正法眼蔵 仏向上事 4
洞山悟本大師と僧の問答について道元禅師の注釈は続きます。
「仏向上事」というのは誰が見てもわかるようなものではないし、何もかも押し隠してしまって誰にも見せないというものでもない。人に常にありありと見せているものではないし、人の持っているものを自分のものにすると言う態度でもない。
それであればこそ、日常生活における普通の会話の中でごく普通のやり取りをしている時に「仏向上事」と言うものが現れてくるのである。
真実を得た人が真実と一体になった状態というものが具体的に現実に現れている時には、話をしている時にはその話をしている人は他の人の話を聞くとことがない。
話をしている時には話をしている時、人の話を聞く時には人の話を聞く時と言う事である。話をする事と人の話を聞く事とは別々と言うきわめて普通の状態と言うものが実際に具現しているのである。
僧侶が自分が話をしている時には人の話を聞いていないと言うごく普通の日常会話のあり方というものが極めて自然な真実を得た人の態度であって、そういう状態にある限り事新しく自分は真実を得ておりながらさらに真実と一体であると言う事を意識する必要もないし人に話す必要もない。
また事新しくそれを人に見せびらかすと言う必要もない。ごく普通の日常生活の会話の状況を見てみるならば、話す時は話す時、聞く時は聞く時であって、話す時に人の話を聞くとか人の話を聞いている時に同時に自分も話すと言う状態ではない。
―西嶋先生にある人が質問した―
質問
今までの私の考え方ですと、宗教というのは自分の行為を縛ってしまうと感じていました。で、先生の正法眼蔵の勉強会にお邪魔するようになってそういう事があんまり感じられなかったものですから、まあ多少ましな人間になりたいと・・・。
いわゆる仏教というと、今まで私は何となく古くさいものだと感じがしていたわけですね。そういう事で、仏教というよりは仏道という気持ちで私は今まで来ていたわけなんですが、そういう考え方はどうなんでしょうか。
先生
そういう考え方がまさに仏道修行だということが言えると思います。ですから「多少ましになりたい」という気持ちが本当の事を知りたいという事なんですよ。
仏道というものと他の宗教との違いがどこにあるかと言いますと、大雑把に言いますと今日、三種類の宗教があるわけです。一つは神とか心とかというものを重点的に考えて、神や心が基準とい考え方が一つあるわけです。これが従来「宗教」と呼ばれてきたものの特徴になるわけです。
ただ今日ではもう一つ別の宗教があるわけです。それは神とか心とかというものがでたらめだという、こういう宗教がある。この世の中はすべて物で出来上がっているのだから、物を中心にして物を信ずることが正しいという宗教も今日あるわけです。
そういうふうな二つの宗教に対して仏教が何を主張したかというと、宇宙というものを基準にして問題を考え直すべきだという事を主張したわけです。
ですからそういう点では、仏教思想の基礎にはいわゆる宗教らしさというものが希薄なわけです。つまり神を大切にするとか、心を大切にするとかという考え方が仏教の中では説かれていない。
仏教の中で何が説かれているかというと、我々が生きているこの世界というものが物質的なものを基礎にはしているけれども、精神的な尊いものを同時に含んでいる。
我々はそういう世界の中に生きているんだから、我々が住んでいる世界、つまり法の世界を中心にして問題を考え直すべきだというのが釈尊の教えです。
だから釈尊の教えの主張の中には、いわゆる宗教に対する批判と反宗教に対する批判と両方があるわけです。釈尊が何を説かれたかというと、神を信じ心を信じるという事は人間にとって危険な面がある、人間を不幸にする面があるという事を主張されたわけです。
そうかといって神に背き心に背くという事も人間を不幸にする。その中間に立って我々がどういう世界に生きているかをよく勉強して、その世界の実態に即して生きていくべきだという事が釈尊の教えという事になる。
釈尊の心とか神を極端に重視することが人間の不幸につながるという教えのいい例が今日中近東にあるわけです。キリスト教的な考え方とイスラム教的な考え方とが対立してしまうと、我々の立場から見れば「どうしてあんな殺戮が行われるんだ」という疑問しか出てこないような事実が毎日のように地球の上で起こっているわけです。
何のために起こっているかと言えば宗教の違いです。お互いに「自分たちの神が絶対」という事を信じこんでいるから、そのためには自分達の神を信じない人々の人命を失わせてもいっこうに差し支えない、自分たちの神に背くような人間は殺すことの方が正しいんだ、という考え方をお互いに持ち合っているから中近東における様な問題が出てくる。
釈尊はその事実に気づかれたから、神とか心とかというものを極端に信じてそれに従っていくことが人間を決して幸福にしないという事を主張されたわけです。
そういう点では仏教というものの中には、いわゆる宗教的な雰囲気というものは割合少ないという事は言えるわけです。ただそういう主張の中にこの世の中の真実があるというのが仏教の主張であるし、我々の信仰があると、こういう事が言えると思います。
最後までお読みいただきありがとうございます。
