2021年06月 : grunerwaldのblog

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バイロイト音楽祭やザルツブルク音楽祭など、主に海外の音楽祭の鑑賞記や旅行記、国内外のオペラやクラシック演奏会の鑑賞記やCD、映像の感想など。ワーグナーやR・シュトラウス、ブルックナー、マーラー、ベートーヴェン、モーツァルトなどドイツ音楽をメインに、オペラやオペレッタ、シュランメルン、Jazzやロック、映画、古代史・近現代史などの読書記録、TVドキュメンタリーの感想など。興味があれば、お気軽に過去記事へのコメントも是非お寄せ下さい。

2021年06月

日本のジャズ、ロック・ポップス界でアルト・サックス・プレイヤーとして長年活躍して来た土岐英史氏ががんのため亡くなったことを、時事通信の訃報記事で知った。享年71歳。

自分がジャズやロック・ポップスをよく聞くようになりはじめた高校生の頃(1970年代後半)にはすでに、日本のジャズ・シーンではよく知られた存在で、同じサックスプレイヤーで同世代の本多俊之氏や清水靖晃氏らと人気を分かっていたのを思い出す。「Swing Journal」誌の人気投票でもいつも上位に名前が挙がっていたし、ポップスやロック、当時人気があった「フュージョン」や「クロスオーバー」と呼ばれたジャンルでも人気が高かったので、「Ad Lib」誌でもよく目にした。他にも多くの歌手やアーティストのアルバム制作に多数関わって来た人気ミュージシャンだった。

エネルギッシュに豪快に吹きまくると言うよりは、繊細できれいな音色で早いパッセージの複雑なメロディを自在に操る高度なテクニックのミュージシャンだった。山下達郎の 六本木pit inn でのライブアルバムの「It's a poppin' time」にも聴けるようにスローでメランコリック、情感深いソロも持ち味だった。

この3月には村上’ポンタ’秀一氏の訃報を耳にしたばかりだったが、70年代から80年代にかけて熱い音楽シーンを築いてきた名ミュージシャンたちが70歳前後でひとり、またひとりと亡くなっていくのはやはり寂しいものがある。土岐英史さんのご冥福をお祈りします。




※7月6日追記・ヤフー記事↓




先週にはテナーサックス奏者でビッグ・バンド界の巨匠・原信夫氏(シャープス&フラッツ)の訃報も…


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1901年ウィーン生まれのオットー・シュトラッサー氏は1922年12月からウィーン国立歌劇場で活動を開始し、翌1923年10月からウィーン・フィルハーモニーに入団し、第2ヴァイオリン奏者として長年活動したほか、シュナイダーハン四重奏団-バリリー四重奏団-ウィーン弦楽四重奏団(ボスコフスキー主宰)というウィーンフィルメンバーによる本流的な弦楽四重奏団に長年籍を置いて活動してきた。1958年12月から定年退職の1966年12月31日までの8年間は、楽団長としてウィーン・フィルを代表する立場だった。歌劇場時代を含めると通算44年に渡る在籍中には、我々にはもはや伝説上の名前でしかないフランツ・シャルクやフェリックス・フォン・ワインガルトナーをはじめ、リヒャルト・シュトラウス、ブルーノ・ワルター、トスカニーニ、フルトヴェングラー、クナッパーツブッシュ、クレメンス・クラウス、オットー・クレンペラー、カール・ベーム、カラヤン、バーンスタインら錚々たる指揮者らとコンサートやオペラで活動をともにし、文字通りウィーン・フィルの生き字引としてウィーン・フィルの活動に貢献して来た。

