2016年04月 : grunerwaldのblog

grunerwaldのblog

バイロイト音楽祭やザルツブルク音楽祭など、主に海外の音楽祭の鑑賞記や旅行記、国内外のオペラやクラシック演奏会の鑑賞記やCD、映像の感想など。ワーグナーやR・シュトラウス、ブルックナー、マーラー、ベートーヴェン、モーツァルトなどドイツ音楽をメインに、オペラやオペレッタ、シュランメルン、Jazzやロック、映画、古代史・近現代史などの読書記録、TVドキュメンタリーの感想など。興味があれば、お気軽に過去記事へのコメントも是非お寄せ下さい。

2016年04月

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タイトルが長くなるので省略したが、正しくは楽団名は「日伊国交樹立150周年記念オーケストラ」で、ソリストはイルダール・アブドラザコフ(バス:メフィスト)、東京オペラシンガーズと東京少年少女合唱団による合唱。今年の3月16日に「東京春音楽祭」の目玉として東京文化会館で催されたコンサートのライブの模様が「NHK-BSプレミアム」で4月17日の深夜に放送された。他に「ナブッコ」や「運命の力」などヴェルディのオペラから一部が演奏された。

楽団名がそのまま表しているように、日伊の国交樹立150年を記念する祝賀コンサートなので、両国の外務省・大使館も挙げてのお祭り行事だったのだろう。3月の平日の東京と言うことで当初から行くのは諦めていたので、こうしてTVでコンサートの模様を放送してくれたのは有難かった。放送の夜は所用で留守にしていたので、録画が完全に出来ているかどうかがとにかく気がかりだった。何しろ、直前の熊本の大地震から続く規模の大きな余震のために、予約していたヴィム・ヴェンダースの「パリ・テキサス」は完全に途中で断絶していたし、この夜も一晩無事余震がないとは予想はできなかったので、帰ってまずは早送りで途中、地震関連の速報テロップやニュースが全く入らずに予定通り最後まで放送されたのを確認できた時は奇跡だと思った。地震の被害に遭われた方には、いまも余震の影響で自宅に帰れずに避難所や車中での生活を余儀なくされている方も大勢おられるとのこと。このようなブログを目にされるような機会はありえないとは思うが、この場を借りてこころからお見舞いを申し上げたいと思います。

さて、大画面の精細な映像と迫力のある音声で聴く東京文化会館でのムーティの直近のコンサート。それもヴェルディからの選りすぐりと、アリゴ・ボーイトの「メフィストフェーレ」から第一部プロローグと言う、まことに強力で文字通りガラにふさわしい願ってもない内容のプログラム。当日この演奏を実演で聴かれた限られた千数百名の聴衆のかたはまことに幸運である。なにせムーティの指揮で「メフィストフェーレ」だ。たとえ演奏会形式でのプロローグのみでも、こんな圧倒的な音楽をナマで聴ける機会と言うのは、頻繁に音楽会通いをされている方でも、そう多くはないだろう。個人的な記憶で言うと、20年ほど前にウィーンを訪れた時、その際はW.マイヤー様のオルトルートとJ.ボータのタイトルロールで「ローエングリン」(シモーネ・ヤング指揮)を観たのだが、別の日にムーティ指揮でサミュエル・レミーの「メフィストフェーレ」をやっていて、残念ながらその日は同行の知人とグリンツィングで一杯やれる時間がその晩しかなく、悪魔との遊びよりも人間関係とホイリゲを優先してしまったのである… おまけに当日のお昼にオペラ座の前を歩いていたら、「お兄さん、今夜のメフィストのチケット買ってくれない?」とジェントルマンに声まで掛けられて… ここまでムーティとレミーの「メフィスト」の近くまで接近しながら、その機会を自らボツってしまった一生の不覚は永遠に癒されることはないのである。ただ、ホイリゲから帰った時間がちょうどオペラの終演の頃で、もしかしたらオペラ座の出口で悪魔様を見るだけでも出来るかも知れないと思い訪れてみると、ちょうど運よく出演者がサインをしているところだった。むかしからサインよりか生写真のほうが好みだったので、運よく二枚の写真を撮ることができたのがこれ。

