2011年01月 - 梅安亭日乗
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2011/01/01

正月

1月1日(土)曇り 

ラパスでの新年・・・残り人生、後何回、異郷での正月を迎えることができるのだろうか。

バス駅に再度行き、時間の確認。ただし、元旦のため各バス会社のオフィスがほとんど閉まっていて、詳しい情報が得られなかった。サンタ・クルスへ行く最有力候補としては、17時半と22時半。これは3列の寝台車。コチャバンバへは、どうやら寝台車と言うのはなさそう。あっても夜行のみか。

正月ということでラパスの町もさすがに店も閉まり閑散としていた。柴崎君情報によれば、先日のデモの発端となった大統領令は撤回されたのこと。あまりの反響の大きさにエボ・モラレス大統領もビビってしまったのだろう。こうした軽率な動きが、反政府勢力、とりわけ親米勢力に付け込まれる原因にならなければ良いが・・・



<正月も街角で働くおばさん・・・こうした人たちの地位向上がエボ・モラレスの主張だったはずだが>

正月も働くインディヘーナのおばさん
2011/01/02

サンタ・クルスへ

1月2日(日)晴れ  ラパス→サンタ・クルス

風邪がなかなか治らない。
午前中、バス駅に行き、サンタ・クルス行きのチケットを購入(170B)。
ホテルに戻って、部屋代を清算。
疲れていたので昼寝をしていたら、柴崎君がやってきて、彼のホームスティ先まで散歩。

<柴崎君のホームステイ先>
柴崎君のホームステイ先

昼食を一緒にとって、別れる。
夕方、再度、彼が見送りのためやってくる。
6時ホテル発。

<バス駅で>
見送りに来てくれた


7時半出発。
2011/01/03

サンタ・クルス

1月3日(月)晴れ   午前10時半 サンタ・クルス着
15時間かけて、4000メートルのラパスから一挙に300メートルのところまで下りてきた。気温も32度と暑い。
最初、ガイドブックでチェックしておいたホテルはネットがないので、やむなく重いザックを背負い、他をあたるがどこもネットがない。タクシーで2番目にチェックしていた「レジデンシャル・ボリバール」へ。こちらは個室には違いないが、トイレ、シャワー共同で100B(15ドルほど)。部屋には扇風機があるが、汗が止まらないほど暑い。

<こんな部屋で15ドルはちょっとね>
こんな部屋で・・・高い


<ホテルの中庭は素晴らしかった>
レジデンシャル・ボリバールの中庭

<ホテルの人気者・シモン君>
シモン君
<9月26日広場>
9月24日広場

<9月26日広場の前の教会>
9月24日広場の前の教会


早速昼食へ。ホテルのすぐ近くにバイキング形式の店を発見。野菜不足を補おうと思い切りサラダを盛りつけた。レジに行くと測りがあった。懐かしい。そういえば昔、アルゼンチンやウルグアイでは随分のこういった店に入ったものだ。美味なり。テネドール・リブレとかいったような記憶がある。
サンタ・クルスはラパスなどと較べると物価が高い。
それと街中で先住民族の物乞いの姿が目に付いた。
2011/01/04

オキナワ移住地

1月4日(火)晴れ 32℃ 沖縄移住地へ日帰り

オキナワ移住地へ。旧バス駅裏のモンテーロ行き(乗合タクシー)乗り場へ。ここで8B(100円ほど)払ってモンテーロへ。1時間半ほど。そこからオキナワ行きの乗合タクシーで1時間。
意外に早く着いた。
オキナワ移住地は、巨大な農業設備(たぶん牧畜用飼料や配送センターだと思う)や広々とした牧場の存在感に圧倒された。移住から50年以上かかって、ここまでたどり着いた日系移民の苦労の足跡が偲ばれた。僕が訪れたのはオキナワ移住地の第一で、他に第二、第三とあるそうだ。そのほか、サンフアンにも大きな移住地がある。

<オキナワ移住地の標識>

沖縄移住地 標識
<受付の女の人のオキナワ訛りがなつかしかった>
診療所
<オキナワ料理店>
オキナワ料理店
<車窓からしか撮れなかったが、他にも巨大な飼料用施設などがあった>
オキナワ移住地の農業施設


