歴史探訪と温泉 2022年05月

常楽院(六阿弥陀第五番)

○常楽院 台東区上野4-8-4(旧所在地)

 当初の名称は長福寺でしたが、九代将軍家重の幼名が長福丸であったため、常楽院に改称しています。常楽院は、関東大震災で大きな被害を受け、また戦災で焼失し、調布に移転しました。
 戦後に跡地一帯を購入した赤札堂は、赤札堂の敷地内に仮堂を設け本尊の阿弥陀の模刻を安置しました(上野4丁目)。その後、昭和36(1961)年に開業した東天紅の敷地の一角(池之端1丁目)に堂宇(常楽院別院)を設け、ここに模刻の阿弥陀は移されます。株式会社アブアブ赤札堂と株式会社東天紅の持ち株会社が小泉グループで、両社はグループ企業です。ビルの屋上ではなく平地にお祀りした心意気に感心します。
 ※「「篤信」の「商売人」ー東天紅上野本店裏手の常楽院別院に関する調査報告ー徳田安津樹」を参照しました。


「江戸名所図会 常楽院」

 挿絵には「六阿弥陀五番目なり 春秋二度の彼岸中賑わし」とあります。石畳の参道の右手に「六地蔵」や「地蔵」が見えます。
 阿弥陀堂内右手には閻魔大王が見えます。

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「東都歳事記 彼岸六阿弥陀参」

 東都歳事記に六阿弥陀参の全体図が描かれています。

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 五番常楽院部分の抜粋です。三橋の脇に「五番」が描かれています。
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「武州江戸六阿弥陀巡拝之図」(文政12(1829)年 足立区立郷土博物館所蔵)

 文政12(1829)年に六阿弥陀四番与楽寺が作成した「武州江戸六阿弥陀巡拝之図」から、常楽院部分の抜粋です。常楽院から三橋を渡って4番与楽寺へ、あるいは6番常光寺への六阿弥陀巡拝路が描かれています。

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「江戸切絵図」

 江戸切絵図には、三橋の脇、下谷広小路に面して「常楽院」が描かれています。現在のABABがある場所です(台東区上野4丁目)。

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「名所之内上野」(歌川芳盛 東京都立図書館蔵))

 「名所之内上野」の全体図と六阿弥陀部分の拡大です。常楽院は三橋の手前に「六アミダ」と表示されています。町屋の間にある冠木門(表門)をくぐった先が境内となっています。

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「上野広小路」(日本之名勝 史伝編纂所 明治33年)

 三橋の手前右手に常楽院の入口らしきものが見えます。

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<几号水準点>

 几号水準点の所在地に「上野広小路常楽院地蔵台石」がありますが、消失したようです。


○常楽院別院 台東区池之端1-4-1

 門柱には、左に「六阿彌陀」、右に「第五番」とあります。

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<誹風柳多留巻頭の地>

 境内入口に、平成27(2015)年に柳多留二百五十年実行委員会が建立した「誹風柳多留巻頭の地」碑があります。「五番目は同し作でも江戸産れ」は、『誹風柳多留』の巻頭を飾る句です。
 六阿弥陀詣の六ヶ寺のうち、常楽院だけが御府内に位地し大いに賑わい、江戸っ子の自慢であり、川柳の題材ともなりました。
六阿弥陀は同じ人が、同じ木から彫ったものでも、五番目は他とは違って江戸にあるという江戸自慢を詠んだ句です。他に「五番目の弥陀は麦めしきらひ也」という川柳もあります。

 (正面)「誹風柳多留巻頭の地」

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 (右面)「五番目は同じ作でも江戸産れ」

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 (左面)「平成二十七年四月吉日 柳多留二百五十年実行委員会」

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 (参考)
 上野公園入り口の階段横に、「川柳の原点 誹風柳多留発祥の地」の記念碑が建っています。平成27(2015)年8月の建立です。 こちらで記載済

