この夏のザルツブルク音楽祭の「ダナエの愛」を鑑賞した記事から20日。今日でこの8月も終わるが、ネットを見ていると、映像と音声付きでこの公演の模様を伝えるものもちらほらと見かけたので、本記事の下段に五つほどの動画を追加してみた。どれも数分程度の短いPR映像だけだが、色とりどりでカラフルな舞台の様子がいくらかは伝わって来そう。モダンダンスが美しく感じるかダサいと感じるかは完全に主観の問題。本編のディスクの発売はまだ一年くらいは先になるだろうから、興味があれば、こちらからどうぞ。2002年の公演を伝える映像も残っているようだ。
2016年08月
シャーフベルク登山鉄道とヴォルフガング湖
ザルツブルクに到着後、音楽祭を鑑賞するまでの2、3日の日程を利用して、せっかくなので今回もやはりザルツカンマーグートへの小旅行を組み入れた。到着していきなり本命の音楽鑑賞に駆け込むよりも、出来ることならば日程にゆとりをもって体調を整えておくことは意味があることだし、万が一、台風やらなにやらで出発に一日程度の遅れが生じたとしてもリカバー可能な幅を旅程上持たせておくことは、後で後悔を残さないためにも案外意味がある。なによりも、せっかくのザルツブルク訪問で、雄大な山々と美しい湖水の風景に恵まれたザルツカンマーグート地方に立ち寄らないのはもったいないことだ。前々回2013年に音楽祭を訪れた際は、音楽祭鑑賞後バート・イシュルとハルシュタットを巡ったので、今回はよりザルツブルクに近いヴォルフガング湖を訪れ、大パノラマのシャーフベルク山頂にも登山鉄道を利用して訪れた。
改装工事が完了し、きれいな外観となったザルツブルク中央駅。
駅前は移動には便利だが、旧市街に比べると生活感があり、やや雑然としている。
Bad Ischl 行きのPOST BUS150番で、緑豊かな風景のなかザルツカンマーグートの湖水地帯へ
大きな荷物をホテルに預け(はじめスーツケースは中央駅にたくさんあるコインロッカーを利用しようと思っていたのだが、24時間営業と言うことはわかるのだが、一日以上利用して、二日目、三日目になった時の追加料金の表記がどう読んでもされていないので、中央案内所の係員に尋ねると、どうやら駅のコインロッカーは日をまたいでの利用は出来ないという返事だった。本当だろうか?ともあれ、心配なのでホテルのフロントでお願いしたら、いとも快く預かってくれたのは大変助かった)、リュックサックひとつの身軽な小旅行である。ザルツブルク中央駅の目の前のバスターミナルからバート・イシュル行き150番のPOSTBUSに乗り、東へ40分くらいすると、フシュル湖を経てヴォルフガング湖の西の端が見えて来る。ザンクト・ギルゲンあたりに差し掛かると、いかにもリゾート感のあるザルツカンマーグート地方に来たことを実感する。たしか昔、ウィーン・フィルのコンマスのゲアハルト・ヘッツェルさんがトレッキング中の事故で惜しくも亡くなられたのが、このあたりの山の上だったことを思い出す。そこからさらに20分ほどでシュトローブルというバス停でこのバスを降り、ここでザンクト・ヴォルフガング行きの546番のPOSTBUSに乗り換え、左手にヴォルフガング湖とその向こうの山々の美しい風景を見ながら15分ほどすると、終点のシャーフベルク登山鉄道駅に到着する。券売所で往復の乗車券を購入し、次の登山鉄道の到着を待つ。お昼前後くらいの時間帯で、30分に一本くらいの本数だっただろうか。
よくガイドブックや写真で目にする有名な赤い小さなSLを期待していたら、運悪くディーゼル車で、車両も旧型という感じだったが、それはそれで味があった。どうやら石炭燃料の本格的なSLとディーゼル車両が交互に利用されているようだ。運よく一番谷側の席に座れたので、後方の窓から登るにつれて次々と景色が変わっていくのが楽しめた。煙が出るSLは客車の後尾から押し上げるかたちで最後尾に連結されているが、どうやらディーゼルは先頭で牽引しているようだ。急な勾配を50分ほど登ると、山上駅に到着。途中のなだらかな牧草地では、牛がたくさん放牧されていて、いかにもオーストリア的なのどかな風景だった。まずは山上駅に到着すると、窓口で帰路の時間の車両予約をしておく。夏場の混雑時は、うっかりこれを忘れると、予定の時間に降りられなくなって困ることがあるようだ。山頂には有名なホテルと言うかロッジがあるので、お昼を挟む時間帯などなら、ちょっとした飲食を含めて二時間半程度あれば、山頂からのゆったりと雄大な大パノラマが堪能できる。南にヴォルフガング湖、西にモント湖、北側の絶壁の向こうにはアッター湖が一望できる。ヴォルフガング湖の方面からシャーフベルク山を眺めると、なだらかな山状を呈した女性的な山に見えるが、山頂に来てロッジ裏の北側に回ると、もの凄い断崖絶壁で、下を見るのが怖いくらいである。それにしてもこの日は幸運にも、またとない快晴で、絶好のコンディション。青い空と白い雲に、遠くはハルシュタットに近いダッハシュタイン山系までかすむことなく見渡せる雄大な山々の、素晴らしいコントラスト。下界はかなり暑い日だが、標高1783mの山上はとても涼しく心地がよい。こんな大自然と一級の芸術に恵まれたザルツブルクって、本当にこんなところで暮らせる人って言うのは世界中でも限られた人数の幸せ者だわ、と実感。
シャーフベルク山頂付近からヴォルフガング湖方面(南側)を望む。
シャーフベルク山頂北壁側からアッター湖方面を望む。
ところで映画「サウンド・オブ・ミュージック」でも、ジュリー・アンドリュース演じるマリアが7人の子供たちを連れてピクニックに出かける賑やかで楽しい場面で、一部にちょこっとこのシャーフベルク登山鉄道が出てくるので、数多い「サウンド・オブ・ミュージック」のファンにも有名。ただし、出てくるのはほんのワン・カットだけで、次の絵では全く違う場所で撮影された映像が編集で繋げられている(「ドレミの唄」の有名な部分)。「サウンド・オブ・ミュージック」は、今までに何回も鑑賞していて、てっきりこの場面は登山鉄道で登ったシャーフベルク山のどこかとばかり思っていたら、実際来てみたら、見える山の距離感や高さが全然違うのがよくわかる。帰って調べてみると、どうやらあの場面はまったく方向違いのザルツブルクから南の位置にあるヴェルフェンという地域で撮影されたと言うことらしい。さらに言うと、有名な空撮からジュリー・アンドリュースの唄に切り替わる草原の丘のオープニングシーンはドイツ国境ベルヒテスガーデン側に入ったバイエルン州の村(おそらくマルクトシェーレンベルクのMehlweg近辺)。あわてて修道院に帰ってきたマリアのセリフでは「ウンタースベルク(ザルツブルク市内にほど近い美しい山)に行ってました」とはっきりと院長に言っているので、冒頭からこれぞ映画的トリック全開と言うわけだ。
映画「サウンド・オブ・ミュージック」のロケ地については、熱心なファンの方には散々言い尽くされている所だと思うが、冒頭で出てくる修道院の中庭とかトラップ家内部の豪華なメインホールやボールルーム、雷の夜の部屋での「マイ・フェイヴァリット・シングス」の場面、果てはラストのザンクト・ペーター寺院の墓地の場面など、「え~!?これがセット!?」と思うようなところが何カ所もあって、それらはハリウッドのFOXの撮影スタジオ内の巨大なセットで撮影されている。かと思うと、てっきりモント湖畔あたりでの撮影だと思っていたトラップ家の庭の湖畔側のロケ地(子供たちがボートから落っこちてずぶ濡れになる場面など)は、意外にもザルツブルク旧市内のメンヒスベルクの丘(ホーエンザルツブルク城塞側)の南がわ1kmほどにあるごく小さな湖(というよりむしろ池)のほとりの「レオポルツクロン城」(現在はホテルとして営業)近辺で、予想外に近いところにあった。その他、山岳シーンなどはドイツも含め広い範囲にわたって撮影されたものが、モンタージュして編集されているようだ。それはそうとしても、冒頭のヘリ空撮から緑の丘のうえで「The hills are alive, with the sound of music」と歌うジュリー・アンドリュースに繋がって行くところの場面は、何度観ても本当に感動する。4K対応の50インチのTVに買い替えてから改めて鑑賞して観ると、実に美しくリマスターされたアップ・コンヴァートの映像の素晴らしさに思わず溜め息が出る。名映画と言われるものは数あれど、永遠の生命を得た数少ない名作のひとつだと思う。
