鉄分ちょっと多めな遊園地? [その他鉄道ネタいろいろ]
こんにちは、gonanaです。
本日のお題:今、行ってみたいスポット
コロナ禍になって以来、なかなか外出しずらい雰囲気が続き、行きたいとずっと思っているのに行けずにいる場所があちこちにあるので、どれか一つに絞ることは難しいですが、今「旬」なスポットということになると、やはり今月(4月)21日にリニューアルして再オープンしたばかりの、東京都荒川区にある「あらかわ遊園」ですかね。
あらかわ遊園をかつて訪れた時の事については以前も記事にしたことがありますが、日曜日で家族連れなど多くの人でにぎわっていたにもかかわらず、古き良き遊園地といった雰囲気の中、とても親しみやすい場所という印象を受けたものです。
そんなあらかわ遊園がリニューアルのため2018年11月末で一時休園になると聞いて、閉演にならなかったことには安心しつつも、独特ののんびりのどかな雰囲気が失われてしまうのかという懸念はありました。
そして、2020年度末という当初の予定からは遅れたものの、無事先日再オープンを迎えたわけです。折しも今年5月にあらかわ遊園は開園100年を迎えるそうで、100周年記念という意味でも絶好のタイミングだったと言えるでしょう。
その気になるリニューアル後のあらかわ遊園の様子はテレビでも取り上げられていたようですしネットの記事でも知ることができました。
残念ながら視覚障がい者の私には映像や写真でどこがどのように変わったのか、あるいは変わっていないのかを比べることはできませんが、記事を読んだりする限りでは劇的に何もかも変わってしまったということはなく、おそらくリニューアル前の雰囲気を程よく残してのリニューアルになったのかと思われます。
観覧車が最大高度を増し、7台あるゴンドラのうち1台は内部が透けているスケルトン式のゴンドラになったりという変化がある一方、「日本一遅い」という「ふぁみりーこーすたー」やメリーゴーランドなど、「昭和の遊園地」のイメージが浮かぶ乗り物も健在だったり動物とのふれあい広場があったりと、これなら多くの人が気軽に楽しめる場所になっていきそうな気がします。
そして、個人的に今回のあらかわ遊園リニューアルのポイントの一つだと思っているのが、園内の鉄道関連の施設です。
リニューアル前にも入り口近くに都電6000形6152号が展示保存されていたり、鉄道模型のジオラマが展示されている建物があったり(ここは残念ながら私は見学経験はありませんでしたが)しましたが、リニューアルを機に都電関連の展示を加えるなどしてパワーアップしたようです。
詳細は下記のリンク記事を参照してください。
“鉄道ファン”目線の楽しみ方を現地から解説 「あらかわ遊園」が3年半ぶりにリニューアルオープン(ABEMA TIMES) - Yahoo!ニュース
https://news.yahoo.co.jp/articles/d22df2e2d4db79d1135e5d2a638cb9f8eab9cbdc
楽しい思い出の原風景を、君にも…父が始めたNゲージジオラマ 遊び心に満ちた街を駆ける あらかわ遊園開園100年:東京新聞 TOKYO Web
https://www.tokyo-np.co.jp/article/172354
鉄道好きとしては、この記事で取り上げられている「鉄」スポットを巡るだけでも訪れる価値がありそうですが、私としてはリニューアル前に訪れることができなかった鉄道模型ジオラマが、こちらもリニューアルして引き続き展示されることもうれしかったし、新たに都電関係のグッズの展示が加わったのも地域に溶け込んだ遊園地の施設ならではでしょう。
そして、以前私があらかわ遊園を初めて訪れるきっかけにもなった都電6152号が新たにカフェとして利用できるようになったのも、同車のリニューアル後の行方が気になっていた私としては一安心というところです。
とにかく、親しみやすい雰囲気を十分に残しながらリニューアルしたあらかわ遊園、ぜひ行ってみたいものです。
本日のお題:今、行ってみたいスポット
コロナ禍になって以来、なかなか外出しずらい雰囲気が続き、行きたいとずっと思っているのに行けずにいる場所があちこちにあるので、どれか一つに絞ることは難しいですが、今「旬」なスポットということになると、やはり今月(4月)21日にリニューアルして再オープンしたばかりの、東京都荒川区にある「あらかわ遊園」ですかね。
あらかわ遊園をかつて訪れた時の事については以前も記事にしたことがありますが、日曜日で家族連れなど多くの人でにぎわっていたにもかかわらず、古き良き遊園地といった雰囲気の中、とても親しみやすい場所という印象を受けたものです。
そんなあらかわ遊園がリニューアルのため2018年11月末で一時休園になると聞いて、閉演にならなかったことには安心しつつも、独特ののんびりのどかな雰囲気が失われてしまうのかという懸念はありました。
そして、2020年度末という当初の予定からは遅れたものの、無事先日再オープンを迎えたわけです。折しも今年5月にあらかわ遊園は開園100年を迎えるそうで、100周年記念という意味でも絶好のタイミングだったと言えるでしょう。
その気になるリニューアル後のあらかわ遊園の様子はテレビでも取り上げられていたようですしネットの記事でも知ることができました。
残念ながら視覚障がい者の私には映像や写真でどこがどのように変わったのか、あるいは変わっていないのかを比べることはできませんが、記事を読んだりする限りでは劇的に何もかも変わってしまったということはなく、おそらくリニューアル前の雰囲気を程よく残してのリニューアルになったのかと思われます。
観覧車が最大高度を増し、7台あるゴンドラのうち1台は内部が透けているスケルトン式のゴンドラになったりという変化がある一方、「日本一遅い」という「ふぁみりーこーすたー」やメリーゴーランドなど、「昭和の遊園地」のイメージが浮かぶ乗り物も健在だったり動物とのふれあい広場があったりと、これなら多くの人が気軽に楽しめる場所になっていきそうな気がします。
そして、個人的に今回のあらかわ遊園リニューアルのポイントの一つだと思っているのが、園内の鉄道関連の施設です。
リニューアル前にも入り口近くに都電6000形6152号が展示保存されていたり、鉄道模型のジオラマが展示されている建物があったり(ここは残念ながら私は見学経験はありませんでしたが)しましたが、リニューアルを機に都電関連の展示を加えるなどしてパワーアップしたようです。
詳細は下記のリンク記事を参照してください。
“鉄道ファン”目線の楽しみ方を現地から解説 「あらかわ遊園」が3年半ぶりにリニューアルオープン(ABEMA TIMES) - Yahoo!ニュース
https://news.yahoo.co.jp/articles/d22df2e2d4db79d1135e5d2a638cb9f8eab9cbdc
楽しい思い出の原風景を、君にも…父が始めたNゲージジオラマ 遊び心に満ちた街を駆ける あらかわ遊園開園100年:東京新聞 TOKYO Web
https://www.tokyo-np.co.jp/article/172354
鉄道好きとしては、この記事で取り上げられている「鉄」スポットを巡るだけでも訪れる価値がありそうですが、私としてはリニューアル前に訪れることができなかった鉄道模型ジオラマが、こちらもリニューアルして引き続き展示されることもうれしかったし、新たに都電関係のグッズの展示が加わったのも地域に溶け込んだ遊園地の施設ならではでしょう。
そして、以前私があらかわ遊園を初めて訪れるきっかけにもなった都電6152号が新たにカフェとして利用できるようになったのも、同車のリニューアル後の行方が気になっていた私としては一安心というところです。
とにかく、親しみやすい雰囲気を十分に残しながらリニューアルしたあらかわ遊園、ぜひ行ってみたいものです。
旅で乗るんだったらやっぱり… [その他鉄道ネタいろいろ]
こんにちは、gonanaです。
本日のお題:列車の座席、あなたはクロスシート派?ロングシート派?
