5日目。石窟庵→仏国寺→大陵苑(天馬塚)
慶州での二日目午前中は幸いお天気が回復し、絶好の観光日和となった。この日は午前に仏国寺(プルグクサ)と石窟庵(ソックラン)を回り、午後に市内の大陵苑(デルンウォン)という新羅時代の古墳群を観てまわることにしていた。予定を立てた段階では、理論上はいずれも市内バスでの移動が十分に可能なはずだったが、この地域ではグーグルマップは不正確で全く役に立たないのと、前日に何度か乗車した市内バスの運転の粗っぽさや、席に座れなかった場合の傾斜とカーブのきつい山道を立ったままでそのバスに乗車する体力の消耗を考えると、ここはやはりコンシェルジュのリーさんのお勧め通りタクシーを1台チャーターしておき、快適に石窟庵と仏国寺を観光するのがベストだと思われた。タイムテーブルでは仏国寺までのバスは便数が多いのだが、そこから石窟庵のバスは往復とも1時間に一本しかないので、これを逃した場合に時間を大きくロスすることと、昼食は仏国寺前の食堂で田舎料理かビビンバくらいしか食べるものがないことも予想されたので、予約したタクシーで午前10時過ぎにホテルを出発してバスの時間を気にせずに観光し、午後1時半にはホテルに戻るという実質3時間強のチャーターで₩70,000(約¥8,300円)のタクシー料金は、結果としては妥当な安心料だと思えた。
道順としては一度仏国寺との分岐点を通り過ぎ、まずはその先の石窟庵のほうから観てまわったが、道中の山道(山の標高は600mくらい)は非常にきついカーブの連続で、おまけに多くの谷間で大規模な崖崩れの修復工事も行われていて、やはりここをもしバスで席に座れずに乗っていたらと想像するとゾッとした。新緑の山道を約30分ほどドライブして石窟庵の入口へ。入場料は石窟庵と仏国寺ともに無料だった。入口の門から石窟庵までは平坦な山道を約15分ほど歩いたが、幸い天候がよく気温も湿度もちょうど快適な程度で、新緑のなか山道を歩くのは大変心地よかった。韓国では仏教のお寺は山間の僻地にあることが多く(これは前回でも触れたように李朝時代に仏教が保護されなかったことが大きい)、その参道や境内には、どこも天上天下唯我独尊ポーズで右手をあげた釈迦の姿を可愛いユルキャラのイラストにした色とりどりの提灯がたくさん吊り下げられている。
石窟内は撮影が禁止されているので、上の石窟内の仏像写真はパンフレットからの転写。その上の写真の木造の建物の奥にこの石窟があり、見学はこの建物からガラス越しに仏像を拝観する。建造は8世紀の新羅時代で日本では奈良時代に当たるので、東大寺の大仏と同世代だ(ただし東大寺の大仏は何度か焼失・再興されている)。非常に立派で優雅な石像だが、ご多聞に漏れず李朝時代には廃寺となり放置されて崩壊寸前の状態だったらしいが、日帝支配時代になって偶然再発見されて1910年代に補修され再び世に知られることになったとのこと。その後1961年に韓国自身により補修が行われたが、パンフレットの案内文には日本の補修でさらに状態が悪化したので改めて補修をしたのだと書かれている。こういうところにまで両国間の不幸な歴史認識の隔たりと相克が現れていて残念である。実際には儒教を国教と定め仏教を排除した李朝時代には廃寺となり放置されていたのを仏教国の日本が修復したのが事実ではあるのに、なんでも有難迷惑だったとしてしまうのは悲しいことだ。それくらい、ひとつの主権国家を植民地化すると言うのは歴史的な責任を伴う危険な事業なのだ。
さて立派な石仏を拝観し、新緑の参道を引き返してタクシーに戻り、往路では通り過ぎた分岐点で仏国寺方面に向かうと、仏国寺前の広い駐車場が見えてきた。バスだと駐車場手前の道路のバス停で降車し歩くことになるが、タクシーなら入り口のすぐ手前で降ろしてくれたのが楽だった。ここも料金は無料だった。緑がきれいに整備された手前の公園内を10分ほど歩くと、まずは仁王門が迎える。
若い頃最初にここを訪れた時、原木の素材の美しさをそのまま生かした日本の木像や寺社の建物の素朴な印象と、柱や梁や天井、木像に至るまで、建物全体を極彩色で彩る韓国の寺社の色彩感覚の違いに驚いたことを思い出す。その頃は修復されてまだ何十年も経っていなかったので、その色合いも今よりは随分と鮮明で強烈だったと思う。仁王門を過ぎてしばらくすると、案内写真でよく目にする紫霞門とそれに繋がる青雲橋と白雲橋の優美な姿が見えて来る。
この寺も石窟庵と同じく新羅時代の8世紀の建立だが、李朝による仏教排除に加え、秀吉時代の日本の侵略(文禄・慶長の役 = 壬辰丁酉倭略)によりさらに荒廃し、日帝統治下の20世紀初めまで放置されていた。同じく1920年代に日本の朝鮮総督府により修復された後、70年代に韓国による独自の修復・再建をみた。なので、石壇や石段、石柱などは創建当時のものが残されているが、木造部分の多くは再建である。
(上)国宝の石塔と多宝塔 (中)(下)極彩色の彩色は韓国独特、というか日本が素朴で素っ気ないのか
市内、大陵苑・天馬塚
