深川えんま堂(法乗院)
〇深川えんま堂(法乗院) 江東区深川2−16−3 HP
賢台山法乗院賢法寺と号します。寛永6(1629)年に深川富吉町に創建、寛永18(1841)年当地に移転したといいます。
「江戸・東京四十四閻魔」の第十五番です。
「江戸切絵図」
法乗院が描かれている部分の抜粋です。近くの「富岡橋」は「閻魔堂橋」とも呼ばれました。
「昔八丈大岡政談 髪結の新三 尾上菊五郎 弥太五郎源七 市川左団次」(豊原国周 都立図書館蔵)
「えんま堂橋」が描かれています。
<法乗院 深川ゑんま堂>
<閻魔大王座像>
平成元(1989)年に造られた閻魔大王座像が祀られています。HPによると閻魔像としては日本最大とのことです(謎)。御開帳は、1年に2回ではなく、毎月1日と16日の2回と多いです。
東都歳事記の閻魔参によると、かつては脱衣婆像もあったようです。
法乗院深川ゑんま堂縁起によると江戸三ゑんまの一つで、他の二つは新宿と吉原とのことです。東都歳事記の閻魔参には吉原の記載はありませんし、元吉原にも記載はありません。元吉原に近くの茅場町の智泉院の末社に祀る閻魔座像は、太宗寺の閻魔と並び称され、正月、七月の各十六日には閻魔詣の人々が群衆したといいますから、こちらかもしれません。今のところ、謎の「江戸三ゑんま」です。
ご利益ごとのお賽銭入れは、お賽銭を入れると閻魔さまが説教をします。
<鳥塚/曽我五郎の足跡>
<豊田鳳憬尺八塚>
尺八琴古流宗家初代豊田鳳憬は寛永4(1851)年没。
<子育地蔵尊・十日地蔵尊・光岳地蔵尊>
<子育慈母観音像>
<本堂>
大日如来坐像が祀られています。
本堂から山門の光景です。
賢台山法乗院賢法寺と号します。寛永6(1629)年に深川富吉町に創建、寛永18(1841)年当地に移転したといいます。
「江戸・東京四十四閻魔」の第十五番です。
「江戸切絵図」
法乗院が描かれている部分の抜粋です。近くの「富岡橋」は「閻魔堂橋」とも呼ばれました。
「昔八丈大岡政談 髪結の新三 尾上菊五郎 弥太五郎源七 市川左団次」(豊原国周 都立図書館蔵)
「えんま堂橋」が描かれています。
<法乗院 深川ゑんま堂>
<閻魔大王座像>
平成元(1989)年に造られた閻魔大王座像が祀られています。HPによると閻魔像としては日本最大とのことです(謎)。御開帳は、1年に2回ではなく、毎月1日と16日の2回と多いです。
東都歳事記の閻魔参によると、かつては脱衣婆像もあったようです。
法乗院深川ゑんま堂縁起によると江戸三ゑんまの一つで、他の二つは新宿と吉原とのことです。東都歳事記の閻魔参には吉原の記載はありませんし、元吉原にも記載はありません。元吉原に近くの茅場町の智泉院の末社に祀る閻魔座像は、太宗寺の閻魔と並び称され、正月、七月の各十六日には閻魔詣の人々が群衆したといいますから、こちらかもしれません。今のところ、謎の「江戸三ゑんま」です。
ご利益ごとのお賽銭入れは、お賽銭を入れると閻魔さまが説教をします。
<鳥塚/曽我五郎の足跡>
<豊田鳳憬尺八塚>
尺八琴古流宗家初代豊田鳳憬は寛永4(1851)年没。
<子育地蔵尊・十日地蔵尊・光岳地蔵尊>
<子育慈母観音像>
<本堂>
大日如来坐像が祀られています。
本堂から山門の光景です。
tag : 閻魔
善養寺(江戸三閻魔)
〇善養寺 豊島区西巣鴨4-8-25
薬王山延寿院善養寺と号します。天長年間(824-833)に慈覚大師が上野山内に創立したと伝えられる天台宗の寺院です。
寛文年間(1661-72)に下谷坂本に移転した後、鉄道用地の拡張にかかるということで、明治45(1912)年に現在地へ移転し現在に至っています。
本堂には木造閻魔王坐像(豊島区文化財)が鎮座し、江戸三閻魔の一つです。当寺は何回か類焼にあっているので現存の閻魔さまは運慶作ではないであろうと思われますと天台宗HPには記載されています。
「江戸東京四十四閻魔」の第三十番です。
「江戸名所図会 東叡山坂本口」
右手前に「養玉院」、その上に「善養寺」が記されています。境内に「ゑむま」が記されています。
本文には、薬王山善養寺の境内にある閻魔堂の閻魔王像は運慶作とあります。ある人が言うには、野洲足利学校にあった霊像を移したものとあります。
「江戸切絵図」
善養寺が善性寺と誤記されているようです。
現在の当地(台東区上野7-15)は、鉄道が敷設され、多くの列車が行き交っています。
<善養寺>
「天台宗 善養寺」
(説明板)
「善養寺は、天長年間(八二四〜八三三)に、開基である慈覚大師が上野山内に創立したと伝えられる天台宗の寺院で、正式には薬王山延寿院善養寺という。東叡山寛永寺の末寺で、本尊は薬師如来像である。
