2019年09月 : grunerwaldのblog

grunerwaldのblog

バイロイト音楽祭やザルツブルク音楽祭など、主に海外の音楽祭の鑑賞記や旅行記、国内外のオペラやクラシック演奏会の鑑賞記やCD、映像の感想など。ワーグナーやR・シュトラウス、ブルックナー、マーラー、ベートーヴェン、モーツァルトなどドイツ音楽をメインに、オペラやオペレッタ、シュランメルン、Jazzやロック、映画、古代史・近現代史などの読書記録、TVドキュメンタリーの感想など。興味があれば、お気軽に過去記事へのコメントも是非お寄せ下さい。

2019年09月

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これは、ひと月ほど前に、熱狂的なワーグナー・ファンの "スケルツォ倶楽部" 発起人 さんのブログで取り上げておられたのを拝見して、なんだか面白そうなので調べていると、amazon のサイトでアルバムごとダウンロードが出来るようだったので、さっそくDL購入して聴いてみた。結果、"スケルツォ倶楽部" 発起人 さんがすでに詳しくご紹介いただいているように、基本的にはワーグナーのパロディ演奏と言える企画もののCDながら、演奏しているのは歴としたバイロイト祝祭音楽祭のピットで演奏している実際の楽団員有志によるものであり、非常に面白い内容の演奏でありながらも、本格的なのである。せっかくなのでCDでも注文していたものが、先日海外から届いていた。なので、本日の記事の内容は、完全に"スケルツォ倶楽部" 発起人 さんの後追いであり、文字通り、受け売りである。せっかくの面白い演奏のCDなんだから、どなたかがすでにお書きの内容だからと言って取り上げないでいたらフィールドもひろがらないし、第一もったいない。演奏曲目や、その内容などについては、すでに "スケルツォ倶楽部" 発起人 さんが上記リンクのブログで大変詳細に説明しておられるので、ご参照を。

一応、CDのタイトルだけ触れておくと、"Bayreuther Schmunzel-Wagner" と言うことになっていて、"スケルツォ倶楽部" 発起人 さんは「バイロイト風、爆笑ワーグナー」として取り上げておられる。うまい訳しかただと感心したが、ここでは「バイロイト風 笑えるワーグナー演奏集」と言うことにしておこう。CONCERTO BAYREUTH というレーベルのCDでニュルンベルクの Media Arte から2014年6月にリリースされている。曲の一部にもの凄いテープの伸びによる音の歪みがあったり、解説に "West Germany" という記載があったりするので、もともとのレコードはかなり古い録音だと思われるが、録音日などの詳しいデータは記載されていない。ただし、実質的なリーダーであるシュトゥットゥガルト州立歌劇場楽団員(録音当時)であるアルテュール・クリング(Vn,arrange)をはじめ録音参加者の氏名と所属オケ(録音当時)は記載されていて、それによるとクリングと同じシュトゥットゥガルト州立歌劇場の団員がもっとも多い。一曲目のモーツァルトの「アイネクライネナハトムジーク」とワーグナーの各曲のモティーフをかけ合わせた "Eine kleine  Bayreuther Nachtmusik" はクリング編曲による弦楽合奏で、奏者は15人。聴きなれたモーツァルトの「アイネ~」の典雅な演奏が突然「ニュルンベルクのマイスタージンガー」のハンス・ザックスの靴叩きの音楽に切り替わったり、「トリスタンとイゾルデ」のマルケ王の音楽に混線したかと思うと、もとのモーツァルトに何事もなく戻ったりで、面白いけれども、演奏もとても本格的で言うことなしだ。他の曲で多人数の演奏では、フルート2、オーボエ1、クラリネット3、ファゴット4、トランペット3、ホルン(ワーグナー・テューバ)8、トロンボーン4、テューバ1、打楽器2が加わり、総勢36名による演奏(2,3,4,7,8,9,11)。オケの面々はシュトゥットゥガルト州立歌劇場のほかには、デュッセルドルフ響、ミュンヘンフィル、バイエルン放送響、NDRハンブルク響、ハンブルクフィル、ベルリン・ドイチュオーパ、ベルリン放送響、フランクフルト放送響、キールフィル、マンハイム、ヴィースバーデン、ハノーファー、ダルムシュタット、ザールブリュッケン、それにベルリンフィルからと、じつに多彩だ。フォーレ③やシャブリエ⑦のカドリーユなんかは「冗談音楽」そのものと言った印象だが、やはりワーグナーの各曲のモティーフが散りばめられていて、くすりと笑える。ドヴォルザーク(クリング編曲)④ラルゲットなどは、室内楽として聴いても美しい曲。クリング自身の作曲による "Siegfried Waltzer"⑨は、ウィーン風のワルツのなかに「ジークフリート」のモティーフが散りばめられていて秀逸。ミーメのトホホの嘆き声も聴こえてきそう。ヨハン・シュトラウス風のピツィカート・ポルカのワーグナー風パロディ⑧もあったりで、ウィーンフィルのニューイヤーコンサートなんかで告知無しで演奏したら、案外だれも気付かなかったりして(…な訳ない、笑)。

ダウンロードだけでなく、CDも取り寄せてみたのは、合唱も入った "Wir sint von Kopf bis Fuss auf Wagner eingestellt"(われら全身ワーグナーに包まれて)⑤の歌詞の内容が知りたくて、ひょっとしたらリーフレットに掲載されていないかと期待したのだが、残念ながら掲載されていなかった。続く "Tanny and Lissy"(ユリウス・アズベック作曲・ピアノ)⑥ も声楽入りで、こちらは「タンホイザー」のジャズ風というかカバレット・ソング風のパロディで、タンホイザーが "Tanny" で、エリザベートが "Lissy" と言うことで、ジャズとは言ってもそこはドイツ、どことなくクルト・ワイル風の趣で、これも歌詞内容を確認したかった。この夏はちょっとリスニングルームでじっくりと聴く時間が少なかったのだが、夏の終わりに面白い新発見があって一興だった。