と言うことで、すがすがしい空気と山頂からの雄大な景色をこころ行くまで堪能し、山頂のロッジで軽い昼食とデザート(アイスクリームとチョコレートソースのクレープがおいしかった)をとり、予約していた下りの鉄道で下界に戻る。日帰りではもったいないので、この日はヴォルフガング湖畔の静かなホテルで宿泊。世界遺産となっていて団体ツアーの旅行客も多いハルシュタットに比べると、ヴォルフガング湖のほうはそれほど多数の観光客でごった返している感じもなく、ゆっくり静かにくつろいで時を過ごすには理想的なここち良いところだ。湖畔はどのホテルもプライヴェート・ビーチになっていて、ゆったりと過ごせる。湖の水は、きっと雪解けの水で思いっきり冷たいに違いないと思っていたが、試しに恐る恐る足を浸けてみると、意外や適度な心地よさの冷たさで、この日のように快晴の暑い日であれば、ちょうど快適くらいの冷たさ。曇って気温が下がると、ちょっと冷たく感じるかもしれない。5分ほど歩けば、こじんまりとした旧市街で、オペレッタの舞台になっていることでも有名なホテル「白馬亭」がある。この美しく優雅な湖畔でで2、3泊くらいゆっくりと過ごすのは、ちょっと贅沢な大人の時間かもしれない。
富士山を斜めに倒したような山容が特徴的な Sparber、その右が谷をはさんで Bleckwand、
右端の鍋の蓋のような尖った山頂が Rinnkogel wieslerhorn。
8/6・モーツアルテウム管のマティネコンサートと「コジ・ファン・トゥッティ」
ザルツブルク三日目は午前11時からザルツブルク・モーツァルト協会のモーツァルテウム大ホールにて、コンスタンティノス・カリディス指揮ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団によるモーツァルト・マティネ・コンサート。「フリーメーソン葬送曲㎸477」他バスによる歌曲数曲と、「交響曲34番㎸338」、「交響曲35番㎸385”ハフナー”」を聴く。バスはクウェート出身テレク・ナツミ。指揮者のコンスタンティノス・カリディスと言うのはもちろんここで初めて聴いたが、素晴らしい指揮者だった。ウィキペディアによると、1974年アテネ生まれと言うから42歳のギリシャ出身。ミュンヘンとフランクフルトを拠点に、ウィーンやロンドンでも活躍中とのこと。指揮棒は手にしないで、からだ全身を使って全身全霊で音楽を紡ぎ出しているエネルギー感は凄いものだった。
実は普段からマーラーやブルックナー、ワーグナー、R.シュトラウスなどの重厚で大編成の曲を好んで聴いて来たところがあるため、”ハフナー”をはじめ、モーツァルトの交響曲と言うと、セレナーデの延長で、典雅ではあるけれどもやや軽めで形式的な曲と感じて来ていたのが正直なところだった。実際逝去した巨匠とトップ・オーケストラの過去の録音で聴いてきても、どこか学習のようでつまらなくて興奮するところまでは至らなかった。
ところがそのモーツァルトの交響曲にこんなに凄い躍動感とエネルギーがあったのかということを、今回のコンサートで初めて体験したのである。正直に言って、ここ数年連続してザルツブルクを訪れ、去年はバイロイト音楽祭にも行ったが、今回のモーツァルト・コンサートほどハンカチがぐしょぐしょになるまで感極まったのは初めてのことであった。それは最後の曲の”ハフナー”を聴き始めて2,3分ほど経ったところだった。思いもかけず水のような鼻水が直通で降りて来た。私の場合、涙腺と鼻管が相当直結しているらしく、目と鼻から同時に落涙する。このような場合と突然の咳はらいに備えて、いつもハンカチを握り締めるのが習慣となっているので、この時も素早くそのハンカチで鼻を覆って醜態をさらすのをなんとか食い止めたものの、なかなか落涙が止まらず、何度もハンカチを折り返しては涙を拭くは鼻水をかむはで、文字通りぐしゃぐしゃになってしまったのだ。「モーツァルトの交響曲で涙?」今までは考えもしなかったことだった。全身全霊で紡がれる音楽がモーツァルテウムの大ホールの空間に満ち溢れ、まことに陳腐な表現ながら、いままさにこの場にモーツァルトが降臨していると感じた瞬間、涙が止めどなく溢れはじめたのである。これは今こうして書いてはいるが、その場では相当戸惑ったのである。中年過ぎた東洋人の小男がこんなところで涙咽ぶものほど見苦しいものはない。それはわかっているので何とか堪えようとはしたのだが、目立たないようにするだけでも精一杯だったのである。
コンサートが終わってから冷静に考えて見ると、モーツァルテウム管弦楽団と言う中規模編成とこのモーツァルテウム大ホールの独特の音響効果が、ツボにはまっているのだろうと思う。一、二階合わせて席数800強ほどの適度なキャパシティで、木製の椅子と床とステージに、ヴォールトの天井と四隅が緩やかに絶妙に湾曲したマリアテレジア・イエロー色の漆喰の壁、豪華なシャンデリアに壁の装飾。とくに適度な硬さの漆喰の壁(これが分厚くて硬く、表面がツルツルの石材だと大違い)と天井と全体の空間容積は、小~中規模程度の楽団の演奏に理想的な音響効果を与えるうえで最大限のアンプリファイ機能を果たしているのだろう。多分同じ演奏をウィーン・フィルの演奏でサントリー・ホールやフェスティヴァル・ホールで聴いても、まったく同じものにはならないであろう。言って見れば、非常に濃密で凝縮された音響体験であった。
さて、あまり時間にゆとりがないので昼食を「長野」の焼きそばで軽く済ませ(この焼きそば、なかなかおいしいです)、15時から祝祭大劇場とハウス・フォー・モーツァルトに隣接の「フェルゼンライトシューレ」での同じモーツァルテウム管弦楽団によるオペラ「コジ・ファン・トゥッティ」に向かう。「フェルゼンライトシューレ」というのは、「岩山の乗馬学校」の意味で、ハプスブルク統治時代ここに皇室の乗馬学校があったことに由来する。名前の通り切り立った岩山の崖面をそのままステージに活用した珍しいコンサートホールで、映画「サウンド・オブ・ミュージック」の後半のシーンに出てくることでも有名。3年前にここでNHK交響楽団のザルツブルク初公演(デュトワ指揮、ノヴェンバー・ステップス、幻想交響曲)を聴いたのだが、あまり大きな感動がなくN響に問題があるのか、この会場の音響に問題があるのか、はじめてなのでよくわからなかった。昨年(15年)再び訪れる機会があり、その時はクルト・ワイルの「三文オペラ」を観たのだが、こちらはミュージカル・バージョンでマイクとスピーカーを活用したものだったので、純然たるオペラとしては、ようやく今回その念願が叶ったのである。