今日のお題は、鉄道ファンの私としての個人的な考えに思いっきり寄せて考えました。
ついては鉄道にあまり関心のない方にはよくわからない部分もあるかとは思いますが、どうかご容赦を。
まあ、たまにはこんなお題もいいかもしれませんし、今後もやるかもしれません(笑)
※この記事で(というか当ブログで)いう「クロスシート」とは、ざっくり言うと新幹線や特急列車のシートやいわゆるボックスシートのように列車の進行方向に対して垂直方向に座る座席、「ロングシート」とは通勤電車の一般的な座席のスタイルである窓を背にしたベンチ状のシートを言います。
で、私がクロスシート派、ロングシート派のどちらかといえば…
基本的にクロスシート派です。
もちろん、路線の特性やその車両が使われる列車の主な利用者層によって適切な座席の形態は異なるので、どんな列車であってもクロスシート車であるべき、などと考えているわけではありませんし、ロングシート車であっても快適な座り心地の座席という印象を持つ車両はいくつもあります。
ただ、特に何かの用事でではなく青春18きっぷ利用の鉄道旅など「楽しみ」で列車に乗るときには、1本の列車にロングシート車とクロスシート車が混在していたりすればできるだけクロスシート車を選んでしまいますし、列車によってクロスシート車の運用かロングシート車の運用化が分かる場合も日程が許す限りクロスシート車の列車を選びます。
例えば、かつての東海道本線静岡エリアでセミクロスシートの113・115系とロングシート(しかもトイレなし)の211系が混在していた当時にこのエリアを通るときには、なるべく211系に当たらないように乗り継ぎの高低を工夫してできるだけ113・115系に乗れるようにしていました。
とにかく個人的には、大都市の純粋な通勤電車はともかくとして、ある程度まとまった距離を運転し、混雑もさほどではない路線・列車に乗る場合にはやはりクロスシートのある車両の方がありがたいものです。
本日のお題:列車の座席、あなたはクロスシート派?ロングシート派?
今日のお題は、鉄道ファンの私としての個人的な考えに思いっきり寄せて考えました。
ついては鉄道にあまり関心のない方にはよくわからない部分もあるかとは思いますが、どうかご容赦を。
まあ、たまにはこんなお題もいいかもしれませんし、今後もやるかもしれません(笑)
※この記事で(というか当ブログで)いう「クロスシート」とは、ざっくり言うと新幹線や特急列車のシートやいわゆるボックスシートのように列車の進行方向に対して垂直方向に座る座席、「ロングシート」とは通勤電車の一般的な座席のスタイルである窓を背にしたベンチ状のシートを言います。
で、私がクロスシート派、ロングシート派のどちらかといえば…
基本的にクロスシート派です。
もちろん、路線の特性やその車両が使われる列車の主な利用者層によって適切な座席の形態は異なるので、どんな列車であってもクロスシート車であるべき、などと考えているわけではありませんし、ロングシート車であっても快適な座り心地の座席という印象を持つ車両はいくつもあります。
ただ、特に何かの用事でではなく青春18きっぷ利用の鉄道旅など「楽しみ」で列車に乗るときには、1本の列車にロングシート車とクロスシート車が混在していたりすればできるだけクロスシート車を選んでしまいますし、列車によってクロスシート車の運用かロングシート車の運用化が分かる場合も日程が許す限りクロスシート車の列車を選びます。
例えば、かつての東海道本線静岡エリアでセミクロスシートの113・115系とロングシート(しかもトイレなし)の211系が混在していた当時にこのエリアを通るときには、なるべく211系に当たらないように乗り継ぎの高低を工夫してできるだけ113・115系に乗れるようにしていました。
とにかく個人的には、大都市の純粋な通勤電車はともかくとして、ある程度まとまった距離を運転し、混雑もさほどではない路線・列車に乗る場合にはやはりクロスシートのある車両の方がありがたいものです。
【鉄道旅の思い出】2007年秋 長野電鉄乗り歩きの思い出 その6 [その他鉄道ネタいろいろ]
こんにちは、gonanaです。
2007年秋の長野電鉄乗り歩きの思い出の振り返り、今回で最終回です。
小布施駅構内の「ながでん電車の広場」を見学した後は、3500形の普通電車で長野方面へ折り返します。
この時点で時刻は14時半頃。
乗り歩きを行った2007年10月時点での長野電鉄全線(長野線・屋代線)の全線乗車をひとまず達成し、乗りたかった2000系と1000系「ゆけむり」にも乗れたのでこの列車に終点の長野駅まで乗車して乗り歩きを終わってもいいのですが、それではJR長野駅から乗車予定の篠ノ井線松本方面への列車までの間に中途半端な待ち時間ができてしまうので、とりあえずこの日何度目かの須坂駅で下車し、適当に発着する列車や併設されている車庫の留置車両などを撮影して時間を調整することにしました。
須坂駅に到着してホームのベンチで一休みしていると、車庫から、朝に乗車した編成とは異なる塗装の2000系が出庫してきました。
この編成は、かつて特急用として活躍した2000系のうち、朝に乗車したA編成とともに2007年秋時点でも現役を続けていたD編成でした。
D編成は、昭和32年の2000系登場当初のチョコレート色に白帯の塗装が復刻されたA編成に対し、昭和40~60年代の長野電鉄の標準塗装でもある赤とクリーム色のツートンカラーに塗装されていました。A編成の塗装が「栗まんじゅう」というあだ名がついていたのに対し、D編成にリバイバルされた塗装には「りんごっ子特急」というニックネームもあったようです。
私が子供の頃から鉄道雑誌や鉄道関連の本でよく見ていた2000系の姿はまさにこの赤とクリームのツートンカラーで、私にとってはこの塗装の方が馴染みがあります。
この塗装も長野電鉄の特急運転50周年を記念してリバイバルされたもので、しかもD編成に関してはこの塗装になってまだ日が浅かったらしく車体はとてもきれいでした。
2000系D編成の製造は昭和39年で、2007年時点で製造からすでに43年が経過していましたが、そうとは思えない美しい姿で目の前に現れてくれました。
ちなみにこの2000系D編成は、2012年3月末で現役を引退し、その後前回の記事でも触れた小布施駅構内の「ながでん電車の広場」で保存されているそうです。3両編成のうち1両は車内にも入ることができるようで、長野電鉄を再訪した折にはぜひ再会したいものです。
入線してきたD編成は須坂始発の普通長野行になるということなので、長野電鉄乗り歩きのスタートに続き締めも2000系でということにしました。
入線から発車まで少し時間があったのでもちろんホームでD編成を撮りまくり、16時過ぎにD編成は須坂駅を発車。
夕方になってきたからなのか、日中よりも乗客は多い印象でしたが、それでも混雑するというほどではなく、クロスシートに座って車窓を眺めながら長野駅へ向かいました。
須坂駅から20数分で到着した長野駅では、ここまで乗って来たD編成はもちろん、先に到着して折り返し発射待ちの1000系「ゆけむり」も再び撮影することができました。小田急時代のそれに近い塗装の1000系が地下ホームにたたずむ姿は、まるで小田急の新宿駅にいるのかと錯覚してしまいそうな風景でした。
これにて朝からの長野電鉄乗り歩きは、想定以上の成果を収めて無事終了となりました。
あとはJRの長野駅へ移動し、17時過ぎ発の甲府行に乗車して甲府へ、さらに甲府から高尾行へと115系同士を乗り継ぎ、高尾からは中央線と西武線を乗り継いで帰路につきました。
この長野電鉄乗り歩きからこの秋で15年となります。
あの頃と今の長野電鉄を比較すると、元JR253系「成田エクスプレス」改造の2100系特急「スノーモンキー」や、東京メトロ03系改造の3000系通勤者が登場する一方、ここまでの記事でも触れた通りかつての特急車2000系が引退したほか、須坂ー屋代間を結んでいた屋代線も廃止されてしまいました。
さらに3000系の登場によって元営団地下鉄3000系の3500・3600系の廃車が進んでいるそうで、この両形式も間もなく見納めになりそうであるなど、この間に長野電鉄にも様々な動きがありました。
15年前のように「ムーンライト信州」を利用したり115系の普通列車を乗り継ぐといったことはもうできなくなりましたが、新幹線を利用すれば長野も余裕で日帰り乗り鉄のできる土地になったので、機会をとらえてまた長野電鉄の乗り歩きに出かけたいと思っています。
2007年秋の長野電鉄乗り歩きの思い出の振り返り、今回で最終回です。
