羽衣ララは学校へ行ってみた。AIを持たない初登校ではコミュニケーションに失敗。そこで次はAIをもって、ちくいち指示をあおぎながら学校生活をやりすごしたが……
異文化との衝突の苦しみから入り、「郷に入っては郷に従え」的な埋没を解決とせず、異なる存在として他者をたがいに認めあう……そんな異文化コミュニケーションを描いた物語として、制作者のねらいは良かったと思う。
これまで「大人」を自称して自認してきた羽衣が、AIにたよれない状況では二桁の算数もできず、規則の文章も読めないという逆転も、違う立場におかれた人間の普遍的な寓話としてよくできている。
最後まで見ると、星奈のそばにいたいという願いだけは一貫しているところで、教訓的なだけではないキャラクタードラマとして成立しているのも良かった。
志水淳児演出も珍しく絵で語ろうとしていたと思う。たとえば4人が話し合う場面で、羽衣と星奈のやりとりに、天羽と香久矢の無言のカットを挿入する。けっこう目立つ静止画で、2回の話し合いでの表情の変化がわかりやすい。登下校での羽衣と星奈のやりとりで、坂でふたりに高低差をつくったカットも目を引いた。
しかし、異文化コミュニケーションを描くにあたって、日本の学校生活において当然視されていることが、現在の地球上でも必ずしも共有されていないという目配りはほしかった。
たとえば学校清掃は外国でもやることだろうと羽衣に器具を押しつける描写があったが、少し調べれば欧米や中東では清掃員を雇用しているという情報が見つかるはずだ。
学校掃除(がっこうそうじ)とは - コトバンク
諸外国の学校では、かならずしも生徒に掃除をさせていない。世界の国々は、学校掃除については、「清掃員型」「清掃員・生徒型」「生徒型」の3類型に分けられる。
むしろ羽衣の異文化ぶりが地球人ではないからと解釈していた星奈たちが、実際は地球のことも知らなかったと認識して視野を広げる展開にしてほしかった。特に、学校清掃の教育効果の過大視は、さまざまな心身への悪影響につながると疑われるようになってから長い。
「素手で集団トイレ掃除運動」の政治性について - 荻上式BLOG
この会の方法である、トイレ掃除には熱湯使おうとか、素手がいいということが、前にちょっと問題になっていましたよね。批判があったからか、この会発行のDVDには「素手、素足で行う必要はありません」という説明書きがでてくるんだけれど、サイトの写真にうつっている人たちは皆素手だし、鍵山さんも著書の中で、素手のよさを力説しています。
私は未読なのだが、現在の学校教育を批判する書籍でも、学校清掃が象徴的にタイトルで使われている。
- 作者: 杉原里美
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2019/03/13
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
- この商品を含むブログを見る
物語全体としては学校清掃を当然視しないよう視野を広げるものになっていただけに、きちんと取材をしていないことがわかってしまうのが残念だった。
また、入学手続きを前回*1に登場したアブラハム監督にやってもらった、という説明には首をかしげた。まったく説明がないよりは良いが、いくらなんでも外国で活躍している映画監督が入学を助けるコネクションを持っているとは感覚的に理解できない。
総理大臣へ話をつけた前回もふくめて、日本国内の巨匠的映画監督に設定して、学校経営者ともコネクションがあると説明したほうが良かった気がする。もしくは、アブラハム監督と同じように異星人が日本政府関係者にいて、その人物に問題を解決してもらったと説明するとか……