江戸時代の寛文年間(一六六一〜七二)に下谷坂本(後の下谷区善養寺町、元台東区上野公園)に移転した後、境内地が鉄道用地の拡張にかかるといいうことで、明治四五年(一九一二)に北豊島郡巣鴨村大字巣鴨字庚申塚三四七番地(現在地)へ移転し、現在にいたっている。
本堂には高さ約三メートルの木造閻魔王坐像(豊島区登録有形文化財)が鎮座し、広く信仰を集めていることから「おえんまさまの寺」とも呼ばれ、また、杉並区松ノ木三丁目に所在する華徳院、新宿区新宿二丁目に所在する太宗寺とともに、江戸三閻魔の一つとしても親しまれてきた。
境内には、寛永六年(一六二九)造立の石燈籠をはじめ、延宝八年(一六八〇)の駒型庚申塔、天明八年(一七八八)の宝篋印塔、また江戸時代中期に陶工・絵師として活躍した尾形乾山の墓(東京都指定旧跡)や、フランスでジュリオ・キュリー教授(キュリー夫人の娘婿)の指導を受けた原子物理学者湯浅年子の墓など、多くの貴重な文化財が残されている。
平成十四年三月 東京都豊島区教育委員会」
<標柱「えんま大王」>
昭和47(1972)年と比較的新しい標柱「えんま大王」です。
参道敷石に悠々と寝そべるのは閻魔大王の眷属ですか?茶色の猫はすぐ逃げます。
<石カエル>
境内と墓地に石カエルが置かれています。
境内
墓地
<庚申塔>
本堂左手にある延宝8(1680)年銘の庚申塔です。
<木造閻魔王坐像> 豊島区文化財
賽銭箱が扉内にあり、扉を少し開けると、ライトが点灯し閻魔王がライトアップされました。
【墓地への通路】
<茶釜塚>
当寺には、茶道にも通じていた尾形乾山の墓があり追善茶会が行われたようです。
「有難や茶碗たのしみ一生を 道の教で吾ら極楽
塵外庵悟明 表千家宗悟」
<石仏群>
左から「地蔵」と「六地蔵」
右に4基の地蔵
<六地蔵>
<道標>
道標があります。大正元年9月建立なので、善養寺の下谷坂本から西巣鴨の移転に際して、現地に道標を残したと思われます。
鉄道建設用地となった善養寺跡の東側(4丁23間)に建てた道標を、後年引き取ったのでしょう。
(正面)
「元下谷坂本善養寺道
是レヨリ四丁廿三間」
(左側面)
「大正元年九月立之」
<石燈籠>
寛永6(1629)年造立の石燈籠と思われます。
<尾先照稲荷>
四匹の狐に守られている「尾先照稲荷」です。石祠の右側面に「尾先照稲荷 天長二乙巳年安置 薬王山 善養寺」とあります。天長2年とは825年、善養寺創立当時です。どういった経緯なんでしょうか不思議な稲荷です。小野照崎神社の祭神は、平安初期の漢学者・歌人の小野篁ですが関連があるのでしょうか。
【墓地】
<井戸>
こし布が茶色に染まっているので、井戸水は鉄分が含まれているようです。
<宝篋印塔>
天明8(1788)年銘の宝篋印塔です。
〇武蔵川喜偉之碑
墓地に入ってすぐに、「市川」と刻まれた石燈籠があり、「武蔵川喜偉之碑」(日本相撲協会第4代理事長)があります。昭和63(1988)年1月30日の建立です。
「市川」「昭和廿九年三月廿三日」と刻まれた石燈籠です。
(碑文)
「武蔵川喜偉は明治四十二年三月一日東京府下南葛飾郡大島町に生る 姓は駒沢 名は国一 実父の知人本所警察署高野署長が横綱常陸山と同郷の縁にて出羽海部部屋に入門 大正十四年一月初土俵を踏む 入門後も府立三中現両国高校に通学し向学の念極めて強し 大正十四年五月出羽ノ子と名乗り新序 昭和二年一月出羽ノ花と改む 昭和七年二月新入幕時に二十四歳幕内在位十六場所 昭和十五年五月引退 市川姓に更る 年寄武蔵川を襲名し昭和二十年推されて理事兼勝負検査役 昭和三十五年取締となる この間経理建築土木を学び協会経営の近代化に盡瘁す 昭和四十三年理事長に就任 多年培いたる才能を発揮し顕著なる功績を挙ぐ 昭和四十九年相談役 昭和五十一年相撲博物館長となる 生来頭脳明明? 性情清廉潔白事に処するに熟慮断行協会の体制改革に敏腕を揮う 蔵前国技館の建設に当っては東奔西走 数多くの艱難を克服して完成し着々と業績を伸ばし経営の合理化健全化に全力を投入 両国新国技館新築の財源を蓄積してその基盤を鞏固にし、昭和六十年一月新国技館完成を見るや往時を顧み感慨無量なりしと推察す 昭和四十五年十一月多年の功を以て藍綬褒章を受章 昭和五十四年十一月勲三等瑞宝章を拝受する光栄に浴す 昭和六十二年五月三十日宿病のため天命を完す 協会は昭和六十二年六月二日協会葬を以て其霊を慰す 生前の功績を讃えて正五位に叙せらる 其栄誉燦として霊前に輝く
昭和六十三年一月三十日
理事長 春日野清隆撰文
九代目 出羽海智敬建立
二十五代式守伊之助謹書」
〇尾形乾山の墓 東京都旧跡
尾形乾山は琳派を創設した画家の尾形光琳の弟で、寛文3(1663)年に京都で生まれました。画家としてだけではなく、書道や茶道にも精通し、陶芸では享保16(1731)年に入谷に窯を開き、作品は「入谷乾山」と呼ばれました。
