ウイスキーの歴史|カクテルのお酒・ウイスキー編

ウイスキー蒸留所の建物
目次
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ウィスキーの発祥地

蒸留酒自体の誕生は、紀元前3~4世紀頃のメソポタミアで、錬金術を通して発達されたと言われています。

ウイスキーの誕生は現在も明確にはわかっていません。 しかし有力な説が2つあり、アイルランド説とスコットランド説です。 どちらもウイスキーで有名な国で、強い説はあるものの、決定打に欠けているのが現状です。

アイルランド説

初代イングランド王ヘンリー2世

Photo|初代イングランド国王 ヘンリー2世|画像引用 Wikipedia

1172年、イングランド初代国王であるヘンリー2世がアイルランド侵攻します。 その際にアイルランドの民衆が「 ウスケボー 」という蒸留酒を飲んでいたことを発見しました。 しかし、これには明確な証拠がなく、言い伝えという枠を出ていません。

アイルランドとスコットランドでウイスキーの生産が広まりました。1405年、アイルランドの修道士がウイスキーを飲んで死亡したという記録が、ウイスキーの最古の記録として残ってる話もあり、アイルランドが有力ではあります。


スコットランド説

テーブルに開いて置かれた古い本

1494年に出された王室財務省の記録に、「 王命により修道士ジョン・コーにモルトを与えてアクアヴィッテを造らしむ 」という記述が存在しています。

これは現在ウイスキーに関して存在している最古の文献でもあります。

上記の説明で合った「 ウスケボー 」はウィスキーの語源です。 「 アクアヴィッテ 」はウイスキーのことを指す言葉ではなく、ラテン語で「 命の水 」という意味で、ブランデーにもこの言葉が使われることから、蒸留酒自体を指す言葉です。


このようにアイルランドの方がやや有力ではあるものの、当時はこの2国がウイスキーを生み出し、発展させていったことに変わりはありません。

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ウイスキー密造時代

地下に並べられた熟成中の樽

ウイスキーが誕生してからしばらくの間、現在のように樽詰めはしていませんでした。

蒸留したウイスキーは無色透明で、当時はそのまま飲んでいたのです、熟成が始まったのは18世紀頃からだと言われています。ではなぜ樽に入れて熟成させることを行うようになったのか、そのキッカケは密造から始まったのです。

17世紀~19世紀にかけてスコッチウイスキーの製造には税が課せられていました、それはものすごく重い税であったと記録されています。生産者はその重い税から逃れるため、スコットランド北部にあるハイランドの山奥に隠れてウイスキーを造るようになります。

そして蒸留したウイスキーを隠すために木製の樽に入れて保存するようになりました、すると無色透明の液体が琥珀色になり、香り高くまろやかな口当たりのウイスキーに変わっていました。

密造という造り方の副産物は樽熟成のみではありません、山奥深くの良質な水と、冷涼な空気での保存がウィスキー造りに向いているという知識を得たのです。

1822年当時、イギリス国王ジョージ4世がスコットランドを訪問した際に、密造として造ったグレンリベットのウイスキーを望みました、この出来事が全てではありませんが、一つのキッカケとして、翌年の1823年に酒税法が改正され、改正後の新税法の下で政府公認第一号の蒸留所、グレンリベット蒸留所が誕生しました。

その後他の密造をしていた業者も次第に許可を得て、1822年には14,000件もあった密造摘発件数が、1831年には700件まで激変していました。 その後約30年後には摘発数は一桁となり、密造の時代は終わりました。

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スコッチ・ウィスキーの定着

ジョージ王とアン女王

Photo|グリートブリテン王国最初の女王「 アン 」とジョージ1世

1707年スコットランドはイングランドに併合され、グレートブリテン王国の一部になりました。同じ国になったからと言って、元々犬猿の仲だったスコットランド人とイングランド人がすぐに仲良くなることはなく、スコットランドで飲まれていたウィスキーもイングランド人にとっては「 泥臭い田舎の地酒 」程度の認識しかありませんでした。

その泥臭い田舎の地酒であるスコッチウイスキーが、ヨーロッパ中で飲まれるようになったのには、2つの出来事がキッカケがありました。

その1 連続式蒸留機の登場

コフィー式連続式蒸留機

1831年に「 イーニアス・コフィー 」が連続式蒸留機を実用化に成功させました。

フランスで生まれたコフィーは、アイルランドの物品税監査官となり、一時ダブリンのドッグ蒸留所を保有します、そして連続式蒸留機を実用化し、特許を取得しました。 これにより比較的安価なグレーン原料のスピリッツが大量に生産できるようになります。