指揮者オッターヴィオ・ダントーネ(Ottavio Dantone)はイタリア出身でミラノのジュゼッペ・ヴェルディ音楽院でオルガンとハープシコードを学んだ。活動初期は古楽専門だったらしく、その後ロマン派なども手掛けるようになったとある。指揮活動は1999年からで、ザルツブルクには2008年デビュー。演出はやはりスヴェン・エリック・ベヒトルフで、はじめは今回ザルツブルクでのダ・ポンテチクルス初作となった2013年の同演目の再上演とばかりてっきり思っていたら、どうやらもうすでに新制作上演らしい。
開演時刻より余裕をもって会場のフェルゼンライトシューレに入ると、開場と同時にもうすでに舞台上には役者がいて、演奏が始まる前から演技ははじまっているようだ。舞台の中央に二つの人体解剖図のような図表を立てて、それを囲んで学者か研究者たちが「人間の本質とはなにか?」という議論をしているようだ。その間に三々五々、観客が席に着いていく。
間もなく開演を知らせるアナウンスがあってややすると、客席右手前方のカール・ベーム・ザール側の扉がバタンと大きく音を音を立てて開くと、ドン・アルフォンソ(ミヒャエル・フォレ)がブツブツと大きな声で愚痴をまくしたてながら血相を変えて舞台に上がってくる。これはオリジナルの台本にあるのか、演出家の試みか?「コジ‐」は何度も観て来ているが、こうした出だしは初めてだ。早口のイタリア語なので確実な意味はわからないが、多分この後の台本にあるような、「愛とか誠実さを信じるだって?そんな世間知らずなことを言ってるなんて正気か!」みたいなことを怒鳴っているような感じに見えた。と、聴き慣れた序曲が始まる。すでに指揮者も楽員もスタンバイしていたのだ。
おぉ~!3度目の訪問にして、はじめてこの夢のように幻想的なフェルゼンライトシューレで、正統なオペラの音が聴けた。百聞は一見(一聴)に如かずで、やはり評判通りの素晴らしい音響ではないか!最初に聴いたN響の時の思い出が、これでようやく払しょくされた。演奏もマティネ・コンサートと同じザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団で言うことなしである。この楽団もウィーン・フィルに負けず劣らず、モーツァルト演奏においては伝統と実力を誇るオーケストラだ。こんな素晴らしい「コジ‐」をこの地で再び聴くことができるなんて、本当にここは夢の街だ。演出については今回はこの会場の雰囲気に合わせてか、18世紀風の古風な時代劇調の衣装とセットで、たまにはこんな会場でそうした演出で観るのも、かえって新鮮さがある。序曲が終わりかけるや、ドン・アルフォンソがハンカチに染み込ませたクロロホルムかなにかで、いきなり女性3人を昏睡に陥らせるという、とんでもない荒業で舞台がはじまる。とにかくなにか、あっと言わせないと気が済まないらしい。あと、公演中ずっと、背景となっているフェルゼンライトシューレの岩の上にフリーメイソンの有名な紋章が投影されていた。日本ではなにかと言うと謎めいた秘密結社のようなイメージでとられることが多いようだけれども、実際にそのようなおどろおどろしいものなのか?「自由・平等・博愛」の精神でフランス革命以来の民主主義的な趨勢を後押しするもののひとつなのではないか?実際にこちらの人とそんな話しをする機会もないので、よくわからない。
中央ブロックの前から2列目やや右手よりという、申し分のない席で、特に今回はステージがピットの前側にせり出して特設したように設えてあり、この前方の花道のような部分で歌手が行ったり来たりしながら歌うので、2mを切るような至近距離から歌手の生の歌声がダイレクトにガンガンこちらの身体にぶち当たってきて、シビれることこのうえない。何と言ってもすごいのはやはり、ミヒャエル・フォレのドン・アルフォンソだ。役者が違うという感じで、歌唱力も演技性も断トツである。唯一デスピーナ役のマルティナ・ヤンコヴァは13年のハウス・フォー・モーツァルトでも同役で聴いたし、去年の「フィガロの結婚」ではスザンナを歌っていた。彼女をはじめフィオルディージ、ドラベッラ姉妹とフェッランド、グリエルモの二組の男女も全員素晴らしい歌唱で非の打ちどころがなく6人それぞれのアリアや重唱もともに、すべて美しく聴きごたえのあるものだった。中にはまだ日本では名の知られていない中堅どころも、ここザルツブルクではまさに水を得た魚のように実力を発揮しているようだ。ネトレプコのような大スターばかりが目立って、彼女が出るとチケットが取り難くなるなど真っ当なオペラファンなどからはかえってはた迷惑な印象だが、逆にこうした実力のある歌手の公演だって、ここザルツブルクでは非常にレベルが高いのだ。
演出は先に書いたように衣装とセットは古風なものだったが、大げさに嘆いてピストルで自殺しようとするフィオルディージや、「で、おれの彼女どうだった?」ってグリエルモに聞く時のフェッランドの哀れっぽい仕草など、指揮者も巻き込んでベヒトルフらしい笑いがいっぱい。笑えるけれども、歌と演奏は一級品。最後はとにかくドン・アルフォンソの大演説で幕、という感じで大ブラボーだった。今回の演奏はミヒャエル・フォレが中心になって、思いっきりひっかき回していると言う感じだった。なお、「ダナエの愛」の時にも書いたように、公式パンフレットによると、ザルツブルク音楽祭での本演目の上演は、1922年R.シュトラウス指揮ウィーン・フィルの演奏以来、前回2013年C.エッシェンバッハ指揮ウィーン・フィルの演奏まで、54シーズンで209回の公演が記録されている。その中には1969年新制作初演の小澤征爾指揮ポネル演出のものもある。戦後の回数で見るとやはりベームとムーティが傑出して多いのがわかる。自分自身としてもモーツァルトのオペラのなかではこの演目の鑑賞歴が最も多いが、今回の鑑賞でこの作品の新たな生命力を再認識するとともに、モーツァルトの「力」を再認識する大きな契機となった。
CAST
Julia Kleiter, Fiordiligi
Angela Brower, Dorabella
Martina Janková, Despina
Mauro Peter, Ferrando
Alessio Arduini, Guglielmo
Michael Volle, Don Alfonso
Concert Association of the Vienna State Opera Chorus
Mozarteum Orchestra Salzburg
Angela Brower, Dorabella
Martina Janková, Despina
Mauro Peter, Ferrando
Alessio Arduini, Guglielmo
Michael Volle, Don Alfonso
Concert Association of the Vienna State Opera Chorus
Mozarteum Orchestra Salzburg
above six photos : © Salzburger Festspiele / Ruth Walz
さて最後に、この日はさらにこのあと、21時から祝祭大劇場でのズビン・メータ指揮ウィーン・フィルのコンサートで、マティアス・ゲルネのバリトンでマーラーの「亡き子を偲ぶ歌」とブルックナー交響曲第4番を続けて鑑賞。運悪く最前列のやや左よりの席で、目の前に見える視界はずらりと第一ヴァイオリンの右足ばかり。きれいなオペラ・パンプスがよく見えました。管楽器はほとんど見えず、指揮者とソリストはずうっと右のほう。なので、ほとんど目を閉じて聴いていた。何席か右の席にデーハーなお姉さんがいて、そういう人はこの音楽祭には五万といるわけだけれども、やはりブルックナーの長いシンフォニーの最前列にいるには少々悪目立ちし過ぎていたようで、暑いのか退屈なのか(実際、暑いし長い曲なのは事実ですが)、ブルックナーの繊細なピアニッシモのところでもかまわずシャカシャカと音を立てて扇子で顔を扇っていて、その度にデーハーなブレスレットがチャカチャカ音を立てるので迷惑極まりない。さすがに目の前の第一ヴァイオリンの列におられたヴィルフリート・和樹・ヘーデンボルグさんも、途中気になってそちらのほうを見ておられるのがわかりました。残念ながらザルツブルクではこの種のミーハー客が多いのも事実であり、こうした客なしでは成り立たないのも事実ではあります。さすがに午前11時から始めた音楽祭行脚も夜11時を過ぎて終わったころはクタクタでした。宿へ直帰し、帰り支度をし、翌朝の便で三度目のザルツブルクを後にしました。