 東岳寺(足立区伊興本町)に、誹風柳多留の版元、花屋久次郎遺跡の碑が建っています。こちらで記載済


<境内>

 境内に、石燈籠、水鉢、石仏、不明の石があります。

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<江戸六阿弥陀縁起>

 東天紅の壁に「江戸六阿弥陀縁起」の掲示があります。

(説明板)
「江戸六阿弥陀縁起
 聖武天皇の項(七二四~七四九)、武蔵国足立郡(今の東京都足立区)に沼田の長者とよばれる庄司(荘園を管理する人)従二位藤原正成という人がいて、多年子宝に恵まれずにいたが、ある時、熊野権現(和歌山県)に詣でて祈願したところご利益を得てようよう一女を授かった。
 この息女は足立姫と呼ばれた程にみめ美しく、仏を崇い、天質聡明であったが、隣りの郡に住む領主豊島左ヱ門尉清光に嫁がせると、領主の姑が事々に辛くあたり悲歎の日々を送ることになった。
 そしてある時、里帰りの折りに思い余って沼田川(現荒川)に身を投げ、五人の侍女もまた姫の後を追って川に身を投じたのであった。
 後日、息女らの供養に諸国巡礼の旅に出た長者が再び熊野権現に詣でたところ夢に権現(衆生を救うために日本の神の姿をとって現れる仏)が立ち一女を授けたのはそなたを仏道に導く方便であった、これより熊野山中にある霊木により六体の阿弥陀仏を彫み広く衆生を済度せよ、と申されたのであった。
 長者が熊野山中を探し歩くと果たして光り輝く霊木をみつけ、長者は念を込めてその霊木を海に流したのである。長者が帰国してみると霊木は沼田の入江に流れ着いており、間もなくこれも先の夢のお告げの通りに、諸国巡礼の途に沼田の地に立ち寄られた行基菩薩に乞うて六体の阿弥陀仏を彫り、六女ゆかりの地にそれぞれお堂を建ててこれを祀ったのである。
 江戸時代に入り、この六阿弥陀を巡拝し、極楽往生を願う信仰が行楽を伴って盛んになり、特に第五番常楽院は上野広小路の繁華街(現ABAB赤札堂地)にあったので両彼岸などは特に大いに賑わい、江戸名所図絵にも描かれている。広小路のお堂は、関東大震災と第二次大戦期の焼失を継て、ご本尊阿弥陀さまは調布市に移ったが、参詣の便を図って縁のある上野池之端、此東天紅の敷地を拝借して別院を設け、模刻の阿弥陀さまをお祀りしている。
  六阿弥陀第五番  常楽院
  調布市西つつじヶ丘四の九の一」

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<阿弥陀堂>

 祭壇のロウソクは電光式、線香も電光式です。電光式の線香は初めて見ました。

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<模刻阿弥陀さま>

 模刻ですが、直接拝めるのはここと一番の再建露仏だけなので、貴重かと思います。

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恵明寺(六阿弥陀第二番)

○恵明寺 足立区江北2-4-3

 江戸時代、沼田村に存していたのが恵明寺(えみょうじ)です。末寺の延命院が管理する阿弥陀堂(延命院から離れたところ)が六阿弥陀第二番でした。延命院は明治9(1876)年に廃寺となり、本寺だった恵明寺が阿弥陀堂を管理するところとなり、恵明寺が六阿弥陀第二番となります。
 大正時代の荒川放水路開削工事により阿弥陀堂は河川敷地内となったため廃止され、阿弥陀堂にあった阿弥陀仏は恵明寺に移されました。
 荒綾八十八ヶ所霊場の第54番札所です。

<寺号標/札所標>

 右に寺号標
 「江戸六阿弥陀第弐番 宮城山恵明寺」

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 左に大正8(1919)年銘の札所碑。
 「第弐番 六阿弥陀如来霊場
  荒綾八十八ケ所第五十四番 弘法大師霊場
  宮城山恵明寺」

