きたろう散歩・おかね塚(1) [きたろう散歩]
取材日、2019/03/06(水)
アップ日、2019/06/24(月)
皆様、大変ご無沙汰しております。
このたび、千葉県市川市行徳地区(注)にある、「おかね塚」という、ちょっと変った名前の「塚」について、取材と調査をしましたので、アップします。
(注:現在、市川市行徳という地名はありません(市川市行徳駅前、市川市南行徳の地名はあるが)。概ね、旧東葛飾郡行徳町の範囲を、便宜上、行徳地区と呼称します。)
この塚の存在を知ったきっかけは、行徳公民館の主催講座に出席するため、自転車で向かう際に、目標となる途中の目印がないかと探していたら、丁度自転車の経路で左折すべきところに「おかね塚」という史跡(的)なものがあるので、講座の前に立ち寄ったというのが、きっかけです。
#01、行徳公民館
2019年3月6日撮影(撮影:江戸川きたろう)
#02、「おかね塚」、「行徳公民館」近辺の地図
おかね塚は、市川市押切12-31(前)の6差路に建つ史跡で、Google Mapにも記載されています。
#03おかね塚?(説明表示石碑)
当初、この石碑が「おかね塚」と思い、この石碑を中心に写真を撮影しました。
行徳公民館で、講座を受講し、家に帰って、この碑文を読んでいたら、どうも、おかね塚そのものは、この石碑以外に、別に存在するようでした。
この石碑に書いてある文章(写真から解読)
◆行徳おかね塚の由来◆
行徳の浜は古来塩業を以って榮えし処。押切の地また然り。
浜辺に昇る塩焼きの煙は高く五大木(船)の行き交う中に粗朶(薪)を
運べる大船の往来するもあり為に船頭・人夫の此の地に泊る
者また少なしとせず。
時に一船頭のしばしば此の地に來りて江戸吉原に遊びかね
と云える遊女と馴染む、船頭曰く年季を終えなば夫婦とな
らんと かね女喜びてその約を懐き歳を待つ、やがて季明
けなば早々に此の地に来りて船頭の至るを迎ふ。されど船頭
その姿を見せず。
待つこと久し、されば蓄へし銭も散じ遂には路頭に食を□□
に至るもなお此の地に留る。船頭への恋慕の情きが
故なり。 遥かに上総の山影を望みて此処松樹の下に果つ。
伝え聞きし朋輩百余人憐れみて資を募り墓碑を建て、霊を
弔ふ。
噫呼 かね女の思ひの一途なる真に純なる哉 朋友の情の
篤きこと実に美なる哉。聞く者皆涙せざるはなし。里人の香
華を供えておかね塚と唱へしも時流れ日移りし今日その由知
る人ぞ少なし。
茲(ここ)に幸薄かりしかね女を偲びて永代供養のため古老の伝へ
る由来を誌して後世に伝えんとする者也。 綿貫喜朗
昭和五十一年六月吉日
注)□□・・・文字が風化により不鮮明で、解読できず。
最初、#03の写真を画像処理して文字が読めるような写真にならないかと試みましたが、このもくろみは果たせず、写真を拡大し、文章を解読した結果のテキスト文字(縦書き)を白黒反転し、石碑の写真と合成して、擬似的に、このもくろみを達成しました。
#04、おかね塚説明碑・文章レタッチ合成版
表示された文章は、合成です(レタッチ:江戸川きたろう)
さて、この石碑の文章を読んで、率直のところ、「本当かな?」という思いがしました。
前半の部分は、実際にあったこととしても違和感はありません。
しかし、後半の「伝え聞きし朋輩百余人憐れみて資を募り墓碑を建て、霊を
弔ふ。」との一節は、こんなことがありえるだろうか?という感想でした。
また、ここの一節で、おかね塚というのは、このときに建てられたという墓のことを指しているのではないかと気付きました。
この、碑文を書いた「綿貫喜郎」氏の名前には、こころあたりがありました。
郷土史研究家で、この方の講演を二度程聴いた記憶があり、自身の写真ファイルを調べたところ、ご本人を撮影した画像がありました。
#05、郷土史研究家・綿貫喜郎氏(市川市曽谷公民館にて、2009年10月11日撮影)
注)綿貫喜郎氏の画像をWEB上で検索したところ、何枚かヒットしましたが、その画像(人物)は、綿貫氏に関連した方の画像で、ご本人のものではありませんので、ご注意ください。
綿貫喜郎氏は、残念ながら、数年前にお亡くなりになったそうです。
さて、それでは、「おかね塚」そのものはどれなのか?ということになりますが、おかね塚の説明石碑の後ろ側に、墓が並んでおり、この中のひとつがおかね塚と推定されました。しかし、この日は、墓の部分は、詳しく写真を撮っていなかったので、これ以上の探求は出来ず、再度取材を行うこととしました。
(続く)
アップ日、2019/06/24(月)
皆様、大変ご無沙汰しております。
このたび、千葉県市川市行徳地区(注)にある、「おかね塚」という、ちょっと変った名前の「塚」について、取材と調査をしましたので、アップします。
(注:現在、市川市行徳という地名はありません(市川市行徳駅前、市川市南行徳の地名はあるが)。概ね、旧東葛飾郡行徳町の範囲を、便宜上、行徳地区と呼称します。)
この塚の存在を知ったきっかけは、行徳公民館の主催講座に出席するため、自転車で向かう際に、目標となる途中の目印がないかと探していたら、丁度自転車の経路で左折すべきところに「おかね塚」という史跡(的)なものがあるので、講座の前に立ち寄ったというのが、きっかけです。
