醤油麹が残っているので、ついついこのメニューなる。
漬け込むだけというのがほんと助かる。
最高!
読み終えた本 ナタリア・ギンズブルグ著 須賀敦子訳 「ある家族の会話」内容(「BOOK」データベースより)
イタリアを代表する女流作家ナタリア・ギンズブルグの自伝的小説。舞台は北イタリア、迫りくるファシズムの嵐に翻弄される心やさしくも知的で自由な家族の姿が、末娘ナタリアの素直な目を通してみずみずしく描かれる。イタリア現代史の最も悲惨で最も魅力的な一時期を乗り越えてきた一家の物語。
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作者についてナタリア・ギンズプルグは一九一六年に、トリエステ出身のユダヤ系イタリア人でトリノ大学医学部の解剖学教授であったジュゼッペ・レーヴィと、ミラノ生まれの母リディアの、五人の子供の末っ子として生まれた。当時のブルジョワ家庭のしきたりで、小学校の課程は個人教授=彼女の場合はおもに母親による=で済ませたが、小さい頃から小説家になるのが夢であった。そして十七歳のときに書いた短編が文芸誌『ソラーリア』に掲寂されたことで、この夢は少しずつ具体化されていく。
ムッソリーニの台頭とともに、社会主義を信奉していたレーヴィ一家は急速に反ファシスト運動にまきこまれていく。兄たちや父親が逮捕や亡命をくりかえす中で、ナタリアは反ファシスト・グループのリーダーであったレオーネ・ギンズブルグと一九三八年結婚する。トリノ大学の教授でもあったレオーネは、一九四O年に南伊の寒村に流刑となる。二人の幼い子供たちを連れていった流刑地、ピッツォーリの生活の中から一九四一年に『わが夫』を、続いて一九四二年には『町に行く道』を偽名で出版する。またこの時期にエイナウディ出版社の依頼により、ブルーストの『失われた時を求めて』の「スワン家の方ヘ」を伊訳する。
一九四三年に流刑地で三人目の子供が生まれる。同年、フ7シスト政権の崩壊とともに、夫レオーネ・ギンズブルグは当時ドイツ軍の支配下にあったローマに潜行するが、まもなくドイツ軍にとらえられ、拷問の末、一九四四年二月に獄死する。
戦後ナタリアはエイナウディ社に迎えられ、トリノで編集の業務に携わるかたわら創作活動を続ける。一九五O年に、英文学者のガフリエーレ・パルディーニと再婚し、ローマに居を移す。
一九五二年には『私たちの歩いてきた道』でヴェイロン賞を、一九五七年には『ヴァレンティーノ』でヴィアレッジョ賞を受けるが、彼女を一躍有名にしたのは、一九六三年に出版された『ある家族の会話』であった。(翻訳者の須賀敦子さんのあとがきより)
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感想思いつくまま、ちょっとだけ・・・
「自分たちの家族だけに通じる、『それを聞けば、たとえ真っ暗な洞窟の中であろうと、何百万の人込みの中であろうと、ただちに相手がだれであるかわかる』という濃密な関係性に支えられた家族。その家族が迫り来るファシズムといかに対峙し、ファシズムの嵐の中で翻弄されたかを詳しく描いているのだが、その口調の「淡々」さに驚かされた。
彼女の兄弟全員、父親や夫、友人たちも「逮捕」や「亡命」を余儀なくされ、しかも彼女の夫は拷問で虐殺されているのにである・・・
個人的には、彼女や夫にとって極めて重要な存在であった「チェーザレ・パヴェーゼ」について触れているところが非常に興味深かった。彼はこと恋愛になると、ふだんのシニックな態度とは裏腹に遮二無二突入していって逃げ場をなくす人間だったそうだ。それが、ある意味「自殺」にもつながったようだ。
ほかには、ナタリアのお母さんが「トリアッテイ(=イタリア共産党の指導者)が嫌い」といっていることやグラムシの名前がさりげなく語られているところに、イタリアにおける反ファシズム運動からイタリア共産党の絶頂期を知るうえで、おもしろかった。
もう一つ、日本と同じ敗戦国でありながら、イタリアではファシズムと戦う「パルチザン」の闘争があり、現実にムッソリー二を捕まえて殺し、木に逆さ吊りにしている。
日本では、民衆は天皇制ファシズムと直接的に対峙せず、「アメリカ」の勝利によって終戦を迎えた。したがって「戦争責任者」を国民自らの手で処罰できなかったのである。
これが、ある意味、現在の「歴史修正主義者」の存在に繋がっていると思う。