之」
<睦碑>
<神橋>
江戸名所図会にも描かれている神橋です。
<源延平歌碑>
鳥居手前左手に「源延平歌碑」。「皇国はかみ代のままの道しあれことなる文のをしへ何せむ」
<縁起石碑>
鳥居手前右手に「縁起石碑」。裏には天明3(1783)年銘で「天下泰平国家安全」と刻まれています。
<古い社号標>
一戸兵衛大将の揮毫による社号標「吾嬬神社」。
<社殿と石鳥居>
社殿は、石垣で高くなったところにあります。
<手水舎>
鳥居をくぐった左手に手水舎。文化14(1817)年銘の手水鉢です。
<連理の樟> 墨田区登録文化財
鳥居をくぐった右手に「連理の樟」「神樟」碑があります。 連理の樟は、1つの根から2つの幹が出たもので、大正時代には枯れて、
枯れた根と幹が残されています。現在、2代目が植えられています。
<神樟>
昭和39(1964)年8月に建てられた「神樟」碑です。
<吾嬬神社縁起>
<力石群> 墨田区登録文化財
拝殿の左手に5基の力石があります。
「元木場材木町金七擔之 正目四拾六貫四百目 深川親和書」「元木場材木町金七擔之 正目五拾貫貮百目 深川親和書」と刻まれた2個の力石は、書家・三井親和の筆。そのほか、「もののふの鏡なりけり世々までも なを照らします大和ことの葉」と歌が刻まれた「歌石」。 「さし石 下平井村西 亀吉」、無銘1基が置かれています。
<吾嬬森碑> 墨田区登録文化財
拝殿の左手に、山県大貮が明和3(1766)に建立した「下総國葛飾郡 吾嬬森碑」があります。
(説明板)
「墨田区登録文化財
吾嬬森碑
この碑は、明和三年(一七六六)に儒学者山県大貮により建立されたと伝わります。「吾嬬の森」とは、吾嬬神社の代表的な呼び名で、江戸を代表する神社の森のひとつとして『葛西志』や『江戸名所図会』にも紹介されています。碑の内容は、地元に伝わる神社の来歴となっており、日本武尊の東征、尊の妃・弟橘媛の入水により海神の怒りを鎮めたこと、人々がこの神社の地を媛の墓所として伝承し、大切に残してきたことなどが刻まれています。『新編武蔵風土記稿』には、碑は神木の傍らに建てられていたと記されています。
神木とは、墨田区登録文化財である「連理の樟」のことです。一つの根から二つの幹を見せる姿は、歌川広重の『江戸名所百景』にも描かれています。左の絵は広重(※広景の誤りです)の作品『江戸名所道化盡 吾嬬の森梅見』で、中央にひときわ高くそびえるのが「連理の樟」です。
明治四十三年(一九一○)の大水や関東大震災、東京大空襲などにより森は失われましたが、長く地域に根ざした伝承は、この碑を通じても垣間見ることができます。
平成二十一年三月 墨田区教育委員会」
<拝殿>
<本殿>
拝殿の奥に石祠の本殿。柵に囲まれています。
<狛犬> 墨田区登録文化財
安永2(1773)年銘の狛犬です。
(説明板)
「墨田区登録文化財
狛犬 安永二年五月銘
この狛犬は比較的小型の一対ですが、世話人一○名と奉納者二二名もの名前が刻まれています。そのほとんどが築地小田原町(中央区築地六・七丁目)や本船町地引河岸(中央区日本橋本町)など日本橋の商人であることから、海運・漁業関係者とのつながりをよく表しているといってよいでしょう。このことは吾嬬神社の由来に起因しています。
日本の神話に、日本武尊命が現在の東京湾を舟で渡っている時に海神の怒りに触れ、往生していた時に妻の弟橘媛が海に身を投げて海神の怒りを鎮めたという話があります。この媛の品が流れ着いた所がこの地だったということです。以来、海や川で働く人々の守護神として信仰されてきたわけです。
また、昔は地盤沈下していなかったため、この社の裏の「吾嬬の森」と呼ばれた森が小山のように広がり、海上からの好目標だったことも崇敬を集めた理由のひとつでしょう。
現在、鉄柵の奥にあるため近づくことはできませんが、かえって台座に刻まれた人名など、良い状態で保存されています。
平成九年三月 墨田区教育委員会」
<講碑>
○福神稲荷神社
拝殿の右手に福神稲荷神社。天保9(1838)年銘の石鳥居です。
「天保九戌戌歳二月初午」 「願主 信濃屋 筆女」
<水盤/神狐>
(説明板)
「福神稲荷神社
御祭神 宇賀之魂之命 大国主之命 金山彦之命
当社は元亀戸四丁目地蔵川岸のほとりに鎮座していましたが(一九二二)吾嬬神社旧社務所の位置に有縁の地とし御遷座もうしあげました その後第二次世界大戦の災禍をうけ周囲家屋他草木に到る迄焼け尽きた中この社殿全く無被害の不思議な現象に奇跡なりと御神徳に人々は驚異の目を見張りました 吾嬬神社復興事業(一九四六)執行の折社殿を現在の場所へ再び御遷座申し上げ此処に吾嬬神社と共に庶民の守護神とて奉祭申し上げて居ります 尚この奇跡の社殿を出来る限り永く保存して次世代に伝え様と略して印す次第であります。
平成九年六月 以上」
<社>
<石祠>
○山県大弐先生遺徳顕彰碑
「神輿庫」の前に、吾嬬森碑の碑文の作者山県大弐の大きな顕彰碑があります。昭和9(1934)年の建碑です。題字は「櫪而不隣」(出典は論語)とあります。
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