本書は退団後の1974年にウィーンで上梓され、芹澤ユリア氏の訳で1977年1月に音楽の友社より日本語版として出版された。四六版、各頁二段組で全388頁。自分が購入したのはもう30年近くも前、ようやくクラシックを本格的に聴きはじめた1992年頃のことで、その前年1991年12月に第5刷として刊行されたもの。ウィーンフィルファンのみならずクラシックファンには興味深い内容ばかりであり、愛好家には必読書とも言えるだろうが、購入当時はそこまで古い時代の回顧話しにさほど関心が強くあったわけでもなく、文章量も少なくはないので、割と飛ばし飛ばしで流し読みしたまま、長い間書架で眠ったままになっていた。クラシックも聴き続けて30年近くになり、ウィーンフィルの本拠地の楽友協会や国立歌劇場、ザルツブルク音楽祭の祝祭劇場にも度々訪れて数々の素晴らしい音楽を幾度となく体験したいま、本書を改めて一から読み返してみるのも一興かと思い、久々に手に取った。新型コロナへの緊急事態宣言が6月半ばまで延長されてもいるので、長らく中断していた本をあらためて読み進めるには絶好の機会でもある。

特に興味があったのはザルツブルク音楽祭に関する内容で、シュトラッサー氏が国立歌劇場に本採用される直前の1922年のザルツブルク音楽祭に参加するところからキャリアが始まっている点だ。1922年のザルツブルクと言うと、ウィーンフィルがはじめてこの夏の音楽祭でオペラを演奏したという記念に残る年である。ザルツブルクの夏の祝祭自体はそれより早く、マックス・ラインハルトによる「イェーダーマン」という演劇からスタートしていて、リヒャルト・シュトラウス指揮によるウィーンフィルのオペラはこの1922年から始まったのであり、シュトラッサー氏(以下シュ氏)はこの時からの生き証人なのである。この夏にはモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」と「コジファントゥッテ」がR.シュトラウスの指揮で、「フィガロの結婚」と「後宮からの誘拐」がF.シャルクの指揮で演奏されている。翌年から2年間は経済事情のためオペラの上演はなかったので、正式採用前とは言え、第1回から参加出来たことは、後のこのフェスティヴァルの隆盛のことを思うとシュ氏には幸運なことだっただろう。なお、この時はウィーンフィルの団員の半分はワインガルトナーとともに南米演奏旅行に出ており、アルノルト・ロゼェをはじめとする37名の残留組がザルツブルクでオペラの演奏を行ったとのこと。正式採用後のウィーン国立歌劇場での初めての演奏は、やはりR.シュトラウス指揮による「サロメ」で、1922年12月1日。ウィーンフィルの正式団員としては1923年の秋、ワインガルトナー指揮のコンサートだった。当初第2ヴァイオリンの末席だった彼を首席奏者に引き上げてくれたのは、クレメンス・クラウスだった。

ドイツ併合後の大戦中は、「アーリア化」の問題などでは幾度となくフルトヴェングラーに助けてもらった恩は大きかったと書いている。そのため、後にフルトヴェングラーへの忠義だてのためにカラヤンの不興を買ってしまうこともあった。両雄並び立たず。そのためにカラヤンをベルリンに奪われ、ウィーンですらウィーン交響楽団に奪われる時期もあった。「二度とウィーンには来ない」という脅しは、この二人の巨匠に関してはウィーンフィルもさすがに無視することはできなかった。ウィーンフィルがプライドが高いのは当然のことではあろうが、その割には(それ故、と言うべきか)行政手腕や交渉能力に欠けるところが見られ、後になってほぞを噛んでいる場面が、所々に描かれている。