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相当古い写真からのスキャンなのでモアレで不鮮明かも知れないが、どうやら下の写真のオジサンがサインに差し出している写真に、悪魔の裸体の一部が写っているのがわかる。また、この時には知らないことだったのだが、舞台演出がその後俄然興味が湧きだしたピエラッリだったことで、これが95年のムーティとスカラ座の演奏でCDにはなっているのだが、映像がリリースされていない。やはりイタリアオペラ界では保守派の最右翼のムーティ様を「うん」と言わせるにはやや刺激的な演出だったのだろうか。映像が撮られているとしたら、いつの日かリリースされることを望むばかりだが… そのリベンジというわけではないが、その後2014年の5月にエルウィン・シュロットのメフィストでグノーのほうの「ファウスト」(ド・ビリー指揮)をウィーンで観ることが出来たのは救いであった。

と言うわけで、「ナブッコ」から序曲ともう一曲を取りあえず聴いて音を確認し、間のヴェルディを飛ばしてまずはさっそく「メフィストフェーレ」のプロローグを聴く。若き熱血漢だったムーティもいまや泰然たる巨匠なので、その指揮は余計な力みがなく余裕しゃくしゃくと言ったところだが、それでいてやはり締めるところはビシっと締める、と言う感じで、やっぱり凄い。いまムーティでこのオペラ全曲をウィーンかミラノでやったら、チケットは買えないだろうな、きっと。でも死ぬまでに一度聴きたい。

オケは文字通り日伊混成の臨時編成のようで、20-30代の才能ある若手演奏家を集めて構成されているようだ。若手と言って見くびってはいけない。どういうオーディションをしているのか知らないが、ずば抜けて素晴らしい演奏をするプレイヤーが集まっている。若手とはいえ、こうした臨時編成オケの強みは、限られた課題の曲目だけに短気集中で取り組むことが出来ることだろう。超一流オケのようにほかのレパートリーやプログラムで神経を擦り減らすことがないのが利点だ(それでもムーティ様とご対面での練習は本番のわずか三日ほど前と言うから恐れ入る)。その甲斐あって、一流の有名楽団でも敵わないような豪快さと大胆な演奏で、このダイナミックで宇宙の壮大さを感じさせるようなプロローグを豪壮に聴かせる。最初の「ナブッコ」では打楽器など縦の線にバラツキが見られる箇所もあったが、さすがにこの曲ではそういう不安も感じさせず、イキのよい演奏を聴かせてくれる。バスのイルダール・アブドラザコフという人はよく知らないが、悪魔のようなデモーニッシュな印象はなく、まじめにしっかりと歌っている感じで、声はしっかりと出ていて不満はない。持ち歌の部分を歌い終えると自分で譜面台を持って後ろに引っ込んでいったようだが、演奏が終わった頃にはすっかりと消えていなくなっていて驚いた。これは悪魔並みの所業である(笑) 東京少年少女合唱団もムーティ様の指揮でこんなに立派に歌えるなんて本当にすごい。あれってみんなカタカナのルビじゃなくって、イタリア語の歌詞見て歌ってるんだろうか?だとしたら流石に凄い。限られた良家の子女しか出来ない芸当だな。

故アバドをはじめバレンボイムにしてもムーティにしても、芸術面のみでなく財政面でも巨匠の域に達した現代のカリスマ指揮者たちのいまの課題が、こうして次世代の音楽家たちを自らのプロデュースで世に送り出し、それによりリスナーの域を広げるということになっているのは、レベルは全然違うけれども日本の芸能界とも共通しているような気もする。よく知らないけれど。