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(説明板)
「恵明寺(えみょうじ)
 真言宗、宮城山円明院恵明寺と称す。本尊阿弥陀如来坐像は、造像の技法がきわめてすすんだころの等身大の寄木造りである。この阿弥陀如来は、江戸阿弥陀二番の札所として、古くは小台の延命寺にあったものを明治九年の合併の際移したものである。六阿弥陀仏の信仰は、平安後期以後に発生したものと思われる。
 当寺に伝わる六阿弥陀縁起、足立姫の伝説は広く知られており、江戸時代の天野信景の随筆「塩尻」にもその巡礼の様子がみられ、この地の人々の信仰を集めていたことがわかる。
  平成元年一月  東京都足立区教育委員会」

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<庚申塔二基/地蔵道標>

 右は、文政8(1825)年6月銘の庚申塔です。「庚申」「青面金剛」とあります。

 中央は、元禄5(1692)年9月銘の舟型光背型庚申塔です。

 左は、貞享3(1686)年銘の地蔵道標です(移設)。
 正面上部に地蔵座像が浮き彫りされ、その下中央に「従是西六あミた」と刻まれ六阿弥陀の道標となっています。 (劣化著しく読めないので「近世以前の土木遺産」(岡山大学名誉教授・馬場俊介)のデータベースを参照しました。)

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<子育地蔵堂>

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<板碑>

 子育地蔵堂の裏に、古い板碑が二基あります。

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<宝篋印塔>

 文化6年(1809)4月銘の宝篋印塔です。

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<本堂>

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<大師堂>

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<無縁塔>

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<聖観音菩薩像>

 寛文9(1669)年12月銘の聖観音菩薩像ですが、台石に三猿がいます。

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○恵明寺ぷちてらす 足立区江北2-3-16

 恵明寺の門前に「恵明寺ぷちてらす」があります。

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延命院(六阿弥陀第二番)

○延命院 足立区江北2-36辺り

 正式名は、「甘露山 延命院 応味寺」で、江戸時代の案内書には延命院・延命寺のほか、応味寺・応味院と案内されています。延命院から離れたところにある阿弥陀堂が六阿弥陀第二番でした。阿弥陀堂は小台村の飛地で沼田の六阿弥陀と呼ばれました(現在の江北2-46先荒川土手)。明治9(1876)年に延命院は廃寺となり、本寺だった恵明寺が阿弥陀堂を管理するところとなり、恵明寺が第二番となります。 大正時代の荒川放水路開削工事により阿弥陀堂は河川敷地内となったため廃止され、阿弥陀堂にあった阿弥陀仏は恵明寺に移されました。

(参考)小台大門町
 この飛地から弥生時代の集落跡が発掘されており(足立区文化財)、古くから人が住んでいたと考えられています。荒川放水路開削で、飛地の区域はそのほとんどが荒川河川敷内となりました。 足立区小台大門町として存続していましたが、平成元(1989)年に河川敷地内に住居表示が実施されその名称は消滅し江北2丁目となりました。


「江戸名所図会 六阿弥陀廻」

(どこを描いたのか)
 「江戸名所図会」に六阿弥陀廻の賑わいが描かれていますが、タイトルの明示がなく、場所は推測するしかありません。本文で、延命院と餘木阿弥陀如来が紹介されており、これらを巡拝する人々を描いたものと思われます。延命院が管理する阿弥陀堂近辺、熊之木の光景を描いていると推定します。熊之木の光景と仮定すると、描かれている光景にすべて合点がいきます。

(熊之木が描かれていると仮定して)
 奥に見えるのは荒川(豊島村からは豊島川、沼田村からは沼田川。現:隅田川)で、六阿弥陀の渡しを渡ってきた参詣者が見えます。杖を持つ参詣者が多く描かれています。
 手前の小川は神領堀で、橋が架かっています。川の縁に、食器の入った盥と鍋が置かれています。茶屋の主人が鎌を洗っています。
 茶屋では、藁草履・雪駄を売っています(六阿弥陀詣は長丁場です)。屋根には鶏がいてのどかな農村の雰囲気です。道端では近隣の農家が農産物を売っているのでしょう。茶屋も出ているので、ここは六阿弥陀詣の名所となっていた阿弥陀堂近くの熊之木でしょう。
 駕篭を止めている女性に、六阿弥陀詣の参詣者が、方角を指差しています。その先に阿弥陀堂があるのでしょう。これから神領堀の橋(江戸時代もあったか不明ですが熊之木橋と勝手に推定)を渡ろうとする駕籠の女性や参詣者が見えます。往来の多い道のようなので、弘法大師道で、西新井弘法大師に参詣してから反時計まわりに六阿弥陀を廻るのでしょう。橋を渡ってくる子どもは弁当箱を担いでいます。長丁場なので弁当持参なのでしょう。