小布施駅構内の「ながでん電車の広場」を見学した後は、3500形の普通電車で長野方面へ折り返します。
この時点で時刻は14時半頃。
乗り歩きを行った2007年10月時点での長野電鉄全線(長野線・屋代線)の全線乗車をひとまず達成し、乗りたかった2000系と1000系「ゆけむり」にも乗れたのでこの列車に終点の長野駅まで乗車して乗り歩きを終わってもいいのですが、それではJR長野駅から乗車予定の篠ノ井線松本方面への列車までの間に中途半端な待ち時間ができてしまうので、とりあえずこの日何度目かの須坂駅で下車し、適当に発着する列車や併設されている車庫の留置車両などを撮影して時間を調整することにしました。
須坂駅に到着してホームのベンチで一休みしていると、車庫から、朝に乗車した編成とは異なる塗装の2000系が出庫してきました。
この編成は、かつて特急用として活躍した2000系のうち、朝に乗車したA編成とともに2007年秋時点でも現役を続けていたD編成でした。
D編成は、昭和32年の2000系登場当初のチョコレート色に白帯の塗装が復刻されたA編成に対し、昭和40~60年代の長野電鉄の標準塗装でもある赤とクリーム色のツートンカラーに塗装されていました。A編成の塗装が「栗まんじゅう」というあだ名がついていたのに対し、D編成にリバイバルされた塗装には「りんごっ子特急」というニックネームもあったようです。
私が子供の頃から鉄道雑誌や鉄道関連の本でよく見ていた2000系の姿はまさにこの赤とクリームのツートンカラーで、私にとってはこの塗装の方が馴染みがあります。
この塗装も長野電鉄の特急運転50周年を記念してリバイバルされたもので、しかもD編成に関してはこの塗装になってまだ日が浅かったらしく車体はとてもきれいでした。
2000系D編成の製造は昭和39年で、2007年時点で製造からすでに43年が経過していましたが、そうとは思えない美しい姿で目の前に現れてくれました。
ちなみにこの2000系D編成は、2012年3月末で現役を引退し、その後前回の記事でも触れた小布施駅構内の「ながでん電車の広場」で保存されているそうです。3両編成のうち1両は車内にも入ることができるようで、長野電鉄を再訪した折にはぜひ再会したいものです。
入線してきたD編成は須坂始発の普通長野行になるということなので、長野電鉄乗り歩きのスタートに続き締めも2000系でということにしました。
入線から発車まで少し時間があったのでもちろんホームでD編成を撮りまくり、16時過ぎにD編成は須坂駅を発車。
夕方になってきたからなのか、日中よりも乗客は多い印象でしたが、それでも混雑するというほどではなく、クロスシートに座って車窓を眺めながら長野駅へ向かいました。
須坂駅から20数分で到着した長野駅では、ここまで乗って来たD編成はもちろん、先に到着して折り返し発射待ちの1000系「ゆけむり」も再び撮影することができました。小田急時代のそれに近い塗装の1000系が地下ホームにたたずむ姿は、まるで小田急の新宿駅にいるのかと錯覚してしまいそうな風景でした。
これにて朝からの長野電鉄乗り歩きは、想定以上の成果を収めて無事終了となりました。
あとはJRの長野駅へ移動し、17時過ぎ発の甲府行に乗車して甲府へ、さらに甲府から高尾行へと115系同士を乗り継ぎ、高尾からは中央線と西武線を乗り継いで帰路につきました。
この長野電鉄乗り歩きからこの秋で15年となります。
あの頃と今の長野電鉄を比較すると、元JR253系「成田エクスプレス」改造の2100系特急「スノーモンキー」や、東京メトロ03系改造の3000系通勤者が登場する一方、ここまでの記事でも触れた通りかつての特急車2000系が引退したほか、須坂ー屋代間を結んでいた屋代線も廃止されてしまいました。
さらに3000系の登場によって元営団地下鉄3000系の3500・3600系の廃車が進んでいるそうで、この両形式も間もなく見納めになりそうであるなど、この間に長野電鉄にも様々な動きがありました。
15年前のように「ムーンライト信州」を利用したり115系の普通列車を乗り継ぐといったことはもうできなくなりましたが、新幹線を利用すれば長野も余裕で日帰り乗り鉄のできる土地になったので、機会をとらえてまた長野電鉄の乗り歩きに出かけたいと思っています。
【鉄道旅の思い出】2007年秋 長野電鉄乗り歩きの思い出 その5 [その他鉄道ネタいろいろ]
こんにちは、gonanaです。
2007年秋の長野電鉄乗り歩きの思い出の振り返り、まだまだ続きます。
屋代線で屋代駅まで往復し、再び須坂駅に戻ってきた後は、長野線を湯田中方面に少し下った小布施駅に向かいました。
須坂から小布施まで乗車したのは、元東急8500系を改造した8500系。同形式は3500・3600系とともに長野電鉄の主力通勤型車両で、この形式も編成が短くなった以外は東急時代と外観に大きな変化がなく、東急沿線ではなかなか見られない田園風景との組み合わせが新鮮です。
小布施駅へ向かったのは、この駅の構内に「ながでん電車の広場」という車両展示施設があり、それを見学するためでした。
「ながでん電車の広場」は、1990年に長野電鉄創業70周年を記念して開設されたものです。同駅の島式ホームに隣接した側線を活用したような形で設けられており、ホームから専用の通路を通ってアクセスするようになっています。
小布施駅まで(から)有効の乗車券か同駅の入場券があれば入場でき、私が乗り歩きに使用した長野電鉄のフリーきっぷでももちろんOKです。
小布施駅で8500系を下車し、さっそく電車の広場へ向かいます。
2007年当時ここで保存展示されていた車両は現在とは異なり、戦前から戦後にかけて製造された電車3両(デハニ201・デハ354・モハ1005)と電気機関車1両(ED502)でした。各車とも、ここへ来る前は須坂駅構内で保管されていたり譲渡先から里帰りしてきた車両たちです。
車両の脇には窓から車内が見えるように通路が設けられ、一部の車両は社内にも入ることができたと記憶しています。
ただ、「広場」といっても先ほども書いた通り駅の側線を利用していることもありスペースはかなり狭く、それぞれの車両を個々にゆっくり眺めたり写真を撮影したりするのがかなり難しいのは残念でした。
この「ながでん電車の広場」、私が訪れた5年後の2012年には展示車両が同年に引退した2000系D編成(同編成については次回触れます)に変更され、それまで展示されていた4両は一時旧屋代線の信濃川田駅構内に留置された後、改めて長野県内や千葉県内の別の場所で保存されているそうです。(一部はカットボディー化の上保存)
「電車の広場」の見学を楽しんだ後は、3500形の長野行でまたまた須坂駅へ戻りました。
長野電鉄乗り歩きの思い出の振り返り、もう少し続きます。
2007年秋の長野電鉄乗り歩きの思い出の振り返り、まだまだ続きます。
屋代線で屋代駅まで往復し、再び須坂駅に戻ってきた後は、長野線を湯田中方面に少し下った小布施駅に向かいました。
須坂から小布施まで乗車したのは、元東急8500系を改造した8500系。同形式は3500・3600系とともに長野電鉄の主力通勤型車両で、この形式も編成が短くなった以外は東急時代と外観に大きな変化がなく、東急沿線ではなかなか見られない田園風景との組み合わせが新鮮です。
小布施駅へ向かったのは、この駅の構内に「ながでん電車の広場」という車両展示施設があり、それを見学するためでした。
「ながでん電車の広場」は、1990年に長野電鉄創業70周年を記念して開設されたものです。同駅の島式ホームに隣接した側線を活用したような形で設けられており、ホームから専用の通路を通ってアクセスするようになっています。
小布施駅まで(から)有効の乗車券か同駅の入場券があれば入場でき、私が乗り歩きに使用した長野電鉄のフリーきっぷでももちろんOKです。
小布施駅で8500系を下車し、さっそく電車の広場へ向かいます。
2007年当時ここで保存展示されていた車両は現在とは異なり、戦前から戦後にかけて製造された電車3両(デハニ201・デハ354・モハ1005)と電気機関車1両(ED502)でした。各車とも、ここへ来る前は須坂駅構内で保管されていたり譲渡先から里帰りしてきた車両たちです。
車両の脇には窓から車内が見えるように通路が設けられ、一部の車両は社内にも入ることができたと記憶しています。
ただ、「広場」といっても先ほども書いた通り駅の側線を利用していることもありスペースはかなり狭く、それぞれの車両を個々にゆっくり眺めたり写真を撮影したりするのがかなり難しいのは残念でした。