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先日発売されたばかりのアダム・フィッシャー指揮デンマーク室内管弦楽団による最新のベートーヴェン交響曲全集(5CD)について、製造上の問題により Disc-5 (交響曲第9番)の演奏中にノイズ発生の事象があると言うことで、購入したサイトからメールで連絡があった。輸入元のナクソス・ジャパンが、追って良品と交換するとのことで、購入者はメールか電話、手紙などの方法でナクソス・ジャパンに連絡をすれば、10月以降に問題のあった Disc-5 の良品を無償で発送するとのこと。

交響曲第3番から8番まで、すなわち Disc-2、3、4はすでに聴いていたが、Disc-1 の第1番と2番、Disc-5 の第9番はたまたま、まだ聴いていなかったので、突然の案内に驚いた。ちょうど第九は今年の年末のお楽しみにと思っていたところだった。すでに聴かれて、ノイズに気が付かれたかたはおられるだろうか。どの程度の、どんなノイズなんだろうか。まあ、これが造幣局のコインの鋳造不良品だと逆にプレミアがついて高値になるらしいけど、CDはそういうことにはならないか。アダム・フィッシャーのCDでは他に、オーストリア・ハンガリー・ハイドン・フィルとのハイドン交響曲全集BOXでも、33枚目の103番「太鼓連打」でも逆位相という珍しい製造ミスが起こっている。

これを受けての対応なのか、HMVとタワーレコードのサイトでは現在、件のベートーヴェン全集は取り扱い中止になっているようだが、amazon.jpでは今夜の段階で、「残り在庫数2枚」がまだ購入可能な状態のようだ。取り扱い中止は一時的なものであってほしいものだ。良品の出荷準備が整えば、改めて販売は可能だろう。ところで、アダム・フィッシャー指揮によるカウフマンとウィーンフィル演奏のオペレッタ歌唱集というめずらしいCDも10月に発売ということで現在予約受付中ということで、なにかと話題である。

オーストリアの歴史

先日来、取り上げている山之内克子著「物語 オーストリアの歴史」(中公新書)のまとめと感想の続き、第9章はウィーン編。ローマ五賢帝のひとり第16代マルクス・アウレリウスがドナウ沿岸地域におけるゲルマン系諸族および東方系異民族との戦闘のため、現在のウィーンである砦の街ヴィンドボナに入ったのは西暦171年のこと。ウィーンはオーストリアの東端近くに位置するが、ここからドナウ沿いにさらに東へ約40km進むと、スロヴァキアの首都ブラスチラヴァとの境界のぎりぎり手前にペトローネル・カルヌントゥム(Petronell Carnuntum)という町がある。マルクス・アウレリウスはそのカルヌントゥムに戦略上重要な軍事拠点を置き、現在も街の中心部にはローマ時代の大きな遺跡がある。カルヌントゥムはアウグストゥス帝の時代(紀元6年)にはすでにローマの軍事拠点となっており、紀元100年頃トラヤヌス帝、ハドリアヌス帝の時代には恒久的な駐屯地となっている。マルクス・アウレリウスは、ここから約40kmほど西へドナウを下ったヴィンドボナの街を、その後背地として活用した。ウィーン旧市街の中心地からやや北側に、その名を冠したマルク・アウレルという南北の通り名がその名残りを伝えるが(Marc-Aurel Straße、正式に通り名として命名されたのは19世紀)、古来、その地がマルクス・アウレリウスが都市ヴィンドボナに入城した地点として言い伝えられてきた。そのマルク・アウレル通りからホーアー・マルクト(Hoher Markt)通りを東に折れてすぐのところには、ウィーン・ローマ博物館があり、ローマ時代の遺構が見学できる。このあたり一帯は、ウィーンの旧市街のなかでも最も古い時代の色が濃く、近くには前回ザルツブルク編で触れた聖ルーペルトが最初に建立したと言い伝わる、ウィーン最古の聖ルプレヒト教会(伝西歴740年頃)もある。聖ルプレヒト教会はウィーンにおける最初の教区教会として、ザルツブルク大司教区の東方への布教活動の一環として成立したことが窺える。当時ウィーンはいまだアヴァール人やマジャール人らによる侵略の危機に晒されており、ドナウ下流域一帯を管轄布教地域としていたザルツブルク司教にとって、混迷するウィーンに教区と教会を確立させることは、異民族の脅威を排するための安定要因を築くとともに、ボヘミアやモラヴィアなどのさらに東方地域への布教を広げるための前線拠点ともなったのである。

その後、オーストリア辺境伯とバイエルン公を兼任したバーベンベルク家のレオポルト4世が、バイエルンで権勢を誇ったパッサウ司教に土地を寄進し、1147年に建立したのが市内中心部にあるシュテファン聖堂で、聖シュテファンはパッサウの守護聖人であった。こうしてウィーンは新たにザルツブルクからパッサウ司教の管轄下へと移る。これ以降、ウィーンの教区教会はシュテファン聖堂と定められた。その後、ウィーンがハプスブルク家の宮廷所在地となって以降も、ウィーンはパッサウ司教管轄下の一教区に長らく甘んじなければならず、ようやくパッサウ司教の支配から脱し、独自の司教区となってシュテファン聖堂が念願の司教座教会となったのは、1469年、フリードリッヒ三世の時代になってからであった。このことからわかるように、15世紀後半に至るまで、ウィーンは結局、ヨーロッパにおけるカトリック信仰の要地とはなりえなかったのである。こうした経緯は、異民族や東方国家と最前線で向き合う東端の地であったウィーンが、バーベンベルク家とハプスブルク家によって平定されてのちもなお、ローマ教皇や西方の諸侯から見れば一貫して不穏な「境界の都市」であった事情を明解に裏付けている、としている。そして、危機を孕む辺境のイメージは、最終的に1683年にオスマントルコ軍が撃退されるまで、完全に払しょくされることはなかった。こうした経緯で15世紀半ばに至ってようやく独自の司教区となったウィーンでは、その後もローマ教皇庁との緊密な関係の維持に努め、16世紀になってプロテスタントの擡頭を見、新旧の宗派対立が他の都市で顕著に見られるようになって以降も、この地ではなおカトリック信仰が深く人々の生活に根付くことになった。