さてこのところ2月にLGOと京都バッハ・ゾリステンの「マタイ受難曲」を立て続けに聴きに行ったのを契機に、バッハを聴く時間がちょっと続いている。いままでどちらかと言うと距離を感じていたバッハの宗教曲も、ようやく体験し始めるのも悪くないかなという気になって来たようだ。と言うのも、先日購入したリヒターの廉価BOX(DG2010)には「マタイ」と「ヨハネ」の受難曲と「ロ短調ミサ曲」の他にも教会カンタータから復活祭向けのものが11曲、CD8からCD10に収録されているのだ。ぼう大にあるバッハの宗教曲など、どこから手を付けたらよいのかも考えたこともなかったので、これはある意味良いきっかけになった。特に、新たに聴いた「ロ短調ミサ曲」は思ったよりも感動し、立て続けにブロムシュテットとLGOのトーマス教会でのライブ演奏のBRディスクも購入し鑑賞した。こうしてバッハを通してゲヴァントハウス管を聴くと、やはりその音楽の基盤からしてウィーン・フィルとは全く異なることが改めてよくわかった。

もともとがキリスト教徒でもないのにバッハの教会音楽を齧る必要も必然性もとりわけ感じてこなかったと言うのも大きいが、あらためてこうしてその音楽に触れてみると、純粋に音楽面からだけこれらの曲を取り上げても、やはり普段聴くクラシックの原点となっていることがよく分かり、何と言ってもバッハ先生偉大なりというのは実感する。特に印象に残ったのは CD9 に収録の「Weinen, Klagen, Sorgen, Zagen(泣き、嘆き、憂い、怯え) BWV12」で、7つの楽章からなる約25分ほどの曲だが、その重く苦しい歌詞の内容にも関わらず、奏でられる音楽の深遠さと美しさには絶句する。Youtubeで調べて見るとこの演奏の動画もあったがネットでは音質があまり良くないようなので、代わりにヘルムート・リリングの演奏のものが音質も良かったので下に貼っておこう。1.の短いシンフォニアのあとの2:55位からはじまる 2.の Weinen, Klagen, Sorgen, Zagen(8分強)の演奏が美しい。


(以下歌詞 Emmanuel Music サイトより参照)
Cantata for Jubilate
1. Sinfonia 1. Sinfonia
2. Chor
Weinen, Klagen,
Sorgen, Zagen,
Angst und Not
Sind der Christen Tränenbrot,
Die das Zeichen Jesu tragen.
2. Chorus
Weeping, lamentation,
worry, despair,
anguish and trouble
are the Christian's bread of tears,
that bear the marks of Jesus.
3. Recitativ (Arioso) A
Wir müssen durch viel Trübsal in das Reich Gottes eingehen. (Acts 14:22)
3. Recitative (Arioso) A
We must enter the Kingdom of God through much sorrow.
4. Arie A
Kreuz und Krone sind verbunden,
Kampf und Kleinod sind vereint.
Christen haben alle Stunden
Ihre Qual und ihren Feind,
Doch ihr Trost sind Christi Wunden.
4. Aria A
Cross and crown are bound together,
struggle and reward are united.
Christians have at all times
their suffering and their enemy,
yet their comforts are Christ's wounds.
5. Arie B
Ich folge Christo nach,
Von ihm will ich nicht lassen
Im Wohl und Ungemach,
Im Leben und Erblassen.
Ich küsse Christi Schmach,
Ich will sein Kreuz umfassen.
Ich folge Christo nach,
Von ihm will ich nicht lassen.
5. Aria B
I follow after Christ,
I will not let go of Him
in prosperity and hardship,
in life and mortality.
I kiss Christ's shame,
I will embrace His cross.
I follow after Christ,
I will not let go of Him.
6. Arie (mit instrumental Choral) T
Sei getreu, alle Pein
Wird doch nur ein Kleines sein.
Nach dem Regen
Blüht der Segen,
Alles Wetter geht vorbei.
Sei getreu, sei getreu!

(Instrumental Chorale:
Jesu, meine Freude,
meines Herzens Weide,
Jesu, meine Zier!
Ach, wie lang, ach, lange
ist dem Herzen bange
und verlangt nach dir!
Gottes Lamm, mein Bräutigam,
Außer dir soll mir auf Erden
nichts sonst Liebers werden.)
("Jesu, meine Freude," verse 1)
6. Aria (with instrumental Chorale) T
Be faithful, all pain
will yet be only a little thing.
After the rain
blessing blossoms,
all storms pass away.
Be faithful, be faithful!