この「ながでん電車の広場」、私が訪れた5年後の2012年には展示車両が同年に引退した2000系D編成(同編成については次回触れます)に変更され、それまで展示されていた4両は一時旧屋代線の信濃川田駅構内に留置された後、改めて長野県内や千葉県内の別の場所で保存されているそうです。(一部はカットボディー化の上保存)
「電車の広場」の見学を楽しんだ後は、3500形の長野行でまたまた須坂駅へ戻りました。
長野電鉄乗り歩きの思い出の振り返り、もう少し続きます。
【鉄道旅の思い出】2007年秋 長野電鉄乗り歩きの思い出 その4 [その他鉄道ネタいろいろ]
こんにちは、gonanaです。
2007年秋の長野電鉄乗り歩きの思い出の振り返り、今回も続きます。
元小田急ロマンスカーHiSE10000系を改造した長野電鉄1000系の特急「ゆけむり」で須坂ー湯田中間を往復した後は、一旦駅の外に出て昼食後、今度は同駅で長野ー湯田中間の「長野線」から分岐していた屋代線に乗車します。
屋代線は、須坂駅と現在ではしなの鉄道の駅になっている旧国鉄信越本線屋代駅とを結んでいた路線でした。私が乗車した2007年当時はすべて須坂ー屋代間の折り返し運転でしたが、昭和の時代には上野駅から直通の急行列車が動線を経由して湯田中方面まで運転され、国鉄のキハ57系ディーゼルカーや169系電車がこの区間に乗り入れていました。
2007年当時の屋代線は、60~90分に1本ぐらいの間隔で運転されていましたが、私が昼食を終えて須坂駅に戻って来た時には、次の屋代行の発車までにはあと20分ほどと割合いいタイミングでした。
屋代線の発着するホームには、同線の折り返し運用につく3500形が停車していました。
3500形は元営団地下鉄(現 東京メトロ)日比谷線3000系で、同じ種車の3600形とともに屋代線だけでなく長野電鉄全線の普通電車の主力形式として活躍した車両です。
車体は赤い帯が前面と側面に入れられている他は営団時代とほとんど変化がなく、車内もワンマン運転関連の機器を除けばほぼ営団時代と変わっていないようでした。
やがて発車時刻が来て3500形は発車。土曜日の昼下がりだからか乗客はかなり少なく、2両合わせて10人に届いていたかどうかぐらいだったと思います。
沿線は長野線と同じような田園風景が広がっていました。私は営団3000系には日比谷線内で数回しか乗ったことがありませんでしたが、地下線内で乗客も多い日比谷線とのギャップがかなり新鮮に感じられました。
須坂から30分弱(?)で終点の屋代駅に到着。同駅はしなの鉄道との乗り換え駅ですが、私が同駅にいた時間にはしなの鉄道の車両は見かけなかったように記憶しています。屋代線ホームの柱には「須坂・湯田中・木島・長野方面」(駅名の順番等が少し違っていたかもしれませんが)と、その5年前の2002年に廃止された木島線(信州中野ー木島間)の終点木島の駅名が入った古びた標示板も残っていて、思わぬところで乗車する機会のなかった木島線の存在を思い出すことになりました。
屋代からは折り返しの須坂行で再び須坂へ戻りました。
屋代線はその後2012年4月1日に廃止となってしまい、結果的にこの日の乗車が屋代線唯一の乗車経験となりました。
次回も続きます。
2007年秋の長野電鉄乗り歩きの思い出の振り返り、今回も続きます。
元小田急ロマンスカーHiSE10000系を改造した長野電鉄1000系の特急「ゆけむり」で須坂ー湯田中間を往復した後は、一旦駅の外に出て昼食後、今度は同駅で長野ー湯田中間の「長野線」から分岐していた屋代線に乗車します。
屋代線は、須坂駅と現在ではしなの鉄道の駅になっている旧国鉄信越本線屋代駅とを結んでいた路線でした。私が乗車した2007年当時はすべて須坂ー屋代間の折り返し運転でしたが、昭和の時代には上野駅から直通の急行列車が動線を経由して湯田中方面まで運転され、国鉄のキハ57系ディーゼルカーや169系電車がこの区間に乗り入れていました。
2007年当時の屋代線は、60~90分に1本ぐらいの間隔で運転されていましたが、私が昼食を終えて須坂駅に戻って来た時には、次の屋代行の発車までにはあと20分ほどと割合いいタイミングでした。
屋代線の発着するホームには、同線の折り返し運用につく3500形が停車していました。
3500形は元営団地下鉄(現 東京メトロ)日比谷線3000系で、同じ種車の3600形とともに屋代線だけでなく長野電鉄全線の普通電車の主力形式として活躍した車両です。
車体は赤い帯が前面と側面に入れられている他は営団時代とほとんど変化がなく、車内もワンマン運転関連の機器を除けばほぼ営団時代と変わっていないようでした。
やがて発車時刻が来て3500形は発車。土曜日の昼下がりだからか乗客はかなり少なく、2両合わせて10人に届いていたかどうかぐらいだったと思います。
沿線は長野線と同じような田園風景が広がっていました。私は営団3000系には日比谷線内で数回しか乗ったことがありませんでしたが、地下線内で乗客も多い日比谷線とのギャップがかなり新鮮に感じられました。
須坂から30分弱(?)で終点の屋代駅に到着。同駅はしなの鉄道との乗り換え駅ですが、私が同駅にいた時間にはしなの鉄道の車両は見かけなかったように記憶しています。屋代線ホームの柱には「須坂・湯田中・木島・長野方面」(駅名の順番等が少し違っていたかもしれませんが)と、その5年前の2002年に廃止された木島線(信州中野ー木島間)の終点木島の駅名が入った古びた標示板も残っていて、思わぬところで乗車する機会のなかった木島線の存在を思い出すことになりました。
屋代からは折り返しの須坂行で再び須坂へ戻りました。
屋代線はその後2012年4月1日に廃止となってしまい、結果的にこの日の乗車が屋代線唯一の乗車経験となりました。
次回も続きます。
【鉄道旅の思い出】2007年秋 長野電鉄乗り歩きの思い出 その3 [その他鉄道ネタいろいろ]
こんにちは、gonanaです。
2007年秋の長野電鉄乗り歩きの思い出の振り返り、今回も続きます。
長野駅から、昭和30年代の製造当初のチョコレート色に塗装が復元された2000系A編成に乗車して到着した須坂駅は、駅構内に車庫が併設されていたり、2007年当時はしなの鉄道屋代駅へ向かう屋代線が分岐するなど、長野電鉄の運航の拠点になっている駅で、ホームも(当時)2面4線と規模の大きな駅です。
ローカル私鉄ながら運転本数もそれなりにあるほか、車庫の留置線に止まる車両もホームからよく見えるので、須坂駅に着いた後はしばらく上下のホームを行ったり来たりして発着する電車や車庫内の電車を色々撮影して過ごしました。
須坂駅で撮影した車両の中には、上り(長野方面)と屋代線の発着するホームの脇の側線に留置されていた「新OSカー」10系の姿もありました。
10系は1966年に登場し鉄道友の会の「ローレル賞」も受賞した「OSカー」0系のコンセプトを引き継いで1980年に1編成だけ製造されたロングシート車で、今のところ長野電鉄では最後のオリジナル車両です。
しかし私が乗り歩きした2007年現在でもまだまだ車齢がそれほど古くないにもかかわらず、同車はすでに運用を離脱してしばらく経過していたようで、私が見た時点でも塗装の色あせがかなり進んだ痛々しい姿でした。
3扉ロングシート車のままでも、あるいはセミクロスシート車化や2扉車化などを行ってどこかのローカル私鉄へ譲渡しては?などと妄想してもみましたが、結局そのまま解体されてしまったようで残念です。
そうこうしているうちに、10時半過ぎだったかと思いますが、須坂駅の下り(湯田中方面)ホームに車庫から2000系に代わる特急用車両1000系「ゆけむり」が入線し、須坂市初の湯田中行き特急となりました。
1000系はかつて小田急でロマンスカー「HiSE」として活躍した10000系を改造して譲受した車両で、ロマンスカー伝統の連接構造はそのままに編成を短縮(11車体→4車体)して2005年に2編成が導入されました。
私は小田急でHiSEに乗ったことがなく(HiSEが最終的に小田急から全車引退した2012年までの間にも乗車するチャンスがありませんでした)、1000系に乗ることも長野電鉄乗り歩きの目的の一つでした。
須坂駅に入線してきた1000系は編成が短いことを意識しなければ小田急時代と見た目に大きな変化はなく(実際には塗装の色味が小田急時代とは微妙に異なるそうですが、私にはほとんど区別がつきませんでした)、気分は限りなく小田急ロマンスカーに乗る前のわくわく感に近いものでした。
また当時長野電鉄の特急料金はわずか100円で(現在はいくらなのか不明ですが)、さらに当時は座席指定制でもなかったので1000系自慢の展望席も早い者勝ちで確保することができ(現在は日中の一部列車では展望席は指定席になっているようです)、もちろん私は先頭車の展望席に陣取りました。