(昭和天皇も御訪問)
 昭和天皇がご幼少の頃、車から降りて、荒川堤の五色桜を観覧され、熊之木橋を渡って西新井大師まで歩かれています。

(挿絵説明)
「春秋二度の彼岸には六阿弥陀廻とて日かげの麗かなるに催され都下の貴賎老いたる若き、打群つつ朝とく宅居を出るといへども行程遠ければ遅々たる春の日も長からず秋はことさら暮れやすうおもはるべし」

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「江戸切絵図」

 豊嶋村に「六アミタ一番西福寺」があり、「豊島村渡場」が見えます。 渡場の沼田村の左手に「六アミタ二番延命寺」とあります。  「六アミタ木余如来性翁寺足立姫墓有」と「本木太田三嶋大明神」も描かれています。

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<阿弥陀堂>(現在の江北2-46先荒川土手)

 こちらは「東屋本店」(足立区江北2-46-13)で、店裏の荒川土手にかつて阿弥陀堂がありました。
 東屋本店は江戸時代後期の創業(創業時は茶店)の酒屋で、店主は「荒川五色桜復活の会」の代表を務められました。五色桜にちなんだ酒類の、麦焼酎「咲いた咲いた桜が咲いた」、日本酒「五色桜」「荒川堤」を販売しています。

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<荒川土手>

 荒川土手です。荒川放水路開削前は、隅田川はここら辺りまで曲がっていて、六阿弥陀の渡しがありました。

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<あだち五色桜の散歩みち>

 説明板でもあるかと思ったら、「あだち五色桜の散歩みち」の「桜の配置案内板」です。散歩みちは、荒川左岸土手上の鹿浜橋から西新井橋まで続いています。

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<延命院跡>

 延命院跡を見たところ。

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<対岸>

 対岸(北区豊島)の説明板「阿弥陀の渡船場跡」(こちらで記載)から、阿弥陀堂跡方向を見たところですが、眺望悪し。

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熊の木と六阿弥陀伝説

○神領堀緑道

 神領堀(じんりょうぼり:神領とは東叡山寛永寺領)は、舎人で見沼代用水から分岐し、江北2丁目まで続く全長約6kmの水路でしたが、現在は埋め立てられています。
 このうち、環状7号線より南の約1.1kmが平成25(2013)年に神領堀緑道として整備されました。「熊の木ひろば」があり、水門「熊之木圦」と「熊之木橋(めがね橋)」が発掘・復元され、循環式の水が流れています。
(舎人の「神領堀親水緑道」については、こちらで記載済