ウィーンの歴史に深く記憶されることになる、二度にわたるオスマントルコによる最初の侵攻(第一次ウィーン包囲戦)は、西暦1529年10月上旬。15万のオスマントルコ軍に対し、ドイツ人とスペイン人の傭兵からなるウィーン守備隊は約1万7千。有名なカフェ・ツェントラル前のシュトラオホガッセ(Strauchgasse)を北東に進んですぐ、フライウング(Freyung)と交わる一角にハイデン・シュス(Heiden Schuss-異教徒への射撃)と呼ばれる小さな広場がある。当時この辺りに市壁があり、トルコ兵が穴を掘って突破しようと試みたのを、守備隊が射殺し、その亡骸をミイラにして晒したという伝承があるらしい。トルコ軍は大砲70門を構えたが、一斉砲撃するには弾薬は著しく不足しており、砲撃は主にケルントナー市門付近に集中し、他の場所では坑道作戦が主になったらしい。ウィーン側の劣勢で一時はウィーン陥落も危惧されたものの、二週間後の10月14日には夕刻に霙が降り始め、夜には雪が降り始めた。これに戦意を喪失したオスマントルコ軍は早々に退却し、第一次ウィーン包囲戦の危機は去った。この包囲戦を機に、ウィーンでは中世風の市壁と防御要塞としての機能が重視されることになり、市壁上には10か所に稜堡が築かれ、外からの砲撃に備え数十メートル幅の斜堤が築かれ、要塞都市の様相を呈して行くことになった。

二度目のオスマントルコ軍の侵攻は1683年。やはり15万の大勢のトルコ軍は7月初頭ドナウ右岸まで迫り、8月前半までには王宮付近の二つの稜堡を破壊し、王宮にもっとも近いブルク稜堡では9月3日にはトルコ兵が市壁の際まで入り込んで来た。包囲戦は二か月におよび、市内ではすでに食料が不足し、暑さと衛生状態の悪化から痢病が蔓延し多くの死者が出た。こうしたなか、9月12日になってようやくポーランドからの援軍を得た皇帝軍が劣勢を挽回し、トルコ軍の撃退に成功した。こうした持久戦と包囲網のなかでは、身命を賭して極秘作戦の情報伝達のために都市と郊外を往復した一般市民による諜報活動が重要な役割を果たしたと言う。1683年9月の都市開放戦はその後、輝かしい勝利の歴史として、想像と創作を交えつつ様々に語り継がれることになる(そうして考えると、「忠臣蔵」や「新選組」などのよく知られているエピソードのほとんども、創作としての「物語り」が主体なんだな…)。開放戦のなかで、撤退したトルコ軍が野営地に残して行った戦利品を商う官許が、こうした情報戦の協力者に与えられ、そのなかには1685年1月17日にウィーンではじめて官許を得てコーヒー店営業を開始したヨハネス・デオダトの事例などが紹介されている。「ウィーン包囲戦とその後のコーヒーおよびカフェハウスの普及は、歴史の転換点をなした事件と、それによってもたらされた人々の生活様式の変化を鮮やかに象徴するもの」として紹介されている。

以上のように、現在ではかつてのハプスブルク家の王都として、あたかもいにしえの時代からオーストリアの心臓部であるかのようにも思えるウィーンという地が、歴史的・地政的にはオーストリア東端の辺境地であり、他民族の侵入と侵攻という不安定要因を抱えた前線の都市であったこと、宗教史的にはカトリック色が大変強い土地柄ながらも、独自の司教区として認められたのはようやく15世紀も半ばになってからという比較的浅い歴史であることを知り得たのも、専門とするオーストリア史の緻密な研究と構想の上に、筆力ある文章と、しかし同時に極めて読み進めやすい平易な表現に努められた著者の達者な文章のおかげである。幾たびもウィーンとザルツブルクを訪れながらも、毎度薄っぺらい観光情報程度として読み飛ばしてきた他の案内本の類とはまったく次元の異なる良書である。

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と言っても、いわゆる「難所」、「急所」の意味での「泣き所」のことです。
以前このブログでも触れたように、バイロイト音楽祭の50年代の「ニーベルンクの指環」の高音質盤CDの圧倒的な演奏の凄さに目覚めたのは、個人的にはそう古い話しではなく比較的最近のこと。映像での演奏は以前からあれこれと目を通していたのだが、CDでじっくりと通して聴いてきたのは、ご多聞に漏れずショルティとウィーンフィルのステレオDECCA盤を長らく愛聴していて、バイロイトのライブは音が古いだろうと言う先入観があった。それが、近年になって TESTAMENT盤と ORFEO D'OR 盤の高音質のバイロイト録音を耳にして、ようやくその演奏の素晴らしさに今さらながら気が付き、あらためてバイロイトの歴史的演奏の偉大さに恐れ入っている次第。そういうわけで、今年の年頭の書き込みは、TESTAMENT から出ている1951年のクナッパーツブッシュの「神々の黄昏」を聴いて感銘を受けた感想からスタートした。

今年はその後、春の復活祭の時期にザルツブルクにティーレマンとドレスデンによる新演出「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を聴きに行ったりとか、夏は夏でこれまたオペレッタ(白馬亭)にハマったり何やかやで、あらためて書いている間がなかったが、やはり同レーベルから出ている1955年のヨゼフ・カイルベルト指揮によるバイロイトの「ワルキューレ」と「神々の黄昏」の第二チクルス(いずれもマルタ・メードルがブリュンヒルデと言うことで愛好家には知られている)もすぐに取り寄せて聴いている。それについては書くタイミングを逃してしまったので、ここではごく簡単に主題にあるようにオケの「泣き所」にピンポイントに的を絞って、ごく部分的ながらその印象を取り上げてみよう。

