坂元裕二『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう 』最終話
『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』が最終回を迎えた。9話における安直さや語り急ぎの違和感をそのままに、あれよあれよと終わる。この作品の良い所と悪い所は混ざっていて、悪い所は目につきやすいが、良い所は懸命に探さないと見つからない。では、その作業に注力しようではありませんか。いや、と言うよりも私は、この不器用で孤独な青年達が光の方へ駆けだす姿を描いたこのドラマを、その歪さごと全部まとめて愛してやりたい気分なのだ。
<誤配>
音(有村架純)が母に宛てた手紙。投函される事のなく破られたその手紙には、練(高良健吾)の事をいかに想っているか、そして、その気持ちを閉じ込めてこれからを生きていく決意が綴られている。
お母さんにお願いがあるの
私の恋をしまっておいて下さい
私ね お母さんが言う通り
好きな人と出会えたよ
ちゃんと恋をしたよ
しかし、坂元作品において、手紙は必ず届く。今回の場合は、破られた手紙と同じ意を持つ言葉が、音の口から零れ、それを練が受け取る。
引越屋さん 好きやで
好きなんやわ それはほんまに
「それはほんまに」とあるからして、その後には「でも、駄目なの」といった意味合いの言葉が噛み殺されているのが伺え、「この恋はしまっておくのだ」と練に伝えている。手紙は届いた。しかし、宛先が違うではないか。母に宛てたはずの手紙(想い)が練に誤配された、と言える。いや、そもそもあの手紙は母に宛てられながらも、練への想いが綴らたものだ。つまり、あまりに正しき”誤配”なのである。この感覚が最終回のムードを終始支配する。コンドル運送に引越の依頼をしても、頼んでもいない柿谷運送のトラックがはるばる北海道までやって来てしまう。デミグラスハンバーグを頼んでも、トマトソースのハンバーグが運ばれてくる。この食卓での誤配で連想されるのは『それでも、生きてゆく』(2011)の白眉とも言える定食屋のシーンだろう。坂元作品における”わかりあえなさ”の象徴とも言える三崎文哉(風間俊介)との対話の中に、マカロニサラダが誤ってテーブルに運ばれてくる。「人と人はどこまでもすれ違い続ける」という事を描いていたあのマカロニサラダの誤配と、今回のデミグラスとトマトのそれは、どうやら筆致が異なる。
音:なんでトマトソースのきたんやろ?
練:運、いいですね
音:そんなちょっとの運ある?
ほほ笑み合う2人
そう、トマトソースのハンバーグは2人の思い出の一品なのである。まるで神様の気まぐれな御手が2人に味方したかのよう。人と人は確かにすれ違う。しかし、そのすれ違いによってこんな素敵な、些細な奇跡みたいな事だって起きるのだ。坂元裕二がはっきりとそのペンをハッピーエンドへと滑らせている。
<引越屋です>
あの時と同じファミレスのあの席に、あの時と同じコートとパーカーで表れる2人。しかし、音の態度は6年前とは見違えるようにそっけない。あの時は状況が違う。音は、練との恋を”二度と戻らない美しい日々”として、諦めないといけないものと思い込んでいる。どうせ諦めなければいけないのであれば、束の間の再会(喜び)は、哀しいだけである。弾まない会話。しかし、これまでも、幾度となくすれ違ってきた音と練である。その度に2人の関係を、会話を結び直してきた存在がこの物語にはいたはずだ。
練:会社の先輩に言われました
「ビル見上げるな 見上げたら田舎モンだってバレるぞ」
音:それ言ったら、お腹すいた犬はみんな見上げてるじゃないですか
そう、愛すべき佐引(会社の先輩)とサスケ(お腹すいた犬)である。会話が、徐々に6年前のグルーヴを取り戻す。そして、「サスケの写真送ってくれる?」「今度はサスケ連れて来ますね」と、大切なものを運ぶ”引越屋さん“としての本分を練が発揮しようとすると、
迷惑ちゃうよ
うれしいに決まってるじゃん
今かてめっちゃうれしいよ 来てくれて
音がかぶっていた偽りの仮面が割れる。そして、改めて為される何度目かの愛の告白も、前述の通り「引越屋さん 好きやで」と、それまでの”曽田さん”という呼びかけから”引越屋さん”に再び戻るのだ。「泥棒じゃないです 引越屋です」という1話でのあの練の叫びが、最後の最後まで物語を振動させる。
<道、ありますから>
『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』の主人公2人が、これまでの坂元作品の登場人物と決定的に異なっていたのはどこだろう。それは”距離”を飛び越えてしまう強さだ。例えば、1話での川や、2話での横断歩道を思い出して欲しい。坂元裕二が執拗に用意する、”対岸”や”平行線”といった構図が生み出すその距離を、2人はやすやすと渡ってのけるのである。曰く、その距離には道があるのだそうだ。
道、ありますから
そこ、走ってきます
車でも 電車でも
雪谷大塚という小さな町の中でもなかなか出会えなかった2人、その距離は最終話にして、約1000キロという長さまで拡張されてしまう。しかし、それでも”道”がある。"約束"がある。そして、気まぐれな神様が味方さえしてくれれば、2人は必ずまたそのいとも簡単に距離を渡っていけるはずなのだ。
<できるだけ遠回りで>
ファミレスを出た2人は、手をつないでトラックに乗り込み、静かにキスをする。そして、再び光の方へと走り出す。
音:(道に)出て、右行って左
練:近道?
音:ううん、遠回り
タイトルから想像された悲しい結末を覆す、まさかのハッピーエンドである。いや、ハッピーエンドかどうかは重要な事ではないのかもしれない。坂元裕二のラブストーリーの根底に流れるテーゼのようなものを(しつこいようだが)引用したい。
人が人を好きになった瞬間って、ずーっとずーっと残っていくものだよ
それだけが生きてく勇気になる
暗い夜道を照らす懐中電灯になるんだよ
『東京ラブストーリー』(1991)
このテーゼに基づけば、この世の中のラブストーリーはどんな結末を迎えようとも全て肯定される。そう、ラブストーリーのハッピーエンドはいつだって約束されている。ならば、できるだけの”遠回り”をして行こうではないか。
<天使たちのシーン>
練が雪谷大塚の坂の上から東京の街を見下ろすショットが挿入される。この画には勿論、音の母への手紙の一節が重ねられるだろう。
坂の上に立つとね
東京の夜の街が見渡せるの
そこで会った事のない人の事を想像するのが好きです
今 あの鉄塔の下で 女の子がマフラーを落とした
パン屋の男の子が拾ってあげた
「ありがとう」
「気をつけて」
深夜の街を走り抜けていくバス
後ろから3番目の座席に座った 引越屋さんと介護福祉士さん
「お疲れさまでした」
「お疲れさまでした」
この街には たくさんの人達が住んでるよ
少し高い場所から街を見つめる。そんな音と練の姿は、これまでも口を酸っぱくして言い続けたように、”天使”なのである。あまり目の良くない2人の天使は、そこで営まれている人々の暮らしを想像する。どんなに辛く厳しい現代においても、そこに必ずや潜んでいる個の煌めきや生命のあたたかさを掬い上げる。あの日、レシートの束から亡くなった人の想いを再生させたように。すれ違うだけかもしれない、会う事すらないかもしれない人の日々を想像する。全ての物語はそこから始まる。物語とは市井に暮らす無数の匿名の人々への賛歌だ。『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』において坂元裕二は、「平坦な戦場を生き延びること」「恋をすること」について描いてきた。と同時に、彼が物語を書き続ける理由のようなものをさりげなく提示していたのだ、と気付かされた。