と言うわけで、石窟庵と仏国寺を見学している間のみ絶好の好天に恵まれ、1時半にホテルに戻ってバスで市内に移動した頃には再び曇り空となり、コートが要るくらい風が冷たくなってきた。街道筋には真っ白な
天馬塚は1970年代に本格的に発掘されたらしい。最初は手はじめ程度からと始まった試掘でいきなり金が施された王冠や腰帯、剣や馬具などの副葬品が大量に出土して、予想外の大ビンゴだったらしい。天馬塚の「天馬」は、馬具の泥除けに施された絵柄で、この発掘の成果を代表するものになったらしい。ここは日本円で4~500円程度の入館料だったと思う。日本の高松塚古墳の壁画が発見されたのが1972年、こちらの天馬塚も1973年に発掘された。入口から薄暗い照明の内部に入ると発掘当時の古墳内部が再現され、多数の出土品のレプリカが解説とともにわかりやすく展示されている。金冠や金の帽子、靴や腰帯、剣などは国立慶州博物館の展示と重なる。発掘成果の大規模な展示・公開は日本のものとは比べ物にならない。日本も、近畿地方に多数ある古墳を大規模に発掘・調査すればこれらに負けない成果を得るとは思うが、ほとんどが宮内庁管理下にあり「被葬者の尊厳と静謐を守るため」というたてまえで、本格的な調査が拒まれている。実際のところは、掘れば何が出て来るかわからないと言う危惧のほうが大きいのではないか。「古事記と日本書紀でこういうことになっている」という8世紀に書かれた(創作された?)この国の「歴史」が、実は出て来た出土品が物語る事実とは矛盾するかもしれないということを恐れているのではないか。歴史はそういうことにしておけばいいではないかと言う、さしてアカデミックとは言えない本音があるのではないかと、個人的には思える。何の確証もないけれども。まぁ、それを言い出したら、現在も復元工事が進む慶州歴史地区の復元・整備事業も、脆弱な根拠に基づくフィクショナルで想像上の再現事業ではないか、という危惧があってもおかしくはないとは思う。「国家の威信をかけて」みたいな方向違いの鼻息が荒いほど、明後日な方向に行ってしまう危険性があるのは、いつの時代、どの国でも同じだろう。だからこそ冷静なアカデミズムこそ尊重されなければいけないのではないか、などと思いながら天馬塚を後にした。
この後、大陵苑公園を南に抜けて謎の構造物の瞻星台(チョムソンデ)と鶏林(ゲリム)にもさらに足を延ばそうと、てっきり南に向かって歩いているものと思い込んでいたら、いくつもの大きな古墳の間を縫って歩いているうちにいつの間にか方向感覚を失っていたらしく、もと来た場所に近い北東側の出口に近づいてしまっていた。方向音痴ではないほうなのだが、なんだかキツネにつままれたようなおかしな気分になった。だいぶん歩き疲れたし、まぁ、いまひとつ意味不明の瞻星台(そう言えば日本の斉明女帝の頃の飛鳥にも謎の構造物が多いのは偶然か?)と神話がなければ言ってみればただの林の鶏林はそこまでどうしても行きたいほどでもないので、そこいらでいったん切り上げてこぎれいなカフェでひとやすみし、コンシェルジュに教えてもらっていた慶州警察署裏手のヤンヨンカルビのお店まで歩いて行き(この時ばかりはグーグルマップは役に立った)、まあまあおいしくて値段もバカ高くはない炭焼きの焼肉を賞味して帰った。しかしこちらのお店の回転はめちゃくちゃ速くて驚いた。両隣のテーブルとも、こちらが食事を終えるまでに客が3回転していた!日本だと焼肉と言うと、ビールや焼酎など飲みながら、うだうだとだべったりワイワイ言いながら、2時間でも3時間でも居座りそうなものだが。帰路もやはり10番11番のバスはまったく現れず、諦めてタクシーでホテルに帰還。
↑思ったより新しかった金海(キメ)国際空港
夜はゆっくりと休んで翌朝9時半にチェックアウト後タクシーで慶州市外バスターミナルへ。バスターミナル10時40分発の直行バスで金海(キメ)国際空港へ。正午前に空港着。13時頃にはチェックインが済み、聞くと出国ゲートから向こうはろくなレストランはないとのことで、出国前にビビンパで昼食を済ませておく。16:30出発までには相当の時間があるが、ぎりぎりになって焦るのは勘弁なので、最終日の時間は持て余すくらいでちょうど良い。往きと同じエアプサンBX122便で午後6時頃関西空港着。そう言えば今回の出発時のブログで書き忘れていま思い出したので最後に記しておくが、直近に関空を利用したのは昨年の9月だったが、その時から出国ゲートを出てからの動線が大きく変更され、空港利用客がいやでもいろいろなお店を回遊してから出発ゲートへ出るという動線に大幅に変更されていた。コロナの間に何か大規模な工事をしているなとは思っていたが、このような大規模な変更があったとは驚いた。
そういうことで、いまが旬の活力にあふれる釜山と、いまも変わらぬ歴史を満喫させてくれる古都慶州の旅をいったん終え、以上で今回2024年春(4-5月)の釜山・慶州5泊6日の旅行記を終了します。お付き合いいただきありがとうございました。