ひとそれぞれ、この長いワーグナーの名曲のなかでも、「ここが一番好きで何度も聴く」とか、「真っ先にこの部分を聴く」という、お気に入りの箇所が存在すると思うが、自分の場合は、「神々の黄昏」で言えば、第二幕の序奏と第一場、特に第一場後半でアルベリヒとハーゲンのまどろみのやりとりが終わって「Sei treu! Sei treu! treu!…」とアルベリヒが再び闇へ溶け込んで行き、それに続いて漆黒の暗闇からライン川の黎明を暗示するようにクラリネットのソロからホルンのソロへと弱奏で受け継がれるところ、そう、ジークフリートの「ホイホー!ハーゲン!」で突然始まる第二場の直前までの部分が、なんとも言えず大のお気に入りなのだ。これ以上ないくらいに深い闇を思わせる、人間(アルベリヒ親子は妖怪に姿を借りているが)の根源的な性悪さを抉り出してそのまま音楽にしたかのような、陰鬱で粘着質、しかしながら比類ないほど濃厚で重厚な演奏の序奏に始まり、世界を呪詛し、指環を取り返す策謀を妖怪の親子がまどろみの中で語り合う第一場にかけては、まさにワーグナー音楽の魔性の深淵を味わう真髄の部分。その漆黒の夜の終わりを低音のクラリネットのソロが提示し、ゆっくりと空が明けて行く様を繊細なホルンのソロが受け継いで行く。ラインの夜がじょじょに明けて行くのが、目に見えるよう。だから、このわずか数分間の演奏の部分は弱奏の極みと繊細さで演奏されなければならないので、奏者からすれば非常に難しい部分ではないだろうか。

それを痛いほど思い知るのが、55年カイルベルトの第二チクルス(8月14日、ステレオ)での、この演奏部分である。もともとデッドな音質の録音が多いバイロイトのサウンドではあるが、皮肉にもこのデッドな音響が、クラリネットとホルンのソロの不安さを否応にも増している。まるであの黒い蓋の下の階段状のピットの一角で、ど緊張に震えながら恐る恐るソロで指が震えている奏者の目の前でそれを見ているような錯覚になり、じつに気の毒に思えてくるくらい、心もとない演奏になってしまっている。特にホルンのほうは壊滅状態と言ってよく、Disc-3 の 2曲目 9'10'' あたりでは、まさかの「ガッデム!」とも聞こえるような音声が間違いなく入っている。カイルベルトのは、同じ55年の第一チクルスの「指環」全曲がセット(「神々の黄昏」は7月28日の演奏)で出ていて、第二チクルスのよりも先に聴いているが、やはり同じ箇所で「うん?ちょっとしょぼいな」くらいに感じていたが、なぜか第二チクルスの同箇所のほうが、もっとひどいのである。では、他の演奏の、同じ箇所の演奏はどうなんだ、と言うことで、一応、手元にある51年のクナの TESTAMENT盤以降の同演奏部分のみを、ひとしきり聴いてみた。ちなみに55年のカイルベルトのは、両盤ともアルベリヒ:グスタフ・ナイトリンガー、ハーゲン:ヨーゼフ・グラインドルの組み合わせ。なお、ここで「しょぼい」とか「不安定」とか言っているのは、「神々の黄昏」第二幕の第一場後半部分のわずか数分の演奏のことのみに関してであって、曲全体、作品全体のことではありませんのでご了承を。

①クナッパーツブッシュ、1951年8月4日、
アルベリヒ:ハインリッヒ・フランツル、ハーゲン:ルートヴィッヒ・ウェーバー(TESTAMENT)
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モノラルならではの押しだしのある濃厚で重厚なサウンドは絶品。問題のソロの部分は、可もなく不可もなく、なんとか卒なく流れていった印象。フランツルのアルベリヒもなかなかの役者という感じ。


②クレメンス・クラウス、1953年8月12日(リーフレットでなんと1956年と言う誤植を発見。もう亡くなってるよね)ナイトリンガーとグラインドルの定番コンビ(ORFEO)
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この盤でも、問題の箇所はちょっと不安定気味。それに乗じて、この部分を歌手の出番が終わった、ただの場面転換のつなぎの箇所とでも思う客が多いのか、あまりの咳払いやくしゃみの多さに誰かが 「シーッ!」とたしなめている音が入っている。



③ヨゼフ・カイルベルト、1955年7月28日(第一サイクル、TESTAMENT BOX)、上記
④ 同        、 同  8月14日(第二サイクル、TESTAMENT)、上記


⑤クナッパーツブッシュ、1956年8月17日、ナイトリンガー、グラインドル(ORFEO)
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この盤は以前、「ワルキューレ」でのヴィントガッセンのジークムントの壊滅ぶりについて取り上げたことがありますが、それ以外の点では、歌手の声が非常に鮮明に録音されていて感動的。「神々の黄昏」の問題の箇所は、上述した演奏のなかでは、ようやくハラハラ感のない、自然なつながりのしっくりとした演奏に聴こえました。ただし客席の咳払いの多さはかなり酷い。


⑥クナッパーツブッシュ、1957年8月18日、ナイトリンガー、グラインドル
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この録音は、オケの音がかなり犠牲になっているけれども、逆に歌手の声はとてもよく録れていると思います。特にグスタフ・ナイトリンガーとヨゼフ・グラインドルの声の迫力と歌唱のうまさはまさに絶好調という感じで、その点においてはベストな録音と演奏と言っていいと思います。これでオケの音がより鮮明であれば言うことなしですが。また、序奏と第一場の間でディスク交換で途切れるのがかなり残念です。


⑦ルドルフ・ケンペ、1961年7月30日(ORFEO) 
アルベリヒ:オタカール・クラウス、ハーゲン:ゴットロープ・フリック
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バイロイトでの録音もこれくらいの年代になってくると、さすがにオケの演奏と歌手のバランスとも、安定したものになってきます。問題の箇所のソロについてはとてもスムーズで自然なつながりとなっており、次に挙げるベーム演奏のものとともに、もっともストレスなく聴こえる演奏に思えます。ただし、ベームのは、音は悪いと言うほどではないのですが、ちょっと耳に刺激感を感じる音に聴こえ、全体的に好みの音ではありません。明らかに ORFEO や TESTAMENT とは別種の音質です。


⑧カール・ベーム、1967年、ナイトリンガー、グラインドル
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⑨別枠として、ゲオルク・ショルティとウィーンフィルのセッション収録のDECCA盤は、スタジオ制作ということもあるので、問題の箇所は教科書のごとき安定した演奏で耳に馴染んでいる。ただし、これもなんとクラリネットのソロとホルンのソロのど真ん中でディスク交換のため演奏が途切れるのが、なんともすっとこどっこいです。
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オーストリアの歴史

