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流石の見識。想像していた通りの、絶大なる存在感。
自分の考えに確固たる自信を持っていることが、そう思えるまでに積み上げられた経験と知識が、ひしひしと伝わってくる。
そして、その背景にある、庭園への並々ならぬ思い入れに圧倒される。
絶対的な我が道への信頼。
もうこちらは、無知蒙昧に、恥じ入るばかりだ。
立て続けに読むとちょっと疲れた。
やはり、修学院離宮にも行ってみるべきだと痛感。
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これを読むと庭園に対する意識が変わる
私は元々庭園巡りが趣味なのだが、以前よりも増して庭園と向き合えるようになった
庭園に対して本当に希薄なことしか考えていなかったなと痛感した
また重森三玲の庭園への熱量が物凄く伝わり、心を打たれた
その中で非常に共感した部分もあり、嬉しくも思った
この本に出会って本当に良かった
庭園好きであれば必読である
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1109
重森 三玲
(しげもり みれい、1896年8月20日 - 1975年3月12日)は、昭和期の日本の作庭家・日本庭園史の研究家。出生名は重森計夫。岡山県上房郡吉川村(現・加賀郡吉備中央町吉川)の生まれ。当地には豪渓(ごうけい)と呼ばれる水墨山水画の世界を思わせる渓谷地帯がある。日本美術学校で日本画を学び、いけばなと茶道を習い稽古に励む。日本美術学校卒業後には東洋大学文学部に学ぶ。大正6年(1917年)に画家の道を志し上京するが、全国から集まる才能に意気消沈する。昭和4年(1929年)京都へ移り住むと、翌年には勅使河原蒼風らと「新興いけばな宣言」を起草(当時は未発表)、いけばなの革新を世に提唱した。その後は日本庭園を独学で学ぶ。昭和11年(1936年)より全国の庭園を実測調査し、全国500箇所にさまざまな時代の名庭実測、古庭園の調査などにより、研究家として日本庭園史のさきがけとなっていく。昭和14年(1939年)、『日本庭園史図鑑』26巻を上梓して庭園史研究の基礎を築き、また昭和51年(1976年)には息子の重森完途と共に『日本庭園史大系』全33巻(別巻2巻)を完成させるなど庭園史研究家としても多大な功績を残した。昭和24年(1949年)には前衛いけばなの創作研究グループ「白東社」を主宰、後に前衛いけばな誌「いけばな藝術」を創刊した。三玲が作庭した庭は、力強い石組みとモダンな苔の地割りで構成される枯山水庭園が特徴的であるとされ、代表作に、東福寺方丈庭園、光明院庭園、瑞峯院庭園、松尾大社庭園などがある。「三玲」の名は、フランスの画家ジャン=フランソワ・ミレーにちなみ本人が改名したもの。美術学校時代から雅号として「ミレー」を名乗っていたが、やがて出家すれば戸籍を抹消できることを知り、一度出家して戸籍を抹消し、再び戸籍に入る時に三玲と改名した。子供たちに名前をつける時にもヨーロッパの偉人に因み、長男には完途(カント)、二男には弘淹(コーエン)、長女には由郷(ユーゴー)、三男には埶氐(ゲーテ)、四男には貝崙(バイロン)と命名したが、長男の完途は父三玲の西洋趣味に反発し、自らの子供には古事記や万葉集に由来する日本風の名前をつけた。重森弘淹は、東京綜合写真専門学校を創立し、篠山紀信、操上和美、須田一政、土田ヒロミ、水谷章人、鈴木理策など多くの著名な写真家を育成している。白東社は重森邸で月一度の集まりを持ったが、そこには土門拳や小原豊雲、中川幸夫などの前衛いけばな作家も参加していた。重森邸を度々訪れたアメリカの彫刻家・イサム・ノグチとの交友など、庭園を通じた三玲の交友関係は広かった。
子孫
重森完途(カント) - 長男。作庭家。
重森弘淹(コーエン) - 二男。写真評論家。
重森由郷 (ユーゴー)- 長女。日本舞踊「重森流」家元。
重森埶氐(ゲーテ) - 三男。重森ゲーテ名義でも活動。第一アートセンター社長、重森GEITE事務所主宰、重森三玲記念館館長。
重森貝崙(バイロン) - 四男。映像作家。
重森千靑 - 孫。長男完途の息子。作庭家。重森庭園研究所代表、京都工芸繊維大学講師。
重森三明 - 孫。美術家。重森三玲庭園美術館館長。
重森三果 - 孫。新内演奏家・新内志寿。
明治二九(一八九六)年八月二〇日、岡山県上房郡賀陽町(現・吉備中央町)吉川に長男として誕生。出生名は計夫(のちフランスの画家ジャン・フランソワ・ ミレーにちなんで三玲と改名)。父は元治郎、母はつるの。妹が四人。二一歳で 上京し日本美術学校に学ぶ。
庭、茶の湯と並び、三玲が重要視したのがいけばな。茶の湯とともにその定型化を批判し、勅使河原蒼風や小原豊雲と交流、前衛いけばなの一翼を担い、同人研究会「白東社」を主宰(中川幸夫などが参加)。雑誌「いけばな藝術」も創刊した。
庭を観賞する時は、信用のある著書などによって予備知識をつけておくことは一応必要であるが、場合によっては、最初から無心にその庭にブッつかることが必要である。妙な予備知識などによって、正しい観賞がゼロになる場合だって多い。
