DOB : grunerwaldのblog

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バイロイト音楽祭やザルツブルク音楽祭など、主に海外の音楽祭の鑑賞記や旅行記、国内外のオペラやクラシック演奏会の鑑賞記やCD、映像の感想など。ワーグナーやR・シュトラウス、ブルックナー、マーラー、ベートーヴェン、モーツァルトなどドイツ音楽をメインに、オペラやオペレッタ、シュランメルン、Jazzやロック、映画、古代史・近現代史などの読書記録、TVドキュメンタリーの感想など。興味があれば、お気軽に過去記事へのコメントも是非お寄せ下さい。

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(上の写真は2014年5月筆者撮影のもの)

(注)2022年5月23日投稿の元記事に加筆・編集しました

2021年の昨シーズンに初披露されたドイチュ・オーパー・ベルリン(以下DOBと略)最新のワーグナー「ニーベルンクの指環」(以下「リング」または「指環」)チクルス(サー・ドナルド・ランニクルズ指揮、ステファン・ヘアハイム演出)の最新の公演の模様が、有難いことにネット上で無料で鑑賞が可能との情報を知り、さっそくこれを視聴した。DOBの情報サイトは→こちら、ARD Mediathek による映像公開サイトは→こちら。同サイトにて、7月14日までの閲覧可能とのこと。

本来なら、このチクルスは2020年にプレミエ上演の予定だったのが、コロナ禍の影響をまともに受けて、それが不可能になってしまったのは記憶に新しい。まさか、「ラインの黄金」の短縮版が、DOBの駐車場で上演されるなんていう、にわかには信じがたい情報がショッキングだった。DOBによる久方の「指環」の新制作上演で、奇抜さとエンタテイメント性で人気の高いステファン・ヘアハイムによる演出とのことでもとより期待が高かっただけに、プレミエ上演がどうなるのか、一時はやきもきさせられた。それがコロナのおかげで逆にその模様が無料でネット公開されることになるとは、禍転じて幸となった感がある。もちろん、現地で体験できるに越したことはないが。DOBをはじめ、コロナの影響をまともに被ってしまったオペラハウスの多大な苦労がしのばれるが、映像からはDOBとこの演出家らしい、非常に手のこんだ見応えのある本格的な舞台の様子が伝わってきた。本場ベルリンのこの歌劇場による上質な演奏も折り紙付きで、安心して聴いていられる。コロナ禍後の初の「指環」新制作プレミエ上演の映像として、記憶に残るものとなった。

バイロイト祝祭音楽祭でも本来なら2020年にピエタリ・インキネン指揮、ヴァレンティン・シュヴァルツ演出で「指環」の新制作上演の予定だったが、これもコロナの影響で完全に流れてしまい、その予定のみが音楽祭のデータベースにむなしく残されているばかりだったが、(歌手は大きく変更されたが)ようやく今夏に陽の目を見ることになった。「指環」ファンにはうれしい2022年となりそうだが、バイロイトの模様も映像で鑑賞することができるだろうか。世界の各地で「指環」新制作上演は行われていても、やはりバイロイトやベルリン、ミュンヘン、ウィーンなどへの期待値が別格なのは事実である。

過去DOBの「指環」と言えば、ゲッツ・フリードリッヒ演出の「トンネル・リング」が日本では有名だったが、今回のヘアハイム演出のものは「Luggage Ring」とでも、あるいはドイツ語なら「Gepäck Ring」または「Reisetasche Ring」、日本語なら単純に「カバン・リング」とでも呼べばよいだろうか。(以下、第一印象をまったくランダムに、ネタバレあり)