「ゆけむり」は隣のホームに到着した須坂止まりの普通電車からの接続を受けて発車。
小田急時代のような高速運転は望めないものの、小田急線とも異なるのどかな田園風景を眺めながらロマンスカー展望席の旅を満喫し、30分弱ほどで終点の湯田中駅に到着しました。
湯田中では折り返し時間に駅前を少し散策しました。足湯もあったようですが、それに浸かっていたらこの後動きたくなりそうな気がして断念しました。
湯田中からは先ほど乗って来た1000系「ゆけむり」に再び乗車して須坂へ戻りました。もちろん今回も長野方先頭車の展望席に乗車して前面展望を堪能しました。
次回も続きます。
2007年秋の長野電鉄乗り歩きの思い出の振り返り、今回も続きます。
長野駅から、昭和30年代の製造当初のチョコレート色に塗装が復元された2000系A編成に乗車して到着した須坂駅は、駅構内に車庫が併設されていたり、2007年当時はしなの鉄道屋代駅へ向かう屋代線が分岐するなど、長野電鉄の運航の拠点になっている駅で、ホームも(当時)2面4線と規模の大きな駅です。
ローカル私鉄ながら運転本数もそれなりにあるほか、車庫の留置線に止まる車両もホームからよく見えるので、須坂駅に着いた後はしばらく上下のホームを行ったり来たりして発着する電車や車庫内の電車を色々撮影して過ごしました。
須坂駅で撮影した車両の中には、上り(長野方面)と屋代線の発着するホームの脇の側線に留置されていた「新OSカー」10系の姿もありました。
10系は1966年に登場し鉄道友の会の「ローレル賞」も受賞した「OSカー」0系のコンセプトを引き継いで1980年に1編成だけ製造されたロングシート車で、今のところ長野電鉄では最後のオリジナル車両です。
しかし私が乗り歩きした2007年現在でもまだまだ車齢がそれほど古くないにもかかわらず、同車はすでに運用を離脱してしばらく経過していたようで、私が見た時点でも塗装の色あせがかなり進んだ痛々しい姿でした。
3扉ロングシート車のままでも、あるいはセミクロスシート車化や2扉車化などを行ってどこかのローカル私鉄へ譲渡しては?などと妄想してもみましたが、結局そのまま解体されてしまったようで残念です。
そうこうしているうちに、10時半過ぎだったかと思いますが、須坂駅の下り(湯田中方面)ホームに車庫から2000系に代わる特急用車両1000系「ゆけむり」が入線し、須坂市初の湯田中行き特急となりました。
1000系はかつて小田急でロマンスカー「HiSE」として活躍した10000系を改造して譲受した車両で、ロマンスカー伝統の連接構造はそのままに編成を短縮(11車体→4車体)して2005年に2編成が導入されました。
私は小田急でHiSEに乗ったことがなく(HiSEが最終的に小田急から全車引退した2012年までの間にも乗車するチャンスがありませんでした)、1000系に乗ることも長野電鉄乗り歩きの目的の一つでした。
須坂駅に入線してきた1000系は編成が短いことを意識しなければ小田急時代と見た目に大きな変化はなく(実際には塗装の色味が小田急時代とは微妙に異なるそうですが、私にはほとんど区別がつきませんでした)、気分は限りなく小田急ロマンスカーに乗る前のわくわく感に近いものでした。
また当時長野電鉄の特急料金はわずか100円で(現在はいくらなのか不明ですが)、さらに当時は座席指定制でもなかったので1000系自慢の展望席も早い者勝ちで確保することができ(現在は日中の一部列車では展望席は指定席になっているようです)、もちろん私は先頭車の展望席に陣取りました。
「ゆけむり」は隣のホームに到着した須坂止まりの普通電車からの接続を受けて発車。
小田急時代のような高速運転は望めないものの、小田急線とも異なるのどかな田園風景を眺めながらロマンスカー展望席の旅を満喫し、30分弱ほどで終点の湯田中駅に到着しました。
湯田中では折り返し時間に駅前を少し散策しました。足湯もあったようですが、それに浸かっていたらこの後動きたくなりそうな気がして断念しました。
湯田中からは先ほど乗って来た1000系「ゆけむり」に再び乗車して須坂へ戻りました。もちろん今回も長野方先頭車の展望席に乗車して前面展望を堪能しました。
次回も続きます。
【鉄道旅の思い出】2007年秋 長野電鉄乗り歩きの思い出 その2 [その他鉄道ネタいろいろ]
こんにちは、gonanaです。
2007年秋の長野電鉄乗り歩きの思い出の振り返り、今回も続きます。
夜行快速「ムーンライト信州」と115系の篠ノ井線普通列車を乗り継いで到着した長野駅で少し撮り鉄をした後は、いよいよこの日の目的である長野電鉄の乗り歩きに出発です。
JR長野駅の改札を出て一度駅前広場に出た後、改めて地下駅への階段を下りていくと、そこにあるのが長野電鉄の長野駅で、JRの大ターミナル駅に隣接した地下駅から乗車するという、ちょっとローカル私鉄らしからぬ光景が展開されています。もっとも、平日であればまだ少しラッシュの名残がありそうな9時少し前の改札付近も、当日が土曜日だからなのか人通りは少なく、慌ただしい感じはしませんでした。
駅の窓口で1日フリーきっぷを購入して改札から地下2階のホームに降りると、長さこそ短いもののこれも大手私鉄のターミナルのような3線の立派な地下ホームの1線にはチョコレート色に細い白帯を巻いた塗装の電車が停車していました。
この車両こそ、この日の長野電鉄乗り歩きの目的の一つである、かつての特急用車両2000系でした。
長野電鉄2000系は、1957(昭和32年)に登場した特急用の2扉クロスシート車でした。
2枚窓の「湘南顔」の前面形状と全体に丸みを帯びた車体の形状が特徴で、長く長野電鉄を代表する車両の一つとして活躍した車両でした。
ただ、その2000系もこの乗り歩き旅をした2007年にちょうど登場から50年を迎え、この時点ではA編成からD編成まで4編成が製造されたうちのB・Cの2編成はすでに廃車され、残りのA・Dの2編成が活躍を続けていました。
そしてこの2編成もうかうかしていると一度も乗らないまま引退ということになりかねないので、長野電鉄の乗り歩きをしようと決めた時、絶対に乗りたいと思った車両でした。
2007年時点で残っていた2000系2編成には、長野電鉄の特急運転50周年を記念して以前2000系が纏っていた塗装がリバイバルされて運用されていて、長野駅ホームに停車していたのは2編成のうちのA編成でした。
A編成に塗られていたチョコレート色に白帯の塗装は2000系が登場した頃の塗装で、当時は「栗まんじゅう」というニックネームもあったとか。その他、先頭部にはおそらく昔の特急ヘッドマークを復刻したと思われるヘッドマークも掲げられるなど、停車中についついあれこれ見たり撮影したりしているうちに発車時刻が来てしまいました。
2000系A編成の普通電車須坂行は、(確か)9時頃に長野駅を発車し、しばらく地下区間を走った後善光寺下駅付近で地上に出て、住宅地と田園風景の中を須坂駅へ向かいました。
乗車した列車の乗客は少なく、運転室背後で前面展望を楽しんだり、回転式ながらボックス状態で固定されたクロスシートをワンボックス占領して座り心地を味わったりしているうちに20分ちょっとで終点の須坂駅に到着。
改めてホームでA編成を撮影し、駅に併設された車庫へと引き上げる同編成を見送りました。
ちなみにこのA編成、2011年に運用を離脱した後、保存を目的に屋代線の信濃川田駅構内に留置されていましたが、結局数年前に解体されてしまったそうで残念です。
次回も長野電鉄乗り歩きの思い出、続きます。
2007年秋の長野電鉄乗り歩きの思い出の振り返り、今回も続きます。
夜行快速「ムーンライト信州」と115系の篠ノ井線普通列車を乗り継いで到着した長野駅で少し撮り鉄をした後は、いよいよこの日の目的である長野電鉄の乗り歩きに出発です。
JR長野駅の改札を出て一度駅前広場に出た後、改めて地下駅への階段を下りていくと、そこにあるのが長野電鉄の長野駅で、JRの大ターミナル駅に隣接した地下駅から乗車するという、ちょっとローカル私鉄らしからぬ光景が展開されています。もっとも、平日であればまだ少しラッシュの名残がありそうな9時少し前の改札付近も、当日が土曜日だからなのか人通りは少なく、慌ただしい感じはしませんでした。
駅の窓口で1日フリーきっぷを購入して改札から地下2階のホームに降りると、長さこそ短いもののこれも大手私鉄のターミナルのような3線の立派な地下ホームの1線にはチョコレート色に細い白帯を巻いた塗装の電車が停車していました。