(本稿にて2016年ザルツブルク音楽祭訪問記を終了します。)
8/5・ザルツブルク音楽祭「ダナエの愛」カーテンコール
モーツァルト「ドン・ジョヴァンニ」・ザルツブルク音楽祭8/4
© Salzburger Festspiele / Ruth Walz
「ダナエの愛」の記事と日付が前後したが、今回はその前日の8月4日夜にハウス・フォー・モーツァルトで観たモーツァルトのオペラ「ドン・ジョヴァンニ」について。
今回の「ドン・ジョヴァンニ」は、スヴェン・エリック・ベヒトルフの新演出で2014年のザルツブルク音楽祭で同劇場で上演されたものの再上演。2014年の公演の模様は、その年にNHK-BSで日本語字幕付きで放映された。このチクルスは、2013年から開始された同演出家によるモーツァルトのダ・ポンテ・オペラ三部作のなかの二作目ということになる。2013年はクリストフ・エッシェンバッハ指揮の「コジ・ファン・トゥッティ」、2015年がダン・エッティンガー指揮の「フィガロの結婚」で、それらはプレミエの年に同劇場で鑑賞していたが、2014年の「ドン・ジョヴァンニ」のみ、その年の5月にウィーンで「ファウスト」を観たほか、ドレスデンやライプツィッヒ、ベルリンを再訪していたので、夏のザルツブルク再訪はお預けとしたので観ていなかった。なので、今回幸運にも再上演でこれを鑑賞することができ、一応この三作品のチクルスをすべて体験することができた。モーツァルトのオペラは20年以上身近に感じてはいたが、今回2013年から始まったこのチクルスを本場ザルツブルクのハウス・フォー・モーツァルトで実際に体験することで、自分の中であらためてモーツァルトの偉大さを再認識する良い契機となったことは、大変幸運であった。と言うのも、ここ数年はワーグナーやR.シュトラウス、ブルックナー、マーラーなど、比較的重厚な作品を嗜好する傾向が続いて来ており、その間にいつの間にかモーツァルトは当たり前と言うか、自分勝手にその扱いを軽く感じてしまい、やや積極的に聴く気持ちが薄れてしまっていたのかも知れない。ところが、ここザルツブルクの地においてこのダ・ポンテ三作をウィーン・フィルの演奏で聴くことにより、モーツァルトに対する新たな感動のフェーズが、一つも二つも高い次元によって切り開かれ、今までとは全く異なった新たな境地で向き合える契機となったのだ。モーツァルト、すごい!ウィーン・フィル、やっぱりすごい!いままでも当然感じてはいたことだけれども、その感動が自分のなかのまったく新たな境地へと高められたのである。
さて前置きはその位にして、今回のベヒトルフ新演出の「ドン・ジョヴァンニ」は、プレミエの年にNHKで放送された映像で見ていて、そのよく出来て作りこまれた、大変美しくエロティックな舞台に目から鱗が落ちた思いだった。その年のキャストでは、ドン・ジョバンニがイルデブランド・ダルカンジェロ、レポレッロがルーカ・ピサローニ、ドン・オッタービオがアンドリュー・ステイプルズ、ドンナ・アンナ:レネーケ・ルイテン、ドンナ・エルヴィーラ:アネット・フリッチュ、ツェルリーナ:ヴァレンティナ・ナフォルニータ、マゼット;アレッシオ・アルドゥイニ、騎士長トマシュ・コニュチェニ、と言った顔ぶれで、イルデブランド・ダルカンジェロの圧倒的な存在感のタイトルロールはもちろんのこと、なんと言ってもドンナ・アンナ、エルヴィーラ、ツェルリーナの主要三役の女声陣の美貌と気品のある色気を全面に打ち出したかなりエロティックな仕上がりとなっており、この感想は、これらの声と美貌と演技性をすべて完璧に備えた彼女らであってこそなしえた舞台であったと言えるだろう。ベヒトルフにしてもヘアハイムにしても、北欧系の演出家はかなりエロイです。良い意味で。芸術表現においてエロスは大事なファクターであることに無自覚な人間や社会に、芸術性を望むべくもありません。一歩間違えると「ダナエの愛」で観たダンスのような醜悪な結果にもつながりますが。とにかく、この新演出の「ドン・ジョヴァンニ」を、上に記した歌手らの出演でプレミエ年に観られたかたは実に美しい体験をされたと思います。そう言えば、今回観た「ドン・ジョヴァンニ」では、目の前の席にミドルティーンくらいの小柄なお嬢さんを連れた家族連れが喜色満面という雰囲気で座っていて、ちょうど自分の目の前がその小柄なお嬢さんだったのでこちらの視角確保の面ではおおいに助かったのですが、ちょっと子供と和気あいあいと一家で見るには、演出がエロすぎねゕ?休憩時に隣席の紳士とそんな話をして、笑い合いました。
再上演となった今回2016年の舞台では、イルデブランド・ダルカンジェロとルーカ・ピサローニとヴァレンティナ・ナフォルニータの三人が引き続き同じ役で出演。その他の歌手は、ドン・オッタービオがパオロ・ファナーレ、ドンナ・アンナはカルメラ・レミージオというイタリア人女声、エルヴィーラはレイラ・クレアというカナダ出身の新人、マゼットはウクライナ出身 Iurii Samoilov、騎士長 Alain Coulombe などと変わっていた。ドンナ・アンナ役とエルヴィーラ役の女性は、14年の映像の時のレネケ・ルイテンやアネット・フリッチュのようなドキッとするようなお色気までは感じないけれども、声はよかった。ただ、エルヴィーラのレイラ・クレアという新人は、声量は十分だが、まだまだ繊細な表現までは完璧ではないし、声を張り上げてしまうところもあった。まあ、まだ若いのだから、まだまだこれからの歌手だ。
なにはともあれ、歌はなんと言ってもタイトルロールのイルデブランド・ダルカンジェロが凄かった、のひと言!素晴らしい声量とコントロールのよく効いた感情表現、演技性。思わず引きこまれるような圧倒的な歌唱力は、さすがに当代一流のドン・ジョヴァンニだ。過去何度かこのオペラを観てるが、こんな凄いドン・ジョヴァンニははじめてだ。本当に凄い、のひと言。ドン・ジョヴァンニになりきっている。「1003人」のアリアにあるように、えげつない女たらしなんだけれども、彼がこの演出でそれが「私の広く深い、人間愛そのものからの賜物なのだよ」なんて歌われていると、一瞬あぁ、そうなのかな、と説得されかけてしまうところだ。かと思えば、いま目の前でツェルリーナを口説いているその瞬間にはもう、目の前を通った他の女中のあとを目が追いかけているという演出もあって笑わせるのだが、同時にドン・ジョヴァンニという生き様が、いかに病理的かということも表現しているようにも見える。とにかく割れんばかりの大喝采とブラボーだったのは言うまでもありません。