#01、行徳公民館
2019年3月6日撮影(撮影:江戸川きたろう)
#02、「おかね塚」、「行徳公民館」近辺の地図
おかね塚は、市川市押切12-31(前)の6差路に建つ史跡で、Google Mapにも記載されています。
#03おかね塚?(説明表示石碑)
当初、この石碑が「おかね塚」と思い、この石碑を中心に写真を撮影しました。
行徳公民館で、講座を受講し、家に帰って、この碑文を読んでいたら、どうも、おかね塚そのものは、この石碑以外に、別に存在するようでした。
この石碑に書いてある文章(写真から解読)
◆行徳おかね塚の由来◆
行徳の浜は古来塩業を以って榮えし処。押切の地また然り。
浜辺に昇る塩焼きの煙は高く五大木(船)の行き交う中に粗朶(薪)を
運べる大船の往来するもあり為に船頭・人夫の此の地に泊る
者また少なしとせず。
時に一船頭のしばしば此の地に來りて江戸吉原に遊びかね
と云える遊女と馴染む、船頭曰く年季を終えなば夫婦とな
らんと かね女喜びてその約を懐き歳を待つ、やがて季明
けなば早々に此の地に来りて船頭の至るを迎ふ。されど船頭
その姿を見せず。
待つこと久し、されば蓄へし銭も散じ遂には路頭に食を□□
に至るもなお此の地に留る。船頭への恋慕の情きが
故なり。 遥かに上総の山影を望みて此処松樹の下に果つ。
伝え聞きし朋輩百余人憐れみて資を募り墓碑を建て、霊を
弔ふ。
噫呼 かね女の思ひの一途なる真に純なる哉 朋友の情の
篤きこと実に美なる哉。聞く者皆涙せざるはなし。里人の香
華を供えておかね塚と唱へしも時流れ日移りし今日その由知
る人ぞ少なし。
茲(ここ)に幸薄かりしかね女を偲びて永代供養のため古老の伝へ
る由来を誌して後世に伝えんとする者也。 綿貫喜朗
昭和五十一年六月吉日
注)□□・・・文字が風化により不鮮明で、解読できず。
最初、#03の写真を画像処理して文字が読めるような写真にならないかと試みましたが、このもくろみは果たせず、写真を拡大し、文章を解読した結果のテキスト文字(縦書き)を白黒反転し、石碑の写真と合成して、擬似的に、このもくろみを達成しました。
#04、おかね塚説明碑・文章レタッチ合成版
表示された文章は、合成です(レタッチ:江戸川きたろう)
さて、この石碑の文章を読んで、率直のところ、「本当かな?」という思いがしました。
前半の部分は、実際にあったこととしても違和感はありません。
しかし、後半の「伝え聞きし朋輩百余人憐れみて資を募り墓碑を建て、霊を
弔ふ。」との一節は、こんなことがありえるだろうか?という感想でした。
また、ここの一節で、おかね塚というのは、このときに建てられたという墓のことを指しているのではないかと気付きました。
この、碑文を書いた「綿貫喜郎」氏の名前には、こころあたりがありました。
郷土史研究家で、この方の講演を二度程聴いた記憶があり、自身の写真ファイルを調べたところ、ご本人を撮影した画像がありました。
#05、郷土史研究家・綿貫喜郎氏(市川市曽谷公民館にて、2009年10月11日撮影)
注)綿貫喜郎氏の画像をWEB上で検索したところ、何枚かヒットしましたが、その画像(人物)は、綿貫氏に関連した方の画像で、ご本人のものではありませんので、ご注意ください。
綿貫喜郎氏は、残念ながら、数年前にお亡くなりになったそうです。
さて、それでは、「おかね塚」そのものはどれなのか?ということになりますが、おかね塚の説明石碑の後ろ側に、墓が並んでおり、この中のひとつがおかね塚と推定されました。しかし、この日は、墓の部分は、詳しく写真を撮っていなかったので、これ以上の探求は出来ず、再度取材を行うこととしました。
(続く)
2019-06-24 16:10
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コメント(2)
祖母(父方)の実家が行徳だったので、とても興味深く拝読してます。
ちなみに海苔の養殖やってました(かなり以前に廃業)。
□□ 碑文のテキストはネット上にありましたよ。
文章のつながりを考慮して間違いないでしょう(お節介ですね~)。
遂には路頭に食を「乞う」に至るも…
キタロウさん、おかねの悲恋が真実であると是非付きとめて下さいませ!
by タロサ (2019-06-27 13:43)
市川もそうですが私の住む船橋も、なにげなく街を歩いている、と歴史の檜舞台に登場することない庶民の生活の喜び悲しみの痕跡に出会うことがあって、私もいつの間にかその時代にタイム・トリップしてしまうことがしばしばあります。
このおかねづかの伝承も、その元となった出来事があって、それが多くの人々の思いによって美化されさらに悲しい物語として伝えられていったもののように感じました。
実は、こうした言い伝えの地、江戸時代のこととして内容は違いますが私の家の近所にありまして、こうしたことに、私としては江戸時代の庶民の感受性の豊かさと、心根の優しさを感じています。
by 老年蛇銘多親父(HM-Oyaji) (2019-06-29 20:13)