①旅行鞄とグランドピアノ

日本語では旅行鞄というと「トランク」という単語がなじみ深いが、日本以外では「trunk」のイメージは「長持(箪笥)」に近い大きな衣装箱のことなので、ちょっと違う。「ラインの黄金」から「神々の黄昏」まで、4作を通してこの古びた革の旅行鞄をうまく背景の装置にしたものと、舞台中央に置かれた一台のグランドピアノをメインの舞台装置にしている。旅行鞄が背景の舞台装置?、というとイメージが湧かないが、たしかに「ラインの黄金」の開始冒頭の部分では、多数の(第二次大戦中の)難民風の出で立ちの男女が手に手にくたびれた旅行鞄を抱えて登場して来るので、それらの鞄はあくまでも小道具であってセットではないが、中盤のニーベルハイムの場面以降は、舞台の後方にうず高く積まれた旅行鞄に見える造作物のセットとして活用され、登場人物がこのうえに載ったり降りたりして歌い、演技をする。「神々の黄昏」では、これを上下二段の大きな階段状のセットとして使い、上方の鞄の階段部分を中央のヴォータンはじめ神々しい出で立ちの神話に出てくるような「神々」が座し、美しい視覚効果をうまく演出している(第二幕第四場)。その下のギービヒ家の広間では人間の群衆劇が騒々しく展開する。本来「リング」のト書きでは「ラインの黄金」でのニーベルハイムでアルベリヒに搾取されている手下たちと、「神々の黄昏」のなかのこのギービヒ家のハーゲンの手下ども以外に群衆の場面はないが、このヘアハイムの「リング」では、4作を通してずっと現世の「人間」の群衆劇がうまく描写され、活用されている。

②ニーベルハイムでの金製品の供出シーンの意味

ニーベルハイムへの降下のシーンでは、下着姿になった難民たちが金製品を手に手に、アルベリヒの溶鉱炉を表すグランドピアノのなかに投げ込んで行く。アルベリヒはナチスドイツ風の軍服とヘルメットを身に着けて手下たちとともに行進し、ナチス式敬礼までし、彼ら難民たちに鞭を振るい、虐待する(日本ではさほど気にならないかもしれないが、ドイツでは今でも一般的にナチス式敬礼への拒否感は強い)。この場面でアルベリヒに痛めつけられ搾取されるニーベルンク族の者たちは、正体不明の侏儒族ではなく人間、それも第二次大戦時の強制収容所で迫害を受けたユダヤ人難民として描かれている。くたびれたコートと旅行鞄を手にした怯え疲れた表情の男女らの姿だ。日本人にはピンと来ないかも知れないが、これもドイツの近現代史を多少とも知るものにはナチズムによるユダヤ人迫害を描写したものであることはすぐにわかる。鞄ひとつのみ携行を許されてアウシュヴィッツの引き込み線のホームで列車から降ろされ、その場で「選別」された難民たち。そこの仕分け場で所有主を失った鞄の中身、特に最後まで大事にに取っておいた貴金属や貨幣などの有価物は組織的に簒奪された。それらのもとの所有主の多くがガス室で殺され、あるいは劣悪な衛生状態や栄養不良下の強制労働で命を奪われ、病気や衰弱で命を落とした。後には、彼らの鞄が山のように残された。その象徴としての鞄の舞台装置である。「序夜」の開始冒頭部分と、第三場のニーベルハイムの場面でこれらの難民たちが怯え、疲れた表情で恐る恐る舞台に登場してくるのは、それを表現している。それがすべてというわけではないが、「try to think like this」という問題だ。いつまでそれやってんだよ、と呑気で歴史に無頓着な日本人は考えがちだが、そこはまだまだドイツの表現芸術では終わったものにはなっていない。戦後数十年にわたって様々な映画や舞台や文学、ジャーナリズムにより幾たびも幾たびも描写され、散々描かれ続けてきたテーマであるが、それは決して描き尽くされるということはない、忘れてはならない重い命題だ。でなければ、バイロイトでもつい最近の「マイスタージンガー」でバリー・コスキーがあんなウケ方はしない。