ところで移住地にある歴史資料館は閉館。オキナワそば(ソーキ?そば、だったけ)が食べられると楽しみにしていた「沖縄料理店」も休み。がっかり。

オキナワ診療所の受付の女性と話して、オキナワなまりの言葉を久しぶりに聞いたし、タバコを買いに入った店のオヤジさんとのやりとりもおもしろかった。

僕「タバコ、アリマスカ?」・・・・カタカナはスペイン語
オヤジさん「どのたばこ?」
僕「エルエム・アスール、クダサイ」
オヤジさん「これね」と言いながら20本入りのエルエム・アスールを差し出した。
僕「チイサイパケテ(10本入り)、アリマスカ?」
オヤジさん「ない。これだけ」
やっとこの辺で僕も日本語で話せば良いことに気がついた。
僕「じゃあ、それください」


オヤジさんの歳は僕の少し上くらいか。たぶん二世なのだろうが、家庭では日本語、学校や遊び仲間とはスペイン語の環境で育った世代なのだろう。

オキナワ移住地では年配の人とは日本語で話せるのに、あまりうまくもないスペイン語を使った僕を諭しているようだった。無知ですみませんでした。
2011/01/05

バジェ・グランデへ

1月5日(水)晴れ 移動日サンタ・クルス→バジェ・グランデ

<シモン君との別れの時・・・妙なポーズをとった>
シモン君のお別れのポーズ


朝9時半に、昨日のチケット販売店に行ってみると、バスではなくて、ミニバンが着ていた。それにきっちり7人も詰め込まれ身動きの取れない状態で出発。お尻と背中が痛くて5時間の行程が苦行だった。

<途中食事休憩・・・車は新しかったが、狭くて・・・左の車>
バジェ・グランデへの道中

バジェ・グランデのホテルは運転手の紹介だったが、なんと80B(1,000円)。田舎にしては高過ぎると思ったが、とりあえず1泊だけ滞在することにする。
水などの買い物に出かけたら、すぐ近所に作りも素晴らしいオスタルが50Bであった。明日変わることにする。ネットはここでは無理のようだ。
バジェ・グランデはその名の通り、広い谷合にある町だ。埃っぽいのと人々の暮らしが貧しそうな印象を受けた。
夕方、柴崎君から電話があり、金曜日の夜にこちらに来るとのこと。

<市場前の広場>
市場の前の広場

<バジェ・グランデはサンタ・クルスの左下>


大きな地図で見る
2011/01/06

バジェ・グランデ

1月6日(木)小雨 肌寒い 
朝一番に昨日目星をつけておいたホテルに行くが、満室とのこと。やむなく他を探すと、1月26日広場のすぐ近くに「レジデンシアル バジェ・グランデ」という宿を発見。こちらは感じのよいおばさんがやっていて、トイレ・シャワー付きの個室(これがマトリモニオ用で広い)が40B(500円ほど)。昨晩のホテルより値段が半額、しかも設備は遜色ない。さっそく荷物を取りに戻りこちらにチェンジ。

<レジデンシャル・バジェ・グランデ>
レジデンシャル・バジェ・グランデ

トイレ・シャワー付きで40B=500円ほど



朝食は市場でパンとコーヒーで済ます。
<市場の食堂街>
市場の食堂

<ホテルのすぐそばの1月26日広場>
1月26日広場


<広場の向かいにある博物館>
博物館


ホテルのすぐ近くに博物館があり、チェの写真などが展示してあった。今まで見てきたのとは違った写真を発見。渡河をしているゲリラたちである。他は知っているものばかりだった。
<渡河中のゲリラたち>
渡河中のゲリラ

