Shing02と巡る、
“G-SHOCKとアメリカ” の “90年代と今”
G-SHOCKが渋谷で興隆期を迎えた90年代。時を同じくして、海を遠く離れたアメリカでMCとしてのキャリアをスタートさせたラッパーのShing02氏。私たちの知るG-SHOCK、そしてストリートファッションは、アメリカ・カリフォルニアでどういった立ち位置だったのか? 当時のシーンを知るShing02氏が、彼ならではの視点で知的にそしてしなやかに教えてくれた。
Shing02とは!?
カリフォルニア生活の中でHIPHOPやブレイキン、グラフィティに触れ、大学時代に本格的にMCとしてのキャリアをスタート。『緑黄色人種』や『400』などの音源は、シーンの歴史に新たなフィロソフィを示す名盤として強烈なインパクトを植えつけ、Nujabesとのコラボレートで生まれた『Luv(sic)』は、HIPHOPファンに限らず多くのヘッズから共感を呼ぶクラシックとなり、未だ多くの人々の五感を刺激しつつある。本日はパートナーのクリスティン・バウコム氏が手がけるブランド、『okbet』のエキシビジョンで来日中にアポイントをとってお話を聞いた!
Contents
Topic 1
90年代のアメリカとG-SHOCK
Topic 2
日本とアメリカ、ファッションの温度感
Topic 3
G-SHOCKとShing02のリレーション
Topic 4
プロダクトに宿るジャパニーズ魂!?
Topic 1
90年代のアメリカとG-SHOCK
ーーShing02さんは大学生になった93年の頃からMCとしての活動をスタートされています。当時はまだ、ブラックミュージックは“黒人の音楽”といった認識がより強かったと思います。今でこそ間口が広がり始めましたが、アメリカで日本人がMCをスタートした時ってどのような状況だったんですか?
Shing02:僕は当時割とアジア人の多いサンフランシスコのベイエリアにいました。周りにいたDJたちも、フィリピン系アジア人などが多く、彼らの中には(世界一のDJを決める)DMCで優勝しているQ-bert達もいました。そういったこともあり、人種のことで気後れすることはなかったですし、逆に日本人だってことで珍しがられることもありました。日本に興味を持っていた人が多かった印象です。
ーーG-SHOCKはちょうどその頃のアメリカで人気となり、数年後にそれが逆輸入という形で日本に広まったといわれています。まさに現地でムーブメントを体感されていたShing02さんから見て、そのムードってどのようなものだったんですか?
Shing02:ブームを体感したというよりも、知らず知らずのうちに知っていたという感じです。
ーーG-SHOCKは当初、消防士やスケーターといった過酷なフィールドで日々を過ごす人たちに受け入れられたといわれています。
Shing02:作りがしっかりしていることと、タフに使用できる。そういった信頼できるクオリティが受け入れられたんでしょうね。現に僕もG-SHOCKを愛用する一番の理由はそこにあります。タフな環境から日常使いにまで適したプロダクトとしてのクオリティと価格帯がマッチして、必然的にそういった人たちに手に取られるようになっていたんだと思います。
ーーShing02さんは音楽としてのHIPHOPだけでなく、ブレイキンやグラフィティのシーンとも深くコミットされていますが、当時のストリートヘッズの間ではどのようなストリートファッションが流行っていたんですか?
Shing02:正直なことをいうと、90年代のアメリカ、特に僕のいた西海岸でそういった活動をしていた人たちは、“オシャレにお金をかける”といった認識がなかったといっても過言ではありませんでした。
ーーといいますと?
Shing02:現に僕自身、大学の寮に入ってからHIPHOPにハマると、その他の趣味を全て諦めて、全てのお金と時間は音楽に注ぎ込んでいました。
ーーファッションにお金をかける余裕がなかったと?