じゃあ、なんであんなにすぐに下着姿になったり、やたらと下着姿の場面が多いのか?という疑問については、うえに挙げたナチに身ぐるみ剝がされたユダヤ人のことも一部あるけれども、他の大部分は単にヘアハイムがエロいのが好きなだけだろう、とシンプルに考えても、この演出家の場合は差し支えなさそうにも思える(笑)。

③オリジナルの「楽譜」の劇中での活用

ニーベルハイムの場面でクスッと笑わせるのは、ローゲの策略でアルベリヒを痛い目に合わせたヴォータンが(実は痛撃の一撃はミーメがお見舞いし、アルベリヒは悶絶するのだが)、気が急いた様子でト書きよりも早いタイミングでアルベリヒの指から指環を奪い取ろうとして、傍らにいるローゲから「ラインの黄金」の楽譜を「これ、これ!」と指し示されてたしなめられる。たしかにそこで指環を奪ってしまっては、その後のト書きとの整合性がなくなる。だから「ちゃんと楽譜通りの箇所でやってよ!」と言うわけだ(笑)。そのあとローゲはヴォータンからいったん指環を取り戻してアルベリヒの指に返して、ト書き指定通りの箇所であらためてヴォータンがその指ごと切り落として指環を奪う。ト書きからは大いに逸脱するのが身上のヘアハイム自身を揶揄しているとも言える。トーマス・ブロンデーレ演じるローゲは上下黒いトレーナーに真っ赤な手袋と靴下を身に着け、メフィストフェーレといったメイクと出で立ちで、なかなか印象的な歌唱を聴かせる。

④プロンプターボックスの底のエルダの居場所

エルダが「地の底」から出て来る場面は、舞台前方のプロンプターボックスの上蓋がやおら横にずらされたかと思うと、そのピットからいかにもプロンプターらしき地味な出で立ちの女性が這い出てくる。楽譜を知り尽くしたプロンプターが智の女神エルダとは、なかなか気が利いているではないか。ちなみに「ワルキューレ」の第二幕冒頭では、演奏が始まる前の1,2分の間に、ヴォータンが下着姿でそのプロンプターボックスの上蓋をずらしてピットから登場する。「ワルキューレ」の曲中ではエルダは登場しないが、これによりヴォータンがエルダの寝所で浮気をしていることが、わかる人にはわかる仕掛けになっている。これもヘアハイム特有の、軽いお遊びだ(笑)。こういうところが、嫌いな人には嫌いな所以なんであろう。

⑤S.キューブリックへのオマージュ?

「ラインの黄金」の最後の場面では、盛り上がる音楽と並行して、舞台上の大きなカーテンの幕が子宮状に描かれ、そこに双子の胎児が「2001年宇宙の旅」の最後の場面を模して描かれ、「ワルキューレ」でのジークムントとジークリンデの登場を予感させる。アイデアはよいが、それがどうした?って言われたら返す言葉がないだろう。まあ、音楽に合ってはいるし、スタンリー・キューブリックへのオマージュとしては、ありな演出か。

⑥「ワルキューレ」一幕の男は?

「ワルキューレ」第一幕では、冒頭からト書きにはない黙役の男がナイフを持って登場し、他の登場人物の間を行ったり来たりする。ナイフを持ったケルビーノみたいであまり意味はよくわからないが、どうもジークムントやジークリンデらの登場人物の内面の痛みや苦悩を擬人化したものではないだろうか、と自分は推測する。第二幕第一場では、くすんだ配色のくたびれた衣装の群衆が効果的なコントラストとなって、白い上質そうな服装に身を包んだヴォータンやフリッカなどの神々が対比的に描かれているのが印象的。