<同じくチェ>
渡河中のチェ

午後は、チェの遺体を公開した病院に行く。
<病院>
病院



遺体を置いていた洗濯場にはそこらじゅうに落書きがあった。


<遺体が置かれた病院の洗濯場>
洗濯場外観

<遺体が置かれた洗濯場>
洗濯場




夜、ホテルの薄灯りのもとでマリー前村著「革命の侍」を読む。ほぼ読了。
革命の挫折の理由がいくつかあげられていた。
ざっと挙げると以下の通り。
①地理的条件など場所の設定で最悪のところ・・・渓谷が鋭く渡河が困難。ドブレたちが調査した他の2か所と較べると一番条件が悪い所を選択した。
②食料・・・自生の果物や食料となる野生動物などがいない。
③兵站と補給・・・都市部とのパイプを断たれたため、補給が困難になる。ボリビア共産党の書記長モンヘの裏切り。これはカストロにも問題あり。中ソ論争の中で親ソ派だったボリビア共産党が武装闘争を支持するとは思えない。そうした判断をカストロがチェに伝えなかったのか。
④脱落者や捕虜の処遇・・・チェは殺さなかった。そのため、脱落者たちは後に逃亡、密告者となり、ゲリラの情報が筒抜けになった。
⑤ドブレとアルゼンチン画家・・・この二人を安全な場所から脱出させようとしてゲリラ部隊が無駄な動きを強いられた。国際的な広報活動としては二人の存在は大きかったかもしれないが、実践の場面では足手まといになってしまった。
⑥農民との連帯・・・ニャンカウアスー川のあたりの農民は政治意識が低く、密告されたり、罠に嵌められたりした。農民との連帯は机上の空論に終わった。
⑦鉱山労働者との連帯を模索すべきだった。・・・「モーターサイクル日記」に書かれたチェの鉱山労働者への尊敬の念はどうなったのか?

2011/01/07

柴崎くん待ち

1月7日(金)曇り 

大統領令が撤回されたため禁足令が解けた柴崎君が、今日の朝か遅くとも夜には合流するというので、待機。
朝、市場に行く。市場の食堂街ではパンとジュースとかパンとコーヒーといった組み合わせが主流で、ひよこ豆のスープを出しているのは見たが、ペルーのようにチキンスープとかは傍流のようだ。
柴崎君が夜には来るということなのに、到着せず。彼の携帯にも電話をするが連絡とれず。少し心配。

<この町では電線にまりものような形の着生植物が・・・・>
空中まりも

<中古の日本車が氾濫していた>
中古の日本車だらけ

<町一番のレストラン「ダリアの花」・・・市場の前の通りの坂道を上がった右側。入口が狭く、見つけにくい。残念ながら昼しかやっていない。これにスープと飲み物がついて14B≒160円ほど>
町一番のレストラン

<レストランの壁にはチェの絵があった>
チェの絵があった

<こんな僻地にもコロニアルな建物がある>
コロニアルな建物
2011/01/08

イゲラ村へ

1月8日(土)晴れ イゲラ村行き

朝、5時に柴崎君ホテル着。ひと安心。
朝食を市場で。
9時ホテル発

<Ruta del Che=チェへの道・・・前方に見えるのは牛と牧童>
Ruta del Che

<3時間かけてイゲラ村に到着>
イゲラ村入口

<おなじみのチェ像・・・まるでキリスト像のようだ>
ゲバラ像

<負傷したゲバラが囚われていた建物・・元小学校で今は博物館>
博物館・・・元小学校

<建物内部>
博物館内部

<ゲバラが座っていた椅子>
ゲバラが座っていた椅子

<ゲバラ最後の写真>
ゲバラ最後の写真

<以前イゲラ村に来た時の写真>
イゲラ村へ以前来た時の写真

<ゲバラ人気便乗商売・・・新しい銅像も建てられ、ホテルや土産物屋も・・・戸井十月さん!以前はこんなのなかったですよね>
新しいゲバラ像

13時30分イゲラ発
13時45分チューロ渓谷入口:下り道30分 ゲバラ最後の戦闘の地 上り道50分 水も持たなかったので喉がからから。上りの坂道にくたくた。完全にグロッキー。ゲリラたちは飢えと渇きに苛まれながら、疲労しきった体に鞭打ち重い荷物を抱えてこんなところを毎日10時間も行軍していたのかと思うと、暗澹たる気持ちになった。

<チューロ渓谷ー1・・・人影は案内してくれたドライバー>
チューロ渓谷ー1
<チューロ渓谷ー2>
チューロ渓谷ー2
<チューロ渓谷ー3>
チューロ渓谷ー3

<ゲバラが撃たれて負傷した場所>
ゲバラが撃たれて負傷した場所



15時45分車に戻る
ホテル着:17時30分
18時30分夕食

イゲラ村はチェ一色。フランス人夫妻が村の入口でお土産やをやっているのには思わず苦笑させられた。
2011/01/09

Fosa del Guerrillores(ゲバラたちが埋められていた場所)

1月9日(日)晴れ バジェ・グランデ→サンタ・クルス
朝一番にゲバラたちの遺体が埋葬されていた場所2か所へ行く。ゲバラたち遺体発掘現場のほうは今まで映像や写真で何度も見ていたが、今回はフェレディ前村たちの墓があるほうに行くことができた。