シュ氏本人は楽団長時代にカラヤンとの縁と繋がりが相当強固なものとなり、その後バーンスタインを強く推すヴォービッシュ事務長はじめ楽団員たちとの対立状態にも陥り、在籍時代を通じてあちらを立てればこちらが立たずという困難がずっと続いた。気の毒だったのはC.クラウスで、この人こそリヒャルト・シュトラウスへの最大貢献者であったにも関わらず、1955年の新国立歌劇場落成記念行事の責任者としては官僚的なしがらみからカール・ベームが指名を受けることとなり、もう一人の候補であったクラウスはその後のメキシコ公演の途中で失意のうちに客死してしまった。少なくとも健康面においては、結果的にベームを選んで事なきを得たわけであるが。ベームのどちらかと言うと流麗とは言い難い指揮姿が目に浮かぶように、派手に外面的なテクニックを誇示する指揮者よりも、より内面的で真摯に誠実に音楽に取り組むスタイルの指揮者のほうがウィーンフィルの性に合っているようだ。もちろん、C.クラウスが性に合っていなかったというわけでは決してない。クラウスも、どちらかと言えば細面を磨き上げる職人芸的な巨匠として評価されている。その他にも、ヒンデミットやミトロプーロス、クーベリック、フリッチャイやクリュイタンスなど、なんとか今後の良好な関係を維持・発展させて行きたいとウィーンフィルが願っていた指揮者らが、その大きな期待に反して次々と鬼籍に入ってしまって楽団員らを落胆させたことなども印象深い。ミトロプーロスは恐ろしいまでの記憶力の持ち主で、単に暗譜しているだけでなく、完全に譜面が映像として脳裏に映っているかのようで、練習番号や小節数なども完璧に記憶していたらしい。譜面なしに「さあ、8の番号の所から6小節あとを弾きましょう。それは9の番号より12小節前です!」(p.294)と言った具合だったらしい。その他にも、これら巨匠指揮者らと音楽作りをして来たウィーンフィルの歴史を知るうえで、貴重な証言が数多く書かれていて実に興味深い。

それにしても、1920年代前半から1960年代半ばまで半世紀近くの長きに渡って、ウィーンフィルとクラシック音楽の黄金時代を築いてきた著者の音楽家魂にはまことに恐れ入る。午前のリハーサルに夜の公演本番、それだけでなく四重奏団の練習と演奏会、間の時間にはレコードの録音、夏にはザルツブルク音楽祭の公演。それに個人的な練習の時間も含めれば、遊んでいる時間もないほどだっただろう。それに加えて、いち音楽家としてだけでなく、1959年から退団までの8年間はこの世界第一級の伝統あるオーケストラの楽団長としての重責を担い、様々な困難に対して真摯に楽団のために貢献して来られた。ストイックで自己犠牲をいとわぬ誠実な人間性がなければ、このような信頼をかち得なかったことだろう。発刊からすでに40年以上が経ち、著者オットー・シュトラッサー氏が1996年に95歳で亡くなられて25年となる。ほぼ30年ぶりに読み返してみて、あらたな感動を覚えた。昨年2020年は、新型コロナウィルスによる世界的なパンデミックでさすがのウィーンフィルも大きな影響を受けた。世界的な回復にはまだいくらかの時間はかかるだろう。次回にまた安心して魅力的な指揮者とプログラムで、この世界の宝物の音楽を再び体験できる日を、あせらずに待ちたい。

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Wojtek、と言ってもほとんどの日本人には馴染みがない名前だろう。しかし、このザルツブルク音楽祭の公式ポスターのロゴは、音楽好きー特にウィーン・フィルやザルツブルク音楽祭のファンなら何度かは目にしたことがあるかも知れない。

金色の下地に赤と白のオーストリア国旗のカラー、ホーエンザルツブルク城と演劇を意味する仮面のイラストの下部には黒地にアールデコ調の字体が白抜きで「SALZBURGER FESTSPIELE」と表記している。一度でもこの夏の音楽祭を訪れたことがあるものにとっては、この公式ロゴを見ただけでも胸が躍るのではないだろうか。自分も2013年に初めてこの素晴らしい夏の音楽祭を訪れてぞっこんとなり、会場入り口にあるオフィシャルショップのポスター売り場でA全サイズのポスターを見つけて購入して大事に持ち帰り、何枚かのウィーン国立歌劇場の公演ポスターやスカラ座のミニチュアサイズの公演ポスターとともにフレームに収めてリビングの壁を飾っている。

