前のブログ、
とらにゃんこ生活からのお引っ越しです。
2019年3月22日、ふうちゃんの突然の逝去というかたちで前回のブログは終了しました。
40年近く猫と暮らして、猫の突然死というものに初めて遭遇しました。
お昼寝姿のまま、とても穏やかで美しい姿のまま。
あんなに美しい亡き骸も初めてです。
最後の失禁すらない、とても美しい姿でした。
ふうちゃんが大好きだったお庭にお墓を作り、お花でいっぱいにして、毎日お墓の前で大声で泣きました。
看取りまでを含めてが猫との生活であり、これまでも沢山見送って来ました。
でも病気でもなく老衰でもなく事故でもない今回のようなことは初めてで、私も一緒に死んでしまいたいと思いました。
約5年前、最愛の母も突然亡くなりました。台所でさっきまでふたりで喋っていたのに突然。5分くらいほどで。「大丈夫だよ、大丈夫だよ」と倒れた母の背中を一生懸命さすると、うんうん、とうなづいてくれましたが、数秒後には意識はなくなっていました。
命は突然にこうして消えてしまうんだ、と最初に思ったのは12歳の頃、姉を亡くしたときでした。私も姉もガンの闘病中で、いつ死んでもおかしくない状態だったとはいえ、やはり亡くなったときは「突然」と感じたものです。
思春期に家族の死に遭遇して、心は大変疲弊していました。やっと少しはましになった、と思ったのは成人してからでした。たんまり10年はかかったかな。その間一番の心の支え、無条件の幸せはちゃこでした。
母の死は姉の死よりは受け入れが早かったように思います。親なら順番だし、ふうちゃんもいたし。
15歳の誕生日に初代ちゃこが亡くなり、そのちょうど1ヶ月後にちゃこが生まれ、私が36歳になるまで生き、そのちゃこが亡くなってちょうど1ヶ月後にふうちゃんが生まれました。
猫のリレーです。
なぜか猫が亡くなるとすごく近い人の家に猫が生まれるのです。
しかし猫の死は子猫では埋まりません。悲しみは消えないのです。でも喜びもあるのです。この奇妙な同居、心の状態は人間らしいな、と思うのです。子猫がいても喪な気もちは消えないのです。今も心にふうちゃんを抱えながら、ふうちゃんとともに生きています。
常々、死は生と同じ、自然なもの、そして人は実は死なない、というのを(詳しくは語りませんが)実感していますが、喪失感というのは必ずあります。人や何かを愛したら、それを喪えば歯を食いしばって生きなくてはなりません。愛した分だけそれはつらいものです。愛するものを亡くすたび、もう明日死んでもいいや~と思うのですが、それも気楽な面がなきにしもあらず。あまり大きな声では言わないけども。
これは、ふうちゃんを撮った最後の写真です。
とても翌日永遠に眠るとは思えない甘えん坊な表情です。朝だって駆け回って遊び、ごはんもモリモリ食べてトイレにもきちんと行って、いつも通りでした。病気もケガもせず、何もつらいことのない素敵な猫生だったね。
毎日きっちり「生まれてきてくれてありがとう」と言わずにいられませんでした。それを言うとシッポをあげてまんまるな目でじっと私をみつめて足踏みをするのです。その姿がかわいくて毎日言っていました。
これから、ふうちゃんがいなくなったその後の我が家の様子を時系列で書いていこうかなと思っています。それがもうなんだか…ドタバタと大騒ぎなのです。
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