終演の幕が下りるや、待ち構えていたようにやんやの(とは言わんか、この場合)ブーイングの声が立ちどころに場内に響いたのは想像はできた(以下ネタバレあり注意)。「何年も足繁くオペラの観劇をしてきたけれども、運がいいのか悪いのか、いままでブーイングと言うものをしてみる機会がなかった」「前から一度は半可通のようにカッコよくブーイングというのがしてみたかったけど勇気がなかった」そういう御仁には持ってこいのオペラ上演になったのではないだろうか。なにしろ神聖にして侵すべからざるベートーヴェン唯一のオペラの筋書きの最後を、こともあろうかワーグナー家現当主であるリヒャルト・ワーグナーのひ孫娘がいじくったのである。これはもう、前評判を目にしただけでも、絶対安全圏から安心して、思いっきりブーイングを叫ぶことができるぞ!すげー!「フィデリオ」でブーイングしてるオレ、超カッケェ~!と言わんばかりに鼻息荒く肩で風を切って会場を後にする半可通たちの、それは格好のいいことと言ったら、ありませんな。すんげえ、カッコよかったぜ!彼らが「フェイクニュースだ!」「オルタナだ!」と言っていたかまでは知らない。
ところで自分はブーイングするほど、腹など立たなかった。むしろ、あ、そう来たか、と。確かに最後にピツァロがフロレスタンとレオノーレを殺してしまっては、正統な筋書きからしたら大ひんしゅくですわな。塩冶判官が松の廊下でうっかり高師直をズブリと刺してしまったら、「仮名手本忠臣蔵」じゃなくなってしまいますわな(笑→これは映画「てれすこ」柄本明の一場面)。それはさておき、「レオノーレ序曲第3番」が演奏されるあいだ、主役夫婦二人の遺体をそのまま牢屋に残し、ピツァロが入口を煉瓦で徐々に塞いで行くと言うことの意味を考えていると、そら恐ろしくなってくるというか、戦慄すべきことが眼前に提示されているようで鳥肌が立った。序曲が終わる頃には、夫婦が殺された地下牢の入口は、煉瓦で完全に閉じられてしまった。あったことがなかったことにされる。うその積み重ねで真実が隠蔽されていく。煉瓦が一個、また一個と積み上げられていくごとに、今まさこの国のあちこちで起こっていることが暗示されているようで、身の毛がよだつ。そう感じるには、あまりにタイミングが良すぎて、まさか日本のこのような政治状況に関心があってこういうドラマトゥルギーが練られたとはもちろん思えないけれど、人間の悪行に洋の東西や時代の新旧は関係ないと言う普遍性が感じられて、表現としては悪くはないじゃないかと感じた。その後ピツァロがフロレスタンを装って大臣フェルナンドと絡むところでは、なんとなく大臣も一味のように感じさせるような描きかたで、大臣がアメフトの監督でピツァロがコーチにも思えた。レオノーレの身代わり役は、ちょっと取って付けたようで消化不良気味だったけど。
盛大なブーイングは多分みなカタリーナ・ワーグナーに向けてそうしているつもりなんだろうけれども、そこは相手もさる者で、ダニエル・ウェーバーというプロのドラマトゥルクが(言ってみれば参謀役的に)一枚間に噛むことによって、ワーグナー家の当主に直接類が及ばないように、そこはうまく配慮されている。評判がよければ彼女の仕事として持ち上げられるし、評判が悪ければドラマトゥルクの彼の責任にすれば済むわけだ。2015年にバイロイトで観た「トリスタンとイゾルデ」もこの方式だった。この時も、善良なイメージが定着しているマルケ王を不届きものに仕立てて観客の度肝を抜いていた。まあ、なにかで客をあっと言わせたい性格なんだろう。