2012年に制作・上演され好評だった「ローエングリン」の再演。再演とは言え、なにしろ主役がクラウス・フロリアン・フォークトと言うこともあり今回の上演前から期待が高かった。またタイトルロールのフォークトだけでなく、ハインリヒ国王:アンドレアス・バウアー、エルザ・フォン・ブラバント:マヌエラ・ウール、フリードリヒ・フォン・テルラムント:ユルゲン・リン、オルトルート:ペトラ・ラングと、主要な歌手も世界的に評価の高いドイツ勢の豪華顔合わせ、そして指揮が飯守泰次郎というだけあってこの日、日曜日の公演は全席完売だった。早くから申し込みをしていたので前から6列目の申し分のない距離感の席だったが、中央ブロックでなく右ブロック側だったので若干音響的にクセがあった。が、なにはともあれまだ実演で聴いていなかったクラウス・フロリアン・フォークトの澄んだ美しい声を間近で堪能でき、大変上質の「ローエングリン」の上演を楽しむことができた。
日曜日の午後2時開演の7時終演なので、地方からも十分日帰り可能な時間配分は有難い。とは言えこの日のつい2、3日前には羽田空港で航空機のエンジン火災と言う事故によりその日の羽田便はほぼ全便欠航となったことなどもあるので、絶対に外したくない予定の時などは、そうしたトラブルを極力避けるためにも、念のため前日には現地入りしておくなど時間にはゆとりを持たせておくことも肝心だろう。そう言えば今回の羽田の事故で、オバマ大統領の広島訪問に立ち会う予定の関係者も断念を余儀なくされたと聞く。航空機・鉄道とも、絶対にダイヤが乱れないという保証があるとは限らない。
さてお目当てはなんと言ってもフォークト。2012年上演の時は行けなかったので、今回再上演でフォークトのローエングリンが聴けると言うのは実に楽しみであった。去年(2015年)バイロイト音楽祭で「トリスタンとイゾルデ」と「さまよえるオランダ人」を鑑賞した際も、翌日続けて「ローエングリン」も観ようと思えば観れたのだが、チケット発売時点ではキャストはまだ未定であり、フォークトが出るかわからなかったし、仮にフォークトが出なければあの「ねずみのローエングリン」をどうしても観たいと言う欲求も起こらなかったので、それをパスしてその分の予算を「トリスタン」と「オランダ人」のカテゴリーアップにまわし、当日はミュンヘンに移動の予定を組んでしまっていた。後でフォークト出演がわかった時にはちょっと残念だったが、また次のリベンジに取っておけると思い直すことにした。なので今シーズンの東京でのフォークトのローエングリンの再演はとてもいいタイミングで聴くことができた。
まずは感想云々の前に、筋金入りの古風で典型的なヘルデンテノールでしかこの曲のイメージが湧かない人や、そうした声質のローエングリンしか期待しない、と言う人は、まず大枚はたいてわざわざこの公演を観には来ない。それはLPかCDかYoutubeかで、いくらでも家で聴いておけばよいのだ。今回5回の上演を観に来るおおよそ1万人ほどの客の多くは、フォークトの声の特徴を十分にわかったうえで、むしろその声でのローエングリンが聴きたいからこそ大枚をはたき(外来オペラよりはまともな価格だが)、空路鉄路も厭わずに参加していると考えていいだろう。かつてのヘルデンテノールの一時代もそれはそれで大変聴きごたえのある素晴らしいものだっただろう。しかしフォークトの全くそれとは異なる繊細で軽やかな美声は、たとえて言えばふんわりとした上質のホイップクリームであり、非常に細やかで丁寧な表現力が身上である。声量が物足りないとかいう人がいるようだが、こういう人は本当に多様な歌手の声の違いを楽しむ術を心得ているのか疑問である。とは言え、確かに役によっては向き、不向きのある声質であるのは事実だろう。同じワーグナーでもワルター・フォン・シュトルツィングは何をおいても聴きたいけれども、ジークフリートとなるとはたしてどうだろうか。そんななかでは、「ローエングリン」は持って来いのはまり役と言えるだろう。
はじめに白鳥の小舟で登場する場面は、ゴンドラに乗って舞台の天井の下手側から中央にスライドし、そこからゆっくりと下降してくる。ゴンドラは目立たないようにうまく小さくつくられているので、一見すると歌舞伎の宙乗りのように、ワイヤーで吊るされているように見えるが、そうではないようだ。背に大きな白鳥の羽を付けて、後ろ向きの状態で登場する。客席に背を向けての歌唱なので、それでなくても柔らかいフォークトの声がさらにより神秘的に聴こえるという仕掛けのようだ。その後は、普通に客席に向いて(当たり前だが)歌ってくれる。前半は結構舞台上手側からの演技と歌唱が多く、右ブロック前方のこちらの席からは、心待ちにしていたフォークトの口元がしっかりとこちらの方向に向かってダイレクトに発せられているのが観て聴けて、至福の心地。ハインリッヒ王のアンドレアス・バウアーもいい。深い美声だ。伝令役の萩原潤さんも安心して聴いていられた。エルザのマヌエラ・ウールもドイツ出身の美形。衣装はどの演者のも時代をあまり意識させないオーソドックスなものだったけれども、エルザの黒レザーのショートブーツは今風のお洒落を感じさせるし、二幕での黒のロングドレスはかなり妖艶さを醸し出していてちょっとときめいた。声量は言うことなしで、よく通るいい声。ただ、自分が勝手にイメージしているエルザの「可憐さ」と言う線の細いところは感じさせず、結構押し出し感の強いエルザの印象だった。二幕はオルトルートのペトラ・ラングとフリードリッヒ・フォン・テルラムントのユルゲン・リンの独壇場。ペトラ・ラングってオペラグラスで見ていると、この役柄と言うことももちろんあるけれども、近所とか親戚とかに必ずひとりはいそうなちょっとイケズそうなおばさん、と言った雰囲気の演技がうまいひとだなぁ、と思う。もちろん歌唱も迫力がある。もうけものだったのはフリードリッヒのユルゲン・リンで、歌も演技もなかなか個性的でとてもよかった。いかにもアルベリヒとかやったらイメージぴったりだろうか。新国立劇場でも出番が多いようだ。日本人歌手では、三幕冒頭の小姓たちによる婚礼を寿ぐコーラスは大変美しく聴きごたえがあった(衣装はケッタイな感じだった)。