Shing02:みんな本当にボンビーだったんです(笑)。例えば、アンダーグラウンドなパーティでは、チケット代がないから代わりにラーメンを持っていったら入れるみたいなことが実際にありました。物々交換のようなことで1ヶ月暮らしているアーティストもいたんですよ。
ーーそんなにリアルなストリートライフをおくられていたんですね。ドキュメンタリー動画を観ているみたいな感覚です。
Shing02:ジリ貧で頑張っている姿が当たり前、むしろファッションにお金をかけるのはカッコ悪いとさえ思っていましたから(笑)。東海岸はもっとド派手なファッションが沢山あったのかもしれませんけど、僕らの周りって“インディーズ魂”みたいな人間ばかりだったんです。服や靴にお金をかけるくらいなら、レコードや機材を買って全部音楽に突っ込むぜ!と。
ーーめちゃくちゃHIPHOPでありPUNKでカッコいいですね。
Shing02:そう、本当にそうでした。それが僕や周りにいた連中たちにとっての美学でした。
ーーそんなShing02さんが初めてG-SHOCKに触れたのはいつ頃ですか? よくライブなどで腕につけられているのをお見かけします。あっ、Shing02さんもG-SHOCKつけてくださっている、と嬉しくなっちゃって。
Shing02:もともとは今でいうチープカシオと呼ばれているような、比較的お手頃な値段のモデルをつけていました。意識的にG-SHOCKというブランドを愛用し始めたのは10年くらい前からです。
※上の3モデルが、後日Shing02さんが写真で送ってくれた、90年代ごろから着用していたカシオ製品。
ーー本日お持ちいただいたアイテムについてお聞きしてもいいですか?
Shing02:写真左のホワイトのカモフラージュ柄は、確かスチャダラパーさんと対バンしたリキッドルームのイベントの時からつけ始めたモデル。おそらく、これが僕の初G-SHOCKになります。写真右のものは、お世話になっていたX-LARGEさんとのコラボモデル。写真中央は、超リスペクトしている彫刻家のTAKU OBATAさんとG-SHOCKのコラボモデルです。
ーーどれもかなりの年季が入っていますね!
Shing02:自分でいうのも変ですけど、割と気前のいい方で、必要としている人がいればすぐにあげちゃったりするタイプなんです。だけどG-SHOCKに関しては、誰にもあげずに使い続けています。
【Shing02愛用モデル 1】
DJでグラフィックデザイナーのYoshitaka9君と、国際的なユニコードで※印を意味するREFERENCE MARKという名前のブランドを始めました。※印は日本特有の記号、できるだけ純国産にこだわったアイテムを展開しています。今日着ているTシャツもそう。このモデルは※印を彷彿とさせるデザインを日本のG-SHOCKが手がけているところに強い親近感を感じています。
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Topic 2
日本とアメリカ、ファッションの温度感
ーーShing02さんがMCとして初来日したのが1997年ですよね。ちょうどこの頃にG-SHOCKは渋谷を拠点に爆発的なヒットとなりました。アメリカから来たShing02さんから見て、当時の日本のファッションやG-SHOCKの印象ってどのようなものだったんですか?
Shing02:本当にファッションカルチャーの全盛期でしたよね。僕はベイエリアから来ているので、スニーカーを集めたり、ヴィンテージの服を高く買うといった感覚が身近ではなかったので、そういったファッションに対するマニアックなところに日本らしさのようなものを感じていました。日本のファッション雑誌を見て、情報量と密度に感心していましたよ。
ーー日米双方でまだ随分とストリートファッションに関しての温度差があったんですね。
Shing02:おそらくですが、2000年以降にファレル(・ウィリアムス)だとか、来日したアメリカ人が日本のドメスティックブランドの存在を知って、日本人が作る洋服のクオリティや拘りなどに感銘を受けた。そしてファンになり、それをアメリカに持ち帰ったんだと思います。それが“知る人ぞ知る日本のストリートファッション”として伝染していったんだと感じています。
ーー先ほど“ファッションにお金をかける余裕がなかった”とおっしゃっていましたけど、この頃のShing02さんや西海岸のストリートファッションの実態はどのようなものだったんですか?
Shing02:ホームセンターやサルベーションアーミーなどで手頃に買える服を買って自分で工夫をして見繕うわけですよ。それが日常だったんです。それでも一生懸命オシャレを楽しむためにカラーコーディネートをするとかが一つの知恵だったわけです。
ーー90年代の日本のストリートカルチャーは、そういったアメリカの“なんでもないスタイル”に憧れて模倣した結果、一つのファッションカルチャーに昇華されて出来上がった。それがアメリカに逆輸入的に伝播したってことですよね。誤解を恐れずにいえば、日本人のマニアックなオタク気質がなければ、今のような世界的な盛り上がりはなかったのかもしれませんよね。なんとなく感じていたことの答え合わせが今日できた気がしています。
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Topic 3
G-SHOCKとShing02のリレーション
ーーG-SHOCKは時計ブランドでありながら、音楽やファッション、アートにスポーツといったカルチャーとコラボレートすることで成長してきました。Shing02さんの中で、G-SHOCKの取り組みについて記憶に残るとっておきのストーリーってありますか?