昨日取り上げた書籍「物語 オーストリアの歴史」(中公新書、山之内克子著)を読んだまとめと感想の続き。昨日は700年続いたザルツブルク大司教領の歴史が、ナポレオンの侵攻によって終焉を迎えるところまでを、この書籍の内容に基づいて書いた。都市の人口で見ると、フランス革命直前に約17,000だったものが、1817年には約1万人近くに落ち込んだとしている(p.273)。「オーストリア併合直後の1818年には、あたかも衰退に追い打ちをかけるようにザルツァッハ河右岸の市街を大火が襲い、64軒の家屋が焼失する。しかし、ザルツブルクはもはや、かつてのヴォルフ・ディートリッヒのごとく、街の大規模な復興にただちに着手すべき領主を欠いていた。ようやく廃墟に手が加えられたのは、1840年代のことであった(p.273-274)」。1825年にザルツブルクを訪れたフランツ・シューベルトが兄に宛てた手紙には、住民がごくわずかになってしまって、草が伸び放題の古都の凋落ぶりを伝える内容が認められているという。かつての輝きが失われ、まるで「死都」となって時が止まってしまったような印象がある。

その後の19世紀の凋落後のザルツブルクについては、この本ではそれ以外には特に詳しくは触れられていない。次に記述されているのは、一気に20世紀へと下り、オーストリアが第一次世界大戦の契機となり、その敗戦によりハプスブルク家による君主国の歴史が終焉し、あらたな時代の激流に弱小国として翻弄される新生オーストリア共和国を巡って、政治的な対立が本格的な武装闘争へと発展していったという内容である(p.275)。こうした状況のなかで、「かつて大帝国の首都として威勢を誇ったウィーンでは、人々は救いのない喪失感に苛まれて(同)」いき、そうした「国家規模での激変のなかで、ザルツブルクという『アルプスの山腹にひっそりと立つ、時代に取り残されて眠り込んだような夢想的な小都市』(シュテファン・ツヴァイク)が、にわかに人々の心を惹きつけるようになる。政治的緊張と外交危機、そして民族的対立が首都ウィーンの芸術界に暗い影を落としたとき、多くの芸術家・文化人が、古い時代の情緒を湛えたザルツブルクに一種の逃避所をもとめたのだ(同)」。「ウィーンの文筆家グループを蝕む政治的派閥を嫌ってザルツブルク市街を見下ろすカプツィーナーベルクの山頂に隠棲しようとしたツヴァイクもまた、そのひとりであった(同)」。ツヴァイクの言によると、「世界中から無視されたオーストリア国の、このちっぽけな街におけるほど、音楽界、演劇界の至人たちが成功裏に結集し合った例は、ヨーロッパでも他に類を見ないだろう。都市ザルツブルクは、いままさに花開こうとしていた(同)」。ツヴァイク邸では、「ブルーノ・ワルターとアルトゥーロ・トスカニーニ夫妻、そしてマン家の人々が、ともにお茶のテーブルを囲むのが習わしとなっていた(p.276)」。

こうした変化の兆しにあって、その中心的な立役者となったのが、当時すでにベルリンの演劇界で成功者となっていた、マックス・ラインハルトだった。彼もまた、「次第に政治色を強めようとする現代芸術のあり方に疑問と失望を感じていた。1918年4月16日、のちに妻となる女優ヘレーネ・ティミヒに宛てた一通の電報は、当時の演劇界で『帝王』と呼ばれたこの奇才がザルツブルクに新たな本拠地を見出した瞬間を伝えている。『レオポルツクロン城の契約に署名完了。この貴重な建物にふさわしい内装を施すことを神がお許しくださいますように』(p.276)」。演劇界の巨匠マックス・ラインハルトによるザルツブルクにおけるオーストリアの文芸復興は、こうして、旧市街からホーエンザルツブルク城を眺めると、その向こう側の南方の池の畔に佇むレオポルツクロン城に活動の拠点を構えるところからスタートした。レオポルツクロン城は、かのフィルミアン大司教(前回で触れた)が、芸術を愛する甥のラクタンツに結婚祝いとして贈った宮殿だった。レクタンツは膨大な絵画を蒐集し、城内は優れた美術品で飾られ、豪華な内装の図書館には希書が溢れた。だが、その死後宮殿は荒廃し、大司教領解体後は、そのコレクションは散逸し、家具や装飾品なども撤去・売却された。保養ホテルやにわか成金の個人宅となっていた昔日のバロックの殿堂を自らの棲家として周辺の地所も含めて買い取り、「本格的な改築と修復作業を通じて大司教時代さながらの美神(ミューズ)の世界を再構築することが、彼にとっての当面の目標となった(p.277)」。「ここに営まれた華やかな社交生活は、一個人の趣味の領域に留まるものではなかった。ラインハルトが全財産を擲って目指したものは、まさに、当時失われつつあったバロック的文化そのものの復元にほかならなかった(p.278)」。「ハプスブルク帝国が栄華を極め、建築や絵画芸術が華やかに咲き誇ったバロック時代が彼ら(芸術家の多く)にとって郷愁の的となったことは、当然の帰結であったろう。帝国崩壊とともに消滅の危機に立たされた文化的伝統を目に見える形で具現化し、残し、生かしていきたい。バロックの『博物館都市』ザルツブルクは、このように願う人々に格好の舞台を提供したのであった。マックス・ラインハルトは、その実現過程を天才的な能力と感性を通じてみごとに演出したのである(同)」。まさに本文の一字一句がそのものずばりであって、他に足したり引いたりして、中途半端に要約する必要がないような、真理を言い表した的確な記述である。まさにそうだ、然り然りとうなずきながら、読みすすめるほかない。まさに現在のザルツブルク音楽祭が、この地において、どのような理念と気運によって、どのように始められていったのかが手に取る様にわかる文章であり、クラシックとは何かという命題が、じつに明確に理解できるではないか。