寛保3(1743)年に亡くなり下谷坂本にあった善養寺に葬られます。その後、墓の存在は忘れ去られていましたが、文政6(1823)年に酒井抱一らによって発見され、顕彰碑「乾山深省蹟」が建てられました。
明治末期に、善養寺の鉄道建設に伴う現在地への移転に際し、乾山の墓並びに酒井抱一の顕彰碑の所有権に紆余曲折があり、複製を寛永寺境内に安置することで決着した経緯があります(天台宗HPを参照しました)。
(参考)「入谷乾山窯元碑」(こちらで記載)
(参考)「尾形乾山墓碑・乾山深省蹟(寛永寺)」(こちらで記載)
戒名「霊海深省居士」
(説明板)
「東京都指定旧跡 尾形乾山墓並びに碑
所在地 豊島区二市巣鴨四の八の二五 善養寺墓地内
標識 昭和七年七月一日
指定 昭和三〇年三月二八日
尾形乾山(一六六三ー一七四三)は、京都の呉服商の家に生まれました。名を惟允、通称を権平、新三郎といい、乾山は号です。江戸時代中期の陶工、絵師として知られています。画法を兄光琳に、陶芸を野々村仁清に学び、京都の鳴滝、次に二条丁子屋町で作陶に励みました。その後、享保一六年(一七三一)に江戸下谷の入谷村に移り住み、窯を開きました。
寛保三年(一七四三)に亡くなり、下谷坂本の善養寺に葬られました。その後、彼の墓の存在は忘れ去られていましたが、江戸琳派の酒井抱一らによって発見され文政六年(一八二三)に顕彰碑である「乾山深省蹟」が建てられました。善養寺の移転などにより、数度の移動を経て現在の場所にあります。
平成二四年三月 建設 東京都教育委員会」
「乾山深省居士二百五十回忌供養」(平成3年6月2日 乾山顕彰会)
「乾山深省蹟碑」
文政6(1823)年銘の「乾山深省蹟碑」です。
裏面は、文政の文字は視認できますが、達筆すぎて読めません。
尾形乾山の顕彰碑の裏側に「ウイルソン・リチャード・L 小笠原佐江子」と刻まれた墓があります。ウイルソン・リチャード・Lと妻の小笠原佐江子は尾形乾山及び乾山焼の研究家です。両者ともご存命です。
隣に石川狛山先生墓があります。石川狛山は、江戸時代の書家、尾形乾山の弟子です。享保17年10月17日死去。
〇湯浅年子の墓
フランスでジュリオ・キュリー教授の指導を受けた原子物理学者湯浅年子(1909年〜1980年)の墓です。
<顕彰碑>
(碑文)
「湯浅年子
国際的に活躍した日本女性初の物理学者
一九〇九年東京に生まれる。東京文理科大学卒業後、四〇年渡仏。ジョリオ=キュリー夫妻に師事して原子核の実験的研究を開始。四三年フランス国家理学博士。大戦のため四五年帰国。母校・東京女子高等師範学校教授として後進の育成、お茶の水女子大学の設立に尽力。四九年再渡仏。以降フランスの原子核研究所にあって、β崩壊、原子核反応、少数核子系などの最先端の問題に挑戦、その優れた業績により世界的地歩を築いた。また日仏の研究協力に努めて学術交流に貢献した。比類なき行動力、溢れるばかりの知性と感性は人々を魅了し、その深い真情・思索に満ちた著作と、広い交友により、日仏の文化交流にも大きな足跡を残した。
一九八〇年パリに没す。享年七〇歳。
紫綬褒章・勲三等瑞宝章受章
二○〇一年六月 有志一同」
<歌碑>
原子物理学者らしい歌碑です。
(碑文)
「ウィルソン霧函にヘリウムを満たして32Pのβ線軌跡を眺めつつよめる
淡雪の あはさにきゆる 霧の跡
ながある刹那を 我がとこしへに 年子
一九五〇年のノートより臨模」
〇町田家の墓
新門辰五郎が婿入りした江戸町火消浅草十番組「を組」の組頭である町田仁右衛門ほか、町田家の墓です。新門辰五郎も分骨されているとされています(ウィキペディア)。新門辰五郎の墓は、近くの盛雲寺にあります。両寺とも、下谷からの移転です。
墓域修繕紀念
新門辰五郎の娘、お芳との説もあります。
「法林妙市信女
俗名町田いち 明治四十二年
行年六十二才 十二月一日歿」
〇一龍斎貞水顕彰の碑
人間国宝の講談師、一龍斎貞水氏の顕彰碑が建てられています。令和3(2021)年11月28日の建立です。生前、お別れの会の開催を望んでいたものの、コロナ禍のため実現できなかったことから、故人を偲ぶ場所として顕彰の碑が建立されました。
正面「六代目一龍斎貞水」、左側面に直筆の座右の銘「言葉は心、芸は人」と刻まれています。釈台と張り扇を模したものが置かれています。
右横には、長井好弘氏による弔文が刻まれた碑が建てられています。
薬王山延寿院善養寺と号します。天長年間(824-833)に慈覚大師が上野山内に創立したと伝えられる天台宗の寺院です。
寛文年間(1661-72)に下谷坂本に移転した後、鉄道用地の拡張にかかるということで、明治45(1912)年に現在地へ移転し現在に至っています。