⑦「ワルキューレ」エンディングの感動を台無しにした過剰なお遊びには閉口

ニナ・シュテンメのブリュンヒルデとイアン・パターソンのヴォータンの歌唱は文句なしに素晴らしいのだが、その素晴らしいヴォータンの歌唱で感動的に終わる「ワルキューレ」第三幕最後の場面では、よせばいいのにヘアハイムが案の定、質の悪いいたずらを仕掛けていて、ここでは残念ながら素晴らしい音楽がぶち壊しになっている。すなわち、音楽の終わりに合わせてなぜかピアノの下にジークリンデらしき女役が現れて苦悶しているかと思うと、やおらその股ぐらを覆った布のなかから、産まれたばかりの赤子(ジークフリート)を取り出したミーメが出て来たかと思うと、その子を母親から奪い取ってあやすところで幕、となる。出産というのが高貴なことであることは否定はしないけれども、残念ながら音楽とはまったく合っていないし、あまりに強引な力技である。よくこれでブーイングが出なかったものだ。そう言えば、同じヘアハイム演出のバイロイトの「パルジファル」でも、意表をつくような出産の場面があったが。

⑧「小鳥」はボーイソプラノ、天使になってジークフリートを見守る父母

「ジークフリート」の「小鳥」は女声ではなくボーイソプラノによる歌唱で、実際にこの児童が舞台に登場してソロで歌い、演技をする。そして、亡くなった父ジークムントと母ジークリンデが羽をつけた天使となって、息子のジークフリートを見守り導くという演出が面白い。ここでも舞台上の鞄の山が巨大な大蛇の顔の鱗としてうまく表現されている。

⑨手がこんだメイクと衣装のミーメが本性を現すと…

ミーメは Ya-Chung Huang という台湾出身の歌手でこれがまた実にうまいミーメを歌い演じている。メイクや衣装も実によく出来ていて感心するのだが、ジークフリートを騙そうとするコミカルな歌唱の部分で、帽子や衣装はもちろん、鬘や付け髭、付け鼻、付け眉毛なども歌に合わせて段々とはがし取って行ったかと思うと、それまではハンス・ザックスのような風貌と出で立ちだったのが、最後に気がつくと東洋人そのままの下着姿の小男になったかと思うと、哀れ、正体を現したファフナーとともに、ジークフリートにノートゥングで刺し殺される。ちなみに、先にファフナーを倒したジークフリートのノートゥングの一撃目は急所をわずかに逸れていてト書き通りの箇所でファフナーは死んでおらず、続くミーメとアルベリヒの騒々しい兄弟喧嘩の場面で息を吹き返す。ここでは小鳥役のボーイソプラノの少年もターンヘルムのマスクを被って彼らのファース的な演技に一役買い、ミーメの本音をジークフリートに懸命に伝える役目も担っている。そして最後にミーメがノートゥングで一突きされると同時に、ファフナーもとどめを刺されるということになる。

⑩クラウドになったノルンのザイル、実はDOBのホワイエのオブジェ

「神々の黄昏」冒頭のノルンの場面では、目に見える「綱=Seil」は出て来ない。もはやワイヤレスであり、クラウドである。それを表すように、中央に「雲」らしき大きなオブジェが配置される。実はこのオブジェ、どこかで見覚えがあるぞと思っていたら、ここDOBのホワイエに飾られているオブジェである。ぼんぼりのような丸い大きな照明器具や丸テーブルなどのインテリア、その雰囲気からもこのオペラハウスのホワイエであることがわかる。この後、第三幕のジークフリートとハーゲンとその手下の者どもが狩りに出て小休止し、ハーゲンがジークフリートを殺す場面も、このホワイエのセットである。