p.279からを要約すると、バイロイト音楽祭に倣ってモーツァルトを顕彰する音楽祭をザルツブルクで定期的に開催するというプランは、すでに19世紀末から熱心に議論されていたらしい。1917年には「ザルツブルク祝祭劇場設立協会」が発足し、ラインハルトも芸術顧問に指名されていたが、第一次大戦後の経済的混乱と後援者たるべき行政(ビューロクラシー)の消極性と遅延・遅滞により、計画は一時は暗礁に乗り上げたかに見えた。ラインハルトがレオポルツクロンに居を構えたのはまさにそうした最中であって、これが膠着した状況を好転させる契機となった。音楽祭の構想は、ラインハルトのプロデューサーとしての想像力を大いに刺激し、音楽のみならずあらゆる芸術を総合するようなダイナミックなアイデアが次々と浮かんだ。古くからの友人である作曲家リヒャルト・シュトラウスと作家フーゴー・フォン・ホフマンスタールが、よきアドヴァイザーとして彼を助けた。ラインハルトがレオポルツクロンを舞台に描いた世界観は、ホフマンスタールによる堅固な理論的・イデオロギー的裏打ちを得て、音楽祭というイベントのなかに昇華するときを迎えようとしていた。彼ら三人にとっては、財政面の困難も予想される「箱」、すなわち会場建設の問題は二次的な要因であって、一義的な事柄は、まずはなにかがここで演じられなければならなかった。そこで彼はすでに1911年にベルリンで上演して成功を見ていた「イェーダマン」をこの地で上演することに目をつける。元は英国の戯曲による道徳劇「エヴリマン」をホフマンスタールがドイツ語に翻訳し脚色した。そうと決まれば、事態は早々に進行しはじめた。会場は、ラインハルトが大司教イグナティウス・リーデルから大聖堂前の広場でので野外上演許可をやすやすと取り付け、さらにシュトラウスとホフマンスタールの強力な人脈は、豪華なスタッフとキャストの協力を無報酬で得ることに成功した。

こうして、1920年8月22日、ザルツブルク大聖堂を背景に、この地でのはじめての「イエーダーマン」の上演が実現する。これが、現在に繋がるザルツブルク音楽祭の歴史的な第一歩となる。翌年からはオペラとコンサートもプログラムに加わり、ここに本格的な音楽祭が形づくられて行くことになる。このようにして、「政治が損なったものを芸術の力を通じて再生するというザルツブルクの夢は、まもなく暴力的な力で破壊される運命にあった(p.282)」。10年後にはヒトラーの台頭を見ることになるのである。

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Max Reinhardt

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上写真二点 レオポルツクロン城

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フェルゼンライトシューレの舞台上の特徴的な構造は、かつて乗馬学校だった時に競技を観覧するために岩場を切り抜いてつくられたロージェ(個室席)を、そのまま背景として使用していることである。即ち現在、舞台とピット、客席となっている場所が、もともとは馬が競技を行う馬場だったことがわかる。

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ザルツブルク祝祭劇場の三つの主要な会場である Grosses Festspielhaus, Hus für Mozart, Felsenreidschule の配置図

オーストリアの歴史

この夏のザルツブルク行きの直前に、うっかり機内で読む本を準備していないのに気が付き、出発の間際になってあわてて近所の大型書店に駆け込んで物色していて、ごく近著(2019年6月刊行)でなかなかおもしろそうな内容の書籍を見つけたので購入し、機内で読み始めた。著者の山之内克子氏は1963年愛媛生まれで早稲田大学、同大学院修士課程修了後、ウィーン大学精神科学部経済社会史学課博士課程修了で、神戸市外国語大学教授。近代オーストリア史が専門。新書とは言え452ページの大部で機内持ち込みにはちょっと分厚いけれども、パラパラとページを繰って内容を一瞥してみると、なかなか読み応えがありそうで、ちょうどよかった。

ウィーンやウィーンの近代史、その美術や芸術、またハプスブルク家の歴史等に関する書籍は日本でも数多く出版されていて一定の人気もあるようだが、著者はあらたに本書を執筆するにあたって、従来から刊行されているそうした書籍ですでに書き尽くされた事柄以外の独自の視点からの著作にこだわり、オーストリア全体を通観したひとつのクロニクルとしてではなく、ニーダーエスタライヒ、ブルゲンラント、シュタイアーマルク、オーバーエスタライヒ、ケルンテン、ザルツブルク、ティロル、フォアールベルクと最後にウィーンという、現在のオーストリアを構成する九つの州ごとに章を分類し、それらの州ごとの独自の歴史を、それぞれの地域性に根差した視点で詳細に書き綴っている。なので、第一章のニーダーエスタライヒの項を読み終わって第二章のブルゲンラントを読み進めると、その州の歴史がまたいちからのローマ時代から始まる、と言った具合であるので、ローマ史に始まる部分やカトリック司教による歴史と宗教革命の影響、ハプスブルク家による支配の前とその後、二度のオスマン・トルコの侵攻の影響、近代国家としての成熟とその後に続く第一次大戦敗北による政治の転換とヒトラーのナチス支配といった、核をなす主要な事柄は、どの章を読んでも同じように繰り返し出て来るのは仕方がない。また、ウィーンの世紀末の芸術や音楽といったピンポイントへの関心については、すでに数多の著作でいくらでも知りうることを念頭に、敢えて大胆に割愛されている。なので、非常にユニークで独自の視点を持った、面白い書籍である。またこれはとても大事なことだが、語り口が平易で、日本語として非常に読み進めやすい。難しいことを出来るだけわかりやすく伝えるのがうまい書き手であって、得てして下手な物書きに限って平易なことをやたらとわかりにくい文章に捏ねくりまわしてしまう愚を重ねる傾向がある。その点で、この書籍は、ウィーンやオーストリアにはじめて関心を持つものにも読みやすいし、内容としては初心者のみならず、すでに何冊もこうした本に目を通して一定の知識がある読者でも、その深い洞察と専門の研究者ならではの見識に、改めて気づかされるような項目も多いのではないかと感じさせられる。

たとえば、今回の旅の目的地であったザルツブルクには、その音楽祭のためにもう何度も訪れているが、カトリックの影響が非常に大きかった(また現在も)ことは万人向けの観光案内的な文章を何度も目にする度に、「はい、わかりました」「はい、もう見ました」的な冗長さを感じるのが常であるが、この本では、そうした書き尽くされた観光案内文をコピーして上書きしただけのものからは伝わらない、歴史研究者ならではの視点からの切り口による深い洞察と広範な見識に、なるほどそうだったのかと気づかされる箇所も多い。