本堂には木造閻魔王坐像(豊島区文化財)が鎮座し、江戸三閻魔の一つです。当寺は何回か類焼にあっているので現存の閻魔さまは運慶作ではないであろうと思われますと天台宗HPには記載されています。
「江戸東京四十四閻魔」の第三十番です。
「江戸名所図会 東叡山坂本口」
右手前に「養玉院」、その上に「善養寺」が記されています。境内に「ゑむま」が記されています。
本文には、薬王山善養寺の境内にある閻魔堂の閻魔王像は運慶作とあります。ある人が言うには、野洲足利学校にあった霊像を移したものとあります。
「江戸切絵図」
善養寺が善性寺と誤記されているようです。
現在の当地(台東区上野7-15)は、鉄道が敷設され、多くの列車が行き交っています。
<善養寺>
「天台宗 善養寺」
(説明板)
「善養寺は、天長年間(八二四〜八三三)に、開基である慈覚大師が上野山内に創立したと伝えられる天台宗の寺院で、正式には薬王山延寿院善養寺という。東叡山寛永寺の末寺で、本尊は薬師如来像である。
江戸時代の寛文年間(一六六一〜七二)に下谷坂本(後の下谷区善養寺町、元台東区上野公園)に移転した後、境内地が鉄道用地の拡張にかかるといいうことで、明治四五年(一九一二)に北豊島郡巣鴨村大字巣鴨字庚申塚三四七番地(現在地)へ移転し、現在にいたっている。
本堂には高さ約三メートルの木造閻魔王坐像(豊島区登録有形文化財)が鎮座し、広く信仰を集めていることから「おえんまさまの寺」とも呼ばれ、また、杉並区松ノ木三丁目に所在する華徳院、新宿区新宿二丁目に所在する太宗寺とともに、江戸三閻魔の一つとしても親しまれてきた。
境内には、寛永六年(一六二九)造立の石燈籠をはじめ、延宝八年(一六八〇)の駒型庚申塔、天明八年(一七八八)の宝篋印塔、また江戸時代中期に陶工・絵師として活躍した尾形乾山の墓(東京都指定旧跡)や、フランスでジュリオ・キュリー教授(キュリー夫人の娘婿)の指導を受けた原子物理学者湯浅年子の墓など、多くの貴重な文化財が残されている。
平成十四年三月 東京都豊島区教育委員会」
<標柱「えんま大王」>
昭和47(1972)年と比較的新しい標柱「えんま大王」です。
参道敷石に悠々と寝そべるのは閻魔大王の眷属ですか?茶色の猫はすぐ逃げます。
<石カエル>
境内と墓地に石カエルが置かれています。
境内
墓地
<庚申塔>
本堂左手にある延宝8(1680)年銘の庚申塔です。
<木造閻魔王坐像> 豊島区文化財
賽銭箱が扉内にあり、扉を少し開けると、ライトが点灯し閻魔王がライトアップされました。
【墓地への通路】
<茶釜塚>
当寺には、茶道にも通じていた尾形乾山の墓があり追善茶会が行われたようです。
「有難や茶碗たのしみ一生を 道の教で吾ら極楽
塵外庵悟明 表千家宗悟」
<石仏群>
左から「地蔵」と「六地蔵」
右に4基の地蔵
<六地蔵>
<道標>
道標があります。大正元年9月建立なので、善養寺の下谷坂本から西巣鴨の移転に際して、現地に道標を残したと思われます。
鉄道建設用地となった善養寺跡の東側(4丁23間)に建てた道標を、後年引き取ったのでしょう。
(正面)
「元下谷坂本善養寺道
是レヨリ四丁廿三間」
(左側面)
「大正元年九月立之」
<石燈籠>
寛永6(1629)年造立の石燈籠と思われます。
<尾先照稲荷>
四匹の狐に守られている「尾先照稲荷」です。石祠の右側面に「尾先照稲荷 天長二乙巳年安置 薬王山 善養寺」とあります。天長2年とは825年、善養寺創立当時です。どういった経緯なんでしょうか不思議な稲荷です。小野照崎神社の祭神は、平安初期の漢学者・歌人の小野篁ですが関連があるのでしょうか。
【墓地】
<井戸>
こし布が茶色に染まっているので、井戸水は鉄分が含まれているようです。
<宝篋印塔>
天明8(1788)年銘の宝篋印塔です。
〇武蔵川喜偉之碑
墓地に入ってすぐに、「市川」と刻まれた石燈籠があり、「武蔵川喜偉之碑」(日本相撲協会第4代理事長)があります。昭和63(1988)年1月30日の建立です。
「市川」「昭和廿九年三月廿三日」と刻まれた石燈籠です。
(碑文)
「武蔵川喜偉は明治四十二年三月一日東京府下南葛飾郡大島町に生る 姓は駒沢 名は国一 実父の知人本所警察署高野署長が横綱常陸山と同郷の縁にて出羽海部部屋に入門 大正十四年一月初土俵を踏む 入門後も府立三中現両国高校に通学し向学の念極めて強し 大正十四年五月出羽ノ子と名乗り新序 昭和二年一月出羽ノ花と改む 昭和七年二月新入幕時に二十四歳幕内在位十六場所 昭和十五年五月引退 市川姓に更る 年寄武蔵川を襲名し昭和二十年推されて理事兼勝負検査役 昭和三十五年取締となる この間経理建築土木を学び協会経営の近代化に盡瘁す 昭和四十三年理事長に就任 多年培いたる才能を発揮し顕著なる功績を挙ぐ 昭和四十九年相談役 昭和五十一年相撲博物館長となる 生来頭脳明明? 性情清廉潔白事に処するに熟慮断行協会の体制改革に敏腕を揮う 蔵前国技館の建設に当っては東奔西走 数多くの艱難を克服して完成し着々と業績を伸ばし経営の合理化健全化に全力を投入 両国新国技館新築の財源を蓄積してその基盤を鞏固にし、昭和六十年一月新国技館完成を見るや往時を顧み感慨無量なりしと推察す 昭和四十五年十一月多年の功を以て藍綬褒章を受章 昭和五十四年十一月勲三等瑞宝章を拝受する光栄に浴す 昭和六十二年五月三十日宿病のため天命を完す 協会は昭和六十二年六月二日協会葬を以て其霊を慰す 生前の功績を讃えて正五位に叙せらる 其栄誉燦として霊前に輝く