(Instrumental Chorale:
Jesus, my joy,
my heart's pasture,
Jesus, my treasure!
Ah, how long, ah long
has my heart suffered
and longed for you!
God's lamb, my bridegroom,
besides You on earth
nothing shall be dearer to me.)
7. Choral
Was Gott tut, das ist wohlgetan,
Dabei will ich verbleiben.
Es mag mich auf die rauhe Bahn
Not, Tod und Elend treiben.
So wird Got mich
Ganz väterlich
In seinen Armen halten:
Drum laß ich ihn nur walten.
             
©Pamela Dellal
           
7. Chorale
What God does, is well done,
I will cling to this.
Along the harsh path
trouble, death and misery may drive me.
Yet God will,
just like a father,
hold me in His arms:
therefore I let Him alone rule.
 

関西の人間には子供の頃からお馴染みの土曜お昼の「吉本新喜劇」オープニングのテーマ曲。関西人なら誰もが知ってるこの曲、今までずっと(キダタローとか)オリジナルのテーマ曲だと思っていたら、先ほど見ていたTVのバラエティ番組で、古くからポピュラーな「Somebody Stole My Gal」と言うディキシーランド・ジャズの引用だと言っていた。へえ!と思ってさっそく Youtube で調べて見ると、なるほど結構な数の演奏の動画を観ることができる。どれも3分から4分程度の短い演奏なので取り上げてみると、例えば古くはフレッチャー・ヘンダーソンのビッグバンドの演奏(1931年)では、テナー・サックスにはコールマン・ホーキンスの名前も見え、ボーカルはなかなか都会的で洒落た感じの演奏。


また、ラグタイム調のアレンジでPPMのようなカントリーとかフォークソングっぽい印象の演奏↓などは、かつて大阪では憂歌団とか上田正樹とかといっしょに活躍していた有山じゅんじを思い出すような軽快な印象だったり


下の動画などからは、関西人のコテコテのノリの印象の曲が案外アメリカではポピュラーなんだなあ、というのが感じられたり


ほかにも自衛隊の楽団が結構完璧なコピーでノリのよい演奏をしているのがあったり(一番下の動画)で面白い。やっぱり大阪人にはディキシーのようなサウスなノリがよく合うのである。で、新喜劇のテーマは下の Pee Wee Hunt の1954年の録音からのものを使用しているようだ。数あるポピュラーナンバーの中から、これほど吉本新喜劇のイメージにピッタリあった演奏を探し出してきて番組オープニング曲に使用した音楽担当者のセンスには脱帽する。ばかばかしいお笑い番組ながら、よくよく聴いてみると結構本格的な演奏の、なかなかの名曲なのである。





 

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1999年中国製作の映画で、何年も前に多分NHKのBSで放送されたものだっただろうか。途中から見始めたため録画も完全でなかったので、その後DVDをあらためて購入して、繰り返し何度も観た。日本映画でも、むかしならこういうタッチの映画もあったのだろうが、最近ではじっくりと見応えのある邦画は少なくなったような気がする。騒々しい日常から束の間解放され、まさにこの映画の舞台となっている古ぼけた銭湯でひとここちついているような、しみじみとした味わいのある映画だった。