この車両こそ、この日の長野電鉄乗り歩きの目的の一つである、かつての特急用車両2000系でした。
長野電鉄2000系は、1957(昭和32年)に登場した特急用の2扉クロスシート車でした。
2枚窓の「湘南顔」の前面形状と全体に丸みを帯びた車体の形状が特徴で、長く長野電鉄を代表する車両の一つとして活躍した車両でした。
ただ、その2000系もこの乗り歩き旅をした2007年にちょうど登場から50年を迎え、この時点ではA編成からD編成まで4編成が製造されたうちのB・Cの2編成はすでに廃車され、残りのA・Dの2編成が活躍を続けていました。
そしてこの2編成もうかうかしていると一度も乗らないまま引退ということになりかねないので、長野電鉄の乗り歩きをしようと決めた時、絶対に乗りたいと思った車両でした。
2007年時点で残っていた2000系2編成には、長野電鉄の特急運転50周年を記念して以前2000系が纏っていた塗装がリバイバルされて運用されていて、長野駅ホームに停車していたのは2編成のうちのA編成でした。
A編成に塗られていたチョコレート色に白帯の塗装は2000系が登場した頃の塗装で、当時は「栗まんじゅう」というニックネームもあったとか。その他、先頭部にはおそらく昔の特急ヘッドマークを復刻したと思われるヘッドマークも掲げられるなど、停車中についついあれこれ見たり撮影したりしているうちに発車時刻が来てしまいました。
2000系A編成の普通電車須坂行は、(確か)9時頃に長野駅を発車し、しばらく地下区間を走った後善光寺下駅付近で地上に出て、住宅地と田園風景の中を須坂駅へ向かいました。
乗車した列車の乗客は少なく、運転室背後で前面展望を楽しんだり、回転式ながらボックス状態で固定されたクロスシートをワンボックス占領して座り心地を味わったりしているうちに20分ちょっとで終点の須坂駅に到着。
改めてホームでA編成を撮影し、駅に併設された車庫へと引き上げる同編成を見送りました。
ちなみにこのA編成、2011年に運用を離脱した後、保存を目的に屋代線の信濃川田駅構内に留置されていましたが、結局数年前に解体されてしまったそうで残念です。
次回も長野電鉄乗り歩きの思い出、続きます。
【鉄道旅の思い出】2007年秋 長野電鉄乗り歩きの思い出 その1 [その他鉄道ネタいろいろ]
こんにちは、gonanaです。
前回・前々回と、「生まれ故郷」ともいえる総合車両製作所横浜事業所に「里帰り」して復元保存されることになった東急初代5000系「青ガエル」の話題からのつながりで、私がかつて東急目蒲線と熊本電鉄で「青ガエル」に乗車した時の思い出をつづりました。そして今回からは…
このほど「里帰り」する「青ガエル」のデハ5015号が、東急各線での活躍を終えた後長野県の長野電鉄に譲渡されて活躍していたという過去からのつながりで、私が2007年秋に「夜行日帰り」で長野電鉄の乗り歩きに出かけた時の思い出を振り返りたいと思います。
ちなみに、その2007年の時点では、長野電鉄に移って活躍していた「青ガエル」はすでに全社引退した後のため、この乗り歩きの思い出の中には登場しませんので念のため。
2007年10月12日の夜、私は長野電鉄の乗り鉄へ向かうため、183・189系の夜行快速「ムーンライト信州」に乗るべく新宿駅へ向かいました。
青春18きっぷのシーズンではないものの、中央線の夜行列車らしくこれから登山へ向かうのでは?という感じの服装や荷物の人もそこそこの人数がいて、「ムーンライト信州」も私が乗車した車両に限れば6割ぐらい座席が埋まった状態で23:54に新宿駅を発車しました。
「ムーンライト信州」は翌朝4時半頃に松本駅に到着。私はここで下車し、篠ノ井線に乗り換えて長野駅へ向かいますが、篠ノ井線の始発は6時を回ってからの発車のため、それまでは駅周辺をぶらぶらしたり駅の待合室で一休みしたりして時間をつぶしました。
6時を過ぎてやっと乗車した115系の篠ノ井線で到着した長野駅では、長野電鉄に乗りに行く前にホームで少し撮り鉄。
115系や特急「しなの」の383系、飯山線のキハ110系、さらにはしなの鉄道の快速「しなのサンライズ」で到着したしなの鉄道の169系まで、1時間ほどの短い間ながらいろいろな車両の撮影を楽しむことができました。
さて、ひととおり長野駅在来線ホームにやってくる車両を撮影したところで、次回からいよいよ長野電鉄の乗り歩きに出発します。
前回・前々回と、「生まれ故郷」ともいえる総合車両製作所横浜事業所に「里帰り」して復元保存されることになった東急初代5000系「青ガエル」の話題からのつながりで、私がかつて東急目蒲線と熊本電鉄で「青ガエル」に乗車した時の思い出をつづりました。そして今回からは…
このほど「里帰り」する「青ガエル」のデハ5015号が、東急各線での活躍を終えた後長野県の長野電鉄に譲渡されて活躍していたという過去からのつながりで、私が2007年秋に「夜行日帰り」で長野電鉄の乗り歩きに出かけた時の思い出を振り返りたいと思います。
ちなみに、その2007年の時点では、長野電鉄に移って活躍していた「青ガエル」はすでに全社引退した後のため、この乗り歩きの思い出の中には登場しませんので念のため。
2007年10月12日の夜、私は長野電鉄の乗り鉄へ向かうため、183・189系の夜行快速「ムーンライト信州」に乗るべく新宿駅へ向かいました。
青春18きっぷのシーズンではないものの、中央線の夜行列車らしくこれから登山へ向かうのでは?という感じの服装や荷物の人もそこそこの人数がいて、「ムーンライト信州」も私が乗車した車両に限れば6割ぐらい座席が埋まった状態で23:54に新宿駅を発車しました。
「ムーンライト信州」は翌朝4時半頃に松本駅に到着。私はここで下車し、篠ノ井線に乗り換えて長野駅へ向かいますが、篠ノ井線の始発は6時を回ってからの発車のため、それまでは駅周辺をぶらぶらしたり駅の待合室で一休みしたりして時間をつぶしました。
6時を過ぎてやっと乗車した115系の篠ノ井線で到着した長野駅では、長野電鉄に乗りに行く前にホームで少し撮り鉄。
115系や特急「しなの」の383系、飯山線のキハ110系、さらにはしなの鉄道の快速「しなのサンライズ」で到着したしなの鉄道の169系まで、1時間ほどの短い間ながらいろいろな車両の撮影を楽しむことができました。
さて、ひととおり長野駅在来線ホームにやってくる車両を撮影したところで、次回からいよいよ長野電鉄の乗り歩きに出発します。
「青ガエル」乗車の思い出 熊本電鉄編 [鉄道ニュース]
こんにちは、gonanaです。
前回に引き続き、「青ガエル」こと元東急初代5000系に乗車した時の思い出です。
前回も書いた通り、私の「青ガエル」乗車経験は1982年か83年頃の一回だけに終わり、その「青ガエル」も1984年には最後まで残っていた目蒲線からの引退を持って古巣の東急の線路上から姿を消しました。
しかしこの「青ガエル」は軽量でサイズがローカル私鉄にとってちょうどいい車体のおかげもあって、多くの車両が各地のローカル私鉄に譲渡されて第二の車生(?)を送ることになりました。このたび総合車両製作所横浜事業所で復元の上で保存されることになった「青ガエル」の先頭車デハ5015号も、東急での引退後長野電鉄に譲渡されて活躍していた経歴の持ち主です。
そんな、各地のローカル私鉄で再度の活躍を始めた「青ガエル」たちも、私がやっと心おきなく長距離の鉄道旅に出られるようになった1990年代前半には新天地でもそろそろ引退の時期が近づきつつあり、結局のところ私が乗車することができたのは、熊本電鉄に譲渡された車両だけでした。この他、乗車中の別の列車からの「見る鉄」ができたのも長野県の松本電鉄(現 アルピコ交通)と静岡県の岳南鉄道(現 岳南電車)のものだけでした。
それでも、熊本電鉄では短い区間ながら2度にわたり乗車することができたので、今回はその時の思い出を簡単ですが振り返りたいと思います。
最初に熊本電鉄の青ガエルに乗ったのは、確か2000年の夏休み当たりの九州への鉄道旅の時だったと思います。
熊本市電の乗り歩きをした後、JRの上熊本駅のすぐ前にある熊本電鉄の上熊本駅へ向かうと、1面1線だけのホームに北熊本駅行の青ガエル(5100形)が停まっていました。塗装は上半分が水色、下半分が青、その間に白い縁取りのある赤帯が入った派手なものになっていました。
早速熊本電鉄の終点の御代志(みよし)駅までの乗車券を買い(一日乗車券を購入したのかも?)、やがて私も含め数人の乗客を乗せて発射。
車窓は10数年前に青ガエルに乗って眺めた目蒲線のものとはもちろん異なり、単線の成果家並みなどの間をすり抜けて走るように感じた区間が多かった記憶があります。