まあ、自分としては、カタリーナ・ワーグナー自身の本来のオリジナリティじゃないか感じられたのは、第一幕が開いたところの中央のマルツェリーナの部屋の光景で、なぜか「Little Princess」という子供っぽいマークがいくつも描かれたピンク色一色の壁が浮きまくっていて、これはまぁ、フロレスタンが幽閉されている地下牢の陰鬱な暗さとの対比なのだろう。ちなみにフロレスタンのステファン・グールドは第一幕での歌唱はないが、ずっと薄暗い地下牢の壁のあちこちにレオノーレの絵を描き続けている。舞台の装置は、地下一階、二階と地上階と中二階の計四層の立体的で手の込んだ仕掛けになっていて、新国立劇場の舞台装置を駆使した本格的な舞台セットでこれは大変見応えがある。演出・ステージセットともに、まったく意味不明だった2015年のザルツブルク音楽祭の「フィデリオ」に比べれば、はるかによくできたものだった。
肝心の演奏のほうだが、2014年の「パルジファル」から「指環」、「ローエングリン」と大変素晴らしいワーグナー上演を続けてこられた飯守マエストロだが、今回の東響演奏の「フィデリオ」は、ちょっと真面目一筋と言った音楽づくりで、慎重だけれども起伏と盛り上がりに欠け、金管のアラも気になったりで、いまひとつ気分がのらなかった。なにしろザルツブルクでは演出はクソだったが、それでもメスト指揮ウィーンフィルの爆演ぶりは凄まじかったので(特に序曲レオノーレ3番のもの凄かったのは、さすがにレヴェルが違う!)。歌手はもちろん主役のステファン・グールドとリカルダ・メルベートの二人が超絶素晴らしかったのは言うまでもないが、マルツェリーナの石橋栄実さんも健闘ぶりは立派だった。可憐さが一番のマルツェリーナにしてはちょっと声が強すぎるけれども。そう言えば他の「フィデリオ」ではマルツェリーナの存在感ってあまり大きいものではないけれど、今回の舞台ではなぜか大きなシルエットで強調されたり、なぜか看守たちから酷い虐待を受けたりと、彼女の存在がクローズアップされていたのはよく意味がわからなかった。囚人たちの最後の合唱はよかった。解放されたと思いきや、最後は再び悪漢に扉を閉じられ… (※追記;マルツェリーナが看守から執拗な虐待を受けるのは、多分ピツァロがレオノーレに横恋慕していることかなにかの秘密を彼女が知ってしまったので口止めされたと解釈するのが妥当だろうが、あいにく不注意でそれを確認できる場面に気づくことができなかった。この後鑑賞して気がついた人がいたらご教示頂けたら有難い。)
ところでこの演目を観て思い出されるのが、最近の茨城県牛久市の入国管理センターの収容者の人権状況が劣悪なことになっているという気になる報道。相手が不法滞在者という立場の弱い外国人となると、頭と口が空気のように軽いネトウヨな勢力が国の中枢で幅をきかせ始めると、とたんにそのはけ口がそういうところに向いてしまうのというのは気がかりなことだ。死者が出始めているのは最悪だが、盲腸炎や脳梗塞など緊急に適切な医療処置が必要なケースでも放置され重篤な症状に陥る事態も起こっているというのは心配なところである。21世紀の日本でこんなことが当たり前のようになってきているなんて、悲しすぎるではないか。
午後二時開演、休憩30分で午後五時前には劇場を後にし、九時には自宅着のらくらくの日帰り。帰りの新幹線の電光ニュースで突然「ワグネリアン」の文字が目に入り、すわ何ごとか!と思いきや、競馬のことかよ(笑)
【指揮】飯守泰次郎 【演出】カタリーナ・ワーグナー 【キャスト】黒田博/ミヒャエル・クプファー=ラデツキー/ステファン・グールド/
リカルダ・メルベート/妻屋秀和/石橋栄実/鈴木准/片寄純也/大沼徹
【合唱】新国立劇場合唱団 【管弦楽】東京交響楽団 |