日本の無思想
著者 加藤典洋 (著)
なぜ、日本で思想は死ぬのか──敗戦後を生きる私たちが独自の思想を持つことができないのは、「タテマエとホンネ」に囚われているからだ。話題の著者が贈る論争必至の一冊。※この商...
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商品説明
なぜ、日本で思想は死ぬのか──敗戦後を生きる私たちが独自の思想を持つことができないのは、「タテマエとホンネ」に囚われているからだ。話題の著者が贈る論争必至の一冊。
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日本の思想風土とは
2016/11/30 21:06
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:こけさん - この投稿者のレビュー一覧を見る
ハンナ・アーレントの議論を用いて近代自体に議論を圧殺する傾向があることを指摘する。古代ギリシアと近代の対比をするその手法に魅せられた。その上に、日本自体に議論を圧殺する仕組みがあることを指摘する。それを表すものが、ホンネとタテマエであり、その発生を私たち日本人は大きく見誤っていることを教えてくれる。ここで、身震いをした!近代と日本の代表的な考え方が、議論を圧殺しているのだということが指摘している。
該博な知識と斬新な視点があいまった知の快楽
2002/02/05 11:41
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投稿者:ツーソン - この投稿者のレビュー一覧を見る
日本を「了解の共同性」と捉え、そのような社会においてはタテマエとホンネを適当に使い分けながら生き延びることが重要であり、真実だとか信念だとかは二の次になるという話から筆者は始める。そこでは、二枚舌や二重構造も当たり前のように存在し、人々は何が本当で何が嘘かということに関してはたいして興味をもたなくなる。
重要なことは、そういうニヒリスティックで日和見的な社会では、個人から生まれる切実な信仰や思想が育たないことである。そして、ついには、言葉は何の力ももたなくなるだろうと筆者は警告する。たとえば、「踏み絵」で命を落としたキリシタンを理解することは、そういう人々にとってはまったく理解不能な事件だろう。
そして、アーレントの話へとつながってゆく。「言葉が死ぬと、人間から公的領域というものが消える、公的領域が消えると、生きることの意味が消える、その結果、人は、単一なものに対する対抗原理を失い、最終的にはある種の全体主義を呼び寄せてしまう」。考えられたことは必ず発語されなくてはならないのだ。
該博な知識と斬新な視点があいまった筆者独自の知の快楽を、廉価な新書版で楽しむことができるのはありがたい。読みながらこれだけ楽しめる思想家はそう多くはないのでは。
「私利私欲」の上に公共性を築くこと
2001/02/27 22:24
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る
著者は『人間の条件』でのハンナ・アレントの議論に準拠しながら、戦後日本に生まれた「タテマエ」と「ホンネ」(口にされない本心)の区別は、ヨーロッパ18世紀に起こった公私観の地殻変動につながるものだと指摘している。
そして、無原則かつ融通無碍にタテマエ(公)とホンネ(私)が入れ替わる戦後日本の「二重構造」のもとでは、アレントがいう意味での「活動」や「考えていることを口に出して言うこと」に誰も尊敬を払わなくなり、ひいてはそのことが政治と思想の貧困化をもたらすこととなったと述べている。
加藤氏によれば、アレントが提唱する「公的領域の復権」は、近代的な公私観や戦後日本の「タテマエとホンネの論理」にうちかつ「対案」にはなりえない。というのも、アレントの議論は、18世紀のヨーロッパにおいて「社会的なもの」(近代的な意味での「公的領域」)の勃興を促し、それに対抗するものとしての「親密なもの」(近代的な意味での「私的領域」)を生み出すこととなった第一原因を組み込んでいないからである。
それでは、その第一原因とは何か。加藤氏は、それは「欲望」であり「利己性」であり、平たくいえば「私利私欲」の発動であったと述べ、この「私利私欲」に立脚した公共性構築の可能性を福沢諭吉の議論に見ている。
福沢諭吉は「痩我慢の説」で、江戸城の無血開城によって勤王勢力に降伏した勝海舟を批判した。加藤氏は、福沢諭吉が勝海舟に対して最も許し難いと感じたのは、勝の「皇国の大義の前で幕権強化は一家の私論にすぎず」という考え方だったのではないかと指摘している。つまり、「幕権強化」という「公」が「皇国の大義」というより高次の「公」の前では「私」にすぎないといった勝海舟の公私観を、福沢諭吉は批判したのではないかというのである。
福沢諭吉が「痩我慢の説」で主張していることは、「公」は「私」から作られるのだということ、それも私利が集まって公益となるといった算術的な問題としてではなく、価値の後先の問題として提示しているのだ。——加藤氏はこのように指摘した上で、いま本当に公的なものを更新するためには、「私利私欲」を否定したりこれに敵対するのではなく、「私利私欲」の上にこそ公共性を築いていかなければならないと提案している。
《ルソーは、あの『社会契約論』の冒頭近くで、この人間の私利私欲を重要なものと見て、もし、これがなかったら、人間は無垢なよき存在だったかもしれないが、複数の人間間に結合は生まれなかったろうと書いています。人間の中にこの私利私欲という厄介なものがあるので、人は外に出てゆき、対立を生み、そうであればこそ、この対立を調停することなしに生きてゆけないというところまで追い込まれたところで、はじめて公共性の必要にぶつかる、というのがルソーの思い描いた人々が社会を作らざるをえない、その普遍的な理由でした。ルソーはもう一歩進めて、もしこの私利私欲という悪がなかったら、人間に結合ということが起こらなかったばかりか、善というものも生じなかったといってもよかったでしょう。善悪の観念は、この人間の結合、人間の関係に基礎をおくからです。》