スコッチウイスキーはモルト( 大麦麦芽 )のみを原料とするモルトウイスキーが主流で、個性も強かったため、ロンドンの巨大市場にあはあまり受け入れられませんでした。

しかし連続式蒸留機の登場で、トウモロコシなどの穀物を使ったグレーンウイスキーが造れるようになります。それによりモルト原酒とグレーン原酒を混ぜ合わせたブレンデッドが誕生すると、万人が好む洗練されたウイスキーを造り出せるようになりました。

さらに、同一の蒸留所であっても異なる樽のウイスキーを混ぜることは禁止されていましたが、1860年にそれらは撤廃され、異なる蒸留所の原酒のブレンデッドが可能になります。 そうなるとグレーン原酒は安価、大量生産が可能になり、市場で注目され始めました。

Photo|コフィー式蒸留機|画像引用 Wikipedia

その2 フィロキセラの猛威

連続式蒸留機のおかげで、スコッチウイスキーは大量生産、値段の安価、万人に好まれる風味を造ることに成功はしましたが、当時ロンドンではワイン、ブランデーが主流であり、ウイスキーはそのブランデー、ワイン、ビールの知名度、消費量に並ぶことはできませんでした。

しかし1860年頃からワインとブランデーに大事件が起きます。それは「 フィロキセラ( ブドウネアブラムシ )」という害虫の大量発生によるブドウ畑の壊滅です。

フィロキセラはブドウの樹に寄生する害虫で、根や葉に寄生した幼虫が樹液を吸って成長し、ブドウを枯死させてしまいます。この害虫は根に寄生するため薬剤散布などが行えず、対策方法が確立するまでになんと約30年もの時間がかかりました。

ブドウを原料とするワインとブランデーが壊滅状態になると、ロンドンの紳士たちはブランデーの代わりにスコッチウイスキーを飲むようになります。

フィロキセラ・ブドウネアブラムシの絵

連続式蒸留機の登場で飲みやすくなっているスコッチウイスキーは、その後ヨーロッパ中で飲まれるようになりました。 ただスコッチウイスキーはヨーロッパ中に広がったものの、アイリッシュはスコッチ程伸びませんでした、その理由の一つに連続式蒸留機の使用を採用しなかったことが大きな原因としてあります。

連続式蒸留機の生みの親はフランス人とはいえ、アイルランドから生まれた物なのに、なんだか皮肉な話です。

Photo = フィロキセラ・和名:ブドウネアブラムシ
正式学名:ダクティラスファエラ・ヴィティフォリエ

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アメリカとウイスキー

ウイスキー税反乱とバーボンウイスキーの誕生

ウイスキー税反乱を鎮圧するために閲兵しているジョージ・ワシントンの絵

Photo|ウイスキー税反乱を鎮圧するために閲兵しているジョージ・ワシントンの絵

18世紀初頭にスコットランドからアイルランドに渡り、その後アメリカに渡った移民の人たちがアメリカのペンシルヴァニア周辺に移住しました。 その移住した人々は農業の傍らにライ麦などを原料に使い蒸留酒を造っていました。

18世紀後半の1775年に、イギリス対イギリス領13植民地( 現在のアメリカ )の戦争が始まりました、後の「 アメリカ独立戦争 」です。

そして1783年にイギリス領13植民地が勝利し、アメリカ独立戦争が終結しました。 新国家アメリカ政府は国家財政立て直しを急務とし、1791年に国内生産物に対する課税を行います。 当時アメリカにおいて国内生産、流通しているものはウイスキーがメインでした。そのためこの課税はウィスキーに対するものと認識され「 ウイスキー税 」と呼ばれるようになります。

そのウイスキーは貧しいペンシルヴァニア州( アメリカ北東端 )の西部で生産され、裕福なペンシルヴァニア州東部で飲まれていました。

貧しく硬貨などの存在も少なかったため、お金の代わりにウイスキーを使って物々交換をしていたほどです。 そんな中ウイスキー税が決定すると西部の人たちは、元々あった東部に対しての不公平さの不満と、西部の人たちにとってウイスキーは大きな生活の糧だということも重なり強く反発をします。

1794年に、西部に派遣されてきた連邦保安官が納税拒否者に対して召喚令状を発行すると、反対運動は激化し、500人以上の武装した民衆たちによって徴税官を襲撃します。