以下、p.250あたりからを要約すると、「ザルツブルク(塩の砦)」の地名からもわかるように、この地には紀元前5千~4千年前には定住の痕跡が見られ、紀元前4世紀にはすでにケルト人が定住し高度な文明を築いていた。その後ローマ帝国がドナウ流域に支配を広げると、この地もローマ属州「ユヴァウム」としてザルツブルクの起源となったことはよく知られている。だが、この古代都市は5世紀の西ローマ帝国の崩壊とゲルマン諸民族の侵入によって、いちど徹底的に破壊されている。廃墟となったユヴァウムを7世紀に再興したのがヴォルムス司教ルーペルト(ルプレヒト)だった。ルプレヒトについては、ウィーンのシュヴェーデン・プラッツ脇のルプレヒト教会のゆかりについても、ウィーンの章で紹介されている。696年にユヴァウムに入ったルーペルトはまず聖ペーター修道院教会を建立し、姪にはノンベルク修道院を建立させた。聖ペーター教会は、ザルツブルク祝祭劇場前のマックス・ラインハルト広場から東側のホーエンザルツブルク城に向けての定番のベストショットを撮ると、必ず手前にある緑色の尖塔がその構図に収まる、ハウス・フォー・モーツァルトのすぐ裏手にある教会。ノンベルク修道院は、映画「サウンド・オブ・ミュージック」でも出て来るホーエンザルツブルク城の東麓にある有名な女子修道院。696年頃と言うと、日本では天武天皇から持統天皇の頃で、薬師寺が建立された頃。唐で言えば則天武后の頃、朝鮮は新羅統一がなった頃。こうした聖人伝説は、日本で言えば聖徳太子やお大師様の弘法大師などの事績が伝えられるところなどは、洋の東西を問わず共通している。ちなみに祝祭劇場前のマックス・ラインハルト広場から定番のホーエンザルツブルク城に向かってのショットを撮る際は、午前中は完全に逆光になってしまうので午後以降の撮影がおすすめ。午前中なら逆に西に向かってメンヒスベルク・エレベーター方向の撮影が適している。

「ルーペルトののち、ザルツブルクはヨーロッパ中東部への伝道拠点として、カトリック世界における重要性を躍増させ、739年には司教区に、さらに798年には大司教区へと昇格している(p.252)」。日本で言うとまさに奈良時代から平安時代にかけての話しだ。「注目すべき点は、その首長である大司教が、ローマ教皇を頂点とする教会ヒエラルキーの上部を占めただけでなく、やがては強大な世俗権力をも掌握するようになったという特殊な事情(p.252)」であったことと言える。「こうして1190年、大司教アーダルベルト三世が公文書においてはじめて『侯爵』と呼ばれたのち、1218年以降は、『侯爵大司教』がザルツブルク大司教の正式な呼称として定着する(同)」と、当地の大司教が聖俗の最高位となったいきさつがわかりやすく解説されている。

1077年に建築されてから一度たりとも外敵の侵攻を許したことがない、難攻不落の城として有名なホーエンザルツブルク城だが、大司教自らがこれほどまでに堅固な砦にこもって戦うべき敵は、諸外国の軍隊だけではなかった。「老獪な外交手腕を通じて、都市を戦乱に晒す危機を巧みに回避することに成功してきた大司教は、他方、つねにみずからの専制支配に反撥する地元の市民や農民による騒擾と攻撃に備える必要があった(p.253)」として、1495年に大司教となり、都市市民との対立を極めて厳しい形で先鋭化させたレオンハルト・フォン・コイチャッハの事例を挙げている。大司教に就任以来、領主としての権力拡大に腐心したいっぽう、過重な税を課して住民を苦しめた。アルプス交易路の中心に位置したこの地でイタリア各都市との貿易で富裕となった商人らは、強い自意識を形成しつつあった。当地ではすでに1287年のルドルフ大司教以来、市民の自由および諸権利を認めており、1368年には「都市法」として明文化されていた。にもかかわらず、彼らの権利をことごとく無視するコイチャッハに対する反発は激化し、1510年には皇帝マクシミリアンに対して事態への介入を願う訴状を市民側が提出する事態となった。皇帝からの訓戒を受けたコイチャッハは1511年1月22日夕刻、一計を弄して市民代表らをホーエンザルツブルク城に招き、そのまま幽閉し、雪降るなか処刑執行人が待つ他所へと連行した。事件を聞きつけた市民らの哀願で市民らはなんとか解放されたが、それ以後市民の数々の特権ははく奪され、都市の自治権は著しく制限されて行った。この時期、こうした人物が、インスタ映えする有名なあの高い砦の主であったのだ。

中世都市ザルツブルクが、現在に残る景観を呈しはじめたのは、1587年に28歳の若さで大司教に就任したヴォルフ・ディートリッヒの時代だった。就任にさいしてローマ教皇を訪ね、カトリックへの忠誠を誓うなど、当時すでに廃れていた因習を復活させたり、ザルツブルクの市参事会員は全員カトリック以外は認めないなど、極端に保守的な強硬派だった。ただし鉱山労働者などにはルター派プロテスタントも多く、後のフィルミアン大司教が行ったような大迫害までは行わなかった。いっぽう愛人ザロメ・アルトとの間に15人の子供を儲け、彼女のためにアルテナウ城を建設し、そこで夫婦同然に暮らし、独身であるべき大司教にあるまじき逸脱行為として批判を浴びた。このアルテナウ城が現在のミラベル宮殿である。こうした経緯をあらためて詳しく知ると、ミラベル宮殿が大司教が愛人のために建てた別宅という薄っぺらいただの観光案内よりも、もう少し分厚い内容に思えてくるではないか。若い時代を壮麗なバロック建築が溢れるローマで過ごしたヴォルフ・ディートリッヒの眼には、ロマネスクやゴシックの煤けた古い塔が林立するザルツブルクの街並みは、古くさく陰鬱に映ったのかもしれない。ほどなくしてヴェネチアから建築士を招き、壮大な都市改造計画に着手した。折しも1598年12月11日に発生した火災により、もとあったザルツブルク大聖堂が消失した。上がる火の手を見てパニックとなる教会関係者に対して、「燃えるものは燃やしておくがいい」と冷酷に言い放ったと言う。「時代とともに改築を重ねた古めかしい大聖堂を本格的に立て直すこと、そして、聖堂を幾重にも取り囲むようにして無秩序に建つ家屋の群れを明るく華やかな広場へと挿げ替えることこそ、彼の都市計画の真の眼目であった(p.262)」。こうして、ほとんど被害のなかった周辺家屋約60軒にわたって一挙に撤去し、ローマのサン・ピエトロ寺院をモデルとした新たな大聖堂の建設に着手した。その完成を見たのは、次代を経て1628年、パリス・ロドロン大司教となってからである。それまで中世の佇まいを色濃く残す山間の小都市の陰鬱な景観を、現在に繋がる華麗な街並みへと変貌を遂げたのは、ヴォルフ・ディートリッヒのイタリア趣味によるところが大きい。