このような庭というものは、だから一度や二度や三度見たといって、正しく理解出来るものではない。だが庭を見て巡る人々の中には、この庭は一度見たことがあるから、二度も見る必要はないという人がある。それは庭が解っていない人に限られる。 庭というものは、他の芸術品と異って、実は生きている生物的存在である。晴天の日と、雨の日と、雪の日と、霧の深い日とでは、その趣きが全く別である。朝と夕方と昼間とでも異る。 明るい光線の強い日と、曇天の暗い日とでも異る。拝観者の多い日と尠ない日、同伴の人の相手にもよる。全く一つの庭でさえ千変万化である。それを一度見たのみで、二度見る必要がないというのは馬鹿げたことである。 龍安寺や西芳寺や、その他傑出した庭になると、特に何十回か見る必要がある。二度や三度で解ったということはウソである。 庭を見る場合に、その庭を団体などで、多勢の人々と一緒に見た場合と、一人でゆっくり見 た場合と、更に写真などを念の為に撮った場合と、スケッチなどして、肝要な部分など入念に見た場合と、実測調査までしたり、古文書などまで披見して調査した場合とでは、同じ一つの庭を見たといっても、実は大きな差がある。修学旅行などで、学生時代に一度見たことがある などというのは、見たことにはならない。オノボリさん的に、ガイドなどの説明で笑いながら見たとて、そんなものは庭を見たということにはならない。庭というものだけではなく、建築 でも、仏像でも、すべての芸術品は、そのような態度で見て解る安物ではない。 実は庭に限ったことではないが、芸術品を見るということは、自らの心を養う、内容的な栄 養素であるから、インスタント的に見た場合は、その栄養価はインスタント的であって、大した栄養とはならない。同じ百円の拝観料を払うのなら、何万円か何十万円に価する栄養を、その庭から得た方が得である。百円の拝観料を払って、十円位な栄養をもらったのでは大きな損である筈である。 しかしその栄養素が大いに摂取出来るのは、その見る人の力であり、見る人の努力であり、見る人の心得次第である。 庭や建築を見ても、何かその中から、自分の魂をゆさぶるほどの何物かを発見することが必 要である。相阿弥の作と説明されて、あーそうですかとだけで引き下ったのでは、その人は気の毒な人でしかない。芸術品には、何かそこに吾々の生活の上に忘れていた驚くべき生命がころがっているものであ��。庭の良い悪いだけでなく、そうしたものを発見することが必要である。 一つの石組を見ても、そこに立っている一個の石は、他の石とどういった調和の上に成立しているか、又は破調があるか、そして又、作者はその石を通して、何を語らんとしているか、 現にその石は、吾々に何を話しかけているのか、その沈黙は何を意味しているのか、そうした 石組一つの上にも、吾々はじっと引きつけられる筈である。
一個の庭石は、石自ら最高の美の姿を具現しようと思っているに違いない。一個の石の最高に美しい姿が把握出来るまでは、その石に手をかけてはならない。その石と作者との呼吸が合致した時に、石は自ら動くのであり、作者も亦石の命のままに、最高の美を表現してやれるのである。そしてその石の美しさは色であり形であるが、その色や形は自然のもつ千変万化であり、人間の技術では遠く及ぶべくもない深さをもっているからである。人間の技術の及ばないものが、 人間の技術によって支配されるところに、更に石の美が存在する。石の美はあってなきもの、 なくてあるものということになる。
石ほど不動のものはない筈ですが、その不動な筈の石が、逆に石ほど動くものはないす。石ほど沈黙を守っているものはないのですが、その石が随分とお喋りするのです。石から積極的にはたらきかけてくれるのですから、石を探す一時は、とても私にしてみると楽しいことなのです。 大自然といいますか、神といいますか、そうした自然なり、神が造型した最後美の存在ですが、その最高美の存在は、石を探す作家に高度性のない限り、石の方が逃げてしますのです。自然としての最高美の存在と申しますのは、最早人間の力ではどうにもならないほど最高の美をもっているからです。
石を探すこと、そのことが既に大きな芸術なのです。石を探す時に芸術がなかったとしますと、最早それは庭にはならないのです。庭石の美を発見することが既に芸術ですから、その発 見は同時に作庭の勝負が決定づけられているのです。それだけに、実は石を発見するということは中々むつかしいことなのです。自分の頭の中に累積された概念などに頼ってはいけません。すべてその現場で純粋な立場で発見するのです。ここで発見という言葉をつかいましたのは、 その意味です。作家と石とが一体のものとなることが発見なのです。一つの石の中から、今ま でにないものを見付けることが必要なのです。その石の美しさということは、その作家の作品 となる時にのみ美しさが出るのですから、その石の美は、作家にピッタリと感覚的に合致するものでないと駄目なのです。 書画の鑑定などでも、最高に傑出している場合ですと、考える余地はありません。直感的にパッと来るものが有ります。石でも同じことが言えます。どこを、どう用いたらどのような石組が出来るかが、石を発見した時に既に決定づけられるのです。 だから一番困りますのは、庭園の修理などということが、自分の個性や感覚を出したり、創意を出す訳に参りませんので、作家という立場から興味のないものです。石を探すということもないからです。