それと、この舞台の喜劇性を際立たせてくれたのが、レポレッロのルーカ・ピサローニ。実際、このオペラは悲劇でもあるけれども喜劇的ファクターも大きくあるので、言わば狂言回しの中心にいる彼によって、客は笑いの渦に巻き込まれる。実際、ここはいつNGKに変わったのか?と思えるような大爆笑の場面が何度もあったのだから、驚く。こんなに笑える「ドン・ジョヴァンニ」ってはじめてだ。夜会の準備でどさくさに紛れて中年のオバサンのおっぱいを揉んで主人のご相伴に預かったり、主人に晩餐を給仕するところではクラッカーのようなものを使ったり、子供が遊ぶおもちゃの笛(あれ、なんと言うのかわからない。吹くとピーと言う音とともに紙のストローが三方向にピュルーっと伸びるやつ)で主人をからかったり、極め付きは、自分のアリアをしっかりと歌いながら、舞台右側に設えられたバーカウンターで、完璧なカクテルをつくって主人にさあ、どうだ!と差し出すところなど、思わず笑える。ベースの酒やリキュールの調合、シェーカーでシャカシャカしてカクテルグラスに注ぎ、レモンをスライスしてそれに添えて主人に提供する。この一連が、しっかりとアリアを歌いながらの演技なのである!いままでオペラの舞台上で、こんな完璧なカクテルを作るバーテンダーを演じて歌った歌手がいただろうか。脱帽である。ちなみにかれは去年2015年にこのベヒトルフのダ・ポンテチクルスの「フィガロの結婚」ではアルマヴィーヴァ伯爵で出演し、今年の当音楽祭の後半でも同演目が上演される。
もう一人これからの人気の気配が濃厚なのが、上述したツェルリーナのヴァレンティナ・ナフォルニータ。若くて美人でスタイル抜群で、モデルが舞台で歌っているようだ。すでにいくつかの新聞や雑誌の記事や広告で彼女の写真が載っているのを現地で目にしている。マゼットとの場面ではかなりお色気(って言葉いまでも使うのかな)の場面があって、肌も露わな下着姿を披露するのだが、これが2年前の映像の時とまったくスタイルが変わっていないすらりとしたモデル体型のままで脱帽。この容姿のまま10年、15年と続けられたら凄いな、と思う。なお、マゼットとツェルリーナ、ドン・ジョヴァンニの絡みを見ていると、紛れもなくこれはフィガロとスザンナ、アルマヴィーヴァ伯爵の関係の平行移動であることが大変よくわかるように演出されているのも改めて感じられた。マゼットのドン・ジョヴァンニへの恨みとツェルリーナへの不信は、相当強烈なリアリティで表現されていて、彼がツェルリーナを平手打ちする場面では、客席から思わず声が上がっていた。
© Salzburger Festspiele / Ruth Walz
2014年の既出の映像を念頭に書き始めたので説明が後先になったが、舞台は高級感のあるホテルのロビーで中央に左右対称の階段、舞台上手側に上に記したバーカウンターが設えてある。壁はやや暗めの木目調で、ソファなどの色も落ちついた上品の配色となっていて、時代設定的には1920、30年代くらいのアール・デコ調の雰囲気だろうか。再上演ではあるが、一部には目立った演出上の変更点もあり、まずは冒頭で騎士長に敬意を表して部下一同が彼を仰いで敬礼する場面は割愛されていた。ドン・ジョヴァンニが夜陰に紛れて変装しドンナ・アンナの部屋に忍び込んだことをレポレッロに告げる所では、プレミエの映像ではドン・ジョヴァンニが顔に黒い墨を塗ることで表現されていたが、これをやめて、単に鬼(悪魔)のマスクを被るということに変更されている。これは妥当な変更だろう。それと、プレミエ時の映像を見ていて意味不明だったのが、突然二階の部屋の扉が一斉に開いて、中から男たちがベッドのマットレスを階下へ放り投げるという演出があったのだが、これも削除されていた。代わりに、風紀警察隊のような無粋な連中がズカズカと二階の部屋の扉を開けてまわり(売春の取り締まりか)、女たちが逃げて行くというような演出に変更されている。まあ、こちらなら少しは意味がわかる。
© Salzburger Festspiele / Ruth Walz
指揮者はアラン・アルティノグリュ(Alain Altinoglu)というフランスを拠点に活動している人らしく75年生まれというから、40歳そこそこで天下のウィーン・フィルを相手にこんなに凄い演奏を爆発させてしまうのだから、本当に恐れ入る。才能のある若い世代がどんどん活躍してきていることを実感。天然パーマの後ろ姿は、グスターヴォ・ドゥダメルを連想させた。やはりウィーン・フィルのモーツァルトはすごい。二百何十年も昔に書かれた音符からこんなにエネルギーに満ち溢れた音がいま、この瞬間にこの世界に出現し、無から湧き出て来ていることの不思議さ。まさに文字通り「妙なる調べ」と言うほかに適当な言葉が見当たらない。こんな凄い「ドン・ジョヴァンニ」は、本当に初めてでした。なお、この日がこの演目のシーズン初日ということで、カーテンコールには演出家のベヒトルフが登場し、盛大な拍手とブラボーを受けていました。一瞬で舞台袖に戻ったので、シャッターチャンスがなかったのが残念。
8月30日追記 : ドン・ジョヴァンニの最後の地獄落ちについて、いくつかの感想などを見ていると「死
んだと思いきや、ちゃっかり蘇って」という風に書かれているのがあったが、その他
の歌手らに絡んでちょっかいを出してはいるが、彼ら彼女らにはその存在が見えて
いないような演出だったので、蘇ったのは「あの世」の話しで、そこでも性懲りもなく
女漁りを続けているドン・ジョヴァンニの異常さと滑稽さを表現しているものと解釈
した。
CAST
Ildebrando D’Arcangelo, Don Giovanni
Luca Pisaroni, Leporello
Carmela Remigio, Donna Anna
Paolo Fanale, Don Ottavio
Layla Claire, Donna Elvira
Alain Coulombe, Mika Kares (August 9), Il Commendatore
Valentina Nafornita, Zerlina
Alessio Arduini (August 7 and 9), Iurii Samoilov, Masetto
Members of the Angelika Prokopp Sommerakademie of the Vienna Philharmonic, Stage Music
Philharmonia Chor Wien
Vienna Philharmonic
Luca Pisaroni, Leporello
Carmela Remigio, Donna Anna
Paolo Fanale, Don Ottavio
Layla Claire, Donna Elvira
Alain Coulombe, Mika Kares (August 9), Il Commendatore
Valentina Nafornita, Zerlina
Alessio Arduini (August 7 and 9), Iurii Samoilov, Masetto
Members of the Angelika Prokopp Sommerakademie of the Vienna Philharmonic, Stage Music
Philharmonia Chor Wien
Vienna Philharmonic
CREATIVE TEAM
Alain Altinoglu, Conductor
Sven-Eric Bechtolf, Stage Director
Rolf Glittenberg, Sets
Marianne Glittenberg, Costumes
Friedrich Rom, Lighting
Ronny Dietrich, Dramaturgy
Walter Zeh, Chorus Master
Sven-Eric Bechtolf, Stage Director