「仏向上事」というのは誰が見てもわかるようなものではないし、何もかも押し隠してしまって誰にも見せないというものでもない。人に常にありありと見せているものではないし、人の持っているものを自分のものにすると言う態度でもない。
それであればこそ、日常生活における普通の会話の中でごく普通のやり取りをしている時に「仏向上事」と言うものが現れてくるのである。
真実を得た人が真実と一体になった状態というものが具体的に現実に現れている時には、話をしている時にはその話をしている人は他の人の話を聞くとことがない。
話をしている時には話をしている時、人の話を聞く時には人の話を聞く時と言う事である。話をする事と人の話を聞く事とは別々と言うきわめて普通の状態と言うものが実際に具現しているのである。
僧侶が自分が話をしている時には人の話を聞いていないと言うごく普通の日常会話のあり方というものが極めて自然な真実を得た人の態度であって、そういう状態にある限り事新しく自分は真実を得ておりながらさらに真実と一体であると言う事を意識する必要もないし人に話す必要もない。
また事新しくそれを人に見せびらかすと言う必要もない。ごく普通の日常生活の会話の状況を見てみるならば、話す時は話す時、聞く時は聞く時であって、話す時に人の話を聞くとか人の話を聞いている時に同時に自分も話すと言う状態ではない。
―西嶋先生にある人が質問した―
質問
今までの私の考え方ですと、宗教というのは自分の行為を縛ってしまうと感じていました。で、先生の正法眼蔵の勉強会にお邪魔するようになってそういう事があんまり感じられなかったものですから、まあ多少ましな人間になりたいと・・・。
いわゆる仏教というと、今まで私は何となく古くさいものだと感じがしていたわけですね。そういう事で、仏教というよりは仏道という気持ちで私は今まで来ていたわけなんですが、そういう考え方はどうなんでしょうか。
先生
そういう考え方がまさに仏道修行だということが言えると思います。ですから「多少ましになりたい」という気持ちが本当の事を知りたいという事なんですよ。
仏道というものと他の宗教との違いがどこにあるかと言いますと、大雑把に言いますと今日、三種類の宗教があるわけです。一つは神とか心とかというものを重点的に考えて、神や心が基準とい考え方が一つあるわけです。これが従来「宗教」と呼ばれてきたものの特徴になるわけです。
ただ今日ではもう一つ別の宗教があるわけです。それは神とか心とかというものがでたらめだという、こういう宗教がある。この世の中はすべて物で出来上がっているのだから、物を中心にして物を信ずることが正しいという宗教も今日あるわけです。
そういうふうな二つの宗教に対して仏教が何を主張したかというと、宇宙というものを基準にして問題を考え直すべきだという事を主張したわけです。
ですからそういう点では、仏教思想の基礎にはいわゆる宗教らしさというものが希薄なわけです。つまり神を大切にするとか、心を大切にするとかという考え方が仏教の中では説かれていない。
仏教の中で何が説かれているかというと、我々が生きているこの世界というものが物質的なものを基礎にはしているけれども、精神的な尊いものを同時に含んでいる。
我々はそういう世界の中に生きているんだから、我々が住んでいる世界、つまり法の世界を中心にして問題を考え直すべきだというのが釈尊の教えです。
だから釈尊の教えの主張の中には、いわゆる宗教に対する批判と反宗教に対する批判と両方があるわけです。釈尊が何を説かれたかというと、神を信じ心を信じるという事は人間にとって危険な面がある、人間を不幸にする面があるという事を主張されたわけです。
そうかといって神に背き心に背くという事も人間を不幸にする。その中間に立って我々がどういう世界に生きているかをよく勉強して、その世界の実態に即して生きていくべきだという事が釈尊の教えという事になる。
釈尊の心とか神を極端に重視することが人間の不幸につながるという教えのいい例が今日中近東にあるわけです。キリスト教的な考え方とイスラム教的な考え方とが対立してしまうと、我々の立場から見れば「どうしてあんな殺戮が行われるんだ」という疑問しか出てこないような事実が毎日のように地球の上で起こっているわけです。
何のために起こっているかと言えば宗教の違いです。お互いに「自分たちの神が絶対」という事を信じこんでいるから、そのためには自分達の神を信じない人々の人命を失わせてもいっこうに差し支えない、自分たちの神に背くような人間は殺すことの方が正しいんだ、という考え方をお互いに持ち合っているから中近東における様な問題が出てくる。
釈尊はその事実に気づかれたから、神とか心とかというものを極端に信じてそれに従っていくことが人間を決して幸福にしないという事を主張されたわけです。
そういう点では仏教というものの中には、いわゆる宗教的な雰囲気というものは割合少ないという事は言えるわけです。ただそういう主張の中にこの世の中の真実があるというのが仏教の主張であるし、我々の信仰があると、こういう事が言えると思います。
最後までお読みいただきありがとうございます。
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