スピードも目蒲線で乗った時よりゆっくりした走りでしたが、やはり線路状態の差か、揺れは結構激しく吊り革が派手に揺れていたのを覚えています。
青ガエルの車内はワンマン運転用の運賃箱などが設置されてはいるものの、それ以外は東急時代と大きな変化はないようで、地方私鉄へ譲渡された元東急車両の「あるある」ともいえる「東急百貨店」などの広告ステッカーが貼られたままの吊り革も見ることができました。
ただ、座席モケットが一部破れたのかガムテープで補修されているのが痛々しく、熊本の青ガエルの余命もそう長くはないことを予感させられました。
上熊本から7~8分ほどで車庫のある北熊本駅に到着。
乗ってきた電車は北熊本折り返しなので、乗り換え時間の間にもう一度じっくり青ガエルを眺めて藤崎宮前駅から来る御代志行に乗り換えました。
そしてそれからしばらく経った2007年の夏休みにやはり九州へ行った際に再び熊本電鉄に乗りに行きました。
この当時の熊本電鉄の青ガエルは、6両転入したうちの2両がまだ健在で、しかも塗装は東急時代の緑一色に戻されていました。
7年ぶりに乗った青ガエルは塗装もきれいで車内もきれいに整備されていてまだまだ現役で頑張っていることを主張するかのようでした。
この時は上熊本ー北熊本間を往復乗車し、上熊本・北熊本両駅での停車時間には前回できなかった写真の撮影をたっぷりとすることができ、熊本電鉄の青ガエルのよい記録を残すことができました。
私がこの時乗車した5101A号車は、最終的に2016年2月まで現役を続け、各地の地方私鉄に移った青ガエルの中でも最も長生きした車両となり、引退後も北熊本の車庫で運転体験のイベントなどで構内走行することがあるようです。再び本線走行するのは難しそうですが、最後の動く「青ガエル」として末永く動態保存されてほしいものです。
生まれ故郷ともいえる旧東急車輛製造からの歴史を引き継いだ総合車両製作所横浜事業所で保存されることになった「青ガエル」。
メーカーの敷地内ということでなかなか一般の鉄道ファンが気軽に身に行ける場所ではありませんが、できれば同署でともに保存される2両の元東急車両(デハ5201・デハ7052)ともども車両内外をゆっくり見学したり撮影できたりするようなツアーイベントなどを開催してはどうかと思います。
とにもかくにも、私鉄の電車というよりも日本の鉄道車両史の中でも外すことのできない名車の一つである「青ガエル」が美しく復元保存されるというのは大きな意義のあることだと思います。
前回に引き続き、「青ガエル」こと元東急初代5000系に乗車した時の思い出です。
前回も書いた通り、私の「青ガエル」乗車経験は1982年か83年頃の一回だけに終わり、その「青ガエル」も1984年には最後まで残っていた目蒲線からの引退を持って古巣の東急の線路上から姿を消しました。
しかしこの「青ガエル」は軽量でサイズがローカル私鉄にとってちょうどいい車体のおかげもあって、多くの車両が各地のローカル私鉄に譲渡されて第二の車生(?)を送ることになりました。このたび総合車両製作所横浜事業所で復元の上で保存されることになった「青ガエル」の先頭車デハ5015号も、東急での引退後長野電鉄に譲渡されて活躍していた経歴の持ち主です。
そんな、各地のローカル私鉄で再度の活躍を始めた「青ガエル」たちも、私がやっと心おきなく長距離の鉄道旅に出られるようになった1990年代前半には新天地でもそろそろ引退の時期が近づきつつあり、結局のところ私が乗車することができたのは、熊本電鉄に譲渡された車両だけでした。この他、乗車中の別の列車からの「見る鉄」ができたのも長野県の松本電鉄(現 アルピコ交通)と静岡県の岳南鉄道(現 岳南電車)のものだけでした。
それでも、熊本電鉄では短い区間ながら2度にわたり乗車することができたので、今回はその時の思い出を簡単ですが振り返りたいと思います。
最初に熊本電鉄の青ガエルに乗ったのは、確か2000年の夏休み当たりの九州への鉄道旅の時だったと思います。
熊本市電の乗り歩きをした後、JRの上熊本駅のすぐ前にある熊本電鉄の上熊本駅へ向かうと、1面1線だけのホームに北熊本駅行の青ガエル(5100形)が停まっていました。塗装は上半分が水色、下半分が青、その間に白い縁取りのある赤帯が入った派手なものになっていました。
早速熊本電鉄の終点の御代志(みよし)駅までの乗車券を買い(一日乗車券を購入したのかも?)、やがて私も含め数人の乗客を乗せて発射。
車窓は10数年前に青ガエルに乗って眺めた目蒲線のものとはもちろん異なり、単線の成果家並みなどの間をすり抜けて走るように感じた区間が多かった記憶があります。
スピードも目蒲線で乗った時よりゆっくりした走りでしたが、やはり線路状態の差か、揺れは結構激しく吊り革が派手に揺れていたのを覚えています。
青ガエルの車内はワンマン運転用の運賃箱などが設置されてはいるものの、それ以外は東急時代と大きな変化はないようで、地方私鉄へ譲渡された元東急車両の「あるある」ともいえる「東急百貨店」などの広告ステッカーが貼られたままの吊り革も見ることができました。
ただ、座席モケットが一部破れたのかガムテープで補修されているのが痛々しく、熊本の青ガエルの余命もそう長くはないことを予感させられました。
上熊本から7~8分ほどで車庫のある北熊本駅に到着。
乗ってきた電車は北熊本折り返しなので、乗り換え時間の間にもう一度じっくり青ガエルを眺めて藤崎宮前駅から来る御代志行に乗り換えました。
そしてそれからしばらく経った2007年の夏休みにやはり九州へ行った際に再び熊本電鉄に乗りに行きました。
この当時の熊本電鉄の青ガエルは、6両転入したうちの2両がまだ健在で、しかも塗装は東急時代の緑一色に戻されていました。
7年ぶりに乗った青ガエルは塗装もきれいで車内もきれいに整備されていてまだまだ現役で頑張っていることを主張するかのようでした。
この時は上熊本ー北熊本間を往復乗車し、上熊本・北熊本両駅での停車時間には前回できなかった写真の撮影をたっぷりとすることができ、熊本電鉄の青ガエルのよい記録を残すことができました。
私がこの時乗車した5101A号車は、最終的に2016年2月まで現役を続け、各地の地方私鉄に移った青ガエルの中でも最も長生きした車両となり、引退後も北熊本の車庫で運転体験のイベントなどで構内走行することがあるようです。再び本線走行するのは難しそうですが、最後の動く「青ガエル」として末永く動態保存されてほしいものです。
生まれ故郷ともいえる旧東急車輛製造からの歴史を引き継いだ総合車両製作所横浜事業所で保存されることになった「青ガエル」。
メーカーの敷地内ということでなかなか一般の鉄道ファンが気軽に身に行ける場所ではありませんが、できれば同署でともに保存される2両の元東急車両(デハ5201・デハ7052)ともども車両内外をゆっくり見学したり撮影できたりするようなツアーイベントなどを開催してはどうかと思います。
とにもかくにも、私鉄の電車というよりも日本の鉄道車両史の中でも外すことのできない名車の一つである「青ガエル」が美しく復元保存されるというのは大きな意義のあることだと思います。
「青ガエル」乗車の思い出 東急編 [鉄道ニュース]
こんにちは、gonanaです。
1954年(昭和29年)に当時最先端の鉄道車両技術を駆使してデビューし、独特の下膨れの車体形状と2枚窓の前面形状、そして緑一色の車体塗装から「青ガエル」のニックネームで親しまれた東急初代5000系(以下、地方私鉄に譲渡されたものも含めて「青ガエル」と記します)の先頭車デハ5015号が、このほど保存展示されていた長野県内から同形式のメーカーでもある旧東急車輛製造を引き継いだ総合車両製作所横浜事業所に移り、東急時代の姿に復元されて保存されるということです。
詳細は下記のリンクからどうぞ。
「青ガエル」が長野から関東に里帰り…総合車両製作所が復原・保存へ 元東急初代5000系 (レスポンス(Response.jp))
https://response.jp/article/2022/04/20/356494.html
このニュースを知った私の感想は「やっと東急(とつながりのある会社)が青ガエルをフルサイズのきちんとした形で保存するのか」というもので、東急沿線民ではないものの青ガエルの姿には親しみを持っている者としてはうれしい限りです。
というのは、かつて東急での引退後長野県の上田交通(現 上田電鉄)で活躍していた同じアオガエルのデハ5001号が、同じく上田交通に譲渡されていた5200系のデハ5201号(この車両についてはリンク記事に写真があります)とともに保存を目的に東急に里帰りしたものの、同車はその後運転室部分だけのカットボディーとなって渋谷駅前に置かれると聞いて非常に残念に感じた過去があるからです。(デハ5001のカットボディーはその後秋田県大館市へ移り美しく整備された姿になったのは幸いですが)