昭和六十三年一月三十日
理事長 春日野清隆撰文
九代目 出羽海智敬建立
二十五代式守伊之助謹書」
〇尾形乾山の墓 東京都旧跡
尾形乾山は琳派を創設した画家の尾形光琳の弟で、寛文3(1663)年に京都で生まれました。画家としてだけではなく、書道や茶道にも精通し、陶芸では享保16(1731)年に入谷に窯を開き、作品は「入谷乾山」と呼ばれました。
寛保3(1743)年に亡くなり下谷坂本にあった善養寺に葬られます。その後、墓の存在は忘れ去られていましたが、文政6(1823)年に酒井抱一らによって発見され、顕彰碑「乾山深省蹟」が建てられました。
明治末期に、善養寺の鉄道建設に伴う現在地への移転に際し、乾山の墓並びに酒井抱一の顕彰碑の所有権に紆余曲折があり、複製を寛永寺境内に安置することで決着した経緯があります(天台宗HPを参照しました)。
(参考)「入谷乾山窯元碑」(こちらで記載)
(参考)「尾形乾山墓碑・乾山深省蹟(寛永寺)」(こちらで記載)
戒名「霊海深省居士」
(説明板)
「東京都指定旧跡 尾形乾山墓並びに碑
所在地 豊島区二市巣鴨四の八の二五 善養寺墓地内
標識 昭和七年七月一日
指定 昭和三〇年三月二八日
尾形乾山(一六六三ー一七四三)は、京都の呉服商の家に生まれました。名を惟允、通称を権平、新三郎といい、乾山は号です。江戸時代中期の陶工、絵師として知られています。画法を兄光琳に、陶芸を野々村仁清に学び、京都の鳴滝、次に二条丁子屋町で作陶に励みました。その後、享保一六年(一七三一)に江戸下谷の入谷村に移り住み、窯を開きました。
寛保三年(一七四三)に亡くなり、下谷坂本の善養寺に葬られました。その後、彼の墓の存在は忘れ去られていましたが、江戸琳派の酒井抱一らによって発見され文政六年(一八二三)に顕彰碑である「乾山深省蹟」が建てられました。善養寺の移転などにより、数度の移動を経て現在の場所にあります。
平成二四年三月 建設 東京都教育委員会」
「乾山深省居士二百五十回忌供養」(平成3年6月2日 乾山顕彰会)
「乾山深省蹟碑」
文政6(1823)年銘の「乾山深省蹟碑」です。
裏面は、文政の文字は視認できますが、達筆すぎて読めません。
尾形乾山の顕彰碑の裏側に「ウイルソン・リチャード・L 小笠原佐江子」と刻まれた墓があります。ウイルソン・リチャード・Lと妻の小笠原佐江子は尾形乾山及び乾山焼の研究家です。両者ともご存命です。
隣に石川狛山先生墓があります。石川狛山は、江戸時代の書家、尾形乾山の弟子です。享保17年10月17日死去。
〇湯浅年子の墓
フランスでジュリオ・キュリー教授の指導を受けた原子物理学者湯浅年子(1909年〜1980年)の墓です。
<顕彰碑>
(碑文)
「湯浅年子
国際的に活躍した日本女性初の物理学者
一九〇九年東京に生まれる。東京文理科大学卒業後、四〇年渡仏。ジョリオ=キュリー夫妻に師事して原子核の実験的研究を開始。四三年フランス国家理学博士。大戦のため四五年帰国。母校・東京女子高等師範学校教授として後進の育成、お茶の水女子大学の設立に尽力。四九年再渡仏。以降フランスの原子核研究所にあって、β崩壊、原子核反応、少数核子系などの最先端の問題に挑戦、その優れた業績により世界的地歩を築いた。また日仏の研究協力に努めて学術交流に貢献した。比類なき行動力、溢れるばかりの知性と感性は人々を魅了し、その深い真情・思索に満ちた著作と、広い交友により、日仏の文化交流にも大きな足跡を残した。
一九八〇年パリに没す。享年七〇歳。
紫綬褒章・勲三等瑞宝章受章
二○〇一年六月 有志一同」
<歌碑>
原子物理学者らしい歌碑です。
(碑文)
「ウィルソン霧函にヘリウムを満たして32Pのβ線軌跡を眺めつつよめる
淡雪の あはさにきゆる 霧の跡
ながある刹那を 我がとこしへに 年子
一九五〇年のノートより臨模」
〇町田家の墓
新門辰五郎が婿入りした江戸町火消浅草十番組「を組」の組頭である町田仁右衛門ほか、町田家の墓です。新門辰五郎も分骨されているとされています(ウィキペディア)。新門辰五郎の墓は、近くの盛雲寺にあります。両寺とも、下谷からの移転です。
墓域修繕紀念
新門辰五郎の娘、お芳との説もあります。
