岡田恵和『ど根性ガエル』9話 - 青春ゾンビ

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岡田恵和『ど根性ガエル』9話

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最終回直前の第9話。16年間、ひろしのTシャツに貼り付いていた平面ガエルのピョン吉が剥がれてしまう。ついに訪れるお別れの時間。胸が張り裂けるような悲痛なエモーション、以上に際立っているのが、1個の生命体がその生を全うした事への肯定のトーンだ。剥がれ落ちるその直前、いつもの窓際にかけられたハンガーから眠りにつくひろしを見下ろしながらつぶやくピョン吉。

最高の一日だったなぁ。ヘヘへ。
思い出しただけでニコニコしちまうぜ、ひろし。
あ~楽しかったな~。おいら幸せな平面ガエルだぜ、まったく…ヘヘっ。
そうかそうか…明日はもっと最高なんだった。祭りだもんな。神輿担ぐんだもんな!
<中略>
目を閉じてもニヤニヤしちまうぜ。

この段階では、ピョン吉自身もすぐさま剥がれ落ちてしまう(=死んでしまう)とは思っていないはずなのだけど、これは紛れもない辞世の句。脚本家・岡田恵和のさり気ない筆致から、そして満島ひかりの温かい、命そのものみたいな声色から、とてつもなく親密な何が溢れ出てしまっている。目を閉じてもニヤニヤしちまうぜ、とあるが「目を閉じる」とはイコール「死」であるから、ピョン吉は死んでもなお「あー楽しかった」と笑ってしまうような1日を過ごした。更に、明日はもっと素晴らしい日が待ち受けているらしい。「明日はもっと最高なんだった」と思って笑って死ねるのは、この上ない人生の終え方なのではないか。ひろしがピョン吉の為を思って焼き上げた「ピョン吉パン」のメロンパン生地の口も当然のようにニヤっと笑っている。


「いい話にしたくない」というひろしの照れが、ひたすらに物語を面倒くさく回り道させているわけですが、それが今作を大人のファンタジーとしていい塩梅に落とし込めていた。しかし、やはり”想い”というのは通じてしまうわけで、ひろしのピョン吉への秘めたる想いの告白は、その場にいないはずの平面ガエルにしっかりと届き、その瞳を濡らす事となる。これが”粋”というやつ。その”粋”は作品全体に貫かれ、ピョン吉の衝撃的なまでの”不在”を、主要メンバー達は一切言葉にする事なく共有し合う。あのシーンにおけるキャストの演技も絶妙、臭くなりきらない抜群の巧さで乗り切っていた。


1話でのピョン吉の「なんだかオイラ走りたくなってきたぜ」という台詞を思い出すまでもなく、『ど根性ガエル』において”走る”というのは重要な意味合いを兼ねた行為であり、今話の「福男・福女レース」という何やらボンヤリした作劇にも不思議とエモーションが宿る。初登板の鈴木勇馬の演出もフレッシュだった。OPの主要キャストのトレーニング風景からの主題歌の流れなんか完璧でございました。映像のリズムがいい。そう言われてみれば、今話における、京子ちゃん(前田敦子)や母ちゃん(薬師丸ひろ子)といった女性陣がとびきりキュートに映ったのは気のせいでしょうか。さて、いよいよ次回でラスト。予告編を見る限り、どうにも変てこ、しかしパワフルな展開が待ち受けているようだ。とうの昔に眠りに落ちていたはずの『ど根性ガエル』という作品を呼び起こして繰り広げたドタバタ劇。どう落とし前をつけるのか、その決断に期待したい。


余談になってしまうのだけど、今更気になったひろしが常に頭にひっかけているサングラスという小道具。せわしなく動き回るひろしは頭から落ちそうになるそれを見事にキャッチし続ける。たとえ落ちてしまったとしてもすぐさま拾い上げるのだ。何故こんな慌ただしい画を撮り続ける必要があるのか、と考えた時、「落ちそうになる」→「すくい上げる」というその構図が、そのまま「Tシャツから剥がれ落ちんとするピョン吉」とそれを「拾い上げるひろし」にトレースされているのではないだろうか。話の筋とは関係なく画面の隅々でサングラスを落とさず身に纏い続けんとするひろしの必死さが、実は作品のエモーションを支えている。