⑪客席も巻き込んだ面白い演出

あと面白い演出なのは、一幕第二場最後(ギービヒの館でジークフリートとグンターがブリュンヒルデの岩山に向かった後、ハーゲンが一人館に居残って不吉なモノローグを歌い、闇に溶け込むところ)の場面では、モノローグを歌い終えたハーゲンが舞台を降りて客席の一列目を上手側から中央まで歩き進んで行ったかと思うと、最前列の中央に座っていた鮮やかな緑色のドレスを着た女性が驚いたように立ち上がり、しばしハーゲンと見つめ合う。そして今度はその女性がそっと下手側の舞台袖の闇へと消えて行く。続く第三場のブリュンヒルデの岩山でのワルトラウテ登場の場面でこの女性が舞台袖から姿を現し、なるほど、客じゃなくてワルトラウテだったのね、とわかる仕掛けになっている。あんまり深い意味はなさそうだけど、演出としては気は利いているんではないか。演者が客席へと降りる演出はよくある手だが、まさかハーゲンのモノローグの終わりとワルトラウテの登場をこんな風につなぐというのは、ヘエアハイムならではだ。

⑫ブリュンヒルデの岩山ではグンターも歌う?

同、第一幕第三場、扮装したジークフリートがブリュンヒルデの岩山を訪れる場面では、マスクで変装した男は二人で、一人がジークフリート、もう一人がグンターであり、二人同時に同じ燕尾服の出で立ちで登場する。そこまでなら演出だけの話しだが、どうも声の質や口元の動きから見ると、ここでの本来ジークフリートのみによる歌唱を、一部グンターに歌わせているように聞こえる。これはさすがに演出家の一線を越えていると思うが、音楽監督のサー・ドナルド・ランニクルズは了承しているのだろうか?

⑬下着姿に戻る「神々」のエキストラ、最後の宇宙船らしき発光体は空回り?

同、第三幕第五場、すなわち「神々の黄昏」の最後の場面ではブリュンヒルデは悲し気にピアノに向かい座るヴォータン役の役者を静かに誘うと、彼は他の神々の役者(エキストラ)を率いて舞台中央のピアノの奥側に移動する。かと思うと、彼ら神々の扮装をした役者たちはそれぞれ、おもむろにその衣装を脱ぎはじめたかと思うと、大きなマントを風呂敷代わりにして畳んで片付けていく。そして最後にピアノの炎のなかに投げ入れて行く。なにか意味を持たせたいのだろうけれども、まったく音楽にマッチしているとは言い難い。最後は、「未知との遭遇」よろしく、巨大な宇宙船を思わせるような「ぼんぼり」状のいくつものLED照明が上から降りてきて、また上に上がって行く。その後、もとのがらんどうとなった舞台には、ひとつグランドピアノだけが残され、清掃員がひとりモップで床を掃いている場面で幕、となる。「さあ、これでショーは終わりましたよ。おしまい。」と言う手のエンディングはよくあるし、うまくやればそれはそれで感動にもつながるのだが、ちょっと今回のラストは空回りしているように思えた。色々見どころのある演出の最後にしては、やや物足りないし、肝心な音楽の感動を削いでしまった。あと、どの場面かは忘れたが、何故か上半身を炎で包んだ男が舞台下手から上手へ歩いて行くという場面があったが、あれは何だった?いずれにしても、最新の「リング」の舞台映像としては本格的であり、面白く、見応えがあった。