舞台となっている古い銭湯を切り盛りしているのは年老いた父親ひとりで、知的障がいのある次男が常連客の相手や掃除などで父親を手伝っている。長男は稼ぎのよい仕事を求めて都会へ出て家庭も築いているが、ある日弟からの手紙が気になって、久しく帰っていなかった実家の銭湯「清水池」へ戻ってくる。弟が送った手紙の絵が、父親が倒れているような構図だったからだ。気がかりになって帰ってみると、父親は相変わらず銭湯の仕事に励んでいて変わらずで、弟が描いたのは単に寝ている父親と言うだけの何でもないことだった。せっかく久しぶりに帰った実家ということもあり、何日間かそのまま銭湯の仕事を手伝って、年老いた父と障がいのある弟の面倒をみているうちに、都会での生活では忘れてしまった家族や馴染みの常連客らとのこころのつながりのあたたかさを感じはじめる。父親も常連客もみな年老いた老人で、銭湯ももう何十年も細々と続けてきたものの、このあと近々にも街の再開発で取り壊される運命が待つばかり。そんななかで父親が倒れ、事情がよく理解できない弟は銭湯の取り壊しにからだを張って抵抗し、自分でいつもの通り営業をはじめようとする。派手な展開やBGMで気が散るようなこともなく、物語は淡々としたテンポと語り口で進行して行く。コオロギ相撲に興じる老人たちや、シャワーに打たれながらカンツォーネを歌うのだけが取り柄の若者、ひどい夫婦喧嘩をして銭湯に逃げ込んで来る冴えない亭主などなど、味わいのあるタッチで人情模様が丁寧に描かれているのも面白い。その昔、はるか内陸の砂漠の向こうの小さな村の娘が、嫁入りの前の日に親が苦労して買ってあげた水で沸かした、それは貴重なお風呂で母親に身体を丁寧に洗ってもらって、街へと嫁いで行った。それが阿明(と主人公の大明)のお母さんさ… 夫婦喧嘩で逃げ出してきた亭主と風呂で一杯飲みながら話しをしていると、いつしか兄と弟が傍らでその話しを聞いている。その後父親は、喧嘩中の夫婦のよりを戻させてやるために、粋なはからいをしてやるという場面に繋がって行くところはうまい流れの作り方だし、ホロリとさせる印象的な場面だ。

銭湯と言っても、いま日本の各地で人気の近代的な大型銭湯でも立派なサウナビルでもなく、下町の小さな古ぼけた庶民の集まる銭湯で、ひとむかし前の我々にも身近な風景だった。たしかにこういうのんびりとした時間の流れと言うのが忘れられつつあるのと同時に、こころのゆとりやいたわりという気持ちも薄らいで行ってしまっているようにも感じる。

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この3月は珍しくいつになく「マタイ受難曲」を聴く機会に恵まれ、そろそろバッハも本格的に聴きはじめてみるいい機会かなと思えるようになってきた。そこで、リヒター盤と言うといままで70年代のペーター・シュライヤーの福音史家の録音ので聴いてきていて、世評高い59年録音のをまだ聴いていなかったので、これを注文しようとあれこれと探してみた。そうすると、2010年にDGからコンピレーションで発売されているBOXセットで、他に「ヨハネ受難曲」や「ミサ曲ロ短調 BWV.232」に加え「復活節のためのカンタータ集」などが収められて価格もかなりお得なのがあるのを知り、さっそく注文した。

「マタイ受難曲」とともに復活節の際によく演奏される「ヨハネ受難曲」をこの際一緒に聴いてみるのもよい機会だ。こちらはもちろん「ヨハネ福音書」のイエス・キリストの受難に題材を取ったもので、形式や内容は「マタイ受難曲」と共通したところもあるが、音楽はやはりずいぶん異なる。受難劇のエピソードとしては、こちらの「ヨハネ受難曲」のほうがわりとディーテイルも詳細な言葉で語られるところもあって、その意味では「マタイ受難曲」よりもわかりやすい内容にも思えるが、やはり肝心の音楽の美しさで断然「マタイ受難曲」のほうが聴きごたえがあり、親しみを感じる。「マタイ」か「ヨハネ」かどちらか選べと言うことになれば、これはやはり迷うことなく「マタイ」ということになりそうである。