Rolf Glittenberg, Sets
Marianne Glittenberg, Costumes
Friedrich Rom, Lighting
Ronny Dietrich, Dramaturgy
Walter Zeh, Chorus Master
R.シュトラウス「ダナエの愛」・ザルツブルク音楽祭8/5
© Salzburger Festspiele / Forster
今回2016年のザルツブルク音楽祭訪問でまず最初に観たのは、8月4日夜のハウス・フォー・モーツァルトでの「ドン・ジョヴァンニ」だったので、順番は前後することになるが、R.シュトラウスの本場のザルツブルクでさえ今までに3度のシーズンで10回しか上演されていないと言う、非常にまれなオペラの久々の新制作上演ということで、この夏のザルツブルクの話題の柱となっている「ダナエの愛」の二日目、8月5日夜の公演のほうから書き留めて行きたい。
収録された演奏の音声は8月6日にすでにÖ1で放送されているし、舞台写真も公式HPで公開されているので、以下ネタバレありで進めて行きます。
パンフレットの解説によると、いまも上に記したとおり、ここザルツブルクでこの作品が上演されたのは3度のシーズンでの10回の上演だけで、そのうち最初の1回は作曲者自身も立ち会った敗戦直前1944年の幻の公開ゲネプロであり、この時はクレメンス・クラウス指揮でハンス・ホッターのジュピター、Viorica Ursuleac のダナエ、ホルスト・タウブマンのミダスほかで上演されている。この時のことを、以前購入したマッケラス盤のCDの解説にはナチスからR.シュトラウスへの誕生日記念となったとして紹介されている。その後のドイツの敗戦を経て、再びこの地で同じクレメンス・クラウス指揮でこの作品が「初演」として上演されたのは、CDでも聴ける1952年8月14、19、25、30日の4回の上演。パウル・シェフラーとアルフレート・ペルのジュピター、アネリース・クッパーのダナエ、ヨセフ・ゴスティックのミダスほかの歌手と、44年のゲネプロに終わった舞台と同じルドルフ・ハルトマンが演出を務めた。49年に他界した作曲者は唯一この作品のみ、自作の初演に立ち会うことができなかった。
その後この作品が再びこの地の祝祭小劇場で新制作上演されるのは、それから半世紀も経ての2002年8月19、22、25、28、31日の5回。ファビオ・ルイージ指揮、ギュンター・クレーメル演出、ドレスデン国立歌劇場との共同制作となっている。この時はフランツ・グルントヘーバーのジュピター、トレステン・ケルルのメルキュール、デヴォラ・ボーイトのダナエ、アルベルト・ボンネマのミダスとなっている。驚くべきことに、公式パンフレットの過去の(ザルツブルクでの)公演記録として紹介されているのは、これら3度のシーズンの10回の公演の、わずか1ページの片面分だけなのだ(うち最初の一回は「初演」としてカウントされていないので、実質2シーズンの9回の公演回数となる)。これがいかにわずかな分量であるかと言うと、同じく今回の公演で購入した「コジ・ファン・トゥッティ」の公式パンフの同オペラの上演記録の項を見ると、1922年8月15、19、27日のR.シュトラウス指揮による公演から始まり、直近の2013年8月21、23、25、28、31のクリストフ・エッシェンバッハ指揮、S・エリック・ベヒトルフのものまでの44シーズンに渡る計209回の上演の記録が10ページ分に及んで詳細に記載されている。これとの対比で見ると、「ダナエの愛」の上演回数の少なさが一目瞭然であることがわかる。公式パンフレットには作品に対する解説は掲載されているが、こうした上演頻度の少なさについて理解の一助になるような文章は今のところ見つけられていない。
以前にもこのブログで本作品を取り上げたときにも少し触れたように、このようにストーリーも面白く、音楽も文句なく美しく聴きごたえのある「ダナエの愛」のような作品がこれほど上演頻度が少なかった点については、上記したような戦争の成り行きとの関連がこの作品の運命に絡んでいるとしか思えないのは、今もって自身の独りよがりな推量ではある。と言っても、昔からこの曲を長く聴いてきたわけではなく、昨年東京で上演された公演の評判を目にして、そんなオペラがあったのかと言うことを知り、ネットでアップされていたエド・デ・ワルト指揮ネーデルラント・オペラの音声のみの演奏を聴いてこの美しい曲の存在に初めて触れたのである。
© Salzburger Festspiele / Forster
さて前置きが長くなった。この珍しいオペラをF・ウェルザー=メスト指揮ウィーン・フィルがどのように演奏し、アルヴィス・ヘルマニスがどんな演出で見せてくれるか?現在映像で観れるものはリットン指揮ドイチュ・オーパー・ベルリンのものだけなので、期待に胸が高鳴った。
© Salzburger Festspiele / Forster
ジュピターの白い像に乗っての登場についての考察は文末※印にて追記
ヘルマニスは去年まで上演されていたネトレプコ主演の「イル・トロヴァトーレ」で、ザルツブルク祝祭大劇場の舞台を美術館に変えたと話題になったオペラを手掛けている。昨年再演で鑑賞したが、評判通りの見ごたえのある舞台で、ノセダ指揮ウィーン・フィルの演奏も驚がく的に素晴らしかった。さて今回は舞台をギリシャではなくペルシャ風の世界へと誘う新たな趣向のようだ。われわれからすると、アラビア風とペルシャ風と言うのは今ひとつ違いがよくわからないところがあるが、中東の専門家からすればアラブとペルシャは違う文化らしい。ただ、この舞台では背景の映像や三幕でのダナエの櫛の場面でダナエがペルシャ絨毯を機織りで紡ぐ場面が重きをなしていることからも、ペルシャ風と解して妥当ではないだろうか。そう言えばミダスはもともとシリアの貧しいロバ曳きだったのだから、中東エリアの要素もあっておかしくはない。まずこのシリアの貧しいロバ曳き男を、神ジュピターが自分の都合の良いように計略でもって、彼を触れるものすべてを金に変える呪術を持つというミダス王に変身させるというあたり、どうも中東の原油を求めた英国が、自国の都合勝手でアラブの一族を王族に立てたという当時の歴史を連想させはしまいか。
それはそうと、まずは第一幕が開くと、丸めた借用状を仰々しく手に持った多数の債権者たちやポリュックス家の人間など登場人物それぞれが、中東風のキラキラした明るい彩色であったり、一部にはどこかレハールのオペレッタで出てくる架空の東欧風(おそらくルーマニアとかブルガリアなどの)の民族衣装っぽい感じのものもあったりと、なんとなく無国籍風の不思議な出で立ちでざわざわと登場して来る。そして全員が中東風のターバンをカリカチュアしたような、色んな配色のカラフルで巨大な被り物を頭に載せているので、とてもコミカルで可愛い。この配色の鮮やかさと可愛らしさは、2013年にここで見たステファン・ヘアハイム演出の「ニュルンベルクのマイスタージンガー」以来のものを感じる。ジュピターのトマシュ・コニェチュニは、舞台上手側から巨大な白い像の造り物に乗って登場し(追記:文末※印参照)、途中で多分この像の背後にある梯子を伝って静々と降りて来て、中央のピラミッド状のセットでダナエと向き合う。背景はと言うと、方眼紙を巨大化して装置化しただけのような、真っ白なセット。背景が真っ白なだけに、登場人物の強烈な配色の衣装が鮮明に映える。このなにもない「真っ白」の背景がポリュックス家の破産状態を意味しているのは一目瞭然だ。この真っ白の方眼紙様のセットに、ダナエの幻想が次々とプロジェクション・マッピングで可視化されて行く。黄金の雨だれであったり、ペルシャ絨毯のカラフルで幾何学的な模様であったりで、巨大でカラフルで幻想的。金の雨の場面では、この真っ白の背景の中央の扉が開いて、黄金の間が出現する。