「法林妙市信女
俗名町田いち 明治四十二年
行年六十二才 十二月一日歿」
〇一龍斎貞水顕彰の碑
人間国宝の講談師、一龍斎貞水氏の顕彰碑が建てられています。令和3(2021)年11月28日の建立です。生前、お別れの会の開催を望んでいたものの、コロナ禍のため実現できなかったことから、故人を偲ぶ場所として顕彰の碑が建立されました。
正面「六代目一龍斎貞水」、左側面に直筆の座右の銘「言葉は心、芸は人」と刻まれています。釈台と張り扇を模したものが置かれています。
右横には、長井好弘氏による弔文が刻まれた碑が建てられています。
華徳院(江戸三閻魔)
〇華徳院 杉並区松ノ木3-32-11
称光山華徳院長延寺と号します。慈覚大師が下野国佐野に創建したと伝えられ、霞ヶ関を経て、慶長年間(1596-1615)に浅草蔵前に移転しました。運慶蘇生の作と伝えられる閻魔大王を祀る閻魔堂を管理し、江戸三閻魔の一つでした。
関東大震災で本尊や伽藍を焼失したため、昭和4(1929)年、すでに区画整理のために墓地を移していた現在地に移転しました。
「江戸東京四十四閻魔」の第二十八番です。
「江戸名所図会 大倉前 閻魔堂」
タイトルは「大倉前 閻魔堂」、挿絵には「大円寺」「長延寺」と並んでいます。「長延寺」は奥州道に面して山門があり、参道の先に「本堂」が描かれており、ここに閻魔大王が祀られていました。奥州道をはさんだ向かい側は「植物御用地」です。
「江戸切絵図」
「大円寺 天王社」と「華徳院」が並んでいます。奥州道をはさんだ向かい側は「植物御用地」です。奥州道を北に進むと鳥越橋があり、江戸幕府の天文台(こちらで記載)がありました。
「浅草年中行事 閻魔参」(台東区立図書館蔵)
「閻魔堂」(現:華徳院)の閻魔大王が描かれています。 閻魔堂は、「浅草閻魔堂」「蔵前閻魔堂」「浅草蔵前閻魔堂」とも呼ばれました。他所の出開帳も多く行われました。
〇閻魔堂跡 台東区浅草橋2-28-14 玩具会館北側植え込み内
「閻魔堂跡」碑は、人形問屋「吉徳」の第10第当主山田徳兵衛氏により昭和44(1969)年に建立されました。
閻魔堂には、運慶作といわれる閻魔王像と、その右には、同木で作られた奪衣婆像、左には聖徳太子作といわれた本地化馬地蔵尊が祭られていました。
(正面)「閻魔堂跡」
(裏面)「昭和四十四年初秋
山田徳兵衛建之」
【現在の華徳院】
<寺号標>
「天台宗華徳院」
(説明板)
「華徳院
当寺院は、称光山長延寺と号する天台宗の寺院で、本尊は閻魔大王です。「寺社書上」等によれば、下野国佐野(現・栃木県佐野市)の地に、天台座主第三世慈覚大師円仁によって開創されたと伝わり、理正院長延寺と称しました。
その後、武蔵国霞ヶ関(現・千代田区)を経て、慶長年間(一五九六年〜一六一五)には浅草蔵前天王町(現・台東区浅草橋)に移り、閻魔堂を管理するようになりました。現在地に当寺院が存するのは、大正二(一九一三)年より、東京市の区画整理によって、墓地を杉並区松ノ木に移転していたこともあり、昭和四(一九二九)年に、牛込千手院行元寺(新宿区)の閻魔大王を本尊として迎え、この地に本堂を建立したためです。
寛保三年(一七四三年)、同寺院は大寺格となり、延享年間(一七四四〜一七四八)、大檀那の越後国安田藩主堀丹後守直時〔寛永二十(一六四三)年没〕の法名に因み、寺院名を華徳院に改めたと伝わります。
江戸時代は「蔵前の閻魔堂」と呼ばれ、運慶作といわれた閻魔大王像のほか、姥堂には本尊と同木の運慶作といわれた奪衣婆像、聖徳太子作と伝わる化馬地蔵尊が祀られ、善養寺閻魔堂(豊島区)、太宗寺閻魔堂(新宿区)と並び「江戸三閻魔」の一つにも数えられ、正月と七月の十六日の大賽日には参詣人で大いに賑わったといわれています。
大正十二年(一九二三)の関東大震災により、これらの仏像も本堂とともに焼失してしまいましたが、その後、蔵前の閻魔堂は再建され、日光輪王寺より閻魔大王をお迎えしました。昭和二十(一九四五)年の戦火により閻魔堂は再び焼失しましたが、閻魔大王像は焼失をまぬがれ、現在、華徳院に安置されています。
令和三年十一月 杉並区教育委員会」
<庫裡/本堂>
庫裡の掲示には「本堂は開いていますので、ご自由にご参拝ください。」とあり、お堂に上がって、ご本尊の閻魔大王にお参りすることができます。
<本尊の閻魔大王>
扁額は慈光遍照。閻魔大王は「江戸三閻魔」の一として有名でした。運慶が死んで閻魔大王に「生き返らせてやるから自分の像を作れ」との示現を蒙り、蘇生して作った閻魔像のため「運慶蘇生閻魔」と呼ばれていました。大正12(1923)年の関東大震災で本堂とともに焼失しました。
昭和2(1929)年に高円寺に本堂を再建して移転、牛込行元寺の閻魔大王を迎えて本尊としています。
<閻魔大王>