<定使橋> 足立区江北3-38〜39

 鳩ケ谷街道と神領堀緑道の交差点に、橋の欄干がそのまま残っている定使橋(じょうつかいばし)です。

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<神領橋> 足立区江北3-39-4

 足立区江北地域学習センター入口に神領橋が架かっています。神領堀緑道が続きます。

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○神領堀緑道「熊の木ひろば」 足立区江北2-43・49

 「熊の木ひろば」に至ると、様相が一変します。

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<「熊之木」地名と六阿弥陀伝説>

 六阿弥陀伝説の説明板があります。

(説明板)
「熊之木」地名と六阿弥陀伝説
 江戸時代中期から昭和初期にかけて、江戸・東京東部で盛んだった習俗に江戸六阿弥陀詣がある。主に女性が春秋の彼岸に、隅田川下流地域にあった六ないし八カ所の寺院を参詣するものであった。
 その起源はある悲劇女性の伝説に由来する。荒川(現在の隅田川)を挟んで足立郡と豊島郡の豪族同士(寺院縁起による苗字に諸説あり)が婚姻を結んだ。しかし嫁ぎ先との折り合いが悪くなった女性が実家に帰される途中、世をはかなみ荒川に身を投げた。女性の冥福を祈るため、父親は紀伊国(和歌山県)熊野山に詣でた。その山中で光輝く一本の霊木を得て、熊野灘に流すと不思議なことに東国まで漂流し、荒川をさかのぼって漂着した場所が旧沼田村のこの付近であったという。熊野産の木がたどりついて奇縁により、「熊之木」地名が付いたと伝わる。その後、霊木からは、女性の父親に依頼された僧行基によって六躯(一説に八躯)の阿弥陀如来像等が彫刻され、近隣の六ないし八カ寺に安置され女性の菩提がとむらわれた。各寺院は後に江戸六阿弥陀詣札所になったという。
 十九世紀前半に著された地誌『遊歴雑記』等には、霊木が着いた場所を「熊野木」とする記述が見える。また文政五年(一八二二)に六阿弥陀四番与楽寺が刊行した『武州江戸六阿弥陀巡拝之図』には、「熊の木」の位置が明示され江戸六阿弥陀詣参詣路の名所となっていた様子がうかがえる。
 旧沼田村の「熊之木」地名は近代以降、熊之木橋・熊之木圦・熊之木排水場等に残り、六阿弥陀伝説をしのぶよすがとなっている。
  平成二十七年三月  足立区教育委員会」

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<神領堀緑道 熊の木ひろば>

 「かつてこの場所に神領堀が流れ、熊之木圦を通って旧荒川(現隅田川)へ注いでいました。
 旧荒川堤の江北一帯には、桜が咲き、多くの人々を楽しませてきました。当時の神領堀を一部復元いたしました。
 平成二十五年三月 足立区」

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 明治期の曲がりくねった道筋や、荒川堤が描かれているので、参考になります。熊之木圦から旧荒川(現隅田川)へ流れているほか、荒川下流では滝野川が注いでいるのがわかります。六阿弥陀の渡しから滝野川河口へ続く道が六阿弥陀道なのでしょう。
上に伸びている道が大師道で、小台の渡しに至るのでしょう。

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<熊之木橋>

 元の場所から、約40m南に復元された熊之木橋です。アーチ型の石橋で、水面に映るとめがねのような形になるので、「めがね橋」と呼ばれました。
 昭和天皇がご幼少のころ、荒川堤の五色桜を見物された後、歩いて西新井大師へ向かう際に渡られたとの記録が残っているとのことです。

(碑文)
 「この熊之木橋は、江北五色桜を祈念し、首都高速道路株式会社様並びに、株式会社デック様のご寄附により復元築造されたものです。
  平成25年3月吉日  足立区長」

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<熊之木圦> 足立区江北2-43

 戦後埋められていた圦を掘り起こして復元した「熊之木圦」です。新しい煉瓦も用いて補修されていますが、古い煉瓦で復元されています。

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<「六阿弥陀伝説熊ノ木圦跡」碑>
 
 熊之木橋の袂に「六阿弥陀伝説熊ノ木圦跡」碑があります。昭和51(1976)年の建立です。六阿弥陀伝説の霊木が流れ着いたところと伝えられている標柱石です。

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(表)「六阿弥陀伝説熊ノ木圦跡」

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(裏)「昭和五十一年十月 足立区」

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○道標三基 足立区江北2-49

 熊の木ひろばの西側に、道標が三基建っています。

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<江北村制定記念碑道標>

 右から順に、明治25(1907)年銘の碑で、道標を兼ねています。裏面に千住・川口・王子・鳩ヶ谷への距離が刻まれています。

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<弘法大師道道標>

 明治40(1907)年銘の道標です。
 (表)「右 弘法大師道」
 (右)「西新井大師へ 十五丁」
 (左)「南 東京道 北 川口道」
 (裏)「明治四十年七月 西新井門前」

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<弘法大師道・六阿弥陀みち道標>

 一番左は、寛政8(1796)年銘の弘法大師道及び六阿弥陀道の道標です。令和3(2021)年3月に300m離れた江北2丁目の路傍から移設されたものです。

 (正面)「左り 弘法大師道」
 (右面)「右へ 六阿弥陀みち」
 (左面)「寛政八年丙辰二月吉日」
     「浅草新はたこ町代地」
     「上総屋清兵衛」「伊勢屋助七」「つちや清兵衛」