そのことを知った初代大統領ジョージ・ワシントンは武力鎮圧を決め、各州から約13,000人もの兵を率い、自らペンシルヴァニア西部へと進軍します。 しかしワシントンが到着する前に解散していたので、本格的な武力衝突は起こりませんでした。

西部の人たちはその後、当時はまだアメリカの管轄外だったケンタッキー州やテネシー州周辺に逃れ、その土地でとれるトウモロコシを原料とし、新しいウイスキーである「 バーボン 」が誕生しました。

アメリカ禁酒法とカナディアン・ウイスキーの台頭

アメリカ南北戦争の絵

1860年アメリカの大統領にエイブラハム・リンカーンが就任しました。 それにより奴隷制を否定、保護貿易を求める北部 対 奴隷制を肯定、自由貿易を求める南部で、アメリカ国内最後の争いが起きます、後の「 アメリカ南北戦争 」です。

1861年~1865年北軍160万人、南軍90万人の軍隊が衝突し、民間人を合わせて70万人~90万人の犠牲を出し、北部諸州の勝利で幕を閉じました。

南北戦争が終結すると、ウイスキー業界は大きく動き出します。 アメリカンウイスキーの企業化が進み、20世紀に入る頃にはアメリカンウイスキーは黄金時代を迎えます。


アメリカ禁酒法時代の密造酒を廃棄する様

このまま発展していくのかと思われた矢先に事件が起きます、「 アメリカ禁酒法 」です。 この世紀の悪法と呼ばれた法が始まると、アメリカ国内の蒸留所の殆どが閉鎖に追い込まれ、ウイスキー業界にとって暗黒時代が始まるのでした。

そしてアメリカ国内では禁酒法によりアメリカンウイスキー製造はできなくなり、アメリカ国内にウイスキーが消えかけようとしたとき、五大湖周辺に移り住んでいた住民のウイスキーに注目が集まります。( アメリカが独立を成した際に、独立に反発したアメリカ東部の住民は、国境を越えカナダとアメリカの国境沿いにあるカナダの五大湖周辺に移り住んだ人々のこと )

隣国カナダで禁酒法は適応されていなかったため、製造、輸出が可能なウイスキーは、映画などでも有名な「 アル・カポネ 」などのギャングの暗躍によりアメリカ中に密輸され、カナディアンウイスキーの地位が上がったのです。

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ジャパニーズウィスキーの始まり

日本初のウィスキー

ヴィルヘルム・ハイネ作ペリー黒船来航の絵

Photo|ヴィルヘルム・ハイネによるリトグラフ

1853年、アメリカ合衆国海軍東インド艦隊が日本の神奈川県に来航しました、「 ペリー来航( 黒船来航 )」です。 その際に様々な日本にはないものが持ち込まれました、その中にウイスキーもあり、日本側の通訳や役人にも振る舞われました。

記録によると徳川家定にアメリカンウイスキー1樽が献上されたという記録が残っています。1858年には日米修好通商条約により横浜、長崎が開港されると、ウイスキーは少しずつではあるものの、輸入が開始されました。

本格ウィスキー製造の2人

日本ウイスキーの歴史人物である竹鶴政孝とその妻リタ

Photo|ニッカ・ウィスキー創業者・竹鶴政孝とその妻リタ

西洋の文化が日本で当たり前になっていくと、洋酒を飲む人も増加します。 本場のウイスキーが輸入されてはいましたが、すぐ後に安価な蒸留酒に砂糖、香料を加え、偽物のウイスキーが造られ、広まり始めました。

1902年に日英同盟が締結され、スコッチウイスキーの輸入が多くなっていくと、民衆のウイスキーに関するレベルも上がります、それと同時に関税自主権を回復したことにより、ウイスキーの値段が上がり始めました。

関税によりウイスキーを簡単に飲むことができなくなるのに対し、ウイスキーに対するニーズは上がります。 そこで国内で本格的なウイスキーを製造しようと二人の男が登場するのです。

一人は1899年に鳥井商店を創業した「 鳥井 信治郎 」氏。鳥井商店とは現在の大阪に本社を置く「 サントリーホールディングス株式会社 」のことです。「 やってみなはれ 」という鳥井氏の言葉を21世紀の現在も企業理念として受け継がれているそうです。

そして日本初のウイスキー蒸留所を造ると、そこへスコットランドでスコッチウイスキーを学んだ「 竹鶴 政孝 」氏を迎え入れ、世界5大ウイスキーの一つとなるジャパニーズウイスキーは動き始めたのです。

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