このポスターの赤白のオーストリアカラーの下に「WOJTEK」の文字があるので、多分これがこのポスターをデザインした人物の名前であるだろうことは見当がつく。ところが、購入した当時はもちろんのこと、その後何年かの間、何か手掛かりになる情報があるかとネットで何度かこの名前を頼りに検索してみたのだが、英語はおろかドイツ語でさえも有益な情報のサイトにヒットしなかった。その後何年か忘れたままになっていて、最近また気になって、そろそろ何か手掛かりになる情報がネットに出ていないかと調べてみたところ、こちらの「SALZBURG WIKI」というオーストリアのサイトに、ようやくそれらしい情報が掲載されているのに気がついた(下記ザルツブルク音楽祭公式HP記事も参照)。

それによるとどうやら Leopoldine Wojtek(通称 Poldi) という1920年代~1940年代にかけてオーストリアで活動した女性アーティストのようで、陶芸とグラフィックデザインが専門だったようだ。このザルツブルク音楽祭のポスターのデザインは1928年の製作となるらしい。ところがこの有名なポスターの作者である「Wojtek」という人物のことについては、自分が知る限りではこのサイトでつい最近知るまで、一体何者かというのがあまり知られておらず、謎のままだった。どうやら2019年1月7日の「Salzburger Nachrichten」の記事をきっかけに、その後2020年になってその賛否を問う論争が起こっているらしい。

つまり、このサイトの経歴を見ると、彼女は1932年から1943年にかけて、悪名高いナチスの簒奪者であるカイェタン・ミュールマン(Kajetan Mühlmann)の夫人であったことが分かった。ミュールマンと言うのはオーストリア側のナチス高官で、ユダヤ人の美術品を簒奪した責任者であり、戦争犯罪者である。要するに糞野郎である。アルトゥール・ザイス・インクヴァルトはニュルンベルク裁判で絞首刑となったが、この男は米軍に拘束された後に逃亡し、1958年にミュンヘンで病死。その間ウィーンで欠席裁判で有罪判決を受けている。そのうえ Poldi Wojtek は離婚後も父親の支援でアニフの「アーリア化」された邸宅を入手してそこで暮らしたという。「アーリア化」とは要するにユダヤ人の資産の没収のことである。もとの所有者だったユダヤ系ポーランド人画家ヘレン・フォン・タウシグ(Helene von Taussig)は1942年に強制収容所で62歳で亡くなっている。これにはさすがに「おや?」っとならざるを得ない。Poldi はまた、ヒトラーに関する子供向けの本の出版にも関わっている。

なるほど、これでこれまで何度インターネットで「Wojtek」を手掛かりに調べてみても、真相がわからなかったはずだ。要するに、大戦後の「非ナチス化~Denazification」によって忘れられた名前のひとつだったようだ。それにしては、なぜこれだけ世界的に有名な音楽祭の公式ロゴだけはずっと使い続けられて来ているのだろうか(ただし併合後のナチ時代は使用されていなかったとのこと)。

自分自身としては、ザルツブルク音楽祭と言えばこのポスターのデザインがビジュアルとして真っ先に脳裏に浮かぶし、ポスターも現地で購入して(2、3シーズン後に同じショップをのぞくとすでに販売されていなかった)壁に掲げているくらいだから愛着もあって気に入っているので、いまからナチ時代の負の遺物と言われてもちょっと悲しくなる。デザインそのものはナチ時代直前の1928年のもので、ナチスを連想させるものもなく、良いデザインであることには変わりないとは思う。そう言えば、ザルツブルク音楽祭はちょうど昨年が創設100年となる記念イヤーだったはずだがコロナ禍で異例な開催状況だったのが記憶に新しい。その歴史の中の暗黒時代の忘れられた名前として、いまのようなアンビバレントな状況のままのほうが望ましいのだろうか。

↓Salzburger Festspiele HPより

一週遅れだけど、笑顔が素敵な小学1年生のブルース弾き語りにあいかわらず癒される


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