その後、1727年に大司教に就任したレオポルト・アントン・フォン・フィルミアンの時代には、「信仰上の浄化」を目標として掲げ、徹底したプロテスタントの弾圧で彼らを「反逆者」として容赦なく排斥し、ザルツブルクから追放した。22,000人以上の人々が強制的に国外移住を強いられることになり、わずか半年で1,776軒の農場が主を失った。「大司教領の産業と経済は、その後19世紀に至るまで、フィルミアンの愚行による痛手から立ち直ることはできなかった(p.270)」。「その後、約一世紀半を経た1881年、大司教の末裔に当たるレオポルティーネ・フィルミアン伯爵夫人は、嫁ぎ先のイタリアにて生涯を閉じる前、その莫大な財産をもとに、ザルツブルク出身の新教徒の子供たちを対象とする奨学基金を設立した。夫人の遺言には、『多くのプロテスタントの家族を断絶と貧困に追いやった』大司教の暴挙を恥じ、一部なりともその罪を贖おうとする意図が切々と語られていたという(p.271)」。

こうしてザルツブルクの歴史に最大の汚点を残したフィルミアンの後、四代を経て、大司教領ザルツブルクはナポレオンにより終止符を打たれる。オーストリア軍敗色濃厚となった1800年12月、フランス軍はザルツブルクに入り、ホーエンザルツブルク城は無血開城。その後1803年、ナポレオンはオーストリア皇帝フランツ一世の弟フェルディナント大公に対して、トスカーナの代償としてザルツブルク大司教領を与えることを約し、これによりザルツブルクはヒエロニムス・コロレドを最後の侯爵大司教として、世俗領主としてのすべての権益を失い、700年の歴史に幕を閉じた。その後もフランンスとバイエルン、オーストリアの間には争いが続き、最終的に1816年になってようやくザルツブルクはオーストリアの版図となるが、すでにかつての栄光は完全に失われていた。皇帝フランツは、このあたり一帯をリンツを郡都とする第五郡の一部として組み入れ、地方行政上の中心からも完全に外された。こうして昔日の「小ローマ」として繁栄を見たザルツブルクは、寂れた地方都市へと凋落してしまった。そうした中で、二重帝国期から第一次世界大戦に至るまで、オーストリアは歴史の激流に揉まれ続け、とりわけ世界大戦の結果はハプスブルク君主国を最終的に解体し、オーストリアはヨーロッパの中央部に、弱小国家として取り残されることとなった。こうした国家的な激変のなかで、その凋落を憂い、精神的・文化的な危機を感じ取った多くの芸術家や文化人が、古い時代の情緒を保ったままひっそりと歴史に埋もれているザルツブルクに一種の精神的逃避場所を求めたことが、現在へと続くザルツブルク復興への機運へと繋がって行く。(「ザルツブルクの復興」については、次回へと続く)

日頃から毎日海外の報道に目を通しているわけではないが、ちょっと最近の国内ニュースの取り扱いがあまりに粗雑になって来ているのにうんざりしていたところに、ワシントン・ポスト誌の電子版が日本の少子高齢化問題の深刻さと、それに対する政府のあまりの無策さを痛烈に批判する記事を掲載しているのが目にとまった(8月29日付け、Global opinion 欄, Francisco Toro 記者)。「トランプ派なら天国?移民比率少ない日本/死につつある国(Japan is a Trumpian paradise of low immigration rates. It's also a dying country.)」と言う強烈なタイトルでだけでなく、記事内容も相当辛辣。「忖度」と言う名の事前検閲並みの愚行が蔓延る状況では、もはやこうした海外報道からしか国内の実像も伝わらなくなりつつあるようでは世も末だ。ワシントン・ポスト誌のタイトル・ロゴの下には Democracy Dies in Darkness とあるのが痛烈に響く。デモクラシーは気づかぬうちに死す。あるいは、暗愚さのなかに死す、か。

日本と言っても、都市部と地方都市では少子高齢化問題に対する受け止め方には温度差があるのは実情だとは思うが、この記者は義理の父と暮らす北九州の田舎町に見られる絶望的な「空き家」問題の現状と少子高齢化の問題は、他の多くの郊外でも同じように見られるとレポートしている。近年になって老人用おむつの出荷数が幼児用おむつの数を上回っているとも。しかしこうした高齢者をサポートする働き手がいない。この記者の感覚とすれば、こうした現状が明らかであれば、他の先進国であれば海外からの移民が喜んで働き口を探しに来るし、それが「空き家」問題の解決につながるのだが、異常なほどの「民族的均質性」が根本意識にあるこの国ではそうなっていないとしている。(排外主義的な)トランプの理想主義者なら天国のようなところだが、それでは世界から取り残されるよ、と警告を発している。財界からの外国人労働者受け入れ要求に対して、行政は仕方なく重い腰を上げるが、てんで集約的でなく効果を発揮していない。まるで「働きに来たいなら、まぁどうぞご自由に。でも、永住を歓迎するなどと思うなよな」などと言わんばかりの実態に、この先の未来はあるのかと、もっともな意見を寄せている。以下のような結文を見ると、記者のなかでの答えはとうに見つかっているようだ。

In the end, President Trump isn’t wrong: America does have a choice. Japan proves that the choice between homogeneity and diversity is real. It’s just that homogeneity leads to decline, while diversity offers at least a chance of ongoing vitality and prosperity. Which would you prefer?


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