と、ここまではなかなかよかった。問題は、この美しい場面から登場するのが20人くらいのモダン・ダンスの女性達のげんなりするような振付け、コレオグラフィーである(Alla Sigalova, Choreography)。これにはさっぱり興が冷めてしまった。おいおい!大いに期待してザルツブルクまで観に来て、このヘンテコなタコ踊りかよ!それも一幕一番の聴かせどころの金の雨の幻想の場面。簡単に言うとですね(これ関西以外の人は知ってるのかな?)、財津一郎さんがキャラクターを務めておられる、「ピアノ売ってちょうだ~い!もっと、も~っと、タケモット!」っていう、中古ピアノ買取りのタケモトピアノのCMが関西では長年オンエアされ続けているんですが、このCMでピアノの鍵盤の上で身体をクネクネさせてケッタイな踊りをする、頭巾から爪先まで全身、銀色のタイツスーツを着た女性ダンサーたちなんですが、これをほぼ金色に変えただけの、この美しい曲のイメージにまったくそぐわない、奇天烈であえて不快さを催させるようなクネクネ踊りでダナエを囲むわけです。もう最悪です。ここだけならまだしも、このあと最後の場面までずっと不快な踊りにつき合わされ、不愉快極まりなく感じました。二幕ではハーレムを思わせる雰囲気の場面で、薄いベールをまとっただけで尻を奇妙に突き出すは、見たくもない大股をおっぴろげてへんてこな踊りをするは、3幕では突然タオル様の巻いた布を胸に抱いて赤ん坊をあやすような意味深な動作を突拍子なくやるは、最後の美しい曲の場面でもずっと機織りの前で振付師ひとりが悦に浸っているようなしらじらしい身体の動きでとても気持ち悪くって、正直ここまで正視していられない舞台っていうのははじめてだったわ!責任者出て来い!振付家出て来たらブーイングの嵐だっただろう。出てこなかったのでブーイングはなかったが。初日はどうだったのだろう。はっきり言って、強烈に萎えたのだった。
(↓下の写真のように、静止している写真で見るだけならまだひょっとしたら美しいものを期待しても無理はないのですが、実際にダンスはとても生理的に受け入れられるものではなかった。)
© Salzburger Festspiele / Michael Pöhn
あと、三幕でのダナエとミダスのうらぶれた人間社会は、予想通り一幕の破産したポリュックス家と同じく方眼紙の白一色の舞台に戻っていた。ここでアクシデントがあって、白い方眼紙の背景の中央の舞台をミダスよろしく、ロバ曳きの男が本物のロバを引いて下手から上手へとゆっくりと歩いて移動するのだが、やはり舞台で動物を使うことの危険は避けられないようで、このロバが途中で止まったまま、動かなくなってしまった。曲はどんどん進行していく。明らかに、次のミダスとダナエの二重唱のところまでには、ロバとロバ曳きは舞台袖に「掃けて」いなければならない。これが立ち止まったままで、動かない。明らかに焦ってロバをなだめるロバ曳き男。客席でゲラゲラと笑い声が起こり始める。まずいことに、このあとのミダスとダナエの二重唱は、「トリスタンとイゾルデ」の一部も思わせるような、深遠な愛の語らいの大事な聴かせどころだ。とても笑って聴ける場面などではありえない。なんとかかんとかギリギリでロバが再び歩きはじめ、間一髪でこの大事な歌唱の場面で客席のゲラ笑いが起こるのは食い止められた。これだから、安直に動物を舞台で使うのは危険だ。
話しは一幕に戻るが、ミダス(クリゾフェル)から贈られたダナエの金の衣装の姿を見て、思わず「小林幸子~!」と声が出かけた。とてもよく出来ていて、豪華で美しかったです。オペラグラスで見とれてしまった(笑)
さて歌手はと言うと、ダナエのクラシミッラ・ストヤノヴァがなんと言っても素晴らしかった。ブルガリア出身で、直近では「ばらの騎士」で元帥夫人で喝采を浴びたのが記憶に新しい。なんとも本格的なダナエの歌唱が聴けたのはよかった。期待を寄せていたのはミダスのゲアハルト・シーゲル。ちょっとポートレートなんかで見ると、クリクリした可愛いとっちゃん坊やみたいな風貌と体型で、イケメンという部類ではないのは明らかで、最近ではミーメがあたり役。キャスト的には、もう少し硬質な声のトレステン・ケルルとかロベルト・ザッカなんかで聴きたいところだと思っていたが、それらよりやや軽い印象だけれども、ゲアハルト・シーゲルのミダスもなかなか丁寧な歌唱で、よかった。ジュピターのトマシュ・コニェチュニは、まあ、なにを聴いてもトマシュ・コニェチュニいう意味では安定感のあるところ。ポリュックスのヴォルフガング・アプリンガー・シュペルハッケさん、硬質感のある声で役によく合っていました。どこかコミカルで憎めないような演技を見ていると、2012年の「ナクソス島のアリアドネ」の映像の町人貴族で主人のジュールダン氏を熱演していた人気俳優のコルネリウス・オボーニャさんに、どことなく風貌が似ているように思えた(もっと言うと、横山ホットブラザースの長男。大阪では人気の「ノコギリ・ソング」のひと)。メルキュール役のノルベルト・エルンストは今までなにを聴いてもこれと言う個性を感じなかったのだが、今回のメルキュール役はなかなか好感度が増したような気がした。他の歌手たちも特段強い印象はなかったが、不足や不満も特にない。
© Salzburger Festspiele / Michael Pöhn
最後にフランツ・ウェルザー=メスト指揮ウィーン・フィルが圧倒的な素晴らしい演奏だったのは言うまでもない。興味があったのは、ダナエの金の雨の場面のグロッケンシュピールが大事な役どころなので、どんなかたちで楽器を使っているのか知りたくて休憩時にピットを覗きに行ったのだが、上手側にまとまっている打楽器群のなかにその楽器がどうも見当たらない。逆に、下手側の舞台寄りの奥まったところに、今どき珍しい旧式(液晶でなくブラウン管型の)モニターがデン、と置かれたキーボード楽器らしきものが見えた。やはり音量的にも調整できるシンセサイザーを使っているのだろうか。はじめて実演で聴く「ダナエの愛」がウィーン・フィルの演奏でもちろん言うことはないのだが、いかんせん、やはり演奏回数が少ないことが原因なのか、やや金管楽器の音量のバランスの安定感に欠けると感じられる箇所もあった。やはり演奏が難しい曲なんだろうなぁ、と思わせてしまうところは、いつものウィーン・フィルにはあまり感じられないことだけに、期待値がやや高かったかと感じたが、それは上に書いたように目もあてられないひどい振付けのダンス陣の影響も大きいかもしれない。
※
上の3枚目の写真からもわかるように、ジュピターは巨大な白い像に乗ってダナエの前へと現れる。これについてこのオペラでジュピターの妻(じゃなくて以前の恋人:訂正)として名前の出てくる「マーヤ」についてよくわからないので帰ってから調べて見ると、釈迦の母親がマーヤと言う名前で、しかも夢の中で白い像が出てくるのを見て、釈迦を懐妊したという伝説があるらしいではないか。ギリシャ神話的構造のなかでしか想定していなかったのでまさか釈迦の懐妊にまで想像も及ばなかったが、もしもそこまで意識してこの白い像を演出に取り入れていたのだとしたら、やはりザルツブルクってすごいところだな…(8月13日20時追記)
The opera will be broadcast by ORF on August 6 at 7:30 pm on the Ö1 channel.
