カレイの干物作り
完成したカレイの干物 8月31日(水)夕方
8月最後の昼酒の肴 マグロの漬け、ほうれん草の胡麻よごし、大根の皮のポン酢漬け、オクラかけ冷奴、大根と豚ひき肉のあんかけ
夜(31日)は珍しく下手くそな握り寿司を作った。
マグロの漬けの握り
米軍ヘリパッド建設阻止のための国際連帯!
【沖縄・高江発】警察 人命より米軍様のヘリパッド優先
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ヘーゲルはどこかで、すべての偉大な世界史的事実と世界史的人物はいわば二度現れる、と述べている。彼はこう付け加えるのを忘れた。一度は偉大な悲劇として、もう一度はみじめな笑劇として、と。
1808年にフランス皇帝ナポレオン・ボナパルトの弟ルイ・ボナパルトとその妃オルタンスの三男としてパリに生まれる。
1815年のナポレオン失脚でブルボン家の復古王政によって家族とともに国を追われ、長きにわたる亡命生活を余儀なくされた。
流浪と蜂起の時代
その後、なんども武装蜂起に関わるなど流浪生活を送った。
ボナパルト家の帝政復古を目指して武装蜂起を策動し、1836年にはストラスブールからフランス軍に蜂起を呼びかけるストラスブール一揆を起こしたが、失敗して逮捕される(→ストラスブール一揆)。この時はアメリカへ国外追放だけで済んだが、フランス国内でナポレオン再評価が高まったのを好機として1840年にブローニュで再び一揆を起こした。やはり失敗して逮捕され、今度は終身刑に処せられた(→ブローニュ一揆)。5年半に及ぶアム要塞(フランス語版)での獄中生活を利用して政治研究に明け暮れ、1844年に著した『貧困の根絶』の中で労働者階級の保護を主張し、貧困層に新たなボナパルティズムをアピールした(→アム要塞服役時代)。1846年の父の危篤に際してアム要塞を脱獄し、ベルギーを経てロンドンへ逃れた(→脱走)。
フランスへ帰国。代議士を経て大統領に就任。
1848年2月の革命で7月王政が崩壊するとフランスへの帰国を果たし、憲法制定議会議員補欠選挙で当選した(→1848年革命をめぐって、→憲法制定議会の代議士)。12月の大統領選挙にも出馬し、「ナポレオン」の名の高い知名度、豊富な資金力、両王党派(正統王朝派とオルレアン派)の消極的な支持などで74%の得票率を得ての当選を果たす(→大統領に当選)。
左翼プロレタリアートを殲滅。その後、秩序党の議会と対立。
しかし第二共和政の大統領の権力は弱く、共和派が牛耳る国民議会によって帝政復古は掣肘を受けた。そのため当初は両王党派やカトリックから成る右翼政党秩序党(フランス語版)との連携を目指した(→秩序党との連携期)。その一環でローマ共和国によってローマを追われていた教皇の帰還を支援すべくローマ侵攻を行った。これに反発した左翼勢力が蜂起するも鎮圧され、左翼勢力は壊滅的打撃を受けた。代わって秩序党が国民議会の支配的勢力となり、男子普通選挙の骨抜きなど保守的な立法が次々と行われ、ルイ・ナポレオンとの対決姿勢も強めてきた(→ローマ侵攻とその影響、→秩序党の支配)。
クーデタ。第二帝政、ナポレオン三世を名乗る
国民議会から政治主導権を奪う必要があると判断し、クーデタを計画。軍や警察の取り込みなど準備を慎重に進め、1851年12月にクーデタを決行した。秩序党幹部らを逮捕したのを皮切りに共和主義者にも逮捕の網を広げ、国内反対勢力を一掃した(→クーデターの準備、→「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日のクーデター」)。翌1852年1月には大統領に全権を認めた1852年憲法を制定して独裁体制を樹立する(→1852年憲法と独裁体制の樹立)。さらに同年12月には国民投票のうえで皇帝即位を宣言し、第二帝政を樹立、「ナポレオン3世」と名乗るようになった(→皇帝に即位)(ウィキペディアより抜粋・加筆)
勃興するプロレタリアートと旧来の支配的勢力たるブルジョアジーとの間で勢力均衡が生じ、いずれもが国家体制に対するヘゲモニーを握れない状況下で、その双方に対して自立的な強権を振るう、自作農民など中間層を基盤に持つ権威主義的な国家権力が、一時的に発生する現象。人民投票や普通選挙など民主主義要因を含む独裁制という特異な近代の権力形態の一つである。(ウィキペディアより抜粋)
「ブルボン家が大土地所有の王朝であり、オルレアン家が貨幣の王朝であるのと同じように、ボナパルト家は農民の、すなわちフランス人民大衆の王朝である。ブルジョア議会に服従していたボナパルトではなく、ブルジョア議会を追い払ったボナパルトこそ、農民が選出した人物なのである。」(本書より)
「この分割地農民の間には局地的な関連しか存在せず、彼らの利害の同一性が、彼らの間に連帯も、国民的結合も、政治的組織も生み出さないかぎりでは、彼らは階級を形成しない。だから彼らは、自分たちの階級利害を、議会を通してであれ、国民公会を通してであれ、自分自身の名前で主張することができない。彼らは自らを代表する事が出来ず、代表されなければならない。彼らの代表者は、同時に彼らの主人として、彼らを支配する権威として現れなければならず、彼らを他の諸階級から保護し、彼らの上から雨と日の光を送り届ける、無制限の統治権力として現れなくてはならない。・・・・」(本書より)
「歴史的伝統によって、ナポレオンという名の一人の男が自分たちにすべての栄光を再びもたらすという、フランス農民の奇跡信仰が生まれた。・・・・20年にわたる放浪と一連のグロテスクな冒険の後で、伝説が成就し、この男がフランス人の皇帝となる。甥の固定観念は、フランス人の最も人数の多い階級の固定観念と一致したがゆえに、実現したのである。」(本書より)
「『ブリュメールの18日』は、表象システム、すなわち代表制が不可避的にもつ危機を取り上げている」
「『代表するもの』と『代表されるもの』の関係が、本来的に恣意的であるがゆえに、産業ブルジョアジーもその他の階級も元々の『代表するもの』を見すてて、ボナパルトを選ぶことができたのである。1848年2月24日に、諸党派は『代表するもの』、つまり言説の場における差異としてあらわれる。ところが、三年後に、ボナパルトが全てを代表するものとして権力を握った。マルクスはこれを、ボナパルト自身の観念、政略、人格に帰すことを拒絶する。どのような見方をしても、1848年2月24日に、ナポレオンの甥であるということのほか何者でもなかったボナパルトが権力を掌握する秘密を解くことはできない。」