Shing02:最近の話でいえば、2024年のフジロックです。フジ自体は3回出演していて、最後は2008年だったのでかなり久しぶりの参加でした。今回は入場ゲート前にあるG-SHOCKがサポートしているTHE PALACE OF WONDER(以下パレス)という特別な場所だったことも記憶に残りましたね。
ーー野村訓市さんが仕掛けたパレスですよね。上の動画を見ていても会場の盛り上がりっぷりを感じますが、Shing02さんは特にどういったところが記憶に残りましたか?
Shing02:『Luv(sic)』は恵比寿にあったMILKというクラブでの体験が歌詞に含まれている作品なんです。パレスの会場には訓さんを始め、MILKの(塩井)るりさんとか、昔から応援してくれている仲間がいて、その中でこの曲を披露できたことがとても感情深かったです。ダンサーのソラキくんのような新しいアーティストの人たちも沢山いて、新旧織り混ざった人たちと新しいクリエイションができたことも素晴らしい思い出です。
ーーある意味、東京を感じさせるリレーションとグルーブ感がそこには存在するけど場所は苗場という、なんともいえない素敵なパーティでしたよね。ソラキくんのお話が出ましたが、共演された時の印象はどうでしたか?
Shing02:実は僕、以前から彼のことは知っていてファンだったんです。インスタのDMで「ファンなので僕が作っている服を送っていいですか?」とコンタクトを取って送ったこともあります。その後、南アフリカで開催された大きな大会で優勝したんですけど、その時に僕の送った洋服を着てくれていました。
ーー『Red Bull Dance Your Style World Final 2022』ですね。この大会をきっかけにソラキくんは一躍トップダンサーとして知名度を高めていきましたよね。
Shing02:そんな彼とパレスで共演できたこともとてもいい思い出です。
ーー年齢やジャンルに限らず、幅広いアーティストの方とクリエイティブなことをされていますが、Shing02さんがファンになるアーティストの条件ってどういったところですか?
Shing02:アーティストとしての活動だけでなく、人間性や生き方、考え方に共感して惹かれて心底応援したくなるんです。その逆もあって、人生破天荒でめちゃくちゃで、それでも作品が素晴らしいだとか(笑)。そういった部分を含めてやっぱり人間性ですね。ファッションも表現のひとつだと思うので、それができている人もかっこいい。
ーー先日はマンチェスターを拠点に活動する4人組ヒップホップバンドのOMAとLuv(sic) HEXALOGY TOURとしてアメリカ・カナダを回られていましたが、OMAとも最初はShing02さんがSNSでDMを送ったのが始まりとおっしゃっていましたよね。
Shing02:そうですね。
ーーいきなりShing02さんからDMが届いたら、“嬉しい”というより“びっくりする”だろうなって思うんですけど(笑)。
Shing02:そうですか(笑)
ーーそういった若い世代と交流を深めることで何か刺激を受けること、逆にジェネレーションギャップみたいなものを感じることってありますか?
Shing02:有名な曲のタイトルにもありますが、年齢はただの数字でしかないと思っています。人種や年齢に関係なく、フラットに話せるしギャップのようなものは感じないです。強いていえば、アナログ時代を知っている者として、そういった時代のイズムみたいなものは伝えて行けたらなって考えています。
ーー時代のイズムとは具体的にどういったことですか?
Shing02:世の中についてです。自分はこういったアーティストになりたいだとか成功したいだとか、やっぱり、ヴィジョンは大きく持った方がいい。それを叶えるためには、HIPHOPってアメリカから出てきたものだから、アメリカを渦巻く歴史とか、資本主義ってなんなんだろう? といった根本的なものを考えなきゃならない。極端な話、為替ひとつにしても、知らず知らずのうちに僕たちは影響を受けたりするわけじゃないですか。そういった情報交換を大事にしています。
ーーShing02さんのように世界的に活躍されてさまざまな経験値を積み上げてきたアーティストから、10代20代の頃にそういったお話が聞けるのは、思想や発想を養う上でも貴重な経験になりますよね。
Shing02:物事を咀嚼して分析してブレイクダウンする力って、MCとしてサバイブしていくためにとても需要なこと。同じ物事でも、自分なりの解釈をして分析して自分の言葉で解説できる力がHIPHOPだと思うんです。それをみんなそれぞれの形で作曲だったり踊りで表現する。それが人間っていうフィルターの究極のパワー。十人いれば十色の解釈がある。そこがユニークさだと思うんですよ。そこがマシーンには真似できないところです。
【Shing02愛用モデル 2】
これは今年パレスに出演した時に着用させていただいたモデル。文字盤が光の反射でさまざまな表情を見せるカラーリングがかなり気に入ってます。実はツアー中に紛失してこれで二個目です(笑)。時計はアクセサリーとしての大事な役割もある。そういった意味でも、ピッタリなデザインだと思っています。
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Topic 4
プロダクトに宿るジャパニーズ魂!?