Die Liebe der Danae will be recorded by ORF in cooperation with UNITEL in collaboration with the Salzburg Festival and the Vienna Philharmonic and will be broadcasted as follows:
August 12, 9:20 pm on ORF2 and CLASSICA (Salzburg Festival オフィシャルHPより)
August 12, 9:20 pm on ORF2 and CLASSICA (Salzburg Festival オフィシャルHPより)
Siemens Festival>Nights:
August 12, 9:20 pm
August 23, 8:00 pm
August 12, 9:20 pm
August 23, 8:00 pm
CAST
Krassimira Stoyanova, Danae
Tomasz Konieczny, Jupiter
Norbert Ernst, Merkur
Wolfgang Ablinger-Sperrhacke, Pollux
Regine Hangler, Xanthe
Gerhard Siegel, Midas alias Chrysopher
Pavel Kolgatin, Andi Früh, Ryan Speedo Green, Jongmin Park, Four Kings
Maria Celeng, Semele
Olga Bezsmertna, Europa
Michaela Selinger, Alkmene
Jennifer Johnston, Leda
Concert Association of the Vienna State Opera Chorus
Tomasz Konieczny, Jupiter
Norbert Ernst, Merkur
Wolfgang Ablinger-Sperrhacke, Pollux
Regine Hangler, Xanthe
Gerhard Siegel, Midas alias Chrysopher
Pavel Kolgatin, Andi Früh, Ryan Speedo Green, Jongmin Park, Four Kings
Maria Celeng, Semele
Olga Bezsmertna, Europa
Michaela Selinger, Alkmene
Jennifer Johnston, Leda
Concert Association of the Vienna State Opera Chorus
Vienna Philharmonic
CREATIVE TEAM
Franz Welser-Möst, Conductor
Alvis Hermanis, Director and Sets
Juozas Statkevičius, Costumes
Gleb Filshtinsky, Lighting
Ineta Sipunova, Video
Alla Sigalova, Choreography
Gudrun Hartmann, Associate Director
Uta Gruber-Ballehr, Associate Set Designer
Ronny Dietrich, Dramaturgy
Ernst Raffelsberger, Chorus Master
Alvis Hermanis, Director and Sets
Juozas Statkevičius, Costumes
Gleb Filshtinsky, Lighting
Ineta Sipunova, Video
Alla Sigalova, Choreography
Gudrun Hartmann, Associate Director
Uta Gruber-Ballehr, Associate Set Designer
Ronny Dietrich, Dramaturgy
Ernst Raffelsberger, Chorus Master
2002年のザルツブルク音楽祭での公演の模様を伝える映像があった。
ファビオ・ルイージ指揮フランツ・グルントヘーバー、デヴォラ・ヴォーイト。
当時存命だったハンス・ホッターのインタビュー映像も。
蛇足:こんな動画もあった。バンベルク交響楽団・D.F.ディースカウ指揮、
ユリア・ヴァラディ(ソプラノ)。三幕から一部のみの抜粋ながら美しい演奏。
ザルツブルク音楽祭2016年訪問その①
8月の頭からオーストリアを訪れ、2016年夏のザルツブルク音楽祭を駆け足で鑑賞して来ました。公演内容は下記の通りです。
①8月4日(木)ハウス・フォー・モーツァルト ウィーン・フィル
モーツァルト「ドン・ジョヴァンニ」 19:00開演
②8月5日(金)祝祭大劇場 ウィーン・フィル
R.シュトラウス「ダナエの愛」 19:30開演
③8月6日(土)モーツァルテウム大ホール モーツァルテウム管弦楽団
モーツァルト・マチネー・コンサート 11:00開演
④8月6日(土)フェルゼンライトシューレ モーツァルテウム管弦楽団
モーツァルト「コジ・ファン・トゥッティ」 15:00開演
⑤8月6日(土)祝祭大劇場 ウィーン・フィル
Z.メータ指揮ウィーン・フィル・コンサート 21:00開演
木、金、土の三日間で三つのオペラと二つのコンサートの計五つの公演を大変効率良く鑑賞できる日程が組まれていたのは幸いでした。ここでは連日大変質の高い公演が一か月以上に渡って開催されますが、上の土曜日のように、午前のコンサート、午後のオペラ、夜のコンサートと、一日中べらぼうに質の高い音楽に浸るというのも、よほどの音楽好きでなければ洒落ではできない面白いところです。とは言え私などはわずか数日の滞在でも天国で、時間と財布の中身に心配のない方には、ここでの一週間や二週間と言うのは、極楽と言った感じでしょうか。ところでタクシーの運転手さんによると、ちょうどその前の週末にメルケル首相が来ていたよ、というので調べてみたら、オペラではなくて「Endspiel」というベケットの演劇を鑑賞に訪れたようです(→記事)。
フランクフルト空港に到着前にルフトハンザ機長のアナウンスが妙にいつもより長くて、ドイツ語は聞いても分からない自分にも、単に通常の儀礼的な挨拶や現地の天気だけでなくて、なにか機体に関連する説明をしているような感じで、少なくとも「18本のタイヤ」と言う言葉が含まれていることだけはわかった。何事かと思って続けて英語による説明を聞いていると、やはり機材の不調に関する説明だったらしく、「18本あるタイヤのなかの、うち一本のタイヤについて空気圧が規定値より減少しているとの警告灯のメッセージが表示されておりますので、念には念のため、滑走路上にて消防車が待機することになっています。また念のために当空港でも最長の滑走路に着陸を変更しております。万一に備えてということなので、そう心配せんでもいいです。」とのこと。長年航空機で何度も渡欧しているが、こんな事態はさすがに初めてで、いくら「念のため」とか「心配は要りません」とか言われても、少々ビビッたのは間違いない。タイヤ一本の空気圧と言えども、何十トンもある巨大なジャンボ機にとっては、安定した離着陸を支える、重要保安部品であることには違いはない。このような大きな機種のタイヤと言うのは通常二本一組だろうから、機首の前輪に一ペア二本と、主翼左右に8ペアの十六本ということだろうが、いずれが欠けてもバランスの良い着陸には支障を来す可能性はあるだろう。そう言えば済州島発成田着の韓国便がパンクとか、最近見出しだけで見たのを思い出したが、こういう時に限って、その記事は読んでなかった。
何とか無事に着陸しますように、との何百人の乗客の思いも叶って、機体は何事もなく無事滑走路に着陸し、大きな衝撃や発火というような最悪の事態も起こらなかった。ただし、機長の予告の通り、滑走路脇に何台もの消防車が待機し、航空機と並走するように、機体のすぐ横を思いっきり速度を上げて走っているのを見ていると、気が気ではなかった。無事低速まで減速した時には、客席の後ろのほうからぱらぱらと拍手が聞こえました。幸い事故や遅延などのトラブルと呼ぶほどの事態には至らず予定通りにその日のうちにフランクフルト経由でザルツブルクに到着しました。最近ではテロに関する心配事も増えて来てはいますが、毎回旅行時に最も気にかかるのは、出発時の気象状況。特に夏は何日も前から台風来るな、台風来るな、と念じてばかり。今回も何日もまえから天気予報とにらめっこで、全くノープロブレムの快晴のもと、予定通り出立できたのは幸運でした。着陸時の空気圧不足の件以外、旅程もスムーズに予定通りに進行し、素晴らしいオペラとコンサートも短期間とは言え堪能でき、無事帰国したら、予想通りうだるような熱波が待ち構えていました。ザルツブルクは気温の差が極端で、雲のない快晴の日は気温も37℃くらいまで上がって恐ろしく暑いうえに、太陽の日差しが強烈で肌も灼けるように感じ、帽子やサングラスは必需品です。かと思うと、次の日に一雨降って天候が変わると、セーターとコートが要るくらいの17℃前後くらいまで気温が落ち込みますので、夏の旅行でもそれらが欠かせません。一日で気温差が20℃もあるのは、さすがに日本の夏では考えられません。
あと、うれしかったのは、計画時に比べるとずい分と円高ユーロ安の状況になっていて、現地での精算が想定を下回ったことでした。ただ、チケットが決済された時は今より円安ユーロ高だったので、今のレートだったらと思うと残念ですが。
ということで、ちょっと時間は要るかもしれませんが、この後、ぼちぼちと鑑賞の記録を記して行きたいと思います。