人生最高のドライブ
ドライブ中の光景や会話って、妙に生々しく記憶に残る。映画『ドライブ・マイ・カー』を観て、そんなことを思った。実体験として、「車に乗せてもらった」というだけのことなのに、心の隠し扉のようなところに、何か重要で謎めいた出来事として仕舞われている記憶が私にはある。ひょっとしたら、ドライブの記憶でこんなに心に残ることは後にも先にもないのではないか、とさえ思う。
それはイギリスの大学院に留学していた頃の話。
大学院に留学中の活動というのは、ほとんど指導教授の厚意によって成り立つ。私の指導教授は私を様々な研究イベントに呼んでは、居合わせた人々のうち手頃な研究者と私を引き合わせ、会話をさせてくれた。それは、教授がとても顔の広い人であり、それゆえどこかへ赴けば次から次へと目まぐるしく仲間に挨拶し続けるはめになり、私のことを気に掛ける一方とても私のことにかまい続けてはいられない、という状況から起こる出来事だ。
留学を開始してまだ間もない頃、研究者が集まる数日間の集中イベントのような場があった。開催地は私の住む街から車で40分ほど。教授は例によって絶え間なく誰それと挨拶を交わし、その間も私の面倒も見ようとするものだから、自分の知り合いと私を忙しなく互いに紹介させるという場面が度々あった。その中には私も著書を読んだことがあるような研究者もいれば、特に研究者でも教員でもない謎の人もいて、研究者かどうかも分からずじまいということすらあった。
さて、教授とその先生――仮にJ先生とする――がイベント終了後の人込みの中で話し始めたとき、何やら個人的な会話をしていたので私はよく聞いていなかった。研究の話だったら雑音の中から必死に聞き取ろうとするのだけど。どうやら、「僕は明日もあるからAirBNBでこの街に泊まることにしたんだよ。あ、じゃあ代わりにあの子を乗せてあげられない? 彼女は帰るはずだよ!」というようなことを教授が言ったらしい。突然私に話が及んできた。J先生は私たちの大学の別の学科にいる女性教員で、車で来ていて、行きは指導教授を乗せたらしい。教授は帰らないけど私は同じ街に帰るので、乗せていってくれるとのことだった。
そんな成り行きから、私はJ先生の車に乗った。J先生は全然研究の話をしない。院生は教えていないらしく、普段周りにいる先生たちに輪をかけてフランクだ。「あなた英語うまいわよ本当に。英語圏への留学は初めて? 嘘でしょ信じないわよ」とか「ベルリンに住んだことがあるのね! じゃあクラブ行ってラリった経験ある?」とか、そんな会話だった。
J先生はサバサバしていてせっかちで、かっこいいけれど挙動も話題の飛び方もちょっととっ散らかってる。この性格の女性の先生に、私はものすごく覚えがある。日本の大学から大学院までずっと私の面倒を見てくれていたK先生と瓜二つなのである。K先生がイギリスまで付いてきたのかと思ったくらいだ。K先生の喋り方を英語にしたらこうなるのか、と妙な納得をした。もちろんFワードは連発だ。
行きに通った道だというのにJ先生は道を間違えまくる。森の奥深くに入っていきそうな暗闇に包まれたところで彼女は違和感に気付き、私にGoogleマップを開かせた。「私イカれてるんだわ」と落ち込んでみせたかと思えば、私の経路指示に対して「一本先を曲がる? ならここで曲がっても同じね!」とか言って一本手前を曲がる。そして遠ざかる目的地。
メチャクチャな運転をしてFワードを連発しながらJ先生が私に語りかけてくるのは、「私の両親は昔ながらのダンスホールで出会ったのよ」とか、「日本で大変な津波があったでしょう。本当に心が痛んだ」といった温かい内容ばかりだった。それから、私の名前を英語に訳すとこんな風になる、という話をいたく気に入ってくれて、「もうあなたの名前完璧に覚えたわ。次に会ったときは私からあなたの名前言ってみせるから、名乗らないでね!」と告げた。学科が違うとはいえどこかでもう一度くらいは会うだろうと思っていたのに、その「次に会ったとき」が来ることはなかった。
Googleマップに従わないのはどうかと思いつつ、私はこのドライブが終わってほしくなかった。その思いが届いてしまったのか、その後もJ先生は「ここからはもう私たちの街だから!」「迷った分ここでショートカットすれば早く帰れるわ」などと言いながら道を間違え続けた。私も言葉を返しはしたけれど、なんだかすごく面白い深夜ラジオを聴いているような気分だった。
私の家まではしばらく長い一本道が続くので、もう間違えようがなかった。J先生は私を無事送り届けられるので心底安心したようだった。「これは家に着いたら紅茶飲むのが最高ね」と彼女は言った。たしかに身体は冷え切っていた。
車を降りるとき、「もう、ひっどい運転で本当にごめんね!」とJ先生が言うので、私は「すごく楽しいドライブだった、絶対忘れられない」と返した。偽りない本心である。J先生は「変な子ね(You’re so weird)!」と言って笑った。
家に帰って私は熱い紅茶を啜りながら、先ほどのドライブの道のりを何度も反芻した。