そして、バッハの宗教曲ではこれら両「受難曲」以外にも、こういういい曲もあるのかと新たな発見で感動したのが、このセットに収録されている「ミサ曲ロ短調 BWV.232」だった。曲は他の宗教曲の形式と同じように、大きくは「キリエ」と「グローリア」、「クレド」、「サンクトゥス」、「アニュス・デイ」の5部で構成され、歌詞はラテン語で歌われ、全曲でおおよそ2時間。曲の美しさと聴きごたえでは、「マタイ受難曲」に次いで、感動を覚えた。特に「キリエ」「クレド」「アニュス・デイ」での合唱の美しさは絶品であり、ソプラノとアルトの二重唱も大変聴きごたえがある(第2曲、第15曲)。「クレド」の第19曲(我は信ず、主なる聖霊)はこれぞDFディースカウという歌唱が聴ける。ところがこのBOXセット付随のブックレットの解説では演奏者が1969年の東京公演の際のものが間違って記載されている。本演奏は明らかにセッション録音のものなので、これは間違いなく誤記である。また、廉価BOXなので歌詞も付いていない。

意外な発見だったのは、いままでバッハ・アレルギーの大きな原因のひとつがこれだったとはっきりわかったのが、「グローリア」の冒頭などで聴かれるバッハ独特の「喇叭」の音色と演奏である。あえて「トランペット」と言わない。ベートーヴェンやブルックナー、マーラーで演奏されるのと全く別の楽器のような「ラッパ」、「喇叭」。そう、こういう宗教曲で唐突にとんでもなく甲高くて薄っぺらい音で耳をつんざくようなあのトリルだらけの音。あれ、何て言う奏法なんでしょうか?あの音が昔っからどうも生理的に苦手で、やはり今でもそれは変わっていないようだ。「全軍の主」とか「全能の神」とか「神の復活」などのところでよく使われる奏法なので、言ってみれば「神の降臨」とか「ヘラルド」を意味する有難いものなんだろうけれども、これだけがなんとも苦手な音なのである。そう考えると、「マタイ受難曲」がこれだけ自分的に受け入れやすかったのは、この曲には一度もこのやかましい甲高い喇叭の演奏がないからかもしれない。もっとも、それはバッハなどのわりと古い時代の曲に限ってのことなのですが。何となく、わかりますよね(笑)

ミサ曲ロ短調 BWV.232

マリア・シュターダー
ヘルタ・テッパー
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ
キート・エンゲン
ミュンヘン・バッハ合唱団
ミュンヘン・バッハ管弦楽団
カール・リヒター(指揮)

録音時期:1961年
録音方式:ステレオ(セッション)

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先週末はお天気がもうひとつだったが、今日は平日だが天候も良いので無理やり用事をつくって京都市内に足を運び、何年かぶりに哲学の道の桜をそぞろ歩きしてきた。まさに今日が満開という感じであった。気温は暑くもなく寒くもなく、ジャケットを着ていてちょうどくらいの爽やかさ。茶店のソフトクリームがおいしかった。

十年ほどまえに来た時には、音大生らしき若者がバイオリンとチェロのトリオでモーツアルトだったかシューベルトだったかを道の中ほどで奏でていて、とても様になっていたのが思い出される。もう一度こうした雰囲気の戸外で、あのようなやわらかな音色を聴いてみたいものだが、あれ以来遭遇していない。かわりに今日はひとりリュートを奏でている男性を見かけた。
                                                                                      
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改めて聴いても本当にささやかで小さな音色であり、このような戸外ではかなり近づいて耳をそばだてないと鑑賞できない。でも、よく雰囲気にマッチしていてよい体験ができた。


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そのあと、東山の将軍塚の青蓮院の飛び地に一年半ほど前に新しくできた青蓮院青龍殿を初めて訪れる。ここは南禅寺などがある蹴上から分岐した上り坂を登った東山の一峰にあり、以前から京都市内が見下ろせる場所として知られていたが、平成26年10月に麓にある青蓮院が立派なお堂と市内が一望できる清水のような大舞台を建立し、一般見学が可能となっている。

ここはかつて平安京を創始した桓武天皇が和気清麻呂に案内されて都の建設予定地を視察した場所であるらしい。その際に、征夷大将軍の坂上田村麻呂の像をつくらせ、都の守護としてここの塚に埋めさせたのが縁起と言われるらしい。実際の坂上田村麻呂の墓所は、近くの山科市内にある。

