塩田明彦『抱きしめたい -真実の物語-』
記憶障害の花嫁。副題「真実の物語」が示すように実際にモデルの方がいらっしゃるという事は一旦抜きにしよう。「記憶障害」というのは、昨年の森崎東『ペコロスの母に会いに行く』の存在を考えても、映画という芸術において格好の題材である。「忘れてしまう」←「撮って保存する」という相性のよさがまずある。ショッピングセンターを車椅子でスーッと滑走する北川景子を捉えた画面の異様な透明感は何だ、と思って観ていると、彼女が「何を買いに来たか忘れてしまった」と言い放つ。なるほど、目的を消失した故の純粋な運動があそこには収められていたのか、と納得する。
「記憶障害の車椅子の花嫁の真実を基にした映画」というお冠で劇場に足を運ぶ事はまずなかっただろう。しかし、今作の監督は90年代〜ゼロ年代前半にかけて『月光の囁き』『どこまでもいこう』『害虫』といった傑作を手掛けたあの塩田明彦である。珍作『どろろ』(2007)以来の劇場公開作に駆けつけぬ理由がはあるまい。そして、この『抱きしめたい-真実の物語-』なのだけども、編集、カメラ、脚本、照明、役者といったあらゆる要素に技巧が冴え渡る素晴らしい作品に仕上がっている。冒頭から北川景子の不在が示され、所謂「お涙頂戴」演出を抑制している点も好ましい。錦戸亮も実によかったが、何より「忘れてしまう人」の運動の透明感と儚さを見事に体現した北川景子は本当にお見事だった。事故後のリハビリを収めたDVDでの北川景子の鬼気迫る熱演も役者魂を感じるのだけども、それ以上に凄い風吹ジュンの声の存在感と説得力。これだけでも一見の価値ありの映画である。
<高低差>
塩田明彦が「車椅子の花嫁」という題材で撮りたかったのは人が並び合った時の高低差であり、その距離は生きていく上で埋める事のできない何かだ。それをどうにか埋めようと、監督は人物達(錦戸亮と北川景子)を執拗にテーブルに座らせ、車に乗せる。この時、2人の高さは均等となる。そして、窪田正孝の計らいによって成立した夜のメリーゴーランド。錦戸亮は介添人として彼女を支えているので、北川景子のみが木馬に乗る。その回転と木馬の上下の運動を利用して行われるキスシーンがたまらなく素晴らしい。言葉にすると陳腐にも思えるこのシークエンスがどうにも泣けるのは、いつも見上げる側だった北川景子が錦戸亮を見下ろす(間違っても「見くだす」ではない)という構図が成立しているからだろう。彼女は史実どおり、出産後に亡くなってしまうのだけども、北川と錦戸が最後に言葉を交わした際の構図は2人共に「ベッドに横たわる」というもので、高低差の完全な排除でもって撮られている。
<飲み物>
この映画、異様と言っていいほどに誰かが誰かにお茶を淹れてあげる。もしくは、北川景子が少女に「飲む?」と促す水筒であったり、錦戸亮が風吹ジュンに渡す缶コーヒーであったり、飲み会で執拗に「飲んでる〜?」と尋ねる北川景子であったり。タイトルにもなっている「抱きしめたい」という感情が発動するのも、錦戸が北川に紅茶を淹れてあげようとした時であり、この映画においてコミュニケーションの「親密さ」は液体でなされる。付き合っている彼女に突然の別れを切り出した錦戸が殴られる(素晴らしいアクション)のもお酒の瓶であるし、出会ったばかりの錦戸と北川が食べるのは液体ではなくそれにほど近い固形の、口にして思わず「柔らかい甘さ」と評してしまうソフトクリームだ。
<輪廻>
車椅子から降りた北川を錦戸が抱きかかえるアクションが、父と息子のコミュニケーションに受け継がれる。メリーゴーランドの回転から連想される「輪廻」のイメージは北川→息子・和実へと為されたように見える。しかし、エンディングにおいて突如不自然に、間延びさせてまで登場するもう1組の父子。似た者同士で惹かれ合うも反発を繰り返す2人の子供。ラスト、錦戸は自分の息子とその他人の息子を抱きかかえながら、目が回るほどの回転を見せる。あのメリーゴーランドのように。おそらくだけども、ここでは北川はそのもう1組の親子の息子に転生している。他者がシームレスに繋がっていくイメージは、体育館コートの折半、面子入り乱れての飲み会やバーベキュー、合唱、出産の立ち合い、覚えはないが知り合いのようである寺門ジモン、など様々な形でこの映画に貫かれており、そのラストの演出はお見事の一言である。