⑭歌手とオケの演奏はさすがDOBのハイレベル

「ラインの黄金」のヴォータンは、バイロイトの「パルジファル」でクリングゾルを歌った デレク・ヴェルトンが、「ワルキューレ」と「ジークフリート」のヴォータンは、やはりバイロイトの「トリスタンとイゾルデ」でクルヴェナールを聴かせてくれたイアン・パターソンが、それぞれ美声で聴きごたえのあるヴォータンを聴かせてくれた。とくに「ワルキューレ」でのイアン・パターソンのヴォータンの、深くしみじみとした歌唱は大変印象に残った。もちろん、ブリュンヒルデのニナ・シュテンメも然りで言うことなし、である。ジークフリートを歌ったクレイ・ヒリーを聴くのは初めてだ。見た目は今は亡きヨハン・ボータを彷彿とさせる恰幅の良さに、張りと勢い、伸びのある声量豊かなアメリカ人テノールである。同じアメリカ人ヘルデン・テノールで一極集中気味のステファン・グールドの次の世代として、アメリカのワーグナー協会が推している期待の星のようだ。アルベルト・ペーゼンドルファーのハーゲンも鬼気迫る歌唱と演技で申し分なし。グンター役のトーマス・レーマンはやはりアメリカ人のバリトンで、やわらかでノーブルな歌唱で魅了してくれた。その他、ローゲのトーマス・ブロンデーレ、アルベリヒのマルクス・ブリュックとジョルダン・シャナハン、フリッカのアンニカ・シュリヒト、エルダのユディット・クターシ、ワルトラウテのオッカ・フォン・デア・ダムラウ、ファフナー:トビアス・ケーラー、ファゾルト:アンドリュー・ハリス、ジークムント:ブランドン・ヨヴァノヴィッチ、ジークリンデ:エリザベス・テイゲ、フンディング:トビアス・ケーラーなどの諸役はじめ、ラインの乙女たち、ノルンの女神たちも含めてどの歌手も実力派揃いで言うことなく、非常にクオリティの高い充実の歌唱が堪能できたのは、さすがにDOBの本領発揮という印象であった。

サー・ドナルド・ランニクルズ指揮DOB管弦楽団の演奏も、さすがに得意のワーグナーの本領発揮で、パワー感に溢れて素晴らしい。コロナで練習に影響もあっただろうが、そうしたネガティブな事情は感じさせない上質の演奏だった。ミステリアスな微細な部分も決しておろそかにならず、こういうクオリティの高い演奏をずっと聴いていたい気持ちにさせられる。久しぶりに聴く「指環」全曲を、見応えのある演出とともに、存分に楽しむことができた。やはり今年新制作のバイロイトの新制作の「リング」と、どちらに軍配があがるだろうか?ワーグナーファンにとっては、実に贅沢なレースである。

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今回のドイツ訪問記も、残すところベルリンとフランクフルトのみとなりました。
 
ベルリンへはドレスデンから列車ECで約2時間。今までベルリンに来た時には、必ずベルリン・フィルかシュターツカペレ・ベルリンのコンサートを聴きに行っていたが、今回の滞在中それらは聴けず、唯一ドイチュ・オーパー・ベルリンで「トリスタンとイゾルデ」が観られたが、それで充分満足。DOB2005年に「サロメ」(ウルフ・シルマー指揮)と「ばらの騎士」(クリスティアン・ティーレマン指揮)を観て以来、もう9年になる。以前「リンデン・オーパー」の愛称だったベルリン国立歌劇場はまだ改装工事中で、シラー劇場での引っ越し上演中だが、滞在中にオペラはなかった。シラー劇場はDOBの近くだが、歩くのが面倒で結局は行かなかった。そのかわり、ベルリンではかつての東西のイエス・キリスト教会を訪れることができたのは、先に書いた通り。

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DOBの「トリスタンとイゾルデ」は現在の音楽監督のドナルド・ランニクルズ指揮で、演出がグレアム・ヴィック、それにトリスタンがシュテファン・グールド、イゾルデがニーナ・シュテンメと言うことで、なかなかの見もの、聴きものかと期待に胸が弾んだ。今回のDOBの「トリスタンとイゾルデ」は、20113月プレミエで、3年目になる。まあ、新しいほうだろう。
 
グレアム・ヴィックの演出は、1996年のフィレンツェ五月音楽祭の「ルチア」の来日公演でスコットランドの荒野をイメージした美しい舞台美術が印象に残ったが、今回のDOBの「トリスタン」では、かなり現代調の演出で、前半などはやや説明過剰の詰め込みすぎの印象を受けた。
 
