「自立は、依存先を増やすこと」についてのメモ - 関内関外日記

「自立は、依存先を増やすこと」についてのメモ

 

 

『「助けて」が言えない SOSを出さない人に支援者は何ができるか』という本を読んだ。「まだ依存症関連の本読んでるのか」と言われると、まあ、おれはハイパーリンク(最近聞かないな「ハイパー」)を踏んで本を読んでいくタイプの人間なので。きりがないといえばきりがない。でもいつか飽きる。

 

それと、「おまえ、精神障害者でアルコール依存症、あとギャンブル依存症の当事者なのに、支援者側の本読んでどうすんだよ」という話もあるだろう。おれも、「治療される側が、医療者や支援者向けのマニュアル知ってどうすんだよ?」みたいな思いはある。しかし、英語や数式で書かれているわけではないので、読めてしまうからしかたない。いやな当事者だ。

 

で、この本の最後に岩室紳也×熊谷晋一郎×松本俊彦の座談会があって、こんなことが書かれていた。熊谷さんの発言だ。

熊谷晋一郎 - Wikipedia

 

先ほど岩室先生に紹介していただいたように、2010年頃から、「自立は依存先を増やすこと」というメッセージを発信してきました。今日のテーマにかかわると思いますが、このメッセージに対して、いくつかの批判をいただいています。その中の一つは、「依存先が増やせる人はいいよね」というものです。

 

私のように見てすぐにわかる身体障害者の場合、困っていることが周囲の人にわかってもらえます。大変なことはいくつもありますが、一度社会の中に飛び込んでしまえば、善意の人たちが手を差し伸べてくれる。つまり、自然に依存先を増やすことができます。一方、依存症などの精神障害の場合は、社会に飛び込んでも自然に依存先が広がるわけではないし、本人たちも自分を責め、そうそう依存先を増やすことができない、というご批判です。

 

これに対する私の答えは、「依存先を増やす」というメッセージは当事者に向けたものではなく、社会全体に向けて発信したメッセージだ、ということです。「依存先を増やす」というメッセージが当事者に向けたものであると誤解されると、弱さをオープンにして「助けて」と言う義務が個人の側にあるといった新しい自己責任論になってしまいます。これは、本人を「助けて」と言える人間に改造する、私が否定してきた当事者に変化を強いる医学モデルであり、社会モデルとは相反するものです。

 

あ、おれ、最近、この「自立は依存先を増やすこと」についてどっかで読んだな、と思った。本だろうか。いや、ウェブだ。

ohtabookstand.com

 

この「書簡」(相手のトシは松本俊彦医師)だ。ここで、石田月見さんという人のツイートが引用されていた。

 

「必要のないものまで依存症モデルで説明するのはやめませんか…特に「全ての人間は依存症である」とか…先人達は血と涙の果てに、今の「病」であるという認識を広めたので…「全ての人間が依存症」なら、それは「病」が無効化されるということです。また「意志の弱さ」に逆戻りするので…どうか何卒…/つまり、「全ての人間が依存症」なら、とんでもない状態に陥っている人間は他の依存症者と何が違うのか、となるので…「全員が病気」であるなら、それはもう特定の人間が「病気」とは見なされないので…「そいつのせい」になる可能性があるということです。おこがましくもすみません…何卒……/あ、「全ての人間は何かしらに依存している」については大いに同意しております。「自立とは依存先の分散」ですから」

 

ここで、「最後に記されているのは、熊谷晋一郎さんの名言ですね」とあるが、それだろう。

 

先に引用したものも、こちらも、どちらも自己責任論へ陥ることへの抵抗だ。もちろん、文脈もなにもぜんぜん違うだろうれど、依存症、アディクションの隣には自己責任論がまだ、あるいは、その先にあるのかもしれない。……いや、普通に考えたら、「ある」わな。

 

まあ、なんかそんなことをメモしておく。次は熊谷晋一郎の本を読んでみるかもしれない。

 

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上のリンク先で言及されていた『ゲーム障害』の本はおれも読んだ。

blog.tinect.jp