舞台セットは背景に大きな格子状の枠組みのようなセットがあり、ハインリッヒ王の玉座などを連想させる白い四角い板を重ねた腰掛け状のオブジェが舞台上に三つある程度で、ゴテゴテ感はなく割とシンプルで抽象的な印象。このあたりは演出のシュテークマン自身もヴィーラント様式の影響についてパンフレットで語っている。二幕では上部から巨大な富士山状のスチールのリングが降りてきて、エルザの衣装と連動する。この後の婚礼衣装のベールと関連しているようだ。三幕のペーパークラフトを巨大化したような大きなフラワー状の白いオブジェなどはかわいくてよく出来ていて気に入った。休憩時間に思わずその場面の舞台写真を買ってしまった。もちろんフォークトのといっしょに。
飯守氏の指揮も斜め後方から頭部と手の動きがよく見えた。熱の入った指揮ぶりで、時々ウンウンと唸り声を発しておられたように聞こえた。東フィルの演奏はいたって穏当なものでとくにこれという過不足は感じなかった。第一幕冒頭の繊細で精妙な弦の出だしはとても美しくよく出来ていたと思う。席が前よりのやや右側と言うこともあり、ホールの右上方部分から反響して聴こえる金管の音がやけに大きくてちょっとアンバランスさが気になったがこれは席の問題で、こう言う場合やはり音響的には全体がバランスよく聴こえる中央あたりで聴けるに越したことはない。第3幕の前奏曲はファンファーレも勇壮かつ重厚で明るい推進力に富んだ聴きごたえがある曲だが、金管を左右上方のプロセニアムに配置してバンダ効果を演出していた。これもやはり中央席で聴いていれば演出上の効果は絶大だったのだろうけれども、いま言ったように前方席では音が左右に分散してしまって本来の重厚さが希薄になってしまったように聴こえたのはやや心残りに思えた。ふつうにピットからまとまった重厚な金管が聞こえるほうが自分としては好みである。でもまあ、これはこれで演出としてはありかな、とは思う。
あと、登場人物の衣装は先にも触れたようにこれと言って奇異な印象はさほどなくオーソドックスでドレッシーな印象だが、頭の被り物は結構個性的なデザインが印象的だったのと、ハインリッヒ配下、フリードリッヒ配下の騎士たち、兵士たち群衆の衣装はどう見ても安っぽいつなぎの作業着か居酒屋の店員の制服と言った印象で、予算上の制約と言う現実感を感じさせて残念な印象だった。それにしてもこの、もともとは「フォン・テルラムント最強!」とか言ってその武勇を持ち上げていたその他大勢の騎士・兵士たちが、ローエングリン優勢を見て王の伝令がフリードリッヒとの絶交・絶縁を配下どもに宣言するや(第2幕3場)、あっさりとフリードリッヒを見放しローエングリン万歳!と言う変わり身の早さを見せるところなどを見ると、まったくいつの時代のどこの国でも、大衆の節操のなさというか無責任な付和雷同は変わることがないと言う事実に暗然たる気持ちにさせられる。いまの時代のこの国で言えばさしずめ王の伝令役は文字通り為政者とその一派の目くらまし役に成り下がった大手メディアや週刊誌の記者かレポーターかと言ったところか。付和雷同の無責任なその他大勢はネトウヨとかパヨクとかか(笑) ほんとどっちもいい加減にしてほしい。
第3幕の幕切れ。舞台中央のセリから白鳥からもとの幼い弟の姿に戻ったゴットフリートがひとりうつむいた状態で上がってくるや、他の登場人物全員が「われ知ったことか」と言わんばかり、あっと言う間に舞台から消え去り、ゴットフリートただ一人のみが悄然と取り残されて幕となる。ハッピーエンドとはならない。終演7時ちょうど。この後の盛大なカーテンコールも観ていたかったが、予定の新幹線で帰るため後ろ髪を引かれながらも早々と劇場を後にする。いいローエングリンが観れた。
2016年5月29日㊐午後2時開演
新国立劇場
【指揮】飯守泰次郎
【演出】マティアス・フォン・シュテークマン
【合唱】新国立劇場合唱団
【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団
【キャスト】
ハインリヒ国王:アンドレアス・バウアー、ローエングリン:クラウス・フロリアン・フォークト、エルザ・フォン・ブラバント:マヌエラ・ウール、フリードリヒ・フォン・テルラムント:ユルゲン・リン、オルトルート:ペトラ・ラング、王の伝令:萩原 潤 ほか
【演出】マティアス・フォン・シュテークマン
【合唱】新国立劇場合唱団
【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団
【キャスト】
ハインリヒ国王:アンドレアス・バウアー、ローエングリン:クラウス・フロリアン・フォークト、エルザ・フォン・ブラバント:マヌエラ・ウール、フリードリヒ・フォン・テルラムント:ユルゲン・リン、オルトルート:ペトラ・ラング、王の伝令:萩原 潤 ほか