ホン・サンス『教授とわたし、そして映画』
映っているのは他愛ない恋愛における何ページかの会話だ。つい「他愛ない」と書いてしまうのだけど、三角関係であったり、不倫であったり、一夜限りの恋であったり、一般的に言えばかなり刺激的な恋愛話ではあると思うのだけど、記憶喪失だの難病だの復讐だの、で激しく泣き叫ぶイメージの強い韓国映画界においては、酒を飲んで煙草を吸って女を口説いて押し倒してを繰り返しているホン・サンスの映画の脚本はやはり「他愛ない」のであろう。そして、それを平気な顔で撮ってしまう彼の感性はかなりドライと言える。今作は反復と差異の映画だ。謎めいた女性を中心に類似したモチーフが反復される2人の男の人生。それらを並べて見てみる事で、浮かびがる差異、それを撮っている。まるで実験かのような手さばきで。このドライさというのは、もしかたらホン・サンスの想う女性像なのかもしれない。確かに今作における男達の転がり回る情けなさ(愛らしさでもある)に比べ、女性はことごとくドライで現実的で強い。また、ホン・サンスは劇中において「1つのモチーフに捉われて作品を見るのは幼稚な事だ」という痛烈な批判を映画監督に喋らせる。それに呼応するかのように、差異をまき散らすジングとソン教授の多面性。そして、劇中で4度奏でられるエドワード・エルガーの「威風堂々」の旋律の聞こえ方の差異にも我々はハッとしてしまう。2008年の『アヴァンチュールはパリで』におけるベートーヴェン「交響曲第7番イ長調」の秀逸さに負けず劣らずの大ネタの見事な起用に感心してしまった。
映画はエモーショナルなメッセージを伝えるためのものではなく、美しくて生々しい”何か”が映っていればそれでいいのだ、というような意思が感じられる。例えば、口から吐き出され、街灯の下で蠢くタコ、もしくは温室における暴発的なキスだとか大雪明けの大学でのたった3人だけの授業とか。今作でのカメラは、「虚構を許すまい」という勢いで一歩ひいた場所からわざとらしいほどにググっと人物に寄ってくる。このカメラの動きだけでもホン・サンスのその感性のドライさとユーモアが感じとれるだろう。