それだけに今回、青ガエルの生まれ故郷でもある旧東急車輛製造の構内という場所で復元保存されるというのは大きな意義のあることだと思います。
さてその「青ガエル」、私の中では歴代の東急の車両の中でも1、2を争うくらい好きな車両ですが、後年の地方私鉄各社への譲渡車も含めて乗車経験は決して多いとは言えません。
もともと東急各線にはそれほど馴染みのない生活を送っていたのと、地方私鉄への譲渡者についても、それらの路線に乗りに行こうと思えば可能な環境に私がなった時にはそちらでも引退の時期に入ったりといったこともあり、身近で青ガエルに触れるチャンスは少なかったです。
それでも、東急時代と熊本電鉄で少しだけですが青ガエルの乗車経験があるので、この機会にその時の思い出を簡単に記しておきたいと思います。
まず今回は、東急時代の乗車の思い出です。
私が東急時代の「青ガエル」に初めて乗ったのは、小学4~5年だった1982~83年頃だったと思います。
この頃の「青ガエル」の東急での状況は、登場以来の活躍の場だった東横線からは撤退し、大井町線からも撤退したか撤退間近という状況で、目蒲線(現在の目黒線・東急多摩川線)が主な活躍の場になっていました。
以前にも書いたことがありますが、その頃の私は一人で電車に乗って祖父母の家へ行ったりするようになっていました。
その際には、自宅から西武線と山手線を乗り継いで品川駅まで行き、そこから京急か京浜東北線に乗り換えて祖父母の家に近い京急の雑色駅か国電の蒲田駅へ向かうのが定番でした。
しかし、時には山手線を目黒や五反田で降り、そこから東急目蒲線や池上線に乗り換えて蒲田へ向かうルートを選ぶこともありました。
初めて目蒲線を利用して蒲田へ行った時には旧型の3000系に乗車しましたが、しばらく後に再び目蒲線を利用した時に乗車したのが青ガエルでした。
私はそれまでにも絵本や鉄道雑誌で青ガエルの姿はよく見ていて一度乗ってみたいと思っていたので、地上駅だった目黒駅に入線してくる姿を初めて生で見た時には乗ってみたかった車両に乗れるのはうれしいものでした。
初めて生で見る青ガエルの印象は、やはり他の鉄道車両とは違うその外観で、大きな前面や側面の窓と側面窓下の2本のリブ(補強のため外板につけられた筋)が印象に残りました。
そして車内に入ると、車内の断面が視覚ではなくやや上の方へすぼまり気味になっていることや、車体の裾が丸まっているため車内のドアや壁も丸く下の方へカーブしているのが他の電車にないインパクトある光景でした。
やがて青ガエルは目黒駅を発車して蒲田駅へ向かって走り出しました。
目蒲線は駅間距離も短く、スピードも速くないので東横線で急行運用についていた時のような高速運転は味わえませんでしたが、吊り掛けモーターの音が響くデハ3450形などと比べると走行音も静かに感じ、座席もそれらの形式より座り心地がよく感じたのを覚えています。
結局、私が東急線内で青ガエルに乗車できたのはこの一回だけで、その1~2年後の1984年に青ガエルは東急の線路上から姿を消すことになります。
もっと早く生まれていたら、東横線急行や田園都市線で活躍する青ガエルに乗れたかもしれないと思うと残念ですが、末期の姿とは言え東急時代の青ガエルに接することができたのはよい思い出になったと思います。
次回はそれから10数年後の熊本電鉄での青ガエル乗車の思い出です。
1954年(昭和29年)に当時最先端の鉄道車両技術を駆使してデビューし、独特の下膨れの車体形状と2枚窓の前面形状、そして緑一色の車体塗装から「青ガエル」のニックネームで親しまれた東急初代5000系(以下、地方私鉄に譲渡されたものも含めて「青ガエル」と記します)の先頭車デハ5015号が、このほど保存展示されていた長野県内から同形式のメーカーでもある旧東急車輛製造を引き継いだ総合車両製作所横浜事業所に移り、東急時代の姿に復元されて保存されるということです。
詳細は下記のリンクからどうぞ。
「青ガエル」が長野から関東に里帰り…総合車両製作所が復原・保存へ 元東急初代5000系 (レスポンス(Response.jp))
https://response.jp/article/2022/04/20/356494.html
このニュースを知った私の感想は「やっと東急(とつながりのある会社)が青ガエルをフルサイズのきちんとした形で保存するのか」というもので、東急沿線民ではないものの青ガエルの姿には親しみを持っている者としてはうれしい限りです。
というのは、かつて東急での引退後長野県の上田交通(現 上田電鉄)で活躍していた同じアオガエルのデハ5001号が、同じく上田交通に譲渡されていた5200系のデハ5201号(この車両についてはリンク記事に写真があります)とともに保存を目的に東急に里帰りしたものの、同車はその後運転室部分だけのカットボディーとなって渋谷駅前に置かれると聞いて非常に残念に感じた過去があるからです。(デハ5001のカットボディーはその後秋田県大館市へ移り美しく整備された姿になったのは幸いですが)
それだけに今回、青ガエルの生まれ故郷でもある旧東急車輛製造の構内という場所で復元保存されるというのは大きな意義のあることだと思います。
さてその「青ガエル」、私の中では歴代の東急の車両の中でも1、2を争うくらい好きな車両ですが、後年の地方私鉄各社への譲渡車も含めて乗車経験は決して多いとは言えません。
もともと東急各線にはそれほど馴染みのない生活を送っていたのと、地方私鉄への譲渡者についても、それらの路線に乗りに行こうと思えば可能な環境に私がなった時にはそちらでも引退の時期に入ったりといったこともあり、身近で青ガエルに触れるチャンスは少なかったです。
それでも、東急時代と熊本電鉄で少しだけですが青ガエルの乗車経験があるので、この機会にその時の思い出を簡単に記しておきたいと思います。
まず今回は、東急時代の乗車の思い出です。
私が東急時代の「青ガエル」に初めて乗ったのは、小学4~5年だった1982~83年頃だったと思います。
この頃の「青ガエル」の東急での状況は、登場以来の活躍の場だった東横線からは撤退し、大井町線からも撤退したか撤退間近という状況で、目蒲線(現在の目黒線・東急多摩川線)が主な活躍の場になっていました。
以前にも書いたことがありますが、その頃の私は一人で電車に乗って祖父母の家へ行ったりするようになっていました。
その際には、自宅から西武線と山手線を乗り継いで品川駅まで行き、そこから京急か京浜東北線に乗り換えて祖父母の家に近い京急の雑色駅か国電の蒲田駅へ向かうのが定番でした。
しかし、時には山手線を目黒や五反田で降り、そこから東急目蒲線や池上線に乗り換えて蒲田へ向かうルートを選ぶこともありました。
初めて目蒲線を利用して蒲田へ行った時には旧型の3000系に乗車しましたが、しばらく後に再び目蒲線を利用した時に乗車したのが青ガエルでした。
私はそれまでにも絵本や鉄道雑誌で青ガエルの姿はよく見ていて一度乗ってみたいと思っていたので、地上駅だった目黒駅に入線してくる姿を初めて生で見た時には乗ってみたかった車両に乗れるのはうれしいものでした。
初めて生で見る青ガエルの印象は、やはり他の鉄道車両とは違うその外観で、大きな前面や側面の窓と側面窓下の2本のリブ(補強のため外板につけられた筋)が印象に残りました。
そして車内に入ると、車内の断面が視覚ではなくやや上の方へすぼまり気味になっていることや、車体の裾が丸まっているため車内のドアや壁も丸く下の方へカーブしているのが他の電車にないインパクトある光景でした。
やがて青ガエルは目黒駅を発車して蒲田駅へ向かって走り出しました。
目蒲線は駅間距離も短く、スピードも速くないので東横線で急行運用についていた時のような高速運転は味わえませんでしたが、吊り掛けモーターの音が響くデハ3450形などと比べると走行音も静かに感じ、座席もそれらの形式より座り心地がよく感じたのを覚えています。
結局、私が東急線内で青ガエルに乗車できたのはこの一回だけで、その1~2年後の1984年に青ガエルは東急の線路上から姿を消すことになります。
もっと早く生まれていたら、東横線急行や田園都市線で活躍する青ガエルに乗れたかもしれないと思うと残念ですが、末期の姿とは言え東急時代の青ガエルに接することができたのはよい思い出になったと思います。
次回はそれから10数年後の熊本電鉄での青ガエル乗車の思い出です。