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○熊ノ木・帝釈天堂 足立区江北3-47-8

 熊ノ木ひろばの入口左手に、帝釈天堂があります。堂前には、煉瓦が敷かれています。

<石橋供養塔>

 天明3(1783)年銘の庚申塔型の石橋供養塔です。両側面がほとんど見えませんが、資料によると左側面に「奉造立青面金剛/為供養石橋也」と刻まれているようです。

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六阿弥陀の渡し~豊島の渡し・沼田の渡し

○阿弥陀の渡船場跡 北区豊島5丁目地先

 荒川土手に説明板「阿弥陀の渡船場跡」があります。

<隅田川「天狗の鼻」>

 荒川放水路開削にあたり、隅田川の流路は変更されており、昔の天狗の鼻ほどは湾曲はしていません。

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<阿弥陀の渡船場跡>

(説明板)
「阿弥陀の渡船場跡  豊島五丁目地先
 ここにはかって豊島村から沼田村(足立区)への渡船場がありました。この渡船場は、豊島の渡・六阿弥陀の渡・中の渡・原の渡とも呼ばれていました。
 旧荒川(現隅田川)の流路は、現在の荒川まで大きく湾曲していて、この地形を天狗の鼻と呼んでいました。渡船場は湾曲の頂点より少し下流に位置していました。
 豊島清光の造仏伝承にまつわる六阿弥陀詣が、江戸時代中期以降に盛んに行われるようになりました。この渡船場は、六阿弥陀詣の一番西福寺(北区豊島二ー十四ー一)から二番延命寺(江北橋北詰辺にありましたが、明治九年恵明寺に合併されました)への参詣路にあたっていたため、六阿弥陀詣の行われる春秋の彼岸の時には参詣客でとくに賑わいをみせました。文化十一年(一八一四)頃に当地を訪れた十方庵敬順は、この渡船場付近の川端の様子を、「荒川の長流にそひて、左右の渚の景望はいふもさらに、弓手は渺茫たる耕地を見わたし、心眼ともに打はれて、実に賞すべきの景地たり」と記し、こうした土地に住んで花鳥風月になぐさめられて暮らしたならば、寿命も延びるであろうと賞賛しています。
 明治四十四年(一九一一)から荒川の河川改修工事が始まり、次いでこの付帯事業として大正十二年(一九二三)四月荒川放水路(現荒川)に江北橋が、同十四年荒川(現隅田川)に豊島橋が架橋され、この渡船場も姿を消していきました。
  平成十八年一月  東京都北区教育委員会」

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「江戸切絵図」

 豊嶋村に「六アミタ一番西福寺」があり、「豊島村渡場」が見えます。渡場の沼田村の左手に「六アミタ二番延命寺」とあります。

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「東都歳事記 彼岸六阿弥陀参」(国立国会図書館蔵)

 東都歳事記に六阿弥陀参の全体図が描かれいます。

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 二番延命院部分の抜粋です。荒川(隅田川)を渡る渡し船が見えます。

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「東都遊覧年中行事」(春陽堂 昭和2年出版より 国立国会図書館蔵)

 六阿弥陀道の行程が描かれており、「としまのわたし」部分の抜粋です。「ひがん中はさんけいあまたある故、道をしらざる人も参詣の人に随ひゆけば道にまどふことなし。」との記載があり、彼岸は参詣者が群れをなしていたことがうかがえます。
 厩の渡しは花見客の人出でよく転覆するので、「三途の渡し」とも呼ばれていましたが、ここは転覆事故はどうだったのでしょうかね。反時計回りに六阿弥陀を詣でる場合には、「沼田の渡し」と呼ばれていたようです。

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「江戸近郊道しるべ」(村尾嘉陵)

 六阿弥陀の渡し「沼田渡」が描かれている部分の抜粋です。沼田から渡る場合は、「沼田の渡し」の呼称が一般的なようです。

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