昨日取り上げた書籍「物語 オーストリアの歴史」(中公新書、山之内克子著)を読んだまとめと感想の続き。昨日は700年続いたザルツブルク大司教領の歴史が、ナポレオンの侵攻によって終焉を迎えるところまでを、この書籍の内容に基づいて書いた。都市の人口で見ると、フランス革命直前に約17,000だったものが、1817年には約1万人近くに落ち込んだとしている(p.273)。「オーストリア併合直後の1818年には、あたかも衰退に追い打ちをかけるようにザルツァッハ河右岸の市街を大火が襲い、64軒の家屋が焼失する。しかし、ザルツブルクはもはや、かつてのヴォルフ・ディートリッヒのごとく、街の大規模な復興にただちに着手すべき領主を欠いていた。ようやく廃墟に手が加えられたのは、1840年代のことであった(p.273-274)」。1825年にザルツブルクを訪れたフランツ・シューベルトが兄に宛てた手紙には、住民がごくわずかになってしまって、草が伸び放題の古都の凋落ぶりを伝える内容が認められているという。かつての輝きが失われ、まるで「死都」となって時が止まってしまったような印象がある。
その後の19世紀の凋落後のザルツブルクについては、この本ではそれ以外には特に詳しくは触れられていない。次に記述されているのは、一気に20世紀へと下り、オーストリアが第一次世界大戦の契機となり、その敗戦によりハプスブルク家による君主国の歴史が終焉し、あらたな時代の激流に弱小国として翻弄される新生オーストリア共和国を巡って、政治的な対立が本格的な武装闘争へと発展していったという内容である(p.275)。こうした状況のなかで、「かつて大帝国の首都として威勢を誇ったウィーンでは、人々は救いのない喪失感に苛まれて(同)」いき、そうした「国家規模での激変のなかで、ザルツブルクという『アルプスの山腹にひっそりと立つ、時代に取り残されて眠り込んだような夢想的な小都市』(シュテファン・ツヴァイク)が、にわかに人々の心を惹きつけるようになる。政治的緊張と外交危機、そして民族的対立が首都ウィーンの芸術界に暗い影を落としたとき、多くの芸術家・文化人が、古い時代の情緒を湛えたザルツブルクに一種の逃避所をもとめたのだ(同)」。「ウィーンの文筆家グループを蝕む政治的派閥を嫌ってザルツブルク市街を見下ろすカプツィーナーベルクの山頂に隠棲しようとしたツヴァイクもまた、そのひとりであった(同)」。ツヴァイクの言によると、「世界中から無視されたオーストリア国の、このちっぽけな街におけるほど、音楽界、演劇界の至人たちが成功裏に結集し合った例は、ヨーロッパでも他に類を見ないだろう。都市ザルツブルクは、いままさに花開こうとしていた(同)」。ツヴァイク邸では、「ブルーノ・ワルターとアルトゥーロ・トスカニーニ夫妻、そしてマン家の人々が、ともにお茶のテーブルを囲むのが習わしとなっていた(p.276)」。
こうした変化の兆しにあって、その中心的な立役者となったのが、当時すでにベルリンの演劇界で成功者となっていた、マックス・ラインハルトだった。彼もまた、「次第に政治色を強めようとする現代芸術のあり方に疑問と失望を感じていた。1918年4月16日、のちに妻となる女優ヘレーネ・ティミヒに宛てた一通の電報は、当時の演劇界で『帝王』と呼ばれたこの奇才がザルツブルクに新たな本拠地を見出した瞬間を伝えている。『レオポルツクロン城の契約に署名完了。この貴重な建物にふさわしい内装を施すことを神がお許しくださいますように』(p.276)」。演劇界の巨匠マックス・ラインハルトによるザルツブルクにおけるオーストリアの文芸復興は、こうして、旧市街からホーエンザルツブルク城を眺めると、その向こう側の南方の池の畔に佇むレオポルツクロン城に活動の拠点を構えるところからスタートした。レオポルツクロン城は、かのフィルミアン大司教(前回で触れた)が、芸術を愛する甥のラクタンツに結婚祝いとして贈った宮殿だった。レクタンツは膨大な絵画を蒐集し、城内は優れた美術品で飾られ、豪華な内装の図書館には希書が溢れた。だが、その死後宮殿は荒廃し、大司教領解体後は、そのコレクションは散逸し、家具や装飾品なども撤去・売却された。保養ホテルやにわか成金の個人宅となっていた昔日のバロックの殿堂を自らの棲家として周辺の地所も含めて買い取り、「本格的な改築と修復作業を通じて大司教時代さながらの美神(ミューズ)の世界を再構築することが、彼にとっての当面の目標となった(p.277)」。