ーー先ほど、“年齢はただの数字”とおっしゃっていましたが、学生の頃からShing02さんの音楽を聴いて育った世代としては、とても勇気をもらえるフレーズです。ですが一方で、“新しい価値掲げる若手”の頃とは違って、体力的にだいぶ辛くなることも増えてきたのが現状で……。OMAとのツアーは1ヶ月で23都市を回っていましたよね。“年齢はただの数字”とはいえ、Shing02さんは48歳。かなりタフだなって感じているんですよね。
Shing02:全体で1万5000キロを運転して、更に飛行機で移動したんですよ。運転してバンを止めて荷物を下ろしてオーガナイズもして……、その繰り返しでした。フィジカルな意味でも精神面でも非常にタフじゃないとできないです。このツアーで改めて学んだことは、極限に疲れている時に限ってステージではアドレナリンが出る。そして、観客のエネルギーでリチャージされるってこと。その繰り返しでツアーを無事終えることができました。
ーー物販までご自身でされているんですね。ずっと第一線で活躍されてこられて、今でもそういったインディペンデントな活動を続けられているって、本当にリスペクトでしかありません。
Shing02:物販は興行をする上で非常に大事な要素ですからね。時計の話に戻すと、さっき歩きながら「ライブ中も時計をしていますが、あると便利ですか?」といった質問を受けましたが、答えは絶対にあった方が便利です。というのも、ライブをするときにきっちり何時に始めて、物販や交流タイムのためにもどれくらいの余裕を持たせて終わらせるか、そして次の移動は……、といったペース配分をしなければいけません。だから時計は非常に大切なツールだと思っています。
ーー今はスマートフォンで時刻を確認する方も増えていると聞きます。
Shing02:旅先や移動の最中にパッと時間をチェック出来るのが便利なんです。携帯を取り出すのも面倒な場合があるし、常に充電を気にするのもストレスですから。何しろ一つの役目を立派にこなすマシーンは非常に頼もしいと感じています。
ーーShing02さんとお話をしていると“アナログなマシーン”が随分お好きなんだなって印象を受けました。
Shing02:好きですよ。以前こちらで拝見したMUROさんのインタビューでCOBYのカセットプレーヤーを紹介されていましたけど、僕もああいったマシーンは好きで、SHOCKWAVEを買い直したり今でも集めています。だって技術の結晶なわけじゃないですか。動かざる、ブランドの力の実証です。例えば、Technicsとか僕たちの時代だとVestax、今だとPioneerとか、そういった日本製のマシーンがHIPHOPを大きく変えてきている。
ーーなるほど。
Shing02:Technics SL-1200 MK2というモデルは、確か1979年に誕生したもの。それがいまだに現場で動いてたりするんですよ。すごいことだと思いませんか?
ーー元々はそういった使い方を想定されていないものですもんね。
Shing02:そう、そうなんです。誰も手で触って動かすなんて考えて作ってない。それでもなお対応する耐久性があった。それは奇跡に近いこと。日本人の技術力とアメリカの発想力が融合して初めてスクラッチというアートフォームが生まれて、同時にクイックミックスとかブレイクを繋げられる技術があった。Technicsのモーター無くして、ブレイクを綺麗につなげる発想は不可能だったかもしれません。
ーーHIPHOPの誕生に日本人が関係している、そう聞くと嬉しくなってきます。
Shing02:ひとつの当たり前を打ち壊した日本の技術力や企業努力は素晴らしい。僕はMCなのでTechnicsの話になりましたが、カシオのような日本の企業もそう。開発者たちの地道な努力から生まれた技術が今も世界で使われている。そういったジャパニーズ魂みたいなものに日本人としての誇りを感じています。
ーーお話を聞いていると、これまで普通に使っていた製品に対する見方や愛着が、これから変わっていきそうです。
Shing02:プロダクトの背景も理解しながら、かっこよく消耗していきたいですよね。消費よりも消耗、この考え方が大事だと思います。
ーー消費よりも消耗のパンチライン、しっかり胸に刻んでおきます。今日はありがとうございました!
【Shing02愛用モデル 3】
ズッシリと重く、まさに大人の時計といったデザインが好きです。このモデルは“G-SHOCKの耐衝撃性能の限界に挑むために、この構造に長年培ってきた設計の知見と技術の粋を結集したモデルを作ろう”といった視点から生まれたそうですが、そういった日本人らしい発想や開発力が僕は好きです。
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