舞台と衣装は現代、印象としては80年代後半くらいのベルリンのごく普通のアパートの一室での、ごく一般的な日常生活という感じだろうか。とにかく主要人物以外の脇役たちが、掃除人だとか窓ふきだとか、工事の作業者のような、ごく雑多な日常の延長を思わせる役回りで、次から次へと出てくる。それらの描写にはロマン性のかけらもないが、それが目論見なのだろう。それに加えて、一糸まとわぬ女性や男性、薬が切れて禁断症状でのた打ちまわる男が出てきたりで、もう冒頭から騒がしいのなんのだ。この全裸の男女はそのあとも主要な場面でも出てくるので、それなりの意味は込められていよう。「昼」が「衣服」と言う「虚飾」の記号を身にまとった「虚栄」を意味するものならば、「裸」は当然、そこから解放された真のトリスタンとイゾルデの「夜」の姿であることは、歌詞から想像できよう。二幕では、トリスタンの分身を思わせるこのスッポンポンの男性が、スコップで「墓穴」を掘っていく。
 
あとはまあ、イゾルデの秘薬を二人して呷る場面は、誰もが予想できるように、注射器で怪しげな薬を打つと言う安直な演出になっている。今でこそ、その種の薬品の医療用以外の使用については世界的に厳しい規制が当然の風潮ではあるが、もともとアヘンチンキなどと言うものは、ワーグナーの時代には子供の歯痛止めとしてもごく一般的に出回っていたくらいだから、ワーグナーの音楽の持つ毒性のなかに、けし坊主からの抽出・精製液の影響があると解釈しても、一向におかしくはないと言うどころか、その様に解釈するのが、ごく自然なことだろう。コカ・コーラだって、1920年代位までは、実際に「コカ」抽出液を希釈したソーダからの始まりだし、多くの絵画やベルリオーズの「幻想交響曲」もアブサンなしには生まれなかっただろう。
 
演出の最大の見ものは、第三幕目である。ここで登場人物は全て、第二幕の場面から数十年が経過したじいさん、ばあさんになって登場する。なるほど。これは今までありそうでなかった解釈ですね。逆に言うと、あの日からトリスタンは、数十年の年月、傷に苦しみ、イゾルデを思い焦がれ続けているわけで、むしろ残酷な演出ではある。牧童もおじいちゃんなら、忠臣クルヴェナールも白髪だらけでヨレヨレのカーディガンを着た足腰の弱ったおじいちゃん。トリスタンも、ぶるぶると手を震わせながら歌う姿からは哀愁が漂う。やっと現れたイゾルデとブランゲーネも、どこかの老人ホームから来ましたと言うような人生の末路を印象つける出で立ちで、現実世界の悲哀を感じさせる。なんだかNHKの「クローズアップ現代」のようだ。トリスタンはいつの間にか行方不明者のように消えていなくなり、最後にイゾルデは「愛の死」を歌い終えると、部屋の外の人並みの行列に交じり、その波に流されて、消えて行ってしまう。「トリスタンとイゾルデ」と言う特殊な英雄とお姫様の文学的世界ではなく、だれもがいずれは迎える「老い」の現実の世界をクローズアップした、あまりロマンティックではないけれども、なかなか見ごたえのある舞台演出であった。
 
歌唱については、みなさん言うことなし、それぞれに素晴らしい実力の歌手たちでした。上記の二人に、エギリス・シリンズのクルヴェナール、タニア・アリエーヌ・バウムガルトナーのブランゲーネ、リャン・リーのマルケ王と、いずれも立派な歌唱で盛大な拍手を受けていました。
 
DOBの演奏は、弦については全く言うことはなく素晴らしいレベルなのですが、金管、特にホルンに難ありで、もう少し丁寧さがなければ音楽をぶち壊してしまいます。第三幕の冒頭なども、重厚で深い弦楽の演奏にうっとりとしていたら、ホルンが入った途端に現実世界に引き戻される思いです。この辺のところが、DOB、もうあと一歩と言う印象ですが、全体としてはもちろん素晴らしい演奏には違いありません。聴きごたえ、見ごたえある「トリスタンとイゾルデ」が楽しめました。(下の写真はDOBのHPより)
 
 
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