「ここに営まれた華やかな社交生活は、一個人の趣味の領域に留まるものではなかった。ラインハルトが全財産を擲って目指したものは、まさに、当時失われつつあったバロック的文化そのものの復元にほかならなかった(p.278)」。「ハプスブルク帝国が栄華を極め、建築や絵画芸術が華やかに咲き誇ったバロック時代が彼ら(芸術家の多く)にとって郷愁の的となったことは、当然の帰結であったろう。帝国崩壊とともに消滅の危機に立たされた文化的伝統を目に見える形で具現化し、残し、生かしていきたい。バロックの『博物館都市』ザルツブルクは、このように願う人々に格好の舞台を提供したのであった。マックス・ラインハルトは、その実現過程を天才的な能力と感性を通じてみごとに演出したのである(同)」。まさに本文の一字一句がそのものずばりであって、他に足したり引いたりして、中途半端に要約する必要がないような、真理を言い表した的確な記述である。まさにそうだ、然り然りとうなずきながら、読みすすめるほかない。まさに現在のザルツブルク音楽祭が、この地において、どのような理念と気運によって、どのように始められていったのかが手に取る様にわかる文章であり、クラシックとは何かという命題が、じつに明確に理解できるではないか。
p.279からを要約すると、バイロイト音楽祭に倣ってモーツァルトを顕彰する音楽祭をザルツブルクで定期的に開催するというプランは、すでに19世紀末から熱心に議論されていたらしい。1917年には「ザルツブルク祝祭劇場設立協会」が発足し、ラインハルトも芸術顧問に指名されていたが、第一次大戦後の経済的混乱と後援者たるべき行政(ビューロクラシー)の消極性と遅延・遅滞により、計画は一時は暗礁に乗り上げたかに見えた。ラインハルトがレオポルツクロンに居を構えたのはまさにそうした最中であって、これが膠着した状況を好転させる契機となった。音楽祭の構想は、ラインハルトのプロデューサーとしての想像力を大いに刺激し、音楽のみならずあらゆる芸術を総合するようなダイナミックなアイデアが次々と浮かんだ。古くからの友人である作曲家リヒャルト・シュトラウスと作家フーゴー・フォン・ホフマンスタールが、よきアドヴァイザーとして彼を助けた。ラインハルトがレオポルツクロンを舞台に描いた世界観は、ホフマンスタールによる堅固な理論的・イデオロギー的裏打ちを得て、音楽祭というイベントのなかに昇華するときを迎えようとしていた。彼ら三人にとっては、財政面の困難も予想される「箱」、すなわち会場建設の問題は二次的な要因であって、一義的な事柄は、まずはなにかがここで演じられなければならなかった。そこで彼はすでに1911年にベルリンで上演して成功を見ていた「イェーダマン」をこの地で上演することに目をつける。元は英国の戯曲による道徳劇「エヴリマン」をホフマンスタールがドイツ語に翻訳し脚色した。そうと決まれば、事態は早々に進行しはじめた。会場は、ラインハルトが大司教イグナティウス・リーデルから大聖堂前の広場でので野外上演許可をやすやすと取り付け、さらにシュトラウスとホフマンスタールの強力な人脈は、豪華なスタッフとキャストの協力を無報酬で得ることに成功した。
こうして、1920年8月22日、ザルツブルク大聖堂を背景に、この地でのはじめての「イエーダーマン」の上演が実現する。これが、現在に繋がるザルツブルク音楽祭の歴史的な第一歩となる。翌年からはオペラとコンサートもプログラムに加わり、ここに本格的な音楽祭が形づくられて行くことになる。このようにして、「政治が損なったものを芸術の力を通じて再生するというザルツブルクの夢は、まもなく暴力的な力で破壊される運命にあった(p.282)」。10年後にはヒトラーの台頭を見ることになるのである。
Max Reinhardt
上写真二点 レオポルツクロン城
フェルゼンライトシューレの舞台上の特徴的な構造は、かつて乗馬学校だった時に競技を観覧するために岩場を切り抜いてつくられたロージェ(個室席)を、そのまま背景として使用していることである。即ち現在、舞台とピット、客席となっている場所が、もともとは馬が競技を行う馬場だったことがわかる。
ザルツブルク祝祭劇場の三つの主要な会場である Grosses Festspielhaus, Hus für Mozart, Felsenreidschule の配置図
コメント