<ゲバラたちが埋められていた場所>
Fosa del Guerrillores
<遺体発掘現場>
ゲバラたちの遺体が発掘された場所


<ボリビアへ潜入するために変装したゲバラ>
頭をそったゲバラ


<フレディ前村たちが埋められていた場所>
フレディ前村たちが埋められていた場所

<フレディ前村の遺体があった場所>
前村の遺体があった場所


午前9時のバスでサンタ・クルスへ移動のつもりでミニバン乗り場に来たのだが、どの会社の車も満席。やむなく10時発のにする。さて、ここでひと悶着。

サカナ君(柴崎君のあだ名)危うし!
10時をとうに過ぎても車が来ないので、サカナ君はしびれを切らしてオフィスに抗議に行った。僕はその前に、他の会社が9時発の便に空き席ができたので、キャンセル料をいくらか払うから、払い戻してくれないかと交渉していたが、えらく感じが悪い女の子だった。その時、彼女は9時半に車が来る、と言ったのである。
10時半ごろになってやっとミニバンがきて荷物の積み込みを始めた時のことだった。
ガマガエルのような顔つきの巡査がやってきて、「オイ、チーノ。こっちへこい」とさかな君を名指した。
僕は一瞬何のことかわからないので、サカナ君に聞くと「なんでもない」との返事。
嫌な思い出がよみがえった。かつて、アフリカのザイールでルアンダの難民キャンプを取材していた時のことだ。夕方、あたりが薄暗くなりかけたとき、突然、機関銃を持った兵士が10人ほどわれわれを取り囲んだのだ。その隊長の顔が今まで見たことのないようなザイール人の容貌で「ヒラメ」のような顔の男だった。そのちょっと前にカナダのテレビクルーが殺されていることを知っていたので、一瞬、どうなるのだろうかと、こわばった。なんとか、その場は切り抜けたが、あのヒラメの顔だけは、一生忘れることができない。それに匹敵するぐらい、ガマガエルの顔は印象的だった。
荷物を積み終えても、サカナ君が戻ってこないので、僕はバス駅の2階にある警官詰め所に行った。

ガマガエルを真ん中に、サカナ君とバス会社の受付の女の子が睨みあっていた。ただならぬ気配。女の子の眼にはなぜか涙が光っていた。
ガマガエルが、僕に事態の説明を兼ねて「いいか。二度と殴ったりするな!」と女の子の顔をぶつゼスチャを交えながら言った。

「どういうこと?」と僕がサカナ君に聞くと、「車はまだか、と聞いても顔をそむけて無視されたので、肩を軽くポンポンとたたいて呼んだだけで、殴ったりしてませんよ」サカナ君は心外そうに言った。

最後にガマガエルは「わかったか。今度やったら逮捕するぞ」と御託宣、なんとか無事放免。
ガマガエルに飲み込まれそうになったサカナ君の顔!
僕もあのヒラメ顔が脳裏にちらついて、後味が悪かった。

車は10時40分に出発。6時間の行程。途中、行きの時と同じ食堂で昼食。腹の調子が良くないので、食事抜き。柴崎君も同様で、飯抜き。
4時半過ぎ、サンタ・クルス着。
柴崎君のラパス戻りのチケットを買いにバスターミナルへ。
日本レストラン「サライ」でカツカレーを賞味。さかな君はカツカレーとかつ丼を食べていた。
ホテルはセントラルにある「BIBOS」にする。130B。ネットは快調。

2011/01/12

トリニダへ

1月12日(水)曇り 移動日 サンタ・クルス→トリニダ

<市場の近くには、スーパーオキナワもあり、チラシ寿司も買えた>
スーパーオキナワ

ちらしずし


<市場周辺>
市場周辺



サンタ・クルスの印象
①物価が高い。これはここの住民の民度と関係しているのだろう。
②分離独立を求める地域である。つまり、北部のラパスなどへの財政負担が厭なのだ。それほどここは経済的には進んでいるということだ。鉱山などの鉱物資源。
③白人の姿が目に付いた。インディへーナの物乞いも。


旅の心得
サンタ・クルスでの宿泊は市場周辺(スーパーオキナワのあるあたり・・・ここでお弁当も買える)にすべきだった。今いるホテルの辺は観光の中心地で外人目当ての食堂などすべてが割高だ。お陰でかなりの出費。
日本レストランも充実している。こちらは、それほど高くはない。セットメニューで400円位。エル・クリストのすぐ近くの(ヤンバルと言う会社の横)の「サライ」とあとは「Ken」

夜9時のバスでトリニダに向かう。こちらは3列の寝台車なので、快適。