こちらは輪王寺から迎えた閻魔大王です。蔵前の旧地に日光輪王寺から迎えた閻魔王像を祀り、境外仏堂としていましたが、昭和20(1945)年に戦災のため焼失。無事だった閻魔大王像は当寺に遷されました。
嘘吐きの舌を抜く「ヤットコ」が置かれています。
閻魔大王の左手には「地獄変相図」が掲げられています。
「ヤットコ」で嘘吐きの舌を抜かれている場面も描かれています。
<句碑>
江戸時代の句碑です。詳細を知りたいところです。
<無縁塔>
一般的には中央に三界萬霊塔がありますが、こちらは中央に宝篋印塔があります。
称光山華徳院長延寺と号します。慈覚大師が下野国佐野に創建したと伝えられ、霞ヶ関を経て、慶長年間(1596-1615)に浅草蔵前に移転しました。運慶蘇生の作と伝えられる閻魔大王を祀る閻魔堂を管理し、江戸三閻魔の一つでした。
関東大震災で本尊や伽藍を焼失したため、昭和4(1929)年、すでに区画整理のために墓地を移していた現在地に移転しました。
「江戸東京四十四閻魔」の第二十八番です。
「江戸名所図会 大倉前 閻魔堂」
タイトルは「大倉前 閻魔堂」、挿絵には「大円寺」「長延寺」と並んでいます。「長延寺」は奥州道に面して山門があり、参道の先に「本堂」が描かれており、ここに閻魔大王が祀られていました。奥州道をはさんだ向かい側は「植物御用地」です。
「江戸切絵図」
「大円寺 天王社」と「華徳院」が並んでいます。奥州道をはさんだ向かい側は「植物御用地」です。奥州道を北に進むと鳥越橋があり、江戸幕府の天文台(こちらで記載)がありました。
「浅草年中行事 閻魔参」(台東区立図書館蔵)
「閻魔堂」(現:華徳院)の閻魔大王が描かれています。 閻魔堂は、「浅草閻魔堂」「蔵前閻魔堂」「浅草蔵前閻魔堂」とも呼ばれました。他所の出開帳も多く行われました。
〇閻魔堂跡 台東区浅草橋2-28-14 玩具会館北側植え込み内
「閻魔堂跡」碑は、人形問屋「吉徳」の第10第当主山田徳兵衛氏により昭和44(1969)年に建立されました。
閻魔堂には、運慶作といわれる閻魔王像と、その右には、同木で作られた奪衣婆像、左には聖徳太子作といわれた本地化馬地蔵尊が祭られていました。
(正面)「閻魔堂跡」
(裏面)「昭和四十四年初秋
山田徳兵衛建之」
【現在の華徳院】
<寺号標>
「天台宗華徳院」
(説明板)
「華徳院
当寺院は、称光山長延寺と号する天台宗の寺院で、本尊は閻魔大王です。「寺社書上」等によれば、下野国佐野(現・栃木県佐野市)の地に、天台座主第三世慈覚大師円仁によって開創されたと伝わり、理正院長延寺と称しました。
その後、武蔵国霞ヶ関(現・千代田区)を経て、慶長年間(一五九六年〜一六一五)には浅草蔵前天王町(現・台東区浅草橋)に移り、閻魔堂を管理するようになりました。現在地に当寺院が存するのは、大正二(一九一三)年より、東京市の区画整理によって、墓地を杉並区松ノ木に移転していたこともあり、昭和四(一九二九)年に、牛込千手院行元寺(新宿区)の閻魔大王を本尊として迎え、この地に本堂を建立したためです。
寛保三年(一七四三年)、同寺院は大寺格となり、延享年間(一七四四〜一七四八)、大檀那の越後国安田藩主堀丹後守直時〔寛永二十(一六四三)年没〕の法名に因み、寺院名を華徳院に改めたと伝わります。
江戸時代は「蔵前の閻魔堂」と呼ばれ、運慶作といわれた閻魔大王像のほか、姥堂には本尊と同木の運慶作といわれた奪衣婆像、聖徳太子作と伝わる化馬地蔵尊が祀られ、善養寺閻魔堂(豊島区)、太宗寺閻魔堂(新宿区)と並び「江戸三閻魔」の一つにも数えられ、正月と七月の十六日の大賽日には参詣人で大いに賑わったといわれています。
大正十二年(一九二三)の関東大震災により、これらの仏像も本堂とともに焼失してしまいましたが、その後、蔵前の閻魔堂は再建され、日光輪王寺より閻魔大王をお迎えしました。昭和二十(一九四五)年の戦火により閻魔堂は再び焼失しましたが、閻魔大王像は焼失をまぬがれ、現在、華徳院に安置されています。
令和三年十一月 杉並区教育委員会」
<庫裡/本堂>
庫裡の掲示には「本堂は開いていますので、ご自由にご参拝ください。」とあり、お堂に上がって、ご本尊の閻魔大王にお参りすることができます。
<本尊の閻魔大王>
扁額は慈光遍照。閻魔大王は「江戸三閻魔」の一として有名でした。運慶が死んで閻魔大王に「生き返らせてやるから自分の像を作れ」との示現を蒙り、蘇生して作った閻魔像のため「運慶蘇生閻魔」と呼ばれていました。大正12(1923)年の関東大震災で本堂とともに焼失しました。
昭和2(1929)年に高円寺に本堂を再建して移転、牛込行元寺の閻魔大王を迎えて本尊としています。
<閻魔大王>