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大舞台からは上賀茂神社あたりまで鴨川沿いに広がる京都市内が一望でき、絶景である。北はとおく鷹峯あたりまで遠望でき、西にはるかに見えるのは嵐山から愛宕山にかけてだろうか。

大舞台からの絶景もさることながら、庭園の桜も見事な美しさであり、これは京都の桜の新名所に違いない。特に西側の特設舞台(宗教行事のための?)という10mほどのやぐらがあって、その階段の途中から目前の中空に広がる桜の美しさはまさに咲きこぼれるという表現がぴったりで、まるで天上の楽園の眺めのようだ。

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さて、音楽のほうはしつこくバッハの「マタイ受難曲」が続く。先日聴きに行ったゲヴァントハウス管と聖トーマス合唱団の演奏が印象的だったので、その後さっそくその組み合わせの最近の演奏のブルーレイを購入し、鑑賞の途中。2012年、ライプツイヒ聖トーマス教会でのライブ収録。

バッハの棺が安置されている正面の祭壇のほうでの演奏かと思っていたら、後方のオルガンのあるバルコンに演奏者全員が配置されての演奏。客は、中央の通路を挟んで左右から対面し合うようなかたちで向き合い、オルガン前のバルコンでの演奏を横から聴く形になっている。

演奏は西宮で聴いた時と同じくらいの割とサクサクとしたテンポでヴィブラートを響かせず、余韻や「間」もあまり感じさせないのが現代的な解釈なのだろうか。セーラー服姿の合唱団の少年たちは、地元での演奏なので来日時よりも人数は多いようでその分(録音の影響もあり)厚みを感じる。演奏のない時に退屈そうに暇を持て余している子供っぽい姿は来日公演の時と同じで微笑ましい。聴き慣れているアルトのソロがここでは男声のカウンターテナーとなっている。エヴァンゲリストはかなり柔らかい声質。そうそう、西宮の時との違いはやはりリュートの印象が大きい。この映像では伴奏(通奏低音)はオルガンになっているが、西宮の時はこれがリュートだった。上にも少し書いたが、とても小さな音量の楽器なので、演奏全体がそれに合わせたかのような慎ましやかなものに感じたのだ。この映像の演奏ではそうではなさそう。それが確認したくてこの映像を購入したと言うのもある。続けて聴いた京都バッハ・ゾリステンの演奏もチェンバロだったし、やはりリュート使用と言うのは珍しい体験だったのだろうか。

ところで先日NHK-BSのドキュメンタリー番組で「ミセス・バッハ」と言うオーストラリア製作の音楽ドキュメンタリー番組が放送されたのを観た。夜ではなく普段滅多にチェックもしない夕方の放送枠だったので危うく録画をし損ねるところであった。シェイクスピアと言うのが謎が多くて、別人の貴族の変名であったとか、一種の工房であったと言うのは結構耳にして来ているが、同じ頃のドイツのバッハについてもそのような角度からの仮説をオーストラリアの音楽学者が提唱し、検証していく様子を追ったドキュメンタリー。この番組では、非常に優秀な歌手だった娘ほど年下の後妻が、楽譜の作成のみならず作曲自体を手掛けていたと結論付けている。それに関わって、前妻の死も不審であるとすらしており、バッハの不義をほのめかしている。大胆な仮説の割にはやや論拠が薄く、納得させられるには至らず、ちょっと空回りのように思えた。


J.S.バッハ:マタイ受難曲 BWV244(全曲)

 クリスティーナ・ランズハマー(ソプラノ)
 シュテファン・カーレ(カウンターテノール)
 ウォルフラム・ラットケ(テノール)
 マルティン・ラットケ(テノール)
 クラウス・メルテンス(バス)
 ゴットホルト・シュヴァルツ(バス)
 ライプツィヒ聖トーマス教会少年合唱団
 ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
 ゲオルグ・クリストフ・ビラー(指揮)

 収録時期:2012年4月5-6日
 収録場所:ライプツィヒ、聖トーマス教会(ライヴ)











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