こちらは輪王寺から迎えた閻魔大王です。蔵前の旧地に日光輪王寺から迎えた閻魔王像を祀り、境外仏堂としていましたが、昭和20(1945)年に戦災のため焼失。無事だった閻魔大王像は当寺に遷されました。
嘘吐きの舌を抜く「ヤットコ」が置かれています。
閻魔大王の左手には「地獄変相図」が掲げられています。
「ヤットコ」で嘘吐きの舌を抜かれている場面も描かれています。
<句碑>
江戸時代の句碑です。詳細を知りたいところです。
<無縁塔>
一般的には中央に三界萬霊塔がありますが、こちらは中央に宝篋印塔があります。
tag : 閻魔
閻魔参(えんままいり)
〇閻魔参
「閻魔参(えんままいり」「閻魔詣(えんまもうで)」とは、閻魔堂の閻魔大王に参詣することをいい、江戸時代には、特に正月の十六日の「初閻魔」、七月十六日の「閻魔の斉日」には江戸庶民が群集しました。
「東都歳事記」
「東都歳事記」に閻魔参として66か所が列挙されています。
「正月十六日
○閻魔参 世にゑんまの斎日といふ(以下66か所列挙)」
江戸三閻魔には丈六(高さ1丈6尺)の記載があります。
・浅草御蔵前 長延寺(閻魔丈六倶生神脱衣婆立像)(現杉並区:称光山華徳院長延寺) こちらで記載
・下谷坂本 善養寺(丈六)(現西巣鴨) こちらで記載
・四谷内藤新宿 太宗寺(丈六) こちらで記載
「七月十六日
〇閻魔参 閻魔の斎日と云 参詣の場所 正月十六日のくだりに記する如し」
地獄の閻魔王による審判の挿絵が掲げられています。法廷には、八面鏡と呼ばれる大鏡がすえられ、死者の生前の行為が映し出されています。
「浅草年中行事 閻魔参」(台東区立図書館蔵)
閻魔堂(現:華徳院)の閻魔大王が描かれています。閻魔堂は、「浅草閻魔堂」「蔵前閻魔堂」「浅草蔵前閻魔堂」とも呼ばれました。
「四ツ谷新宿太宗寺(えんま大王八仏師)」(歌川国輝 弘化4(1847)年3月)ボストン美術館)
太宗寺では、弘化4(1847)年3月5日に、泥酔者が閻魔像の目を取る事件が起り、錦絵に描かれるなど江戸中の評判になりました。
【江戸・東京四十四閻魔】
下町タイムス社が平成元(1989)年7月に「江戸・東京のお閻魔さま四十四ケ所を歩く」というイラストマップを出版しました。江戸の閻魔から、当時存在する44体を探して紹介したものです。
【大きな閻魔像】
ネット検索で巨大でヒットした閻魔像を大きい順に並べると、
・典厩寺(長野市) 6m(日本記録認定協会)
・からくり閻魔堂(登別市) 6m
・太宗寺(新宿区) 5.5m(都内最大)
・三井寺(和歌山市) 3.9m
・深川ゑんま堂(江東区) 3.5m(謎の日本最大)
「閻魔参(えんままいり」「閻魔詣(えんまもうで)」とは、閻魔堂の閻魔大王に参詣することをいい、江戸時代には、特に正月の十六日の「初閻魔」、七月十六日の「閻魔の斉日」には江戸庶民が群集しました。
「東都歳事記」
「東都歳事記」に閻魔参として66か所が列挙されています。
「正月十六日
○閻魔参 世にゑんまの斎日といふ(以下66か所列挙)」
江戸三閻魔には丈六(高さ1丈6尺)の記載があります。
・浅草御蔵前 長延寺(閻魔丈六倶生神脱衣婆立像)(現杉並区:称光山華徳院長延寺) こちらで記載
・下谷坂本 善養寺(丈六)(現西巣鴨) こちらで記載
・四谷内藤新宿 太宗寺(丈六) こちらで記載
「七月十六日
〇閻魔参 閻魔の斎日と云 参詣の場所 正月十六日のくだりに記する如し」
地獄の閻魔王による審判の挿絵が掲げられています。法廷には、八面鏡と呼ばれる大鏡がすえられ、死者の生前の行為が映し出されています。
「浅草年中行事 閻魔参」(台東区立図書館蔵)
閻魔堂(現:華徳院)の閻魔大王が描かれています。閻魔堂は、「浅草閻魔堂」「蔵前閻魔堂」「浅草蔵前閻魔堂」とも呼ばれました。
「四ツ谷新宿太宗寺(えんま大王八仏師)」(歌川国輝 弘化4(1847)年3月)ボストン美術館)
太宗寺では、弘化4(1847)年3月5日に、泥酔者が閻魔像の目を取る事件が起り、錦絵に描かれるなど江戸中の評判になりました。
【江戸・東京四十四閻魔】
下町タイムス社が平成元(1989)年7月に「江戸・東京のお閻魔さま四十四ケ所を歩く」というイラストマップを出版しました。江戸の閻魔から、当時存在する44体を探して紹介したものです。
【大きな閻魔像】
ネット検索で巨大でヒットした閻魔像を大きい順に並べると、
・典厩寺(長野市) 6m(日本記録認定協会)
・からくり閻魔堂(登別市) 6m
・太宗寺(新宿区) 5.5m(都内最大)
・三井寺(和歌山市) 3.9m
・深川ゑんま堂